年末で忙しいというのに、読み終わってしまった「西の善き魔女」第二巻。だって面白いんだも~ん ちょっとの休憩の間に、一ページづつでも読み続ける私。そのおかげで、本はいつも開いたまま、机の上にあるし。なんと 見上げた根性だよ。 そんなこんなで、大掃除をしながらも、一日で読み終えてしまいました。 第一の感想は。 ルーンとやっとひっついてくれたよ!この子は! 無愛想で、暗い過去を持ち、ひたむきで、一部の人にしか懐かない。それだけで、もうルーンにknocked out!という感じです。 いいなあ・・・・・ そして、フィリエルったらじれったい!そして、懸命にフィリエルは追ってきているというのに、ルーンってば突き放してばかりいて、まったく困ったやつだよ。 やっとひっついて言うルーンの言葉がかわいい; 「わかったよ。それなら・・・・・・・」 ルーンは言いよどみ、次の言葉を考えている様子だった。フィリエルがてきりそうだと思っているうちに、彼はふと体を傾けて、フィリエルに口づけした。 「・・・・・・・・これからは、もう、他のだれともキスしちゃだめだよ。それでいいかい?」 ・・・(中略)・・・ 「きみがキスをするのは、これからは、ぼくとだけだよ。他にしたがるやつがいても、もう許してはだめだよ。もしもきみに、無理やりキスをせまるようなやつがいたら、ぼくがそいつを殺してやる。それでいいかい?」 ・・・(中略)・・・ 「他のだれともしないと約束する。そのかわり、ルーンも同じことを誓わなくてはだめよ。」 ルーンは、息をつめて彼女の返事を待っていたが、それを聞くと、ふっと笑顔になった。手品でとりだしたような極上の笑顔だった。その笑みが消えないうちに、彼はフィリエルに二度目の口づけをした。 「誓うよ」 それから、顔を近づけたまま、補則を加えるような態度で言い添えた。 「・・・・・・だけど、きみとぼくとなら、何度してもかまわないんだよ」 そしてこのあとに、空腹のあまり倒れるのもいい! かわいいわ~ ルーン かわいいといえば、ユニコーンのルー坊もかわいい!描写されている姿は、なんか想像できないような、醜さなんですが・・・・・ さ~て 三巻読むぞ!
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イギリス滞在中に、アニメ狂いになったことがありました。 まあ その理由というのが、イギリスではなかなか手に入らない漫画が、映像化されているとは言え“読める”からでした。それと同じような理由でみたのが、「西の善き魔女」のアニメでした。 原作者である、荻原規子は、中学校の時に「空色勾玉」を読んでからすごく好きで、彼女が長編小説を書いている、と聞いてから、のどから手が出るほどほしかったのでした。 そんなわけで、アニメがあると知ったときは、うおおおお、と勝手に盛り上がりすぐさま見ることにしたのでした。 が!! まあ こういっては、アニメ製作者にはとても悪いのですが。 でもあえて言わせて頂きますが。 まず、絵柄がひどい。あまりにちゃっちすぎる。そして、話の展開がいよ~~~にとろい。 本だったら自分の好きなペースで読めるのに、アニメってそれができないのか!とはっとした次第でございます。 それでも我慢してみてたけれども、どおおおおおしても耐え切れず、挫折したのでした(でも、後に知ったのですが、3巻中2巻突入ぐらいまで見てました)。 そんなわけで、帰国してから是非読みたい本リストにすかさず入った本だったのですが、図書館で長い間、一巻だけ不在という状態だったため、やっと手に入ったのはついこの間、ということになってしまったのでしが。 まちにまった本だったわけですが。 ぬぉおおおお どうしてもアニメがちらつく~ あの私の嫌いな絵柄がぁああ・・・ 必死で挿絵の絵をたたきこもうとしても、どうしてもどうしても、潜在意識の中に、あのフィリエルが・・・ ということを入れても、充分面白い本です、はい。 荻原さんの本でなにがいいって、すごく女の子が強いこと。腕力的に、というよりも、精神的に前向きで、ひたむきで、思わず応援したくなる感じの子が多い気がします。 今回のフィリエルも例外ではなくて、その前向きさがすごくいい。 特に、伯爵家にひきとられて、どうするの?という時に 「くよくよしているのは柄じゃないの。ここで暮らすのは、まるで異国へ来たようなものだけど、もともとの覚悟から言えば国を出るつもりだったんですものね。あたしはここでやっていく。そして周りからよく学ぶの―公家の人々が力を行使するやり方を。いつかはあたしたちが、思い通りのことをするために」 というのがいい。くよくよしているのは柄じゃないの、ってのが、すっごく潔くていいなあ~と思ったのでした。 さあ さっさと二巻を読まなくては!
