順番をばらばらがちに読んでいたQEDシリーズ。今回は、ちゃんと順番どおりに読んでいた頃の続きと相成りました。おかげで、奈々さんはまだ崇に恋心を抱く前で、なんか変な感じでした。 それはそうと、やっぱりQEDシリーズは、事件自体はそこまで興味深くないな~ということ。でも周りの話がめっぽう面白い。しかも平安朝とその前くらいの話が面白い。何しろ私にとってQEDシリーズといえば、平安朝に興味を持たせるきっかけ本です。それまで平安なんて、「オホホ…」とか「麻呂は…」というイメージだったのですが、本当はそんなのではなく、雅だと思っていた和歌が、政治の道具だったとは、面白いとしかいいようがありません。 しかも、今回の話によれば、朝臣というのは“遊ぶ者”という意味で、貴族というのは遊んでなくてはいけないらしいのです。逆に、遊んでいなかったら貴族でないという。 今回の話は、タイトル通り、「竹取物語」を下敷きにして、山奥の二つの村で起こった事件の話でした。松・竹・梅という、おめでたいものが実は騙りで、不吉なものだということから話が始まります。「竹取物語」は結論だけいうと; 「どうして『かぐや姫物語』ではなくて『竹取物語』だったのか、ということだ…(中略)…つまり、『竹取物語』というのは『ササ取物語』であり、『砂砂取物語』のことだったんだ。出雲の国を中心とした、一大タタラ場の話だ。そういえば―素戔鳴尊も、出雲にいる…(中略)…すさのう―『朱砂の王』を祭神とした、『八重垣神社』がそれだ。ここには素戔鳴尊と結婚した奇稲田姫(くしなだひめ)も祀られている。その出雲の国の一大産業が、かくや姫だったということだ。つまり、光り輝く、砂鉄だ…(中略)…竹林―賤しい場所から生まれた光り輝くモノ。それこそ、砂鉄であり、朱砂であり、これから生まれる財宝―鉄じゃないか。そして、その―現実には自分たちが簒奪してしまっている―鉄が、結局は出雲の神殿に返って、きちんと納められる。これこそ鎮魂だ。機織りの人々や、タタラの人々に対する、畏れをこめた鎮魂だ。紀貫之は、きっとそれらを命じられたに違いないと思うね。当時の朝廷の―数限りない怨霊に怯えていた、貴族達にね……。これで―」 崇は前を向いた。 「証明終わり(QED)」 (p303) とのことです。というか、「竹取物語」にモデルがいたのにはびっくりでした。そして月にのぼっていった、というのは出雲大社にのぼっていったということではないか、というのもびっくりでした。当時は出雲大社、50メートル近くあったらしいので、たしかに天に上っていくイメージ、しかも雲に上る、というのもあってるし…。 ということで、いくら事件自体が手の込んだものでなくても(逆に手の込んだものであったら、歴史上の謎と混乱しちゃって、読みずらくなってしまったかもしれないし、それこそ京極夏彦なみの厚さになってしまうだろうし)、奈々みたいな人は実物にいないだろう!という感じであっても、なんか満足感を得てしまいました。 (高田崇史 「QED 竹取伝説」 講談社 2003年)
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三浦しをんさんの小説第二弾「格闘する者に○」を読み終わりました。どうやら前に読んだ「白蛇島」のあとがきに書いてあった、「白い軽トラックが出てくる三部作(だっけ?)」の一作目のようです。白い軽トラックがちょろりと出てきたし。しかも、軽トラックに名前が書かれているのも同じだし、それに乗るのは男二人というのも同じでした。 今回の本は、非常に共感してしまうところが多く、それは多分、主人公が三浦しをんさんの分身!?って感じだったかもしれません。 主人公の可南子は就職活動中。でも彼女とその友達の砂子と二木君はてんでやる気がない。可南子なんて説明会に行く道すがらに感じのいい古本屋さんを見つけてしまって、手が抜けるほど古本を買い、ご満悦で家に帰る電車の中で、はたと説明会に行くために出かけたことに気付くしまつ。しかも、平服で、と書かれたら、本当に私服でいくし…。 結局、可南子は出版社にしぼるのですが(漫画を世に生み出すのに関与するため)、面接やらで散々ひどいめにあいます。結局、就職活動の顛末までは書かれていないのですが、K談社やら集A社やら丸川書房(これが角川と気付くのに3ページ使ってしまいました。不覚!)やら出てきて、その面接の様子がリアルなところからいって、三浦しをんさんも受けたのかな~と思いました。 この可南子の就職活動話と進行して、可南子の実家事情が出てきます。可南子の父親は政治家の家へ婿養子に入り、今は政治家。しかし可南子の母親は彼女が小さい時に亡くなり、今は継母とその人との間にできた息子(可南子とは半分しか血が繋がってないことになる)と住んでいます。