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がらくたにっき |

田中康弘『山怪 山人が語る不思議な話』

著者 : 田中康弘
山と渓谷社
発売日 : 2015-06-06

確か書店で見つけた本。
マタギ等の狩猟に関する取材メインの筆者が、取材中に聞く不思議な話に興味を持って、
それをメインに取材し始めてまとめたのが本書。
民俗学者ではないので、系統だって語られたり、話に意味づけされているわけではないし、
「こんな不思議なことがあったけど、あれは狐だろう」といった些細な話もたくさんあるが、
それだけに生身の声という感じがした。

今は文明が発達して、「あれは狐だろう」と軽く言えなくなっている気がするが
怪異を怪異としてそのまま受け入れる気軽さ(良い意味で)が
その時代・その地域に住んだことがないけれどもノスタルジーを感じて興味深く読んだ。

あいにく地図に弱いので、余計、系統だって読めていないのだが、
それでも、日本全国的に伝わっているもの、限定的なものを知るのも面白かった。
例えば、狐火は今でもポピュラーなものだけれども、地域によっては狐火とは言わないというのはびっくりした。
昔は今ほど情報の均一化がなかったにしても、狐は全国的に一般的だろうから(現に狐に化かされた話は共通しているもよう)
狐火という概念が共通化していないのは興味深かった。


個人的に面白かったエピソードいくつか。
1つ目。
バンドリ(ムササビなどの與康生動物を撃つ猟。今は禁止されているらしい)に行った時の話。
「雪の中を歩いて猟場に向かってるとな、突然前に大きな岩壁がばーんって出てきたんだ」
 通い慣れた林道であり、そんな所に岩壁など無いことは承知している。しかし現実には行く手を塞ぐ壁があった。
「おかしいなあ、おかしいなあ。夜でも絶対に間違える道じゃね。しかしこの岩壁はとても越せねえなあ」
 藤ノ木さんはしばらく考えた。
”これは壁なんかじゃねえ。何かがそう見せているだけだ。落ち着こう、落ち着けばこの壁は消える”
 そこでいったん腰を下ろして目をつぶり、深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺一杯に入り込む。しばらく目をつぶり自分に言い聞かせる。
”落ち着け、落ち着け。あれは岩壁なんかじゃねえ” 
 目を開けると、前の岩壁が揺れるのが分かった。そして段々と、岩壁は青森トドマツへと姿を変え始めたのである。
「いやあん時、パニックになって横に行ったりしたら迷ったかも知れねえなあ」(p71)

白山街道で登山道の拡幅作業の現場に入った時の話。
ガスがかかって30センチ先も見えないくらいになったので撤収することに。
5人の作業員が一列になって、前の人のリュックに手をかけて、ムカデ競争よろしく下山した時、班長がとつぜん変なことを言い出す。
”いいか、何か来るかも知れないけど絶対に慌てるな!落ち着いて黙っているんだぞ、絶対に慌てるなよ。そうすれば何もしないんだから”
 彼(注:話し手)には何のことか意味がよく分からなかった。
 …(中略)…
 緊張に包まれたままの下山が続いた。
 その時……。
「おぅい!!ちょっと待ってくれ、何か、何か来たみたいだよ~」
 一番後ろを歩いていた同僚が情けない声を出した。
「よーし、止まれー。後ろ向くなよー」
 班長の声が霧の中に染み込んでいく。中ほどにいた彼には何が起こったか分からない。
「よーし、いっぺん腰下ろしてみよう、行くぞー、よっこらしょっと」
 霧の中でムカデ競争は、いったん小休止して登山道に座り込んだ。その間、誰も何も話さなかった。
「よーし、ゆっくり立ち上がってみっぞお。せーのお」
 ふたたび全員で立ち上がる。
「どうだぁ、まだいるかぁ?」
 一番後ろの人はしばらくして、
「う~ん、まだいるみたいだなあ……」
「そうかぁ、よ~しもう一度全員しゃがむぞー」
…(中略)…
「次に立ち上がった時は大丈夫みたいで、そのまま下山したんです。後で聞くと、ああいう濃霧の日は何かが出るらしいんですよ」
 あの時起こったことはこうだ。列の最後尾を歩いている人のリュックを何者かがぐっと掴んだのである。そんなときは絶対に振り向いてはならない。そして大声を出して騒いでもいけない。静かに少し待つのである。そうすれば、かならずその何者かは去っていくらしい。(p79-81)
班長に後ろに何がいるのか聞くと、とんでもない者がいるかもなあ、まあ霧が濃くて何も見えないんじゃねえかなあと答えたらしいが、班長ののんびり口調とは逆に結構ぞくっとする話だった。


