井原西鶴 「新版 日本永代蔵」 堀切実・訳注 平成21年 角川学芸出版
読書会での課題本「日本永代蔵」。
突然参加できるようになり、時間もないということで解説も読まずに現代語訳だけ読んで臨んだ。
が、結構読むのは苦労した。
基本的には商人が成功するか、没落するかの話。
そして特に西鶴の倫理観が出ているというわけではないようで、同じようなシチュエーションではそれが報いで成功しなかったり、逆にそういう抜け目のなさがよくて成功したりする。
教訓本というよりも娯楽として読まれたのかな、というものだった。
舞台が大阪であることが多いので、割と馴染みがあった。
特に大阪の人と堺の人の違いが書かれているのはなかなか興味深い。
読書会では「好色女一代」が面白い、という情報をゲットしたので、そちらを読んでみようと思った。
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「日本霊異記 下」 多田一臣・校注者 1998年 筑摩書房
さて最終巻。
収録されている説話は以下の通り;
・法花経を憶持せし者の舌、曝りたる髑髏の中に著きて朽ちずありし縁 第一
・生ける物の命を殺して怨を結び、狐と狗とに作りて互に相報いし縁 第二
・沙門、十一面観音の像を憑み願ひて、現報を得し縁 第三
・沙門、方広大乗を誦持し、海に沈みて溺れざりし縁 第四
・妙見菩薩、変化して異形を示し、盗人を顕しし縁 第五
・禅師の食はむとする魚、化して法花経と作りて、俗の誹りを覆しし縁 第六
・観音の木像の助けを被りて、王難を脱れし縁 第七
・弥勒菩薩、願ふ所に応じて奇しき形を示しえい縁 第八
・閻羅王、奇しき表を示し、人に勧めて善を修せしめし縁 第九
・妙法に写し奉りし法華経、火に焼けざりし縁 第十
・二つの目盲ひたる女人、薬師仏の木像に帰敬しまつりて、現に眼明くことを得し縁 第十一
・二つの目盲ひたる男、敬みて千手観音の日摩尼手を称へて、現に眼明くことを得し縁 第十二
・法花経を写さむとして願を建てし人、断えて暗き穴に内り、願力に頼りて、命を全くすることを得し縁 第十三
・千手の咒を憶持する者を拍ちて、現に悪死の報を得し縁 第十四
・沙弥の乞食を撃ちて、現に悪死の報を得し縁 第十五
・女人、濫しく嫁ぎて、子を乳に飢ゑしめしが故に、現報を得し縁 第十六
・未だ作り畢はらぬ捻せふ(土に聶)の像、呻ふ音を生じて、奇しき表を示しし縁 第十七
・法花経を写し奉る経師、邪淫を為して、現に悪死の報を得し縁 第十八
・産生める肉団の作れる女子、善を修し人を化しし縁 第十九
・法花経を写し奉る女人の過失を誹りて、現に口喎斜みし縁 第二十
・沙門、一つの目眼盲ひ、金剛般若経を読ましめて、眼明くことを得し縁 第二十一
・重き斤もて人の物を取り、又法花経を写して、現に善悪の報を得し縁 第二十二
・寺の物を用ゐ、復大般若を写さむとして願を建て、現に善悪の報を得し縁 第二十三
・修行の人を妨ぐるに依りて、猴の身を得し縁 第二十四
・大海に漂ひ流れて、敬みて尺迦仏のみ名を称え、命を全くすることを得し縁 第二十五
・非理を強ひて債を徴り、多の倍を取りて、現に悪死の報を得し縁 第二十六
・髑髏の目の穴の笋を掲き脱ひて、祈ひて霊しき表を示しし縁 第二十七
・弥勒の丈六の仏像、其の頸を蟻に嚼まれて、奇しく異しき表を得し縁 第二十八
・村童、戯れに木の仏像を剋み、愚かなる夫、斫き破りて、現に悪死の報を得し縁 第二十九