父はというと別居状態。この藤崎家を誰が継ぐか、が問題となっているのです。藤崎家としては可南子だけれども、父親のお付きの谷沢は弟に継がせたい。父親はまったく分かってない人で、それもいらつかせる。 とそんなドロドロの中、弟は家出をしてしまいます。 最後は、弟が帰ってきたことで、どこかぎくしゃくしていた継母と弟と可南子だけの生活はましになり、可南子の恋人のおじいさんは中国に旅たってしまい、就職口は決まらない、という状態で終わります。といっても尻切れトンボというわけではなく、「こうやってちょっとうだうだした生活が続いていく」みたいなノリの終わり方でした。 出版社への就職活動といい、その面接での漫画論といい、三浦しをんさんの得意分野のためか、とても面白かったです。 面白い描写があったので一つ; (親族・後援者会議にて) 外は五月晴れというのが本当にふさわしい、「宇宙直結」のお天気だというのに、私はこうして足の痺れと戦っている。窓が切り取った、冷たいほどに青く見える空をぼんやりと眺め、それから室内に視線を戻した。咄嗟に順応できない目が、部屋の中を暗緑色に見せた。まるで沼の中の集いのようだ。(p104) (三浦しをん 「格闘する者に○」 草思社 2000)
「新・水滸伝」が未完としるやいなや、あっさり読むのを止めてしまったものの、吉川英治は読みたいままだったので、「新・平家物語」に手を出してみました。 というのは、前に読んだ、林望先生の能の話で、平家物語にまつわる演目は、観る人が「平家物語」を熟知しているのを前提に作られている、と書かれていたからです。これまで、船弁慶やら、義経千本桜やらを、歌舞伎や文楽で見ていたのに、平家物語といえばあの有名な「祇園精舎の鐘の音~」の認識しかなかったので、じゃあ読んでみよう!ということになったのです。 この「新・平家物語」は、まあ、実際の平家物語を読んでいないので比べることはできないのですが、平清盛の幼少時代から話が始まります。この本の中では、彼は本当は白川上皇のご落胤ということになっていて、しかし不遇な幼少期を過ごします。このときの話というのが、どうにもこうにも、まどろっこしくてたまりません。というか、どうしてもどうしても清盛が好きになれないのです。なんか、ずぼらででも抜け目なくて、というのが、共感をすることができなくてしょうがない。 そのため、一巻の最初のほうは遅々として進みませんでした。でも、西行法師の話とかがなかなか良かった。 それが鳥羽法皇と美福門院との間の子供、近衛帝の未来の女御をめぐっての忠通と頼長兄弟との戦いらへんになってからが楽しくなります。私は、ありきたりながら忠通派でした。弟の頼長ほど才に長けているわけでもなく、そして父親に疎まれているけれども、温厚で人望があるとは…。そして弟にわだかまりを持っているのにも関わらず、偏見なく頼長の幼女多子をおすなんて…。 あと好きなキャラとしては、麻鳥でした。麻鳥は新院(崇徳上皇)のそばに仕える、本当に下っ端の人です。崇徳院が上皇として退かれたのを機に、自分も楽員を退き三条西洞院の御所の水守りになるのです。そして遠くから新院を見守りつつ、最後の最後に、保元の乱にて敗れた崇徳院一向が逃げのびる中にまぎれ、崇徳院が「水を…」と言った時に、すかさず彼が守っていて、そして崇徳院が好きだった柳ノ井の水を差し出すのです。そこの場面がすごくいい!; こういう素朴な野の民のうちにこそ、なんの表裏も醜さもごまかしていない、きれいな一つの精神の花が、この国の四季の中には育ったのだということを―まことに遅くではあったけれど―いま初めて、ここで、お習びになった。(p310) まあ、なににしろ崇徳院がかわいそうでしょうがありません。 あと見所はやっぱり源氏の話でした。親と子が敵になってしまうのだから、そこが哀切的でした。吉川英治の言葉が、率直に伝わりました; まことに、保元の乱を書くことは苦しい。その時代から八世紀もへだてた今日においても、そくそくと、胸が傷んでくるのである。筆者は、その精彩も描きえないで、かえって今日の嘆息に落ち入ってしまう。 戦そのものは、幼稚であった。戦争を遊戯しているか、芸術しているようですらある。しかし、戦争のかたちや量ではなく、戦争のもつ人間苦の内容は、今も昔もかわりはない。いや、昔のそれを、もっと拡大し、深刻化し、そして科学的進歩のうえに、今日の戦争形態としたものが、人間進化の全面ではないが、一面であることは否みえない。 ―と、それば、かつての古き人間の戦争は、まだ、その稚気、愛すべしとはいえないまでも、人間的とはいえるかもしれない。武器、服飾にも、芸術の枠をこらし、陣前では、廉恥を重んじ、とまれ、精神的な何かを持とうとは心がけた。動物にはなるまいとしていた。