地域特有のお話も興味深い。
兵庫県朝来市の吉井さんは熟練の山人だが、鳥取の方の猟場に行った時のこと。
その日は地元で”海の日”と言わている日だったらしい。なぜ山なのに”海の日”と言われるのかは分からないまま、気にせずに山に入った吉井さん。
風もなく静かな日だったのだが
「それがいきなりガラガラガラガラって凄いおとになったんです。見上げたら、もう竹藪がグワ―って動いてるんですよ。最初は単に突風が吹いたんかと思たんですが、明らかに違うんです、雰囲気が。これは異常や、ただことやないって、もう必死で竹藪から逃げ出したんです」
 猛り狂う獣のような竹藪の咆哮から飛び出すと、数十メートル先まで走って逃げた。そして後ろを振り返ると、見えたのはしんとした竹林だった。
…[気のせいだと思って、吉井さんがふたたび竹藪に入る]…
「そうしたら、しばらくしてまたガラガラガラって凄い音がして、もう生きものみたいに竹藪中が動き回るんですよ」
…(中略)…
「後から聞いたんですが、海の日は竹藪に入ってはいけないらしんです。私はそれ知らんかったから……」(p87-88)



その他、樹齢2、300年くらいの木を切り倒す時には、吹き飛ばされるくらいの風が吹くというのも興味深かった。
大木が倒れる時に舞い上がる風とは違って、切ったところから急に一陣の風が吹き出すらしい。
木のい命を絶ったからじゃないかなとのこと。

また狐に騙されないように、秋田県阿仁地区ではにんにく、奥秩父では唐辛子を持つらしい。
どちらもさもありなんという感じもするが、魔除けのために夜来たお客さんにも唐辛子を持たせる、というのは優しさが垣間見れる気がするのと同時に、提灯を貸すのと同じくらい日常品なのかなと想像した。


「はじめに」で書かれていた通り、夜の山となると、漆黒の闇、しかも獣たちが住まう闇。何かが起きてもおかしくない気がする。
迷信だとか気のせいと片づけてしまうのは簡単かもしれないけれども、山人たちが不思議に対峙し対処してきたというのは事実として残る。そう思うとますます興味深く感じてくる。

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花田菜々子『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』

河出書房新社
発売日 : 2020-02-05


確か、ネットで話題になっていて面白そうだなと思って読みたい本リストに入れていた本。
ようやく読んでみたら、正直、思っていたのとちょっと違った感。

出会い系サイトとあったので、勝手にTinderのような恋愛系の出会い系サイトだと思っており
恋人作りに来たはずが本を勧められたらびっくりするだろうな~と思っていたら、
そういうのではなく、ただ会って30分おしゃべりする、というサイトらしい。
もちろんそれ目的の人もいるだろうけれども、Tinder的なものとは目的がもちろん全然違うし、
なんなら「あなたに合った本を勧めます」といううたい文句で、会っていたもよう。
もちろん、それだけでも十分面白いんだろうけれど、
全然違う目的の出会い系サイトで本を勧めるなんてやばい!という勝手な期待をしてしまったいたので
肩透かしにあった気分になってしまった。
本当に勝手な話ですが。