・沙門、功を積みて仏像を作り、命終の時に臨みて、異しき表を示しし縁 第三十
・女人、石を産生み、神として斎きし縁 第三十一
・網を用ゐて漁る夫、海中の難に値ひ、妙見菩薩を憑り願ひて、命を全くすることを得し縁 第三十二
・賤しき沙弥の乞食するを刑罰ちて、現に頓に悪死の報を得し縁 第三十三
・怨病忽ちに身に嬰り、因りて戒を受け善を行ひて、現に病を愈すことを得し縁 第三十四
・官の勢を仮りて、非理に政を為し、悪報を得し縁 第三十五
・塔の階を滅し、寺の幢を仆して、悪報を得し縁 第三十六
・因果を顧みず悪を作して、罪報を受けし縁 第三十七
・災と善との表相先づ現れて、後に其の災と善との答を被りし縁 第三十八
・智と行と並びに具はれる禅師、重ねて人の身を得て、国皇の子に生れし縁 第三十九
本書で気になった解説は以下の通り;
・産生める肉団の作れる女子、善を修し人を化しし縁 第十九
出産してみたら肉の塊で、そこから女の子が出てきた…という割とグロテスクな出生話。本説話はこの後、この女の子が仏法を修めて…という話なのだが。
卵生は人間の場合には異常出生だが、もともと神の子のような特別な能力をもつ人間の出生形式だったらしい。卵のような中空の容器から誕生する事例として、昔話の桃太郎や瓜子姫の話をあげることができる。……卵生による異常出生の話は東アジア一帯に広く分布しており、とくに高句麗や新羅の伝承に国王の誕生をこの形式で語るものが見られる。(p150)
・非理を強ひて債を徴り、多の倍を取りて、現に悪死の報を得し縁 第二十六
一回死んで戻ってくる話がいくつかある中で、こちらはちょっと変わっており、主人公が悪者であったために、戻って来ても半分牛として戻ってくる、と言う話になっている。
広虫女が半牛身に生まれ変わったのを視て、その夫や子どもたちは「愧恥(は)ぢ戚(うれ)へ慟(いた)」んだとある。ここで「恥」の感覚が生じていることは注意されてよい。下二一縁に、眼疾に罹り片目が見えなくなった長義という僧が「日に夜に恥ぢ悲し」んだとあるが、それと同じく、前世での悪業(本話では現世の悪業だが)が悪報になって現れることへの意識が、こうした「恥」の感覚を生み出しているのである。「恥」は個体の閉じられた心の内に生じるのではなく、悪報が露呈し、その結果が衆目に曝されることによって引き起こされる。衆目は共同体の規範意識といってもよいから、その場合の「恥」は倫理的な感覚ともいえる。(p202)
「日本霊異記 中」 多田一臣・校注者 1997年 筑摩書房
上巻の続きで話を列挙すると;
・己が高徳を恃み、賤形の沙弥を刑ちて、現に悪死を得し縁 第一
・烏の邪淫を見て、世を厭ひ、善を修し縁 第二
・悪逆の子、妻を愛しびて母を殺さむと謀り、現報に悪死を被りし縁 第三
・力ある女、力捔べし試みし縁 第四
・漢神の祟りに依りて、牛を殺して祭り、又放生の善を修して、現に善悪の報を得し縁 第五
・誠の心を至して法華経を写し奉り、験有りて異しき事を示しし縁 第六
・智者、変化の聖人を誹り妬みて、現に閻羅の闕に至り、地獄の苦を受けし縁 第七
・蟹と蝦との命を贖ひて放生し、現報を得し縁 第八
・己寺を作り、其の寺の物を用ゐて、牛と作りて役はれし縁 第九
・常に鳥の卵を煮て食ひ、現に悪死の報を得し縁 第十
・僧を罵ると邪淫するとにより、悪しき病を得て死にし縁 第十一
・蟹と蝦との命を贖ひて放生し、現報に蟹に助けられし縁 第十二