(p293-294) 当事の戦と現代の戦争論もおもしろいですが、平安人論も面白かったです; いったい、平安時代の人間は男でも女でも、よく泣いたし、またよく笑った。喜怒哀楽を、隠さなかったのである。 神色を眉にだに示さず―という風を、人物の厚みとしたのは、もっと後生の日本人であった。儒学や武士道の影響だった。 それ以前の、本来の国民性は、歌うにも率直、踊るにも率直。よろこぶや、大いによろこび、悲しむや、涙を流して泣き、そう人前を、気にしなかった。五情六欲の凡愚を、おたがい認めあって、生きたのであった。 ―すでに自分たち人間の本性を、理性だけでは処理できない、官能煩悩の、あわれな、はかない、始末のわるい―宿命の子として、観ていた人びとなので、大自然の悠久にも、仏陀のことばにも、謙虚であり、素直であった。(p144) さて、二巻へGO! (吉川英治 新・平家物語一 六興出版 昭和46年)
中学生の時、一時期長野まゆみさんにはまったことがありました。特に「天体議会」や「野ばら」が好きだったのですが、足が遠のいていった理由には、やっぱり登場人物たちがあからさまにゲイになっていったからです。いやね、いわゆるbl系に抵抗があるわけではなかったのですが、私の考える長野まゆみの良さはそれじゃないよなあ、と思っていたわけです(偉そうだけど)。その長野まゆみの良さとは。やっぱりあの繊細そうな文章と、恋愛には絶対発達しない、でも親友よりもずっと親密な少年二人っていうのが良かったのにな~。それが、恋愛に発達してしまうと、どうもよろしくない…。 などと思いながら、長野まゆみから卒業したのですが、この間、図書館でひょいと見つけて、懐かしい気分になり借りてきてしまいました。恋愛系ではないのを探そうとして、ま、タイトル的にこれは大丈夫だろう、と選んだのが「よろづ春夏冬中(あきないちゅう)」でした。 が!!!男カップルがぞろぞろでしたよ~~~~ 短編集になっていて、一番目の話が、幽霊っぽい話だったので、全部そんな感じかと思いきや、あらあらららら・・・・ しかも、今まで私が読んできた長野まゆみ作品からでは少し想像しがたいことに、年齢が高めだし。 ん~ 色々と残念でした。 それでも文章が独特なのは変わらず。例えば「唇を被(の)せられた」って、なかなか言わないよな~ あと 乾いた細かい雪がしきりに零る。制服の袖の上で、ほんの一瞬だけ結晶になった。しばらく繊細な造形の、あらわれては消える寸劇に見とれた。(p53) てのも、いいなあと思いました。 そんなわけで、初期の作風に戻ってほしくなりました。 (長野まゆみ 「よろづ春夏冬中」 文芸春秋 2004年)
借りる本が見つからなかったので、前に三浦しをんさんのエッセイで紹介されていて面白かった本と同じ作者の本を借りてみました。 そしたら、この「漆黒泉」、想像しているよりも全然面白かった!もともと中国の歴史物が結構好きだったのですが、それに謎みたいのもあって、ちょっと推理小説めいていたところもあって、二倍においしい。 主人公の芳娥は背の高い女の子。小さい時に奉元先生にそう予言され、慌てた父の手回しにより、王安石の息子、王雱の許婚になるのでした。その時、芳娥は8歳、王雱は33歳。しかし、その後すぐに王雱は死んでしまいます。そうこうしているうちに、王安石も政界から退き、王安石が築き上げ、王雱が心血を注いで実践にこぎつげた新法が崩れかけようとしていました。 芳娥は17歳となり、新法を妨害している司馬公を暗殺しようと、まず隠居している王安石の元に訪ねます。そこで養子分で王雱とそっくりな少游がついていくことになり、二人は開封へとたどり着きます。そこではかつて王安石の元で活躍していた奉元先生(少游を呼んだのは奉元先生だった)と合流して、先生より王雱は暗殺された、と聞きます。先生は白茅香という毒のお香をもって殺されたというのです。その容疑がかかっているのが司馬公。彼を捕まえようと画策していく中、そのお香を発明したレン丹師の下で働いていたことのある建弘や、看板女優の月英と出会います。月英は王雱の愛人であったが許婚が出来たころから冷たくされていたり、建弘が王雱に可愛がられていたが、死後にそれは彼が西夏の人間だったからだったと分かったり、と各々王雱には恨みがありました。しかし、それは胸に隠しつつ、司馬公に会おうとする三人に協力するのでした。奉元先生はというと、王雱が見つけたという漆黒泉に興味津々。それぞれの思惑によって旅が始まるわけですが、最大の謎は「誰が王雱を殺したのか」ということでした。次々にあがる容疑者。上がるたびに打ち消されていき… どんどん王雱のイメージが悪くなっていくのが切なかったです。最終的に、あなたはロリコンだったのですか…という感じだったし。でも嫌いになりきれないのは、もう死んでしまったからなのか。それとも、それでもやはり恨まれるくらい好かれているからか。やっぱり、最初の印象のよさがものを言う気がします。なにしろ容貌は 目鼻立ちの優れた、涼やかな容貌だと思った。奥に透明な光をたたえた切れ長の目と、口角がわずかに上がった薄い唇がとりわけ美しかった。(p7) そして恬淡と「限りがあるほう、何事も美しく楽しい」なんて言う。名乗る時もかっこいい 男の目尻に初めて優しげな皺が刻まれ、白い歯が少しだけのぞいた。 「王雱、字は元澤」(p9)