また、色んな変った人たちがやってきて…という話だけれども、そんな変わった人たちかな…というのが正直な感想。
一時期、mixiが全盛期の頃、主に読書会のようなイベントで、初めてさんに会うということをよくしていたけれども
そういう大勢が集まるイベントですら、変わった人たちが集まっていたので
こういう1対1のに集まる人たちも想像でき、そんなもんじゃないのかなと思ってしまった。

それだけにリアルかもしれないけれども、書き方が「すごいすごい」と煽るわりには、まぁ普通だよね…という感じ。
そんなに煽るような書き方をしないで、端的に自分がその人の面白いと思ったポイントを語って、「であるからこの本をすすめた」くらいで良いのになと思った。


と、文句ばかり言ってしまったが、簡単にあらすじ(?)を書くと
エッセイっぽい書き方ではないけれども、体験談の本。
花田さんがヴィレヴァンの店長をしているとき、夫との関係もよくなくなり、別居することになる。
出会いを求めて、でも恋愛的なものではなく、ということでXというサイトを見つける。
そこはトークという日時と場所指定のものをたてて、それに手を挙げた人と30分間おしゃべりする、というもの。
その後に評価をつけたりできるので、人気の人とかが見れるようになるらしい。

花田さんは「あなたに合った本をすすめます」というお品書きを作って
実際に30分会った後に、その人に合いそうな本を紹介する、という、自分の修行も兼ねてやってみることにする。

今まで会ったこともないような人に出会うことができ、
大好きだったヴィレヴァンがどんどん変わってしまってもやもやしていたのが自分で浮き彫りになっていったり
本を紹介する難しさや、楽しさを知ったりしていく。

最終的にはヴィレヴァンを辞め、出会い系サイトで本を紹介したことをアピールして就職活動したら一発で気に入ってもらい、別居していた夫とも話し合いの結果、修復不可能ということで離婚する。


またちょっと文句が続きますが。
そもそもヴィレヴァンか…となってしまったのが、今思えば自分に「読むなよ」と言いたい部分ではある。
本の接し方って色んなタイプがあるけれども、ちょっと相いれないところがあるんだよな…

相いれないといえば、最愛のおじいさまが亡くなった時、お通夜の日が、初めての場所で自分が企画したイベントの日で、でもイベントといっても内輪な感じで、場所の提供者も参加者は個人的に繋がれるレベルだから日時変更もできると言ってくれたのにも関わらず決行した話。
そこまで言ってくれたのに決行するのか…というのと、両親よりもウマが合った、同居していたおじいさまのお通夜なのに…という気持ちで、うーーーんとなってしまった。
まぁ、それはイベントへの心意気が違うので(私だったら、自分以外にも回す人がいる状況だったので、延期してもらうかそのまま自分抜きでお願いしてしまいそう)頭ごなしに否定はしないけれども、イベント後に一言も言及しなかったのは違和感しかなかった。
お通夜に行かずに決行した価値があった、みたいなことが一言でも触れられていたら腑に落ちる部分もあったかもしれないのに、なんにもなくて、逆にお通夜のお話入れなくてもよかったんじゃないの?と思ってしまった。


あとがきを読むと、ネットで定期連載していたものをまとめたものだったようなので、それを読んでようやく納得した。
エピソードの1つ1つが妙に長くて、本として読むと間延びしてしまっていたのがものすごく気になっていたので、
あーーーこれ1つが1つの記事と考えれば読めたかも…となったのだ。
ネットの記事と思えば、あの煽ったような書き方も分かる気がする。。。
このネット小説ですか?みたいなタイトルとかね。
本で読んではいけないものだったんだな。


本当、文句ばかりで申し訳ないけれども、
でも面白そうな本はいくつかあったので、読みたい本リストに入れて読んでみようと思います。

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藤本英夫『銀のしずく降る降る』

著者 : 藤本英夫
新潮社
発売日 :