歌舞伎、文楽と体験済みの私としては、どうしても観てみたいのが、能・狂言だったりします。 それなのに、何かとご縁がなくて、見れていない現状・・ 成田美名子女史の「花よりも花の如く」を買い求め、能への憧れをますますもって募らせているというのに・・・ そんなわたくしが手にとったのは(というか、家の本棚にあって、他に外に持っていくのに手ごろな大きさの本がなかったため)、林望氏の「能は生きている」でした。 その昔前、小学校の時に課題図書で読まされた「森は生きている」にめちゃくちゃよく似た題名だなあ~と思ったのは秘密です。 いやあ 当たり前のことながら、これを読んでますます能を観に行きたくなりました。 というか、能を観たほうが、この本をもっと面白く読めるだろうと思いました。 なぜならこの本は、能の指南書というよりは、能の考察書のようだからです。 それでいて、この本を読んで、これは何がなんでも、生で能を観なくてはいけない!と思ったのが「謡の詞章が、その旋律や声調や拍子と一体になって、きわめて強いイメージ喚起力を持って」いるらしいから。 あと、舞台としての能ではなくて、学問(?)としての観点で面白いと思ったのが、美しい女性と美しい男性とではとらえ方が違う、ということでした。 どちらも“美しい”という話をする時には、決まって年寄りの格好をひっぱりだしてくる。例えば、小野小町とか在原業平とか。もう年寄りの状態で、昔は美しかったんだよ、みたいな話をする演目が多々ある。 しかし、その年寄りの姿の小野小町を通して語るのは、いくら美しい人でも、やがて歳をとって醜くなる、というような諸行無常の響きあり、を語っている。 それにひきかえ、男の年寄りとなると、長寿だとか、繁栄だとか、そういうプラス的要素が多々付随してくる。 とまあ、簡単に述べると、そんな感じなことが書かれていました(多分)。それが、すごく面白いなあ~と思ったのでした。 多分、これらの差というのは、女の美は、愛でられるものに対して、男の美は、ひきつかせるものだからなのかなあ~と漠然と思ったのでした。 そんな風に、能の考察をなさっているリンボウ先生ですが、最後のあとがきに、きちんと述べているのが 「能はただなにかの思想のプロパガンダでもなく、事実の伝達でもなく、感情表明でもなく、四季、恋、追憶、人情、史実、演芸、神事、仏教、と様々なファクターを包含しつつも、しかも、その全体の大きな抒情の雲を覆っていることに注意せねばならぬ。」 ということで、ますます能が観たくなる一冊でした。 よのなかはゆめかうつつか うつつともゆめとしらす ありてなけれは
またもや、映画公開前に読み直した本;「魍魎の匣」by京極夏彦 実は、これを読んだのは遠い昔、高校一年生だった頃なんですが、なぜか、京極堂シリーズは二作目である、この「魍魎の匣」から読んだのでした。 今考えてもなんでこれから読んだんだろう・・・? 何がショックって、箱の中に人が入ってること。こ・こえ~~・・・ でもそれでいて、なんか美しいかもと思ってしまった。というのは、当事はまっていた漫画の一つ「あやつり左近」に出てくる人形、右近が箱に入っているのを見るのに慣れていた私は、美少女が箱に入っていても、きれいなんじゃないかなーと思ってしまったわけです。なんか、美少女=人形っていう意識が少しあったのかも。 しかし、「あやつり左近」を読まなくなって久しくなった今、改めて不気味さを感じてしまいました。しかも、左近は両手両足があったけれども、あれはないし! 二度目に読んで、衝撃的だったこと、二つ目として挙げられるのは、“も・もしかして・・これって歳とったこと・・・?”ということでした。 高校の時は、確かにあのぶっとさに楽しみを見出していたのに。 あのぶっとさを読むのが、全然苦じゃなかったのに。 どうして どうして どうして!!! なかなか進めないの!? なんて長いんだ!って思ってしまうの!? そして、京極堂のうんちくを早く終われ!って思ってしまうの!? ああ・・・それが歳をとったっていうこと・・・? 持久力がないというか・・・ しかし、そこで京極マジック。 半分いったら、一気に加速しました。