実在の人物を使っての探偵小説というのが目新しくて手に取ったのが「安吾探偵控」by野崎六助でした。 坂口安吾と言えば、「不連続殺人事件」を書いた作家で、遠い昔に国語の先生に強くすすめられて読んだものの、大して覚えておらず・・・ そのためか、読んでも、「おおおお」感がなかったのが事実。 ちっ これ読む前に、坂口安吾作品一つでも読んで、気分を高めておけばよかったよ 事件は、京都の酒造屋で殺人がおこったのから始まります(ま、探偵小説なんてえてして殺人事件から始まるんだけど)。死体が転がっていたのは、離れにある倉庫の中で、その日は雪が降っていたのだけれども、残る足跡は、酒蔵から倉庫まで行った被害者の足跡のみ。推理小説ファンをうならせる密室事件なわけです。 常日頃から思っているのだけれども、探偵って大まかに二種類あると思うわけですよ。一つは、捜査の手の内を見せながら捜査していく探偵。もう一つは、一人でもくもくと考えて捜査していく探偵。後者の探偵は、何を考えているのかサッパリ分からなくて、最後にばーーっと推理を披露して終わり。 前者の例の一つは、金田一耕介だろうし、後者の例は、シャーロックホームズかもしれないし。とにかく、この坂口安吾さんは、めちゃくちゃ後者でした。 坂口安吾にひっついている助手みたいな鉄管小僧の目線なんだけれども、この安吾さん、本当に何を考えてはるのか、とんと検討がつかない・・・。 そして、ちょっと不満だったのが、その推理を最後に、ばーーっとからくりを華麗に提示していくこともなく、推理が小出しに出てきてあんまりまとまりのある事件解決でなかったこと。そのおかげで、もうすでに説明されているのだろうけれども、順序がなっていないせいで、いまいち解決されていないような謎が残っているような気がして、どうも気もち悪い。 ちょっと面白かったのが、酒男の名前でした。下っ端のあまり大して重要でない人たちの名前が、本当に適当っぽい。なにしろ、呉市、凡太、笛六、希典(のりすけ)。もしかして、もうすっかり歳をとった鉄管小僧からの聞き語りという体裁をとっているから、重要ではない人物の名前は適当に語られるだろうから、という細かい配慮のせいなのか・・・と深読みしそうになりました。 というわけで、もっと坂口安吾に触れていたら、もうちょっと楽しめただろうに・・・という少し残念な本でした。 大して坂口安吾を読んでないくせに、そして読んでいてもすっかり内容を忘れているくせに、思わずにやりとした台詞は; 安吾は遠くを見るようなまなざしになって言った。 「これは・・・・・・不連続殺人事件だ」 えっ、なんだって。声がくぐもって聞き取りにくかった。先生、なんておっしゃったんですね。不連続・・・・・・なんです? 「不連続なんたらはどうしたんですか」 「不連続殺人事件さ。いい響きだろう」 「だから何なんです」 「いつかそのタイトルを使ってぼくも探偵小説を書きたいと思ってな」 こりゃいけねえや。 この本のしおり;いらない封筒をちぎった紙切れ
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久しぶりの有栖川有栖は「かつて子どもだったあなたと少年少女のためのミステリーランド」シリーズより「虹果て村の秘密」でした。ま、肩慣らしにいいでしょ(ちょい、偉そう) このシリーズは、小野不由美が「くらのかみ」を出した時に噂で聞いていて、是非読んでみたかったのですが、装丁とかが凝っていると聞いていたのに、図書館で借りたせいで普通のハードカバー・・・ ま、カラーがふんだんに使われていて(しかも"虹”果て村のせいか、原色が使われている)、そこが違うのかな・・とは思ったけれども・・・・ 話の結末は、正直、ええ!?そんな・・・というものだったけれど、推理部分はさすがお見事、面白かった!ちゃんと村の地図もあって、ミステリファンとしてはそこがワクワクするツボにもなったし。 あと、やっぱり子供向けとはいえども、有栖川有栖の人物描写は細かいな、と思わせるものでした。例えば、主人公格の優希のくせが、鼻の頭をなめることだとか、そしてそのくせを使うところがうまいな~という感じでした。それが直接事件に関係するわけではないけれども、話の本当にちょっとしたアクセントに使われている感がさすが!という感じだったのです。 この本を通して思ったのが、普段、大人向けを書いている人、というか児童文学者でない人が、子どものために書くのってチャレンジ的なものなんだなーと思ったのでした。普段の有栖川有栖を知っているものとしては、やっぱりどうしても物足らないところがあるし(ツッコミが少なすぎ!)。 とそのようなことを、子どもの心を忘れてしまった私は思ったのでした。 有栖川有栖氏のミステリーへ対する愛を感じたのは、あとがきのこの言葉でした; あなたが「おもしろい。」と評価してくれるかどうか、わかりません。ちょっと心配。もしも「つまらない。」と思われたら、仕方のないこととあきれめます。でも、「推理小説はつまらない。」と決めないでください。運が悪かったと思って、どうか別の推理小説を手にしてくださいますように。