・愛欲を生じて、吉祥天女の像に恋ひ、感応して奇しき表を示しし縁 第十三
・窮しき女王、吉祥天女の像に帰敬しまつり、現報を得し縁 第十四
・法華経を写し奉り、供養することに因りて、母の女牛と作りし因を顕しし縁 第十五
・布施せぬと放生するとに依りて、現に善悪の報を得し縁 第十六
・観音の銅像、鷺の姿に反りて、奇しき表を示しし縁 第十七
・法華経を読む僧を呰りて、現に口喎斜みて、悪死の報を得し縁 第十八
・心経を憶持する女、現に閻羅王の闕に至り、奇しき表を示しし縁 第十九
・悪しき夢に依り、誠の心を至して経を誦せしめ、奇しき表を示して、命を全くすることを得し縁 第二十
・攝の神王のこむら(足編に專)光を放ち、奇しき表を示して、現報を得し縁 第二十一
・仏の銅像、盗人に捕られて、霊しき表を示し、盗人を顕しし縁 第二十二
・弥勒菩薩の銅像、盗人に捕られて、霊しき表を示し、盗人を顕しし縁 第二十三
・閻羅王の使の鬼、召さるる人の賂を得て免しし縁 第二十四
・閻羅王の使の鬼、召さるる人の饗を受けて、恩を報ひし縁 第二十五
・未だ仏像を作り畢はらずして棄てたる木、異霊き表を示しし縁 第二十六
・力ある女、強き力を示しし縁 第二十七
・極めて窮しき女、尺迦の丈六の仏に福分を願ひ、奇しき表を示して、現に大福を得し縁 第二十八
・行基大徳、天眼を放ち、女人の頭に猪の油を塗れるを視て、呵嘖せし縁 第二十九
・行基大徳、子を携ふる女人の過去の怨を視て、淵に投げしめ、異しき表を示しし縁 第三十
・塔を建てむとして願を発しし時に生める女子、舎利を捲りて産まれし縁 第三十一
・寺の息利の酒を樲へ用ゐて、償はずして死に、牛と作りて役はれ、債を償ふ縁 第三十二
・女人、悪鬼に点られて、食噉はれし縁 第三十三
・狐の嬢女、観音の銅像を憑み敬ひ、奇しき表を示して現報を得し縁 第三十四
・法師を打ちて、現に悪しき病を得て死にし縁 第三十五
・観音の木像、神しき力を示しし縁 第三十六
・観音の木像、火の難に焼けず、威神の力示しし縁 第三十七
・慳貧に因りて、大きなる蛇と成りし縁 第三十八
・薬師仏の木像、水に流れ沙に埋れて、霊しき表を示しし縁 第三十九
・悪事を好む者、以て現に利鋭に誅られ、悪死の報を得し縁 第四十
・女人、大きなる蛇に婚せられ、薬の力に頼りて、命を全くすることを得し縁 第四十一
・極めて窮しき女、千手観音の像を憑み敬ひて福分を願ひ、大きなる富を得し縁 第四十二
今回気になった解説は;
・心経を憶持する女、現に閻羅王の闕に至り、奇しき表を示しし縁 第十九
経を唱える声がいいという女を、閻魔様が呼び寄せて唱えてもらう、というお話。
ここからわかるのは経典の読誦が、人びとの法悦に誘ういわば声の呪力というものを潜在させているという事実である。経典は、原則として漢文を音読する。和語としての意味はつかみにくいが、むしろそうした唱え方の中にこそ声の呪力があらわれると信じられていたのである。陀羅尼と呼ばれる呪文の場合には、梵音そのままを唱えるから、その響きの中に宿る神秘感は一層強調されることになる。(p173-4)
・狐の嬢女、観音の銅像を憑み敬ひ、奇しき表を示して現報を得し縁 第三十四
本文の内容自体の解説というより背景にあるタブーが興味深かったので。