やっぱ おもろいわーー そして、時を経ても変わらないもの。 私、やっぱり関口嫌いだぁぁぁぁああああああああ!! 私、やっぱり榎木津大好きだァぁぁあああああああああああ!!えのさああああああん!!! 憎悪と愛は変わらないのでした。 やっぱり、京極夏彦の文体は独特でいいなあ・・と思ったのでした。 グラフィック専門だったからか、字体からも雰囲気を出そうとしているのが分かるというか。 例えば、最後の文も、段々ズームアウトしていく感じがする; 「雨宮は、今も幸せなんだろうか」 「それはそうだろうよ。幸せになることは簡単なこ となんだ」 京極堂が遠くを見た。 「人を辞めてしまえばいいさ」 捻くれた奴だ。ならば、一番幸福から遠いのは君 だ。そして、私だ。 榎木津はまた寝てしまった。京極堂は本を読んで いる。鳥口はいさま屋と話をしている。 私は想像する。 遥かな荒涼とした大地をひとり行く男。 男の背負っている匣には綺麗な娘が入っている。 男は満ち足りて、どこまでも、どこまでも歩いて 行く。 それでも 私は、何だか酷く――― 男が羨ましくなってしまった。 (了)
ミステリーランドを読もう!企画;第三弾「くらのかみ」by小野不由美です。どうやら、これがこのシリーズにおいて、初回配布本だったみたいですが。 ここで声を大にして言いたい。 面白かったぁぁぁあああああああああああ!!!! 正直言って、その前に読んだ二作は本当に、「大人向けの小説を書いている作家が、子供用に書いた」感がぷんぷんするものだったのですが、この「くらのかみ」はそういう、言葉は悪いけどわざとらしさがなく、純粋に作品自体が非常に面白かったです。 もしかしたらそれは、小野不由美の作品の中で、わりと登場人物の年齢が低めであることも起因しているかもしれません。有栖川有栖や高田崇史も登場人物は大人だったり、大学生だったりするのに対して、小野不由美の登場人物の中には、高校生とか子供(十二国旗の泰麒とか)がいたりするし。そういう意味で、他の両氏よりも慣れていたのかもしれませんが・・・ お話は、あの「四人が四隅に立ち、一人づつ壁伝えにもう一隅に行き、そこに立っている人にタッチしてから、その人も同じようにする。後から考えると、それは四人ではできないゲームで、あとのもう一人は誰だったのか?!」という怪談話を実践してみよう!と子供たち四人が倉でそれをするところから始まります。そして、ゲームが終わってみて、一人多いことに気付きます。座敷童子がこの中にいる!ってことなわけです。 漫画「11人がいる!」も面白かったけれども、これも面白かった!しかも、その一人を探す話ではなくて、ちゃんと(?)事件もあり、その事件も一筋縄ではいかない(犯人が二組いる)わけです。 そして大元となる事件が、この「一人増えてしまった」ということがミソとなって解かれていくわけです(ちなみに、他の大人たちやそのゲームに参加していなかった子供は、一人増えたことに気付いていないし、その増えた一人というのも、“誰かの子供”として存在していることになる) そんなわけで、大満足な「くらのかみ」でした。 装丁も、緑で統一していて(登場人物がまとめたメモも緑の字)、実は、正直なところあんまり好きでない挿絵画家の村上勉さんの絵も、きれいな緑が映えてよかったです。そして気付いたのが、確かに、村上勉さんって緑の使い方がきれいだよなあーということでした。 そんなわけで、今回の文は、「一人増えてしまった」要素が存分に生かされる謎解明の直前文です; 「ちょっと目を離したはずだよ。でないと、師匠しか、」と、禅が言いかけたとき、「ちがう。」と、 耕介がつぶやいた。 「ちがうって、なにが?」 「他にも犯人がいていいんだ。」 「え?」 「忘れたの?子どもはひとり、多いんだよ(ここに傍点)。」 子どもたちは、全員がぽかんとした。 「ひとり、多い・・・・・・」 禅はつぶやいた。 「ぼくらの親の中の誰かは、本当は子どもなんて持ってない。」 なんだかすっかり慣れてしまって、六人いるのが当たり前になっていたけど。 耕介が言うと、梨花があらためて全員を見まわした。 「いったい、誰が座敷童子なの?」 ここで、この章は終わるのですが、うまい!!
