『御一新の嵐 日本の百年1』鶴見俊輔
通っている通信の大学のレポートで、何回か続けて明治期の芸能や風俗について調べることがあって、改めてすごい転換期だったんだと思い、がぜん興味が出て読んでみた本書。
いや~~~面白かった!!!
何か物語があるというわけではなく、実に様々な資料を淡々と紹介しているだけといえばだけなんだけれども、1つ1つが結構面白い。なんなら資料を現代語に書き直しているわけでもないので読みづらいところもあったけれども、それを凌駕する面白さ。
時代の転換期だからこその、様々な想いのぶつかり合い、試行錯誤、勢い…すべてが読み応えがあって考えさせられる。
今まで平安時代とか江戸初期などに興味があったので、この時代の知識があまりないので(といって平安時代とかの知識が豊富というわけではないけれど)、もしかしたらそれだからこその面白さもあるのかもしれないけれども。
コロナという世界規模の混乱のまっただなかの今、それこそ”アフター・コロナ”なんて言われて、時代の転換期にいるのかもしれないけれども、この時代のエネルギーを見ると、ちょっと時代を転換していくにはエネルギーが足りないんじゃないかなと思ってしまった。
って私だけかもしれませんけどね。
以下、まとめるのは難しいので、目次と、その中で面白かった箇所を抜き出してみる。
※引用するのにあたって、漢数字は読みやすいようにアラビア数字に直した
※黒字で末尾にページ番号があるのが直接引用、ないのが要約、青字がコメント
序章 東西南北
- 日本民衆漂流史
- ロシアへの漂流
- 海の外には別の暮らし方が
- アメリカへの漂流
- 黄金と真珠の国
- アメリカの使節
- ペリーは1852年に大統領フィルモアから東インド艦隊司令長官に任命された時、すでに58歳だった。彼はまず、3万ドルの大金を政府に要求して、日本関係のあらゆる書物を買い集めて、日本についてかなり正確な予備知識を得た。その時手に入れることのできた日本研究所は400冊であったといわれる。彼は日本についてそれまで流布していた空想的な意見を拝して、シーボルトやケンペル、ツンベルグなど実見報告の上に、彼なりの日本人のイメージをつくった。この未知の国に行ってから、どのように自分はふるまえばよいか?その行動の計画を、彼は綿密にあらかじめ立てておいた。(p38-9)
- その計画は、ほとんど1世紀をへだてて、マッカーサーが第2の日本開国に際して用いたのとよく似たものだった。すなわち彼は、日本人にたいしては形式的な礼儀をかたく守り、しかもあまりちかしく接せず、威厳を保ち、王者のごとくふるまおうと決心したのだった。(p39)
- 正確な情報の重要性がよく分かっていたということと、プレゼン力の強さが日本を開国に導いた要因の一部となったのかなと思った
- ロシア使節の秘書役、イワン・アレクサンドロヴィッチ・ゴンチャロフ(1812-1891)は、大蔵省の官吏であったと同時に、19世紀ロシアの最大の作家の1人で、在世当時はトルストイ、ツルゲネフと並ぶ最高の原稿料を得ていたらしい
- そのゴンチャロフの『長崎日記』より
- 手紙を読みもしないで、さっそくの御返答は出来ぬというのは、理屈の通らぬことだ。それはそうだが日本人とことを進める際には、一応ヨーロッパの理屈からはなれて、ここは極東だということをおぼえておかねばならぬ。前にも言ったように、彼らは頑迷固陋な、見込みのない国民ではない。かえってもののわかった、分別のある国民で、必要とみとめたら他人の意見もうまく取り入れる国民である。これは彼らが経験上知っている場合なら、かならずそうである。しかし、彼らにとってすべてが新奇の場合には、彼らは遷延、調査、待機、策謀をおこなうのである。彼らはある程度まで正しいのではあるまいか。彼らはこれまでヨーロッパ人から善いところはあまり見せられないで、悪いところはうんと見せつけられた。だから彼らの攘夷も理屈が通っている。ポルトガルの宣教師の伝来した宗教を、多くの日本人は正直に受け入れて伝道した。しかしロヨラの弟子たちは、日本への欲望をも持って行ったのである。あのごうまんさを、その他キリスト教的愛情以外のあらゆる愛欲を持ってきたのである。御承知の通り、その結果はキリスト教徒の大虐殺であり、鎖国となったのである。(p53-4)
