ローワン・ジェイコブセン 「ハチはなぜ大量死したのか」 中里京子・訳 2009年 文藝春秋
“ミツバチが大量死して大変!”というニュースを聞いた頃に本屋で「ハチはなぜ大量死したのか」というタイトルを見つけ、興味深く思って読みたい本リストに付け加えた。
それから大分時間が経ってしまって、興味は激減したけれども、まぁリストを消化するか、というノリで読んでみた本書。
一番面白かったのはハチの一生ですかね。
本当にハチはシステマチックに生きているんだ、と驚いた。このチーム(というか姉妹たち)が一丸となってライフサイクルを担っているのが、しかも効率的に担っているのがすごい。
結論としては、ハチの生態を無視して人間のいいように使ってきたツケだ、というものだったのは、まぁそれはそうでしょうよ…という感じだった。
つまり、本当は色んな種類の花粉が必要であるのに、アメリカでは農作物の受粉にハチを駆り立てるものだから、同じ種類の花粉しか得られない。
しかも、いろんな農場に連れ回されるのだから疲弊もする。
挙句の果てには、ハチを元気付けようと、人間はコーンシロップを与えたり、抗生物質を与えたりする。
ハチが消えてしまう前から、その土地では他の野生の虫たちがいなくなっていた。
つまりは“ハチ”という人間に直接関係のある昆虫の大量死によって、やっと自然界の崩壊という現状が突きつけられたにすぎない、というのが著者が言わんとしていることのようだ(と私は受け止めた)。
なかなか面白かったけれども、結論が見え始めてからは、今更明かにされた真実ではないような…という気がしてならなかった。
何気に一番怖かったのは中国の食品についての記述だった。
抜粋するのには大変長いので、P153から読むといいだろう。
中国について著者は最後に
私は、中国産の水産物はまったく口に入れたくはないし、中国産の蜂蜜を口に入れるとしてもその前にすごく迷うだろう。(p159)
と書き、更には注釈で“さらに言えば、中国製のおもちゃが誰の口にも入らないように心がけている。(p159)”と言っている。
まぁ中国が危ないというのも周知の事実ではあるけれども。
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<サイモン・シン 「フェルマーの最終定理」 平成18年 新潮社>
数学なんて大嫌いで、というか算数からして苦手で、試験勉強の時なんざ、比喩でなくて本当に吐き気を催しながら勉強していた。
なのに!何故“フェルマーの最終定理”に手を出したかというと、私と同じく数学が苦手そうな(ごめんなさい!勝手に決めてつけて!!)三浦しをんさんんが「面白い」と言っていたから。
事実、三浦しをんさんが勧めていた「スノーボールアイス」も面白かったし。
借りてみて気付いたのが、本書を参照している小説が割と多いこと。
借りてから他の本・2冊から見つけてしまったよ(法月綸太郎の「しらみつぶしの時計」と伊坂幸太郎の「陽気なギャングが地球を回す」)
さてさて本文に話を進めると
要するに、“フェルマーの最終定理”をめぐっての数学者たちの奮闘記。
本書が数学にあまり明るくない人たちを対象にしていることもあって、“フェルマーの最終定理”そのものよりも、それにかかわった数学者達の話に焦点をあてた形になっていたので、読みやすかったのがよかった。事実、非常に面白かった。
まず、フェルマーの最終定理を簡単に説明すると、
ということは私はできないので(あまりに数学的センスがない!)、ちょいちょい抜粋しながら説明すると、まずピュタゴラスの;
直角三角形の斜辺の二乗は、他の二辺の二乗の和に等しい。(p37)
という定理が根底にある。そしてそれは
ピュタゴラス方程式の自然数解を求めることは、第一と第二の正方形の面積の和が第三の正方形の面積になるような三つの正方形を求めることと考えられる。(32+ 42 = 52) (p68)
ということになる。つまり
x2 + y2 = z2
というわけだ。
ところが
x3 + y3 = z3
となると解が成り立たなくなるのだ!
そしていよいよ“フェルマーの最終定理”の登場となる。
17世紀のアマチュア数学者・ピエール・ド・フェルマーがディオファントスの『算術』の本の余白にメモを走り書きしたりしていた。その問題8の横の余白に
<ある三乗数を二つの三乗数の和で表すこと、あるいはある四乗数を二つの四乗数の和で表すこと、および一般に、二乗よりも大きいべき(傍点)の数と同じべき(傍点)の二つの数の和で表すことは不可能である>(p117)
と書いたまま、しかも更にいじわるなことに
<私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことができない>(p118)
と残してこの世を去ってしまったのだった。
一見簡単そうな(私が言っているのではなくて本書がそう言っている!)この命題、数学者が知恵を絞っても全然解けない。
フェルマーは実は間違っていたのではないか?という憶測まで飛び交うまでにもなり、3世紀も解かれることがなかった。
それが1993年にアンドリュー・ワイスによってついに証明されたのだった。
その証明に至るまでの各数学者の道のりや、アンドリュー・ワイスの研究がこの本の筋となっている。
では、数学にまったく興味がない(というか興味が持てない)私にとって、この本書の魅力は何かというと、前述通り数学者の生き様が見れることだった。
数学というのは本当に私にとって手に届かないもので、数学者なんて別世界の人、しかも無条件に尊敬してしまう人である。
そんな人たちの苦悩・努力・栄光を垣間見るのは、本当に面白かった!