三月に公開される映画に先駆けて、原作本を読みました、黄金の羅針盤。 実は、渡英して初めて買って読んだ本が、このライラシリーズだったので、めちゃくちゃ思い入れがある分、映画が楽しみなんですが・・・ なんで二月なんだ!!?? イギリスでは12月だよ! てか、映画の内容的に12月公開映画っぽいよな。いかにも そして、日本語では「黄金の羅針盤」だし、多分アメリカ版でも”The Golden Compass”というのですが、本場イギリスでは”Northern Lights”といいます。 ここで声高らかに言いたい。何故?なぜ、映画タイトルも日本語訳もアメリカを基準にしているのか、と!! 作者のPhilip Pullmanはイギリス人なのにーーーーーー!!! と、イギリスびいきの私としてはちょいと、怒りが・・・・・ それはそうと、話の本筋は覚えていれども、細かなところをすっかり忘れた私は、読み直し、ということをやってみたのですが・・・ ええ、結構忘れてましたね・・・・ この人って実は○○だったよね~というようなところは覚えていたけれども、大体において、Dustがなんなのか、これっぽっちも覚えておりませんでしたよ! そして、映画のトレーラーを見たせいか、頭の中に浮かびくる映像のキャストは、あの人たち。キャスト的に問題ないからいいけど、すぐに影響を受けてしまう想像力が悲しいわ~ そして何度読んでも面白かった!(話の細かなところを忘れていたからではなくて) 正直、ハリーポッターより面白いと思われます。というか、ハリーポッターは細かな設定が面白かったけれども、筋は大して・・・という感じだったのに対して、これは筋も面白いわ、状況設定も面白いのでした。 しかも、うじうじ、その行動には共感の持てない、すぐ怒る短気なハリーに比べて、ちょっとこまっしゃくれていて、やんちゃで、なんかひどく応援したくなってしまうライラ、となると主人公の魅力という点でも、ライラの方が面白い。ま、脇役に関してはハリーポッターに一票って感じですがね(双子大好き)。 ちなみに、一巻の中で好きなキャラはジョーダンカレッジのマスター(ライラへの愛情が篤い)とIorekでした。あ、叔父さんの執事もいいかな。 さー ぐんぐん読んでしまうぞー!といった感じです。 そうそう、映画のHPを見ていたら、自分のdaemon(字がない!)を判定!というコーナーがあったので、早速やってしまった。曰く、私のdaemonの名前はOlinでocelotらしい。やった、猫好き! ライラの運命を忘れないようにメモメモ; ジョーダンカレッジのマスター言 "Lyra has a part to play in all this, and a major one. The irony is that she must do it all without realizing what she's doing......" "......she will be the betrayer, and the experience will be terrible. She mustn't know that, of course......" Serafina Pekkala言 "...... she is destined to bring about the end of destiny. But she must do so without knowing what she is doing, as if it were her nature and not her destiny to do it. If she's told what she must do, it will all fail; death will sweep through all the worlds; it will be the triumph of despair, for ever. The universes will all become nothing more than interlocking machines, blind and empty of thought, feeling, life..." マスターがいう、裏切りって、一巻の終わりのあの裏切りを言うのだろうか?それとも、もっと大きな裏切りが待ち受けてるのだろうか・・?忘れてしまった・・
予約している「女王国の城」がまだ来ないので、代わりに借りた有栖川有栖本「絶叫城殺人事件」 全然短編だとは知らずに借りてしまったので、短編と気づいた時のがっかり感・・・ 私、やっぱり短編好きじゃないなー 特に推理小説では。 やっぱり長編に比べて、からくりとか仕掛けが大きくないし、その結果、事件が解決されても、おおお~感が少ない・・・ あとやっぱり、なんか火村&アリスコンビよりも、江神&アリスシリーズの方が好きかも・・・ なんというか、火村さんにどうしても、どーしても百パーセント好きになれない・・・ なんか、ちょいと火村さんの方が冷たい気がするし、ちょっと何を考えているのか分からない感じだし、あとアリスの位置が、火村さんとだと大分下になるけど、江神さんとだとそこまで差がないと思う。 その火村さんがちょっと冷たい感じがする、というのは、やっぱり火村さんが標準語をしゃべる人ってのもあるのかも、と今回思いました。もちろん、ほとんどの本の中の探偵は標準語をしゃべるんだけど、なんというか、助手が関西弁をしゃべり、探偵が標準語をしゃべるとなると、標準語の冷たい感じが際立ってしまう気がするのでした。ま、きのせいかもしれないけど。 収録作品は; 黒鳥亭殺人事件 壷中庵殺人事件 月宮殿殺人事件 雪華楼殺人事件 紅雨荘殺人事件 絶叫城殺人事件 全部“殺人事件”とつくのはさりことながら、二文字の感じ後につく、館を表す漢字が全て違うっていうのが、細かいところまでこだわる有栖川有栖っぽいな、と思いました。 この中で、一番面白かったのは「黒鳥亭殺人事件」かな。人里離れた館、父親・娘二人で住んでいる、曰くありげな館、と私の好きなアイテムが目白押し。あと、事件のあらましを話す父親とそれを聞く火村先生、その話から気をそらせる為に娘(まだ小学校前)に“20の扉”のゲームをするアリスと娘、というごちゃごちゃした会話文の形式も、なんか面白かった。 館として、一番好きだったのはやはり、紅雨荘。情緒のありそうな館で、屋根も赤ければ、館を取り囲む木々が秋になると赤くなる、という設定がいい・・・ウットリ そして最後の「絶叫城殺人事件」で、犯人が分かったのでうれしかったのでした。 「絶叫城殺人事件」にて、猟奇的ゲームが人に与える影響について、ゲーム製作者が語った言葉が、確かに火村先生や警部補が言うように“詭弁”かもしれなかったけれども、面白かったので引用; われわれはグロテスクな描写をただ羅列しているのではなく、きちんと昇華させて作品化しているという自負を持っています。殺人シーンが多いというだけで非難されるのなら、テレビで時代劇を放映するのもただちに中止しなくてはならない。NHKの『芸術劇場』でオペラの『サロメ』を流すのも不可だ。われわれのゲームには、血が滴る生首を欲しがる女なんて登場しませんからね。歌舞伎の<殺し場>もまずい。 時代劇や歌舞伎は様式化されてるからいい?それは変でしょう。われわれの作品だって、充分に様式化されていますよ。ゲームに馴染みのない人の目で判定されては困ります。芸術作品のオペラと同一に論じるのはおこがましいかもしれませんが、いずれも一個の完成された表現であることは変わりがありません。 …(中略)… …。ホラービデオや『サロメ』を観て殺人鬼になる奴もいる、なんて心配していたら、社会のすべての基準を最低の愚か者に合わせる必要が出てくるんですよ。はたして、最低の愚か者のための社会を築きたいと希う人がいるでしょうか?