「ネバーランド」を読んでから、恩田陸は是非とも読みたい作家だったのですが、いかんせん、本が手に入らないところに長年いたので、日本に帰ってきた今、念願かなって恩田陸です。 わー すっげええーーー というのが感想でした。「三月は深き紅の淵を」の。 これは「三月は深き紅の淵を」という、謎の本をめぐる話なのですが、この本(私たちが読んでいる本)自体も、本の中の本とオーバーラップしているのでした。 「三月は深き紅の淵を」というのは、謎の本で、作者も分からなければ、本の所有者もたった一晩しか貸してはいけない、という規制の強い本でした。 第一章に出てくる人たちの話をまとめると; 第一部「黒と茶の幻想―風の話」 四人の壮年の男女が旅をする話。道中、四人が色々な話をする。話に出てくる事件は、解決したり、未解決だったりする。 第二部「冬の湖―夜の話」 ”失踪した恋人を、主人公の女性が恋人の親友と探す”話。登場人物いわく”夜の道を黙って静かに遠いところへ走っていく印象”らしい。 第三部「アイネ・クライネ・ナハムトジーク―血の話」 避暑地にて、少女が自分の生き別れになった腹違いの兄を探す話。四部の中で、一番きちんと解決している話。 第四部「鳩笛―時の話」 物語作家が小説を書いている、という設定の話で、小説家の頭の中に次々と出てくるイメージがまとまりなく描かれている。 これに呼応するように、この現実の本も第四部作になっていて、話も微妙に呼応している。そして、その四部とも、話が独立している(第三部を除いて、全てに「三月は~」が出てくるけれども) 第一部「待っている人々」 主人公が、上司の命で会長宅に行くと、そこには会長含め4人の壮年の男女がいる。そこで「三月は~」の存在を知らされ、この邸からその本を探せ、と言われる。 第二部「出雲夜想曲」 編集者の二人が夜行列車に乗って、出雲に行く話。それは、そのうちの一人が、「三月は~」の作者をつきとめた、と言って、出雲にその人が住んでいる、というので。 第三部「虹と雲と鳥と」 高校生二人が死んでしまったことから話が始まり、その周りの人がその死の真相をつきとめようとする。その中で、その二人は腹違いの姉妹だと分かる。 第四部「回転木馬」 どうやら、3つの話が同時進行している。そのうちの一つは、現実の「三月は~」の作者。もう一つは、その作者を第三者の目でみたもの(多分)。最後の一つは里瀬という子が、不思議な学校に来た話。 呼応している、というのは 第一部>壮年の男女4人が出てくる。話をしている(現実の本でも、「三月は~」が話の中心になって、それぞれの読書論が語られている) 第二部>どちらも、二人がどこかに行っている。本の中の本のほうは"夜を連想させる”話だそうだが、現実の本のなかでは、実際に夜に旅をしている 第三部>腹違いの兄弟を探す、という共通項がある。現実の本のほうでは、この章だけ「三月は~」の事が書かれていない 第四部>作者の視点が描かれている。そして、複数の事柄が(本の中の本では、現実と回想やらなにやら)入り乱れている、というのも共通項かも。 それにプラス、本の中の本のほうでは、柘榴がどの章にも出てくるらしいけれども、現実のほうは、小泉八雲が出てくる。これは、第四部の中で、作者が実際に言っているし、第四部の中の「彼女」も小泉八雲の展示会に行っている。 とまあ、複雑な極み!という感じだったけれども、本当に面白かった!最後が、いまいち理解できていないに違いないけど・・・。 この凝った作りだけではなくて、随所に見られる、読書考も楽しかった! 本日のお言葉は、読書考の一つでも、と思ったけれども、すでに長くなったので全然違うものを・・・; 第一部にて、会長が主人公に言う言葉 「鮫島巧一はそれらを自らの意思で選びとったのか?もしくは何者かによって選ばされたのか?それは神のみぞ知る領域であるが、君はそうやって、流れる時間と空間の中を死へと向かって最期の瞬間まで選び続けるわけだ。」