やっと読み終わった、ライラの冒険シリーズ第二弾The Subtle Knife。友達にこの本を薦めた結果、どうやらいたく気に入ってくれて、その後に会った時に「二巻まで一気に読み終わったよ。次は三巻だぜ!」状態でした。そしてわーーーと話され(○○だと思わなかった!だの○○いいよね!だの)、あっさりと二巻の結末をぺろりと明かされたのでした。もちろん、相手は私が読み終わっていると思っており、そしてそれは事実なんですがね。だが!私のこの貧しい記憶力のおかげで、二巻の最後とか覚えていなかったのですよ! だから、二度もドキドキが楽しめてラッキー!とかって思ってたのに~ ま、しょうがないか。 またもや私の記憶のあやふやさが、浮き彫りにされた一冊でした。私の記憶では、WillとLyra視点のまま、ずっと話が進行するのかと思いきや、結構視点が変わっておりました。そして、Subtle knifeは、Willが最初から持ってるのかと思ったら、持ってるのは父親の手紙で、ナイフは指三本を代償に途中でゲットするのでした。そのシーンを読んで「そうだった!そうだった!」と膝を叩きたくなりましたよ。 忘れないうちに、ライラについての魔女の予言らしきものをメモっとくと; "She will be the mother--- she will be life---mother---she will disobey---she will---" "Name her! You are saying everything but the most importanta thing! Name her!" cried Mrs Coulter. "Eve! Mother of all! Eve, again! Mother Eve!"(p328) しかし何が一番印象的だったって、Willとお父さんのGrummanが対面するところでした。GrummanがWillのお父さんだというところは、おぼろげながら覚えていたからフーという感じでしたが、対面するシーンに緊迫感が好きです。 二人はお互いのことに気付かずに、GrummanはWillに彼の使命を教え、それから"Wait. Before you go, I want to look at you properly"と言い、そしてランタンに光を入れるのです。 In its light, through the rain-dashed windy air, the two looked at each other. Will saw blazing blue eyes in a haggard face with several days' grouwth of beard on the stubborn jaw, grey-haired, drawn with pain, a thin body hunched in a heavy cloak trimmed with feathers. The shaman say a boy even younger than he'd thought, his slim body shivering in a torn linen shirt and his expression exhausted an savege and wary, but alight with a wild curiosity, his eyes wide under the straight black browns, so like his mother's... (p336) そしてこの後すぎに、Grummanに求愛して拒まれた魔女によって、Grummanは殺されるのです・・・ Willのセリフによると、このときに気付いたのではなくて、Grummanが殺された瞬間に気付いたらしいのです。哀しすぎる… 果たして、Grummanは死ぬ直前に、この子がWillと気付いたのでしょうか… あんなに違う世界に住む、自分の妻と子を気にしていたのに、もし最期まで気付かなかったのなら悲しすぎます。ご冥福を… こうして、Willはナイフを持ってLord Asrielの元へ、天使に導かれて行き、捕まったライラはどうなる!?な展開になっていくのですが… あ~ 記憶力のないことはいいね。ドキドキが二回、楽しめるよ (Philip Pullman, The Subtle Knife, Scholastic, 1997)