前に誰かが確か、宇野千代すきーと言っていて、じゃあ読んでみよう、と思って借りてきた「おはん」。 本当に“宇野千代すきー”といったんかいな、と思ってしまうくらい、私の好みじゃないお話でした、残念ながら。 だってだって男がありえないくらい、優柔不断すぎる!! 男が誰かに語っている、という形で話は進んでいっているのだけれども、この男、芸者といい仲になって、妻と離縁し、儲けのない店を営みつつ、その芸者のひものような生活をしている。 そこへ偶然妻のおはんに出会って、何を思ったのか、おはんを自分の店に来い、みたいな事を言って、結局こそこそ会う仲になる。 実は、おはんとの間にできた子がいて(しかし妊娠していたことは離縁してから発覚)、その子にたまたま出会ったのが運のつき、不憫になったのかしらないけれども、情がわいてくる。 そうこうしているうちに、勢いでおはんに“あの家から出るから一緒にまた暮らそう”みたいなことを言ってしまって、結局芸者(おかつ)の家をこっそり出て、一緒に住むことにする。 しかしだ!その出て行ったその日の夜に、またおかつの家に戻るんだな!!しかも、二つ家ができたような気になった、だと!!! それで、その夜に実は息子が死んだと、知らせがおはんに来ていたみたいで、次の日に戻ってみると、おはんはおらず、自分の息子のお葬式にでくわす、と。 結局最後は、それでおはんとまた一緒になることもできず、おかつの家に戻り、それでおしまい、なんだけど、とにかく、えええええええええええええええ!!!なんやねん!と憤りがわいてくる。大体、最後におはんが男に宛てた手紙なんて、恨みつらみもなく、なんでそんなええ人なん!?と逆になじりたくなるほど。 しかしだ。 これがまた、はんなりとした京の言葉でつづられていくから、まるで浄瑠璃を見ているような気がしてしまうんです。そこはすごくよかった。というか、浄瑠璃のような感じだから、なんとか、この話を読みきれた感がしてたまらん。もし、普通に語られていたら、あまりの腹立ち具合に、本を破ってたかも・・・むにゃむにゃ 特に、息子の葬式にでくわして、泣きすがるシーンはまさに浄瑠璃; …(中略)… 「悟!俺や、お前のお父はんや、」と掻き口説くよに声おとして、枕もとに縋りました。 わが子に死なれると申すことは、まァこなな心持やと誰が言うてくれましたろうぞ。去年の冬はじめて悟に会いましてからこの日まで、親やとも子やとも言わず待ち暮らしていたその日に、今日からは親子三人一つ家で枕ならべて寝るのやというその日に、もうわざと選ってその日に死んだと申しますは、まァどなな神仏の思召しでござりましょうぞ。 「悟!俺や、お前のお父はんや、」と私はお人の前も忘れましてなァ、子供の生きてます間、口に出しては得言わなんだこの一言が、いまさら子供の心に聞えるやろと思うてでござりましょうか。 ま新しい浴衣きた裾のあわいから、よう陽にやけた細まい(こゥまい)足の、ちょこんとそとに出てますさまの哀しさ。ほんに何やらもの言うてるよに思われます。「お父はん、大事ないけに、もう何にもいらんようになったけに、と言うてるように思われます。
“かつて子どもだったあなたと少年少女のためのミステリーランド”シリーズを読もうキャンペーン、第二弾 高田崇史作 「鬼神伝 鬼の巻」 これは、普段の高田崇史の代表作品、QEDシリーズに表れている、彼の歴史観の総体制のような作品でした。 つまり、 本に載っている歴史とは、本当に歴史なのか? 歴史って、勝者の書いたものである。 鬼って本当に悪者なのか? などなどということが、子どものために書かれているような感じでした。 もし、私が小学生高学年くらいに読んでいたら、QEDシリーズを初めて読んだ時のような衝撃を受けていたに違いない、と思われる作品。 しかし、ちょっと思ったのが、小学生くらいだったら、逆にあんまり楽しめないのではないかな・・・ということ。だって、高田崇史作品の醍醐味は、歴史をある程度知っていて、だけどそれは違う角度で見るとこういうことなんだ!という驚きのような気がするからです。つまり、小学生高学年くらいだったら、そこまで歴史を知らないだろうし、知っていても、柔軟すぎて、そんな驚きもなく、「ふーん」で終わってしまうような気がするのです。 まあ でも、とっくの昔に柔軟な時代が終わった私としては、結構楽しめたけれども。 しくぁあああし。 はっきり言って、全然推理小説じゃなかったよ!!!!!! どっちかっていうとファンタジーだったよ!!!!! それから何気に、すっごいびっくりしたのが、高田崇史って、まだ薬剤師をしながら作品を書いているらしいということでした。 