三浦しをんのエッセイ本、第二弾。 エッセイというのは、筆者の思っていることやら日常が書かれているわけで、読んでいると当たり前ながら親近感がわいてくるもの。そして、それが「そうそう!!」というものがあればあるほど、勝手に友達にでもなったような親密さがわいてくる。ま、一方通行ですが。そして、もちろん「硝子戸の内」を読んで、夏目漱石と友達になったような気分にはなりませんが・・・。 しかし、なんだか三浦しをん女史のエッセイを読むと、なんだか親近感がわいてわいて仕方がなくなるんだな。 この「しをんのしおり」も読んでいて、絶対、三浦さんと会ったらいい友達になれる!と勝手に思い込んでしまう図々しさ。 しかし何せ、三浦さん(と慣れなれしくもう呼んでいますが)と同じく、ルパン三世の中でだったら、次元が一番好き!!!まあ、彼女と違うところは、次元の性格の問題で好きなわけではなくて、ただガンマンに目がないだけなんですが・・・ でもでも!その他に挙げられた漫画の大半は知らないけれども(ここで、友達度が下がる・・・もっと読まなくては!なんて)、「サイファ」だったら、やっぱり私もシヴァだぁぁああああ!!! 「サイファ」といえば、わたくし、惣領冬実の「MARS」と「サイファ」って共通項が結構あると思うんだ。まず双子もの。そんで サイファ=零=陽=主人公格 シヴァ=聖=陰=非主人公 という感じだし・・・。誰かと分かち合いたい、この見解。 とまあ、話がそれましたが、閑話休題。 宝塚の話が出てきましたが、そんなに見たいなら家においで!宝塚だよ~ん 和央ようかをみた事もあるさ!と思わず、心の中で激しく勧誘してしまった。 エッセイの悲しいところはここかも。勝手に友達気分になって、しかし一方通行・・・ 宝塚の話の中で; (三浦さんが宝塚のビデオを見ている横で、かつおぶしの袋をがさごそ言わせているお母さんに向かって、の会話) 「ちょっとお母さん!『生活の音』がうるさいんですけど」 「いいじゃないの。これしきの所帯臭さに負ける宝塚じゃないもの」 す・すごい買いかぶり・・・・ そんな宝塚だけど、この間、携帯でしゃべりながら歩いている歌劇の人を見てしまって、「ああ、宝塚の人(とうちではあの方達を呼んでいる。自分たちも宝塚の人なのにね)も現代人なんだね・・」と変に納得してしまった。
文学作品を読もう!と思って、まずは幸田文に手をつけてみました。 幸田文といえば「おとうと」とエッセイしか読んだ事がないけれども、印象としては繊細なきれいな文章を書く人だな、でした(と、私には言われたくないか)。 そう思って手に取ったのが、新潮社の現代文学集の幸田文。中身は「流れる」と「闘」とその他。その中で表題作の「流れる」を読みました。 なんというか・・・・読むの、辛かった!!!! 主人公の梨花(中年女性)が芸者の家に住み込む女中になるところから始まるけれど、大して事件もなく進む。まあ、冷静に考えたら、結構色々起きているのだけれども。例えば、芸者の一人(梨花が来る前にいなくなった)で失踪してしまった人の叔父さんが来て、言いがかりをつけられてゆすられていたり、借金まみれの家だとか、借金まみれの芸者さんだとか、家族関係のごたごたなどなど。しかし、それが劇的に書かれているわけでもなく、なかなか淡々と書かれている。 なんとなく、作者はそういう事件を、劇的に書くわけではなくて、こういう事件が日常の中で起きている、ということが書きたかったのかな~なんて思いました。そして、現在形の文章でたたみかけるように語るのが、次から次へと淀みなく日常が進行していくのを表しているような気がしました。 総合的に言うと、話は大して面白くなかったけれども、やっぱり文章、素敵だわ~と思いました。 話に関して言えば、梨花の過去が少し垣間見られたとき、「おお~やっと話が面白くなってきじゃないか!!!」と思ったのに!! 結局、それが明かされるわけでもなく・・本当に淡々と日常が・・・ 日常を語る文章が素晴らしいのは素晴らしいのだけれども、素晴らしすぎて、汚い日常の描写がリアルすぎ!!リアルすぎですよ!姉さん! ネズミと共同生活の様とか、汚い飼い犬の死んでいく様とか!リアル・・・ 「犬が、―たたきで気もちよさそうに手脚を踏みのばして臥ていた。死んでいた。いつもの通り糞便と吐物とによごれて臭う玄関である。大きな下駄箱もその横の犬箱も投げいれられた新聞も、いつもの通りになっていて、犬は固くつめたかった。頭のところに梨花の不断下駄、すこし離れて食器、ゆうべのごはんがそのまま牛の脂を凍らせている。感傷が飯碗に残された飯からこぼれていた。いっぱいご飯を残してひとりで死んでいる犬なのだ。彼はいまも鎖を引きずっていたけれど、こんな安楽そうに臥ている。いつもはぶきっちょな手脚をこっつりと堅めて、窮屈そうに箱のなかへかがまっていたのに、・・・・・・かがまっているときは生きていて、安楽に手脚を伸ばしているときは死んでしまう。・・・・・・」 犬好きじゃないけど、かわいそすぎる・・・。 いいな、と思う表現; 梨花の主人達が演芸会に行った時のこと 「想像という大きなテレヴィジョンがどこの家にも備えられて、めいめいの送りだした選手が伊達ややつしに扮装して技を演じているのを、気づかいながら想っている。」