男は、雨に降り込められて家に戻れず、三日間娘の家に留まったとある。「雨に障りて」とあるように、雨に濡れることは一種の禁忌として意識されていた。それというのも、雨にはつよい呪力があると信じられていたからである。雨は異界である天上世界から降ってくる。その雨の水はこの世の水とは違うはたらきをもつ「天つ水」だった。うかつにそれを身に浴びるのは、危険なことと考えられていたのである。(p274)
「日本霊異記 上」 多田一臣・校注者 1997年 筑摩書房
読書会の課題本の「日本霊異記」の第一巻目。
どうやら日本最初の仏教説話集らしく、奈良薬師寺の僧・景戒によって書かれ、9世紀初めには今の形になっていたらしい。
全体を通しての感想は、本当に仏教を売り込む為のセールストークのような話が多く、僧はどんな悪いことをしても割と許されれば、凡人は僧の悪口言うだけで口が曲がるわ、信心深い人が叶えてもらう願望と言うのがわりと世俗的(金持ちになりたい、沢山の美女をはべらせたい等々)で、非常に面白かった。
しかも、人に借りたものを返さずに死んじゃうとすぐ牛になってしまうのが、なんともおかしかった。全然牛になるのは楽しいと思うんだけどな…と呑気に考えていたら、読書会で指摘されたのが、牛になって労働力として返済するということ。成程…すっかり読み逃していた。いい読書会でした。
上巻に載っている説話は以下の通り;
・雷を捉へし縁 第一
・狐を妻として子を生ましめし縁 第二
・雷の憙を得て生ましめし子の強き力ありし縁 第三
・聖徳の皇太子の異しき表を示しし縁 第四
・三宝を信敬しまつりて現報を得し縁 第五
・観音菩薩を憑み念じまつりて現報を得し縁 第六
・亀の命を贖ひて放生し、現報を得て亀に助けらえし縁 第七
・聾ひたる者、方広経典に帰敬しまつり、現報を得て、両つの耳聞こえし縁 第八
・嬰児の鷲に擒はれて、他国にして父に逢ふことを得し縁 第九
・子の物を偸み用ゐ、牛と作りて役はれて異しき表を示しし縁 第十
・人・畜に履まるる髑髏の救ひ収められ、霊しき表を示して、現に報いし縁 第十二
・女人、風声の行を好み、仙草を食ひて、現身に天を飛びし縁 第十三
・僧、心経を憶持し、現報を得て奇しき事を示しし縁 第十四
・悪人、乞食の僧を逼して、現に悪報を得し縁 第十五
・慈しびの心无く、生ける兎の皮を剝りて、現に悪報を得し縁 第十六
・兵の災に遭ひて、観音菩薩の像を信敬しまつり、現報を得し縁 第十七
・法花経を憶持し、現報を得て奇しき表を示しし縁 第十八
・法花経品を読む人を呰りて、現に口喎斜みて悪報を得し縁 第十九
・僧、湯を涌かす分の薪を用ちて他に与へ、牛と作りて役はれ、奇しき表を示しし縁 第二十
・慈しびの心无くして、馬に重き駄を負ほせ、現に悪報を得し縁 第二十一
・勤に仏教を求学し、法を弘め物を利し、命終の時に臨みて異しき表を示しし縁 第二十二
・凶しき人、嬭房の母を敬養せずして、現に悪死の報を得し縁 第二十三
・凶しき女、生める母に孝養せずして、現に悪死の報を得し縁 第二十四
・忠臣、欲小く足るを知り、諸天に感ぜられて報を得て、奇しき事を示しし縁 第二十五
・持戒の此丘、淨行を修めて、現に奇しき験力を得し縁 第二十六
・邪見なる仮名の沙弥、塔の木を斫きて、悪報を得し縁 第二十七
・孔雀王の咒を修持し、異しき験力を得て、現に仙と作りて飛びし縁 第二十八
・邪見にして、乞食の沙弥の鉢を打ち破りて、現に悪死の報を得し縁 第二十九
・非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて、奇しき事を示しし縁 第三十