しかも、高田崇史作品って、すっごい歴史的考証が必要なわけで、いったいあなた、時間をどうやって作ってるのーーー!?って感じでした。 だってだって、著者紹介のところに 「丁寧に患者さんに応対し、正しく調剤し、的確に一般薬を売るという日々を送るかたわら、母校の大学の空手部監督を七年間務め、地元の養護学校に学校薬剤師として十年間勤務し、休日には愛用のマーチンD-21をそぞろにかき鳴らし、夜はバーの止まり木で酔い潰れる」 って書いてあるんだもん!!! すげーすげーすげー 最後には「これからも薬剤師でもありつづける由」だとさ。 あと、面白かったのが、巻末のあとがきにしかけがあったこと。 途中で、「すでにこの時点で、わたしの文章に不自然さを感じているだろうあなた、それはすばらしい。やがて、この文章に含まれている真意に気付かれることを祈る」だの、「こんなことで、ずいぶんしつこいと思うかも知れない。それには理由があるが、内緒」だのと書いてあるから、なんなんだーーー!?と思っていたのですが、最後に「長い暗号文を書き終えたわけであるが」と、わざわざ点までふって書いてあったので、必死に読み解こうと目を見開いたのでした。 そして読めたよ! うれしい!! いわく; 「こんなところに文章が隠されていることに気がついたあなたに、きっと世の中は冷たいでしょう。でもめげずにがんバって生きてください。日本のどこかで、おうえんしています。」 すげーすげーすげー 「わたしの真意がすなおに届いただろうか?もしも届いていれば、これにまさるよろこびはない。すなおではないという言葉を、遠く聞き流しながら」 とは、なんとなく高田崇史らしくって、そんでもって解けれてうれしくて、笑ってしまった。
またもや三浦しをんさんのお薦め本。着々と読みこなしています。 今回は「琥珀枕」by森福都 計七編の読みきりが集まった一冊。 その七編通して登場するのが、東海郡藍陵県の県令の一人息子、趙昭之と、塾師徐庚先生(実はすっぽんの妖怪)。 七編は読みきりとは言えども、その昭之と徐庚先生が、藍陵県を眺めながらそこで起こるハプニングを見ている、という設定になっていました。その出来事に関して、昭之くんが質問したり、それに徐庚先生が答えにならない答えをしたり、という感じで随所にこの二人が出てくるのみ。 最後の二編以外は、はっきりいってこの二人が必要なのか?というくらい、出来事に関係がない二人だったりする(そのうちの一遍に関しては、登場人物に情報を与えるけれど)。でも、この二人がいるからこそ、この小説が面白いのかもと思えました。というのは、この二人がぽつぽつコメントするもんだから、本当にこの二人と一緒に、岡の中腹にある亭から藍陵県を眺めているのような気がする。いわば、出来事を俯瞰している感が、この二人を登場さえることによってぐっと引き立つような気がしたわけです。 ま、私が、師弟ものが好きっていうのもあるのですがね。 しかし ここでも映画の法則の一つ、「先生ものは、最後にその先生が去って終わる」というのが当てはまるのかぁぁぁあああ!と思わず叫びたくなることに、徐庚先生が去ってしまうわけです。最後に。おいおいおい ま それはともかく。一番面白かったのは「妬忌津」で、方士まがいの男と彼の人面瘡の妻がいい!(なんか遠い記憶で、三浦しをんさんもいいと言っていたような・・・) 田辺聖子の百人一首の本で、登場人物の一人が「幽霊妻ってのはいい」と言っていたけれども、幽霊妻よりも人面瘡妻のほうがいいや・・。何がどういいってなんかよく分からないけれども、これを読むと、なんとなく「いいなあ・・」と思えてしまう。 あと、「双犀犬」という、昭之くんの母君の話も面白かった。ああいう、女の子が冒険する話は、なんかとても好きだなあ、と思ってしまう。 その母君の話を昭之くんが語り終えて、徐庚先生が残したコメントが、なんか本当に母君の人生を表していて、そしてその人生が楽しそうだったのでいいな、と思ったのでした; 女とは、予言や占いを信じ従っているようでいて、その実、己が心の命ずるままにしか動かぬ生き物よ。所詮、女の運とは女の志のしもべ。強い志には運のほうが歩調を合わせてくるものじゃ。