北海道へ旅行に行く際に読んだ本。
『アイヌ神謡集』を読んだので、その作者、知里幸恵について書かれた本も読んでみたのだ。

アイヌ語と日本語ができたアイヌの知里幸恵は、その短い生涯の中で素晴らしい『アイヌ神謡集』を生み出したわけだが、その生涯を詳細に記されたものはない。
作者の藤本英夫氏は、彼女の弟でアイヌ語を研究する言語学者であった知里真志保の研究をしていたようだが、その過程で知里幸恵のことを知り、今度は彼女の生涯をたどったのが本書となる。
ただ彼女の生涯を語るのではなく、知里幸恵を知っている人を訪ねたり、金田一京助氏の遺品からノートを探し出したりと、知里幸恵の生涯を追い求める話になっているのが本書の特徴だろう。

簡単に知里幸恵の生涯を記すと、
知里幸恵が生まれたのは明治36年。
母親はキリスト教徒でもあって、その母と妹は布教活動も行っていた。
母の妹であるマツは足が不自由で、それもあって結婚をしておらず、自分の母と暮らしていた。

幸恵は割と幼い頃に、親元を離れ、この祖母・叔母と一緒に住むようになる。
こうして一人、登別から旭川へと引っ越していったのだった。
祖母・叔母はその地で布教の役目を担っていたが、積極的に布教活動をするというよりも地域のコミュニティのような働きをしていていたよう。

知里幸恵は幼い頃から優秀で、日本語も良くでき、お習字も得意であった。
小学校の時は、政府がアイヌの同化政策のために建てた、アイヌの子供向けの学校に通っていた。
しかしとても優秀だったので、和人の学校、旭川区立女子職業学校に入学する。
一人アイヌである知里幸恵。
学校の先生の指導とは違って、幸恵はひどい差別を受けていた。
幸恵を姉のように慕っていたアイヌの女性が幸恵に「幸恵さんみたいに上の学校に行きたい」と言った時に、幸恵が言った言葉が印象的である。
「—教育なんて何さ。教育って、そんなに大事なものか。差別されてまで学校にいきたい?片身のせまい思いをしても、親がさせてくれるからって上の学校にいきたいの。—それよりも、勉強がいやになったら、自由にはばたいたらいい。強くなりなさいよ。—」(p128)

その頃、アイヌの研究に、アイヌの伝承を収集に来ていた金田一京助に出会う。
幸恵の祖母モナシノウクは、金田一京助氏が「私が逢ったアイヌの最後の最大の叙事詩人(ユーカラクル)」(p18)と言わしめる人物で、金田一京助は祖母・叔母に会いにやってきたのだ。
そこへ知里が学校から帰ってくるのだ。

金田一京助も当時の主流の考え、アイヌ同化政策に賛成派だったらしいが、幸恵の「私たちのユーカラのために時間、お金を使って、そんな値打ちのあるものなのでしょうか?」という質問に対する回答から、”アイヌ文化を捨てるべき”という考えではなかったとうかがえる。
「だって幸恵さん、考えてごらん。あなた方は、アイヌ、アイヌとひとくちに、まるで人間と犬との合いの子でもあるかのように、人間扱いもされず、侮辱の名を忍んでがまんしている。あなた方は苦労しているじゃないか。しかし、あなた方のユーカラというものは、あなた方の祖先の戦記物語だ。詩の形にうたい伝えている、叙事詩という口伝えの文化なんだ。人間が文字を持つまでは、かつてはヨーロッパでも、あの『イリア―ド』『オデッセイア』は、その最後の伝承者のホメロスのときに、文字が入って、はじめて書かれたものだよ。叙事詩というものは、民族の歴史でもあると同時に文学でもあり、また宝典でもあり、聖典でもあった。それでもって、文字以前の人間生活が保持されてきたのだ。そういうことがわかっているけれど、今の世にそれをなおそのまま生きて伝えている、という例は、世界にユーカラのほかにない。だからわれわれがいまこれを書きつけないと、あとではみることも、知ることもできない、貴重のあなた方の生活なんだ。だから私は、全財産をついやしても、全精力をそそいでもおしいと思わない―」(p156)
もっともこれは、50年後に金田一京助が思い出して書いたものなので、どこまで当時語っていたか分からないが。
それでも幸恵は心を揺さぶられて、自分でもユーカラを残していこうと決意するのだ。