・慇に懃めて観音に帰信し、福分を願ひて、現に大福徳を得し縁 第三十一
・三宝に帰信し、衆僧を欽仰し、誦経せしめて、現報を得し縁 第三十二
・妻、死にし夫の為に願を立て、像を図絵し、験有りて火に焼けず、異しき表を示しし縁 第三十三
・絹の衣を盗ましめて、妙現菩薩に帰願しまつり、其の絹の衣を修得せし縁 第三十四
・知恵を締び、四恩の為に絵の仏像を作り、験有りて、奇しき表を示しし縁 第三十五
な・なんて打つのが大変なのか…
ネットでパクろうにもなかった…
何はともあれ、興味深かった解説をピックアップ;
・聾ひたる者、方広経典に帰敬しまつり、現報を得て、両つの耳聞こえし縁 第八
病を前世の宿業と考えて…という話について。
仏教が、過去・源氏あ・未来を貫く因果応報の原理を人々の間に神道させたことは、自己の存在に対する絶えざる自覚を生んだが、同時にそれは来世において蒙るかもしれない責罰へのつよい畏れを呼び起こしたのである。(p97)
・凶しき人、嬭房の母を敬養せずして、現に悪死の報を得し縁 第二十三
本書の一環とした思想のなかに、親子であっても経済的には独立した関係として捉えるものがある。
律令国家の誕生は、それまでの村落の秩序を変質させ、家族のありかたもまた戸籍・計帳の整備を通じて国家による支配を受けるようになる。そうした中で、人びとは一人ひとりが国家と直接に向き合うことになる。言い換えれば、それは、一人ひとりが国家と村落のはざまの中に新たな不安を抱え込みながら投げ出された状態になったことを意味する。そうした不安を救い取るはたらきを示したのが仏教だった。仏教は、因果応報の原理が一人ひとりに及んでいることを具体例をもって示す。こうして個体の存在への自覚がつよめられると、親子の独立した経済関係が主張されるようになる。(p175-176)
・慇に懃めて観音に帰信し、福分を願ひて、現に大福徳を得し縁 第三十一
この話は本当に世俗的な願いがかなえられたお話で、お金持ちになり美人と二度も結婚するお話。
仏教は人びとに個体の罪を突きつけることで個体の存在をつよく自覚させたが、本話は反対に個体の欲望の充足を積極的に肯定する。罪と欲望は一人ひとりの個体にかかわるべき問題として現れる。その背景には、貧富の差が拡大し、共同体内部に大きな亀裂が生じるようになった現実がある。共同体全体の豊かさがその成員の氏絵勝つの安定を保証するという共同体の理念が、もはや有効性をもちえなくなったということでもある。(p227)
千葉乗隆訳注 「新版 歎異抄―現代語訳付き」 平成13年 角川学芸出版
読書会の為に読み始めた「歎異抄」。
が、都合がつかなくなって読書会には行けなくなってしまったのだが、とりあえず読むだけ読んでみた。
仏教に触れる機会はなかなかなかったのだが、今更ながら思ったのが、結構仏教って個人主義の上に成り立っているのだなぁ~ということ。
結局、悟りを開くって自分自身だけでの問題だし。
特にこの歎異抄で親鸞が言う“自分は親の為に念仏を唱えたことがない”というところが、その論理といい、なんとなく自己完結の世界のような気がしてならなかった。
それでいて親鸞の教えというのは、本当に都合がいいようにしか聞こえない。
他力本願って…
まぁ宗教のことは、“良い”とか“悪い”とかとやかく言えるものではないけれども、すべて阿弥陀さまにお任せ!というのは私の性には合わないなぁと思ってしまった。