「白痴」に続いて「道鏡」を読みました(中央公論社の日本文学シリーズの中にどちらも入ってたから)。 「道鏡」はつまり、道鏡が主人公というよりも、その時代近辺の女性社会について書かれたもので、結構淡々と、小説というよりは、坂口安吾の意見のような一編でした。 その冒頭の平安時代観みたいなものが、すごく面白かったので、メモメモ; 女性時代といえば読者は主に平安朝を想像されるに相違ない。紫式部、清少納言、和泉式部などがその絢爛たる才気によって一世を風靡したあの時期だ。 けれども、これは特に女性時代というものではない。なぜなら、彼女らの叡智や才気も、要するに男に愛せられるためのものであり、男に対して女の、本来差異のある感覚や叡智がその本来の姿において発揮せられたというだけのことだ。 つまり愛欲の世界において、女性的心情が歪められるところなく語られ、歌われ、行われ、今日あるがごとき歪められた風習が女性に対して加えられていなかったというだけのことだ。とはいえ、今日においては、歪められているのは男とても同断であり、要するに男女の心情の本性が風習によって歪められている。 平安朝においてはそれが歪められていなかった。男女の心情の交換や、愛憎が自由であり、愛欲がその本能から情操へ高められて遊ばれ、生活されていた。かかる愛欲の高まりに、女性の叡智や繊細な感覚が男性の趣味や感覚以上に働いたというだけのことで、古今問わず、洋の東西に問わず、武力なき平和時代の様相はおおむねかくのごときものであり、強者、保護者としての男性の立場や作法まで女性の感覚や叡智によって要求せられるに至る。要求されることが強者たる男性の特権でもあるのであって、要求する女性に支配的権力があるわけではない。いわば、男女おのおのそのところを得て、自由な心情を述べ歌い得た時代であり、歪められるところなく、人物の本然の姿がもとめられ、開発せられ、生活せられていただけのことなのである。特に女性時代ということはできない。
前に読んだ三浦しをんさんのエッセイに紹介されていたので、「リアルワールド」by桐野夏生を読みました。 桐野夏生作品は、ミロシリーズの二作しか読んだことがなかったのですが、「リアルワールド」を読んで、やっぱりこの人は人の心の闇というか、人の弱い部分とかを描くのがうまいなあ、と思ってしまいました。なんというか、ミロにしろ、「リアルワールド」に出てくる女子高生にしろ、言い方が悪いけれども、すねに傷を持つ人が多くて、その傷が大なり小なりその人たちは、それを抱えて生きていこうとしていて、そいうのがうまく描かれているような気がしてなりませんでした。 話は、女子高生である山中十四子(トシコ)の隣人の少年(ミミズ)が、母親を殺して逃亡するのを、十四子をはじめとする、十四子の友達たちがなんらかの形で関与していき、結局逃亡を助ける形となっていく。各章で主人公は変わり、それぞれなぜミミズと関与していくのか、というのが克明に描かれていました。 結果的に外の者から見ると、十四子の元へ訪ねてきた女性刑事の言葉のように 「あなたたち仲良しグループは、隣の少年が逃げているのを知っていて、皆で応援していたのではないかと。それを寺内さんが知って、怒って通報し、思いがけない事故で東山さんが亡くなられたので、責任を感じて寺内さんは自殺した」 というような事件だったけれども(もちろん詳細は少し違うけれども)、その事件に関与した人にとっては、全く違った様相を成していて、それは十四子が 「あたしは唖然としていた。他人の口から語られると、実にアホらしい話だった。だからこそ、あたしは嘘を吐かなくてはならない。あたし自信を守るのではなく、多分、ミミズのことを聞いた時に感じたあたしたちの真実みたいなものを。あるいは、ミミズが母親を殺してしまった瞬間のようなものを。それは誰にもわかならいものだから。」 というものに表れているわけで。 そういう感覚は、実際に高校生の時に、必ず一回は体験しているように思う。傍から、というか大人から見ると、実に些細なことなんだけれども、当事者達にとっては、本当に重要なことだという。 そして、この「リアルワールド」に描かれている“事件”のようなものは、母親殺しの部分は差し置いて(大体母親殺しのシーンは実に短い)、すごく客観的に見ると大した事じゃない。 でも、十四子が女性刑事にそれを指摘されて、ああ思うシーンで、そうだそうだと妙に納得させられたのは、作者が丹念に、各章で主人公を変えながら、その人物達の心情を丁寧に書いていたからだと思ったのでした。 まあ つまりは、短く言うと、すっっっっっっごく面白かった!!! 最後はダーーーーッと息もつかず、結末には十四子のように、ものすごくショックを受けてしまった。 あー 面白かった! 他の桐野夏生作品が読みたい!