- だがわがヨーロッパの古い国々の草創期に、不可解な新奇なことや、あらゆる発明をどんなふうに遇していたか、医者を焚刑に処し、理学者や天文学者をいかに迫害したかを想い起こすならば、頑固な攘夷欲の点で、日本人はおそらくその啓蒙者なるヨーロッパ人以上に情状酌量の余地あるのではあるまいか。また従ってむかしの災厄をくり返すまいとする用心と恐怖が、日本人をわれわれから疎隔せしめ、日本人の成長をさまたげ、わずかに天賦の思考力だけをのこしたことも、また文明と称するものにたいする誤った概念をいだかしめた多少の経験をのこしたということも、驚くにあたらないのである。(p54)
- 当時の西欧人は日本人を野蛮人とでも思っていたという先入観があったので、この公正なまなざしにびっくりした。カトリックに対する皮肉はロシア人ならではなのか。
- 初代イギリスの駐日公使となったジョン・ラザフォード・オルコック(1809-1897)の素描より。
- 民衆について好意的に記録しているが、彼が接触した官吏(最上級の武士たち)についてはなかなか辛辣
- 過去何代となくただ君臨しているにすぎない称号だけの君主と、ただ統治するだけで君臨しない帝国の代理者というこの二重の機構は、たしかにひじょうに奇妙なものである。これがながいあいだ継続されてきた結果、世界の他にどこにもこれまでけっしてないような二重組織を生み、これが生活のほとんどあらゆるこまかい点にまでゆきわたっておこなわれている。どの役職も二重になっている。各人がお互いに見張り役であり、見張り合っている。(p70)
- ある特別な機会に、役人のひとりが、故意に前言に反したことをいったのを一外国代表がみつけて、いささかぶっきらぼうに、『こんな見えすいたうそをついても、良心にはずかしくはないのか』と質問した。すると相手は、落ちつきはらって、すこしも動ずることなく、つぎのように答えたものだ。『わたしは、先月、かくかくのことがなされたと申しあげた。だが、いまは、それが全然なされていないということをお知らせする。わたしは、うけた命令を実行し、いえと命じられたことをいうのを任務とする役人にすぎない。それが真実であるとかないとかいうことは、わたしにはなんの関係もない』と。(p70-1)
- うわー残念ながら今も変わらない!と思った一節。この二重構造が責任の所在をはっきりさせない状態を生み出し、その姿勢が今に引き継がれているのか…?
- オルコットは、こうした武士たちの支配を離れて、新しい文明をつくり出すだろうと予測していた。
- すなわち、かれらの文明は高度の物質文明であり、すべての産業技術は蒸気の力や機械の助けによらずに到達することができるかぎりの完成度を見せている。ほとんど無限にえられる安価な労働力と原料が、蒸気の力や機械をおぎなう多くの利点を与えているように思われる。他方、かれらの知的かつ道徳的な業績は、過去三世紀にわたって西洋の文明国において達成されたものとくらべてみるならば、ひじょうに低い位置におかなければならない。これに反して、かれらがこれまでに到達したものよりもより高度な、そしてよりすぐれた文明を受けいれる能力は、中国人をも含む他のいかなる東洋の国民の能力よりも、はるかに大きいものとわたしは考える。(p72)
- お褒めをありがとう、と思いつつも、自分の国が文明的に大変優れているという感覚は産業革命で成功したイギリスだからこその視点かなとちょっと思った。特に蒸気と機械を比べるところ。
- おもちゃ屋の同時代史 1
- 近世日本人漂流年表
- 帰朝者の自殺
- 万次郎の英語
第一部 新しい力
第一章 黒船以後
- うつろ舟の蛮女
- 山伏が小石に祈る
- 意見なし
- ええじゃないか
- 北辺のまもり
- 地球上の日本
- 世界いちれつ見はらせど
- 一日の差
- 仙台藩士の玉虫左太夫について。1859年、徳川幕府がアメリカに使節を送るのを聞きつけて、仙台藩主に願い出てそれに加わる。こうした海外での見聞がベースとなって、非戦派となるが、薩長の奥州入りによりその勢力の立場が悪くなり、最終的には処刑されてしまう。
- ”一日の差”というのは、榎本釜次郎(武揚)が軍艦に乗って北海道に向かうことを知って、これに乗って逃げようと気仙沼に行くが、期待した日に軍艦は来なかった。官軍の追撃が急なので、約束通り気仙沼に寄らずに北海道に行ってしまったという知らせが届き、玉虫は気仙沼を離れて処刑されるべく仙台に行くが、実際は次の日に榎本一行は気仙沼に着いたのだった。