例えば、目が見えなくなっても数学に従事したレオンハルト・オイラーだとか、女性蔑視の風潮が渦巻く18・19世紀フランス社会の中で、男のふりをして研究していたソフィー・ジェルマンだとか・・・
そして誰よりも心に残ったのは、日本人の数学者谷山豊と志村五郎だった。
谷村=志村予想というのを使ってアンドリュー・ワイスは“フェルマーの最終定理”を証明したので、本書でも何度もクローズアップされていたし、同じ日本人だし、ということで心に残ったのかもしれないが、純粋に谷村が自殺をはかり、その遺志をついで志村がその理論を確立した、という話がじーんときた。
そうやって数学者たちを見ていると、なんだかファンタジー世界の(=私の理解の範疇を超えた世界の)孤高なる(=問題に向き合っている時は一人だし)勇者(=問題と格闘している)に見えてくるから不思議。
この「スノーボール・アース」は、三浦しをんセレクション(三浦しをんさんのエッセイに紹介された本で面白そうなのをピックアップしたリスト)より。
科学の知識がまったくなくても面白い、ということでしたが、まさにその通り!でした。まず、出てくる科学者がものすごく個性的(まあ研究者なんて変人じゃないと務まらないんだろうけど)で、生き様や、ぶつかり合いなどの人間ドラマが面白い。それから、単純に、地球は凍っていた、という学説が出され、それが反証されたり、立証しようとしたり、というのも面白い。そういう学説とかも、とても分かりやすく紹介されているので、本当に面白いのです。
色々抜粋してみると;
四十億年とは気が遠くなるほどの長さであり、想像するのも困難である。…(中略)…地球が誕生してからこれまでの期間を一年とすると、春、夏、秋、ハロウィーンをはるかに過ぎ、冬の初めまで、アメーバに支配されていたことになる。それをさらに天地創造の六日間にまで縮めると、土曜の朝六時までにあたる。マラソンコースにたとえるなら、三十六キロ地点までアメーバー状生物の支配が続く。
しかし私がいちばん好きなイメージは、ジョン・マックフィーのアイディアを借りたものだ。腕を伸ばして球を包むように輪をつくり、それを地球の歴史とする。アメーバの時代は左ひじの前で発生し、左腕全体から体を横切って右肩、前腕、ひじ、そして右手首のあたりまで続いた。地球の歴史のほぼすべてに達するこの長さに匹敵するほど、長く生きたものは他にない。恐竜の時代は、指一本分の長さでしかない。またヒトの存在期間にいたっては、右手の中指の爪をやすりでゆっくりこすりとったくらいだ。(p29-30)
こんなに長い間、単細胞生物は生き長らえ、それに不自由のなかったのに、なぜある日突然進化し、高等な生命体がうまれたのか。それが最大なる問題なのです。
それを解く鍵が、「スノーボール・アース」と呼ばれる地球凍結説にあるのではないか?とポール・ホフマンが眼をつけたところから論議が始まるのです。
この本では、この地球凍結説の論議がほとんど取り上げられていて(それくらい地球凍結説は問題だったらしい)、進化のところはほんの一部です。でも、反証され、それを検証の末立証したり、と様々な科学者が取り組んで、一つ一つ解いていかれるのが(もとに戻る事もあるけど)本当にワクワクするのです。
そしてまた、このような事態(大陸が動いたり、凍ったり)が二億五千万年の間にあるかもしれないらしいのです。
われわれの子孫はどうするだろうか。…(中略)… 地球は強力で頑固な暴君だ。わたしたちが使える資源を制限し、大地に関する意志はとても測りがたい。
…(中略)…
しかし次の全地球凍結は地上の生物すべてにとって、世界の終焉となるわけではないだろう。それは以前のときと同じだ。破壊的なほどの猛威をふるった前回の全凍結のあとには、空前絶後の新たなる始まりがあった。全地球凍結が生物をどのような方向で進ませるか、いった誰が知ろう。
私たちの地球は、何といっても発明の王者である。地球史を通じて、地球は常に新しい形へと変容し、目を見はるような新しいアイデンティティをたずさえてきた。地球の内部からのぼってくる熱い岩のプレームによって、大陸の表面は絶え間なく形を変えている。山脈が隆起する。別なところでは落ち込む。海がこちらで開き、あちらで閉じる。人間にとっては天災である地震も噴火も津波もすべて、地球が変容しようとする、圧倒的な一部でしかない。頼りない大気でさえ、地球の変化傾向に適応し、変化を拡大する役目を果たしている。変化は地球にとって危険なことではない。それこそが本質なのだ。この地球の一段面を共有する私たち人間や他の動物は、弱き者なのである。(p282-3)
これを読むと、「地球にやさしい」という言葉、いかに人間の驕った考えの表れかが分かる気がしました。
(ガブルエル・ウォーカー 「スノーボール・アース 生命大進化をもたらした全地球凍結」 川上紳一・監修 渡会圭子・訳)