先日読んだ、「安吾探偵控」を受けて、早速図書館で坂口安吾集なるものを借りてきました。 その第一作目「白痴」 なんというか・・・・ ここまで人間をひどく書いていいものなのか・・とただただ驚き、それでもって、なんというか笑いが出てしまいました。なんかこう書いたら、自分が非道のように思えてきたよ。 しかし、こんな「白痴」という題材で、一人の女をこけおろしにしているような作品なんて、近年の本ではないだろうなーと思ってしまった。てか、あったら、即効批判されるだろうし。ということは、言論の自由、と言われている中で、そういうのがないということは、上からの抑制がないと、道徳的な面で柔らかな規制というものがあるんだなーとだらだら考えてしまいました。 だってだって、主人公と“白痴”である女が空襲で押入れに隠れていて、女が恐怖心から泣いた時の、主人公の感想なんて; もし犬の眼が涙を流すなら犬が笑うと同様に醜怪きわまるものであろう。影すらも理知のない涙とは、これほども醜悪なものだとは! ここまで、“白痴”というものを丁寧に、というか遠慮もなく丁寧に描写して、それが主人公の“美”に対する執着を表すものだとしても(私が想像するに、そのためでしょう・・・)、これが成せれたのは、ある意味、時代の賜物なのかな、と少し思ってしまいました。 とにかく、“白痴”の描写ぐあいに、ただただただただ驚き、それでもって、新しい世界を知った感が後にやたら芽生える一冊でした。 あと「白痴」を読み終わって、はっと気付いたのが、もしかして文学と称される作品の戦争物って初めて読んだかも!ということでした(いや~ お恥ずかしい)。 向田邦子のエッセイだとかで読んだことあるけれども、お話で、しかも角ばった作品で読んだのが初めてのような気がしました。 その中で印象的だったのが; 戦争という奴が、不思議に健全な健忘症なのであった。まったく戦争の驚くべき破壊力や空間の変転性という奴はたった一日が何百年の変化を起し、一週間前の出来事が数年前の出来事に思われ、一年前の出来事などは、記憶の最もどん底の下積みの底へ隔てられていた。
日本に帰ってやりたかったことの一つは、三谷幸喜の舞台なり映画なり作品を見ることでした。 しかし・・・ 現実的にはなかなかそうはいかず、代わりにまずしたことは、三谷幸喜のエッセイを読むことでした。ということで読んだのが、「三谷幸喜のありふれた生活」。 イギリスにいる間に「オンリーミー!」を入手して、爆笑とともに呼んでいたのですが、この「ありふれた生活」はそれから幾年か経ち、三谷幸喜には奥さんができていました。 いやー これも面白かった。一気に全部読み終わってしまいました(暇だなーということはさておき)。「オンリーミー!」のときは、ただただ面白かったけれども、今回はもっと三谷幸喜の人間味が出ていたような気がしました。 あと、三谷幸喜のすごいところは、特別面白く書いてやろう!というみえみえの魂胆が見えないのに、笑いのつぼをついているところかも、と実感してしましまし。 あーそれにしても「オケピ!」とか「みんなのいえ」とか見よう見ようと思っていたものが、沢山出てきて、なんだかDVDの本編のほうは見てないのに、特典のメイキングオブを見ているような気がしてならなかった。是非是非、早くみたい! 一番爆笑したのが; とりあえず「三谷幸喜」で検索してみた。・・(中略)・・・ 畜産大学の学生さんが作っている日記のページを見つけた。そんな人がなぜ僕のこと?他人の日記に自分の名前がどういう形で出て来るのか。興奮を抑えてアクセスしてみる。 そこには日々の思いを綴った長いエッセイが。文章の最後に僕の名前はあった。 「最近、眼鏡を掛けると、三谷幸喜に似ていると言われる。実にショックである」 ショックなのはこっちだっ。 もうインターネットなんて見るもんか! この本のしおり:一気に読んでしまったのはしおりいらず
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