- (玉虫が目指したもの)米国においてはその民主主義に感動し、香港においては英国人の中国人虐待を見て、西欧諸国に警戒心を持つという、それぞれの実例に即して判断する玉虫の方法は、尊王攘夷か、佐幕開国かのいずれのイデオロギーをも、まるごとのみこむことを許さなかった。玉虫の志した方向は、単なる尊王攘夷でもなく、単なる佐幕開国でもなかった。
第二章 戊辰戦争
第二部 明治維新
第一章 四民平等
- 隠岐島にて、尊王攘夷の動きから農民たちを武芸の訓練を与えていたが、一転して武芸をやめて農業にいそしめとなった。武士以上に武芸・学問ができることを知っていた農民は不満を抱き、郡代を追い払ってしまう
- 郡代を追い払った隠岐島は完全な自治領である。同志たちは郡代の陣屋を会議所とし、別に総会所をつくって行政を処理した。隠岐島1万2500石を自分たちでまちがいなく管理せねばならぬ。島の人びとは立教館という学校を新しくもうけて、毎日学問をならい、別に撃剣所をもうけて武術で身体をきたえた。驚くべき活気のある時代だった。(p205)
- 松江藩に鎮圧されるが、それが簡単にできたのは、農民兵たちが”われわれが松江藩と戦っても天朝になんの益があるわけではない、松江藩が鉄砲を撃ってくるとすれば、われわれが退こう”と申し合わせていたから
- 明治新政府は松江藩の責任者を刑に処し、反乱軍にも刑を処した
- ただし、県の官吏は反乱側の同情者であり、禁錮といっても自宅にただ住んでいればよく、徒刑といっても岬に臨時の小屋をつくってそこにいればよく、杖に打つにも裸にせず、着物の上からのんびりと打っておしまいだったという。(p206)
- 一度学問を得たら放棄できないというのはそうだろうなと。そして毎日学問をならったというのはその重要性を知っていたからこそだし、その後に松江藩への対応も学問の成果だと思った
- 1867年王政復古の大号令の後、岩倉具視が政治の方針を天下に公表するのに、その原案を越前藩の由利公正(1829-1909)が創った
- 由利の書いたこの草案は、最後に政府によって採用された案とはかなりちがっており、むしろこのほうが、今日理会されている意味での民主主義の理念に近い。(p209)
- 最終的には長州の木戸孝允によって書かれた五カ条の御誓文となった。
- 発表の仕方も、由利案では天皇が大名諸侯と相談して、将来の方針を決定するというかたちだったが、木戸案の天皇が祖先の神々に対して、公卿・大名をひきいて誓うというかたちが採用された。
- 明治天皇は、五カ条の御誓文とともに、「宸翰」といいう天皇みずからの信念の発表を神前で行った。当時は御誓文よりも宸翰の方が重要なものと考えらえていた
- 五カ条の御誓文は、おそらく起草者の意図を超えて、民主主義の政治理念として働いてきたいっぽう、御誓文の発表形式、ならびに「宸翰」と合わせて解釈された時には、絶対的権威をもって臨む天皇御親政の理念を表すものとしても理解された
- 御誓文ならびに宸翰は、この意味において、民主主義と反対の絶対主義の理念を代表するものとして働いてきた。この二面性は、そのどちらをも否定することができない。この二面性の矛盾を支えるものとして、明治天皇というすぐれた君主の役割があった。近代国家の君主としてなんらの実績をも過去に持たない当時十五歳の少年が、これからは自分が先にたってどんな苦労でもして新しい政治をするから、協力してほしいと訴えた。そこには、軍隊・警察・官庁にとって十分に護られ、絶対的権威をもって国民に臨むという意味での絶対主義という気風はなくて、未知の領域に向ってわけ入ってゆく若々しい気概があった。明治時代の日本国民は、この賭に応じたのである。(p213)
- 天皇が絶対的権威という気風ではなかったというのが意外だった。日本の歴史において、天皇のとらえ方が時代とともに変わっていくのは大変興味深い
- 1871年(明治4年)3月3日、太政官の布告によって戸籍法が生まれ、1872年2月からその年の終わりまでに、日本全国の戸籍がつくられた