前回のゲド戦記と同時期に読んでいたのが(私は同時に何冊か違ったジャンルの本を読むクセがある)、「三四郎はそれから門を出た」 by三浦しをん。 妹が三浦しをんの「人生激場」を持っていて、何気なく読んだら、あらま~おかしいじゃないの、あんた、という次第で彼女の本を求めて図書館に赴いたのでした。なんか、重くるしい本と平行して読むのに丁度いいし、しかも彼女の並ならぬ読書量に感服したので、本紹介が主となっているこの本を選んだのでした。 そんなわけで、メモりながら読んだこの本。図書館に行くのが楽しみになったぜ。あくまでも穂三浦さんのようには本を買わないわたくし・・・ 物が増えても困るし、お金もないしね ちょっと面白いな、と思ったのは、しおりに関する小話でした。本当に汚いものまでしおりになりえるのね・・・ ちなみに私は、本のカバーをしおりにするのが大大大大嫌いです。人に貸した本でそんなことをされた日にゃあ~~~ 次に嫌なのがページをおるの。 ちょっと気になって、自分が使っているしおりを振り返れば・・・ この本はメモ用紙だったし(しかも人の電話番号をメモったの)、先のゲド戦記はガムの包み紙だった。つまり、しおりは身近にあるものでした。 かっこいいしおりを使って読書ってのも、かっこよさそうだけど、なんかそのまま図書館に返してしまう恐れ大だな。 最後に心に残った文。これだけ言い切れるほど、本通になってみたい・・・ ま、「冷静と情熱のあいだ」くらいで自慢するような人間じゃないけどさ; 「私、けっこう本読むんだー。『冷静と情熱のあいだ』はすっごくよかったよ」なんて言う、おまえらなんてみんな死ね。合コン中の男女を横目に、居酒屋で一人、苦々しい思い出ビールを飲んだことが何度あっただろう。私にとっちゃあ、読書はもはや「趣味」なんて次元で語られるもんじゃないんだ。持てる時間と金の大半を注ぎ込んで挑む、「おまえ(本)と俺との愛の真剣一本勝負」なんだよ!
今まであまりに手をつけていなかった日記。潔く取り下げて、また新しくスタートしたいと思います(それも一体いつまで続くのやら・・・) とりあえず、だらだら書いていては続かない、ということが良く分かったので、テーマを決めようと思い立ちました。 それで思いついたのが・・・「読書日記」!!・・・ なんともひねりがないですね ま、でも、こんな日記を見てくれている人は、ほとんどいないだろうし(心優しいと友と不幸にも紛れ込んでしまった方くらいでしょう・・・)、そうとなれば、備忘録的感覚で読書感想文でも書いてみようかと。 それで第一回目は・・・「ゲド戦記」第一巻 あ~ もう自分、何回これ読んでるん?って感じですが、今回は英語で読みましたわ。 英語タイトル>A Wizard of Earthsea by Ursula Le Guin 英語で読んで分かったけれども、"歴史書である”という設定を守っているのだな、と分かるような、いかめしい文体でした。 あと、再度読み直して分かったのは、なんて自分の記憶は曖昧なの!ということでした。例えば、Hoegはずっとゲドと一緒にいると記憶していたのに(ナウシカとテトのように)、いつの間にかいなくなってしまっていたし。最大の記憶違いは、多分ラストで、ゲドが影に自分の名前をつけた、という事実が混同して、影はゲドの分身で、ゲドは影をなくしてしまった(何せ、The Loosing of the Shadowという章があるくらいだし)設定だと思っていたし。影をなくしてしまって、それを取り返すのは、よく考えたらピーターパンでした・・・・ しかし、一番の感想は、ゲド戦記は何度読んでも面白い!ということでした。 一巻目の見所は、ゲドと先生であるオジオン(Ogion)の信頼関係のような気がします。ゲドとVetchの友情もいいですが(ちなみに、彼らは同級生だとも記憶間違えしておりました)。でもオジオン先生が大好きな私としては、師弟関係の方に軍配が上がるでした。 立派なwizardであるのにも関わらず、質素に暮らすオジオン先生・・・ かっこよすぎる・・ 最新刊が何年か前にか出たみたいですが、まだ未読な私としては、このまま英語で最新刊までいきたいものです。 ということで最後に、好きな言葉; ゲドが学校にて修行期間を経て、先生の元に戻った時の言葉 "I have walked with great wizards and have lived on the Isle of the Wise, but you are my true master Ogion"
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