幸恵は自分の知っているユーカラをノートに書いて金田一氏に送ったところ、金田一氏は非常に感心して(むしろ興奮して)、熱心にもっと書くように勧める。

金田一氏が送った手紙も残っていて、それを読むと上の想いも美化されたものではないかなと思える。
この一冊だけでも、あなたの筆によっていかに同族の内面文化や美しい魂が世に紹介されるか、本当に此は貴重な貴重な収穫です。うんこや、しっこや、それどころでなく、もっといはゆる尾籠な所までいっても、決して決して恥づべきことではないのです。-みんな厳粛な事実なのです。学問からみると観な、無差別の等しく尊い事実なのです。-ちっとも臆せず、祖先を信じ、且愛してそのままを御書きなさい(p202)

そして金田一氏は幸恵に上京してくることを勧める。
しかし幸恵は子どもの頃から体が弱く、家族からは反対されていた。
幸恵自身は状況を強く望み、家族を説得し、大正11年、ついに上京し、金田一宅に身を寄せることになった。

東京に身を置いて書いた日記が本書で一番、胸を打った。長いけれどもここに引用。
(中略)岡村千秋さまが、「私が東京へ出て黙っていれば其のままアイヌであることを知られずに済むものを、アイヌだと名乗って女学世界になどに寄稿すれば世間の人に見下げられるようで、私がそれを好まぬかも知れぬ」という懸念をもっておられるという。そう思って頂くのは私には不思議だ。私はアイヌだ。どこまでもアイヌだ。どこに和人(シサム)のようなところがある。たとえ、自分でシサムです、と口で言い得るにしても、私は依然アイヌではないか。つまらない。そんな口先ばかりシサムになって何になる。シサムになれば何だ。アイヌだからそれで人間でないという事もない。同じ人間ではないか。私はアイヌであったことを喜ぶ。私が若しかシサムであったら、もっと湿いのない人間であったかもしれない。アイヌだの、他の哀れな人々だのの存在を知らない人であったかも知れない。しかし私は涙を知っている。神の試練の鞭を、愛の鞭を受けている。それは感謝すべき事である。アイヌなるが故に世に見下げられる。それでもよい。自分の同族(ウタリ)が見下げられるのに、私ひとり、ぽつりと見上げられたって、それが何になる。多くのウタリと共に見下げられた方が嬉しいことなのだ。それに私は見上げるべき何物をも持たぬ。平々凡々、あるいは、それ以下の人間ではないか。アイヌなるが故に見下げられる。それはちっとも厭うべきことではない。ただ私の拙ない故に、アイヌ全体が、こうだと見なされることは、私にとって忍びない苦痛なのだ。
おお愛する同胞よ。愛するアイヌよ。(p242-3)
『アイヌ神謡集』の冒頭にも通じる想いが感じられる。

知里幸恵は東京に来たその年に亡くなってしまう。享年19歳という若さであった。
死ぬ直前まで校正していた『アイヌ神謡集』は、翌年の大正12年に出版される。

本書では、知里幸恵の生涯を通してアイヌが受けた理不尽さ、苦しみがよく語られていたと思う。
学校で受けた差別だけではなく、実家の土地がいつの間にか売地として告知されてしまったというような土地問題、アイヌが農家として暮らさなくてはいけない苛酷さ、とういったことは知里幸恵の身の上だけに起こったことではなく、当時の多くのアイヌが経験したことではないか。
そういう意味でも読むべき本だったなと思った。

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榎本智恵子『ブータンの学校に美術室をつくる』

WAVE出版
発売日 : 2013-08-06

図書館の”アジアを知ろう”みたいなコーナーが出ていて、そこにあった本。
なんとなく興味を持って読んでみた。

本書は、著者である榎本氏が青年海外協力隊に入り、そこからブータンのろう学校へ、美術の教員として派遣された時の体験を綴ったもの。
こういう本を読むと、言葉や文化が異なるのは良いとして、衛生面も生活環境をあまりに違う場所へ、その土地の人の役に立ちたいという一心から行く、その志に本当に頭が下がる。