- 「戸籍」の戸とは家のことである。日本国中にいる人間を知るのに、個人をもとにするのではなく、家をもとにしてとらえたのだ。それぞれの戸には戸主というものが定められた。戸主はふつう父親であり、その後にえらい順で母親、長男、次男というふうに記された。家そのものが一つの権力の体系として、支配・被支配の関係でとらえられていた。それぞれの家が戸主によってひきいられているのとおなじように、家のかたまりは、「戸長」という名の役人によってひきいられる。この戸長が政府から任命された役人だというのが、明治以前とちがうところで、明治以前のように名主や庄屋が村の人たちと一体感をもって、その利害を代表して政府に訴えるという仕組みはここで断ち切られた。中央政府―県―大区・小区―区長・戸長―戸主―個人というたての線をつくって、日本国家が家ぐるみ日本中の人間を支配する仕組みを考えた。(p229-230)
- 戸籍ひとつとっても、それまでと考えから大きく変えていくというのが非常に興味深かった。
- アメリカに留学したはずが、英語が分からないままサインしたら身売りの契約書だった、ということがあったらしい。その一人が、後に首相をつとめ、2・26事件で殺された高橋是清であった。高橋是清は自力で逃げ出せた例で、高橋是清が自伝でしたためているのを読むとなかなか痛快だが、実際問題、面白いと言っていられない話だろう。開国すると奴隷問題に巻き込まれるのは必然なのかもしれないが…
- この他に、奴隷として売るべく中国人が乗せられた船を防ぎ止めた、マリア・ルーズ号事件についても載っている
第二章 文明開化
46. 世界観のちがい
47. 器械をひらけ
- 「文明」と「開化」という言葉、ともに中国の古典の中で用いられていた。その2つをあわせて「文明開化」という新しい言葉をつくったのは、1867年(慶応3年)に出版された福沢諭吉著の『西洋事情』外篇
- この言葉は、欧米の制度と風俗を日本に移し植えることだと理解された。日本にむかしからあったものは文明とは言われなかった。今日の常識からいえばずいぶん妙な話だが。こうして単純に欧米の風物制度にならうという意味で、日本だけにあって欧米にないものが、ちょんまげからお城にいたるまで、つぎつぎにこわされていった。日本の風景は、みるみるうちに変わった。(p264)
- 分かっていたことではあるけれども、やはり日本人が、日本固有のものは文明と見なさない、というのは残念なことである。だから一万円も福沢諭吉でなくなるのかな…と思うのはうがちすぎだろうとは思いつつ
- 幕末は、自分の責任において学問をする多くの人びとをつくり出した。これらの人びとはみずからの学問の姿勢を、学校というかたちで日本に定着させたいと考えた。新島襄の作った同志社と、福沢諭吉がつくった慶應義塾は、近代日本の初代学生たちがみずらかの向上心を日本のために遺そうとしてたてた2つの学校である。(p304)
- ここでは特に指摘されていなかったけれども、そもそも江戸時代において識字率が非常に高かったというのも、この学問に向かわせる土壌を作ったのかなと思った
- 五島列島をはじめとしたところで伝わる隠れキリシタンの話。
- 黒崎地方と五島でおこなわれている「天地始之事」という経典写本:イエス・キリストの伝説が、親から子への言い伝えのなかで、日本人の心情にあわせて作りかえられている。以下、実際の内容の引用は長いので、それについての説明を引用。
- ヘロデの命令をうけて殺されたこどもの数が4万4千4百4十4人というのは、三十三間堂の仏の数から思いついたものだろうと推定される。これなどはやや枝葉の変化だが、ヘロデ王が土をうがち、土民の子の中にまぎれこんでいる神の子をさがすというあたりは、島原の乱以後徳川将軍に追いかけられ、かつて武士、町人だったものもいまは農民となって地に伏しかくれている彼ら自身の不安を言葉にしたもので、実感をもって聖書を語りかえている。(p322)
- 天の命令をうけたイエスが、自分ゆえに四万あまりの罪なき幼児が殺されたことに悩みぬいて、ついにみずからの生命を捨てる決心をするあたりは、聖書にない別の心情を裏うちとして描かれている。自分のゆえに死んだ人びとにたいする責任が、イエスの最後の行為である自首による信仰告白へと導くこの物語の構成は、日本人の感情を通して原理への献身をいかにして新しくとらえ得るかを示す。(p322)
- 明治零年の憲法