ブータンは、世界一幸福な国ということと、王様夫婦が若くて素敵な感じのイメージしかなく、どこにあるのかもいまいち分かっていない状態。
お恥ずかしながら、ヒマラヤ山脈の中にあり、チベット自治国と隣接し(だからチベット仏教の国なんだ~と今更知る)、インドにも面している、非常に小さい国(小さい国なのは知っていた)というのを本書で知った。
国の文化を保護する政策を取っており、外資が入らず、昔からの生活を守っているというのは、王様が民族衣装をずっと着られているところから何となく想像しつつも、信号機までないのにはびっくりだった。
印象としては、文化的鎖国をしながら現状維持しているのかな…という感じ。

チベット仏教の思想が生活の一部、というくらい浸透しており、著者が派遣されたろう学校の生徒たちにも、その考えは影響があるもの。
というのが、輪廻転生の考えが深く沁みついており、前世で人をだましたり、口がうまいばかりで一種お賢明仕事をしなかったりすると聴覚障がいとして生まれると信じられているとのこと。
このように、現代の社会において、科学で証明できるような、病気疾患の原因が、仏教に紐づけられた形で理由付けされているのだ。
それに関して著者は強い違和感を感じており、それは私もそうではあるのだが、果たして我々の考えを押し付けてもいいのかというのが疑問に残った。科学で証明できることといっても、それは科学によって理由付けされているにしかず、いわば宗教で理由付けしているのと、ある意味同等であるかもしれない。もちろん、科学の発展によって治せる病気が抜群に増えた。
でもそれを受けいれて、科学の力を信じることが果たして本当に”幸福”に繋がるのか?というのは疑問。だからといって、病気の部分だけ科学を受けいれて、あるところではそのままにし…と線引きもほぼ不可能。
もちろん、障がいによって人権が侵害されるのは問題だけれども、それすら我々の文脈で見ているのに過ぎないから、ブータンの人に押し付けるのもちょっと違う気がしないでもない。

とはいえ、今まで障がい者の子供は家の中に閉じ込めるしかしてこなかったブータンも、政府が障がい者支援の学校を建て、関係者が積極的にリクルートして生徒たちも入ってきているようだ(逆にリクルートしないと存在を知らない人たちが多い)。
障がい者への差別も減ってきているとのこと。
障がい者も含めた”幸福度の向上”を考えられてきているということだろうか?

と、肝心の美術室を作る前で感想が長くなってしまったが、こうした国に対する支援について、どこまで行うのか、ゴールは何なのかが難しいところだよな…というのが、本書全体の感想だった。
というのが、著者はブータンにはない”美術”の教科を導入すべく派遣されてきたのだが、学校側ではそこまで美術の必要性が分かっておらず(そもそもないんだからしょうがないけれど)、人手不足だから先生が欲しくて手を挙げたという感じっぽい。それに筆者がもどかしさを感じ、本当に頭下がることに子供たちのために奮闘する。
それに対し、”あなたが好きでやってるんでしょ”という感じで、あまり協力的ではないブータンの先生方。受け取るだけ受け取って、それを取り入れて自分のものにしようとは思わない姿勢。

美術室が欲しいとお願いしてもなかなか受け入れてくれず、ストレスも溜まって原因不明の高熱まで出てしまった著者。
それが校長による気まぐれな会議でお願いしたところ、あっという間に解決。
美術室が出来てから本腰入れて美術の授業がスタート。

これまでブータンでは”美術”の学科がないというのは、仏教画などお手本そっくりに描く技能的なものでの美術があっても、自分の想像力を駆使して作品を作り出す、芸術に繋がる美術がなかったのだ。
最初は戸惑う生徒たちだけれども、やはり聴覚に障がいのある子というのは、美術は自分の意志を伝えるツールにもなり得ると著者が言う通り、子供たちが楽しんで制作するようになる。
その姿を見て、例え自分が去った後に美術の授業がなくなってしまっても、この子たちに爪痕を残せれば…という気持ちになっていく様子がうかがえて、それが青年海外協力隊の意義の1つなのかなと思えてきた。