- 日本国の御主人さま
- 開化の逆行
- 日本全国戸籍表
- 江戸っ子女中と邏卒
- 日の丸のはじまり
- 肉をたべはじめたころの話
- 四十八ヵ国中最末席
- 太陽暦はなぜ採用されたか
- 日曜日のはじまり
- 帽子には二重の効用がある
- 共同便所のはじまり
- 郵便のはじまり
- ものさしで取引き
- 津田梅子の女房役
- 1873年の海外留学生
- 明治7年の禁教
- 死者への祈祷
第三部 とりのこされた人びと
第一章 反乱
- ゆれうごく青年の心
- 明治維新の年、天皇は16歳だった。新政府の建設は、少年天皇がみずから指揮をとることのないままに、天皇の名前によって進められていった。しかし、このおなじ時期は、天皇の教育という驚くべき仕事の進められた時期でもあった。(p364)
- 1873年(明治6年)の征韓論不採用の決定は、明治天皇みずからの意見で決定をくだしたさいでょの例だと言われている。結果、西郷・副島・後藤・板垣・江藤の五参議がしりぞき、最後には西郷隆盛が反乱をおこし死んだ。西郷は維新当時、少年だった天皇がもっとも頼りにした功臣であったため、西郷の反乱と死は明治天皇に深い傷を与えた。
- 西南戦争のいたでからいかに学ぶかが、明治天皇の教育の源泉となった。天皇を取りまく新政府の指導者たちは、このような天皇教育を協力しておこなうだけの器量を持っていた。彼らは、お互いにあいしりぞけ、刺客を放って暗殺しあうような状況をつくり出したくないという点で一致し、お互いがお互いにたいして偏見をもって接するとしても、お互い同士のにらみあいを越えて、公平にみんなの意見をきけるような格別の存在をつくりたいと考えた。(p365)
- どれほど彼らが天皇の教育に力をいれたかは、西南戦争の後に、これまで権力をふるって支配をつづけてきた岩倉具視と大久保利通が、天皇みずからに政治全体のことを知ってもらうための教育制度をつくろうと提案したことによってもわかる。(p365)
- 上にもあったように、新政府のなかでも派閥があってバチバチしているところもあったけれども、やはり根本のところで「日本を変えていかねばならない」という意識は共有していたんだなというのがよく分かる。自分たちの損得を越えて変えていこうという意志は、残念ながら今の政府には見られないところかなと思ったり。。。
- 高橋泥舟のように、明治以後には新政府に仕えなかった旧幕臣が、多くは文士となったり新聞発行者となったり、学者となったりした。松のや露八のようにたいこ持ちになった者もある。その伝記を書いた戸川残花もまた露八とおなじくもと旗本であり、文士となって後半生を生きた。彼はみずからを「遺臣」と称した。この言葉は、旧幕臣で明治以後のジャーナリストとなった栗本鋤雲の詩にもちいられて有名になったが、これはもともとは中国の琴あで、新王朝の興った後に前王朝に仕えていた者が、その主人を失ったことを示すためにもちいるのだそうだ。(p379)
- 旧幕臣がどういう運命をたどったのかが興味深い。
- 明治維新は、われわれ日本人がみずからの手でつくり出した社会改革としてもっとも偉大なものである。この改革は、つくり出されて今日のわれわれに手渡されている制度よりも、その制度をつくり出すエネルギーにおいてさらに偉大であった。明治維新を、それをつくり出したエネルギーの源にたちかえってもう一度とらえなおすことは、われわれ日本人が今後いかに生きるかを考えなおすことだ。
- もっとも偉大かは言い切ることはできないけれども、確実にone of the greatestなのは間違いない。そしてエネルギーにおいて偉大、というのは100%同意。派閥・個人を越えて、全体で変えていこうというエネルギー、もちろん人や派閥によっては違う方向性の時もあるけれども、それでも”日本を良い方向に変えていこう”という意志いは一致しており、一致しているからこその強力なエネルギーだったのではないかと思った。
- おもちゃ屋の同時代史 V
- お伝とおきぬ
- たいこもちの生涯
- インガンチョウ
終章 昔も今も
- 私の百年を語る
- 日本の外の日本人
- ほろびゆき一人となるも
- 幕末の味
- 生きている明治の官僚性
- おもちゃ屋の同時代史 VI
鶴見俊輔編『御一新の嵐 日本の百年1』2007年、筑摩書房