今の体制を今すぐ変えるのは不可能で。
そして彼らの今の思想がまったくの間違えというほど傲慢になってはいけないはずで。
そうなると、子供たちに別の文化(この美術の考え方でも立派な文化だろう)を紹介することで、それを取り入れるのか、もしくはやっぱり不要とするのか考えて、未来を作ってもらうということに託すのが重要な役割なんじゃないかなと思った。

と言いつつ、この著者のすごいのが、子供たちの作品展を催すまで漕ぎつけて、他の先生方にも美術の素晴らしさを共感してもらえたところ。
校長先生にも「(中略)ぼくは美術の授業を受けたことがない。美術はただ、先生が黒板に描いた絵をまねすることだと思っていたけど、展示を見て、それはちがうとわかった。ほんとうにすばらしかった。子どもたちがあんなに喜んで展示を見る姿は、想像を超えていたよ。なぜもっと早く、気づかなかったんだろう」(p151)と言われるほど。
そしてこれから正式導入される美術学科のために、著者が行った美術教育の記録を記したものを、教育大臣と直接会って副教材として認めてもらえるまでに至ったのは、本当にすごい!!!

ブータンでは来世で会うかもしれないということで、「さよなら」という言葉はないそうで、
それでかは分からないけれども、青年海外協力隊員が別れの時はあっさりしていると言われたそうだが、著者との別れでは「一番美術が楽しかった」だの「必ず美術の教師になって、日本に会いに行くよ。次は日本で会いましょう」だの、涙流した子たちも出てきたとのこと。それはそうだよ!!!数々の困難を、子供たちのためにというただその一心だけで、乗り越えて、乗り越えられた背景にはこの子供たちの”美術が好き”という姿があって、更に大人たちまで動かしちゃったんだもん!

割と短い本だったけれども色々考えさせられ、最後はもらい泣きしてしまった一冊だった。

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スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』




結局読んだのは、皮肉にもロシアのウクライナ侵攻が激化している時。本書とはロシアの立場が逆転してしまっている。





本書に描かれている凄惨な内容を読むと、
なぜ自分たちがドイツの侵攻に必死で抵抗したのと同じように、ウクライナも抵抗すると思わないのか、
なぜ自分たちが理不尽な気持ちでいたように、今ウクライナで人々が同じ気持ちになっていると思わないのか、
なんというか、愚かしい歴史が繰り返しているという虚しさみたいなものを感じた。





おそらく本書は、それまで語られず、むしろ煙たがられていた「女の戦争」に焦点をあてるというのが目的だったんだろうけど、今この時期に読むと、また違った様相をしてくる。





簡単に本書について紹介すると
本書は、ジャーナリストとして初めてノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの処女作である。
第二次世界大戦時、『独ソ戦』で読んだ通り、ナチスドイツが不可侵条約を破ってロシアに攻めてくる。その時ロシア側では、男性だけではなく女性も志願し従軍した。しかし、こうした女性は第二次世界大戦後、語られることはなかった。





アレクシエーヴィチ氏は言う。戦争の本は常に男性の目線で書かれており、女性が話すとしても「男の」戦争観の中で語られる。戦後生まれのアレクシエーヴィチ氏は、家や戦友たちの集まりの時だけに女性たちが少し語る内容に衝撃を受け、本書を書こうという動機に至った。





あちこちに赴き、従軍した女性たちに聞き取りをした内容が記述され、ところどころにアレクシエーヴィチ氏のコメントが入っている。
コメントは、聞き取りの大変さ、そこから見えてくる戦後の女性たちの苦悩が見て取れる。





本書は内容の性質上、まとめるということはできないので、印象的だった部分の引用をしていく。










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