初めて三浦しをんさんの小説を読みました。 実は、私の読書傾向としては、エッセイから入ってしまった小説家の小説は読まない傾向にあります。例えば、群ようこさんはエッセイから入ってしまったので、小説は事故的にしか読んだことない(エッセイだと思ったら小説だったという…)。そんなわけで、三浦しをんさんの場合も、エッセイで終わるのだろうな、と思っていたけれども、友達が小説も読み潰している、と言うもんだから、興味がむくむくわいたわけです。 結果。 やっぱり、エッセイから入ってる人の小説ってどうも……。多分、小説家に対して情報があるものだから、なんかのめりこめない気がします。例えていうなれば、あっち側に行きたいのに、片足をつかまれて、体の大部分はあっち側に行っているはずなのに、一部はこっち側にいる感じ。 特に三浦しをんさんには、やたらめったら共感をしていたものだから、気分的には「しをんさんったら、こんなの書いてるのね~」感覚。集中できるわけない……。 ああ、切り替えの悪い自分に困るわ~ 話は、拝島という島に、高校生の悟史が帰ってくるところから始まります。悟史は本当の高校に通っていて、町で13年ぶりの大祭があるのです。その悟史を迎えにきたのが幼馴染の光市。この二人は持念兄弟。 持念兄弟というのは、この島特有のもので、この島の長男同士、歳の近い二人が結ぶものです。冠婚葬祭お互い面倒見るし、困ったときは助け合う、というものらしいです。 そもそも長男同士というのが、この島には長男しか住んではいけないことになっていて、次男以下は独立したら外に出なくてはいけないのです。 悟史は当然ながら長男ですが、どうやらこの島を出たいらしい…。 と、島に住む少年たちの話かと思いきや、そこに不思議が入ってくるのです。祭りが近くなるにつれて、「あれ」が出てくるという噂が流れてきます。 「あれ」というのは、伝説で海からやってきて、村の人とかを襲う、というものらしいです。この島にはもう一つ伝説があって、白蛇様といって、人間化してこの島の者と交わって、助けてくれたという。そしてその子孫が、神社の神主さんである、ということになっているらしいです。 その伝説にのって話が進んでいくのですが、その悟史というのが「不思議」が見える体質らしいのです。そして、神主さんのところの次男坊が、力を持った人だったのです。そのおかげで、兄に妬まれているのですが、本人は島を出たくてしょうがない。 その次男坊といつもいるのが犬丸という外の人で、その人はどうやらシゲ地に封印されていたものだったのです。 結局、この島には、白蛇と祀られているものと、シゲ地に封印されているものがいたことになるのですが、祭り前のごたごたのせいで、悪いものがどんどん出てきてしまいます。そして、当日には集落を支えていた位相がずれてしまったのです。 とまあ、なんというか。集中しきれなかったせいもあるけれども、なんとなく中途半端なお話だな、という印象しか残らなかったのでした。もしかしたら、この前に恩田陸さんの、濃いミステリアスな話を読んでしまったから、ちょっとやそっとの「不思議」じゃ、なんとも思わないくらい感覚が麻痺してしまっていたからかもしれませんが。 それでも、エッセイが面白い人だからか、日常のちょっとした事が、「あーそうそう!そうなのよね!」と思えるように描かれているのがよかったです。例えば; 「注射の痛みと似てると思うんだ。注射も、針が肌に触れる瞬間になって、『ああそうだ。こういう痛みだった』ってやっと思い出すんだよ」 …(中略)… 「俺の中で注射は、『たいしたことのない痛み』ということになってるんだ。ところが、針が刺さったとたんに俺はいつも飛び上がりそうになるのさ。あれは、痛みの量としてはたいしたことないかもしれないけど、質としては最低なんだ」 あと、風船ガムをふくらませたものを川に流すのが印象的でした。笹船ならぬ、風船船。確かに色んな色のがあったらきれいそう…。環境には悪いけどね。
「三月は深き紅の淵を」関連本、第二弾(といっても実際は、こちらの方が先に書かれたようですが)「麦の海に沈む果実」を読みました。 いや~ これは「黒と茶の幻想」とは違い、「三月は~」云々の部分がなくても充分面白かった!一気に読み終わったし。なんて「黒と茶~」に可愛そうですが、これを借りる時に図書館にもう一回「三月は~」を斜め読みしたのですが、本の中の「三月は~」とやっぱりかなり違うみたいですね(当たり前か)。「三月は~」の方では四人の関係があんまりはっきりしないっぽいし、もっとざくざくと謎が出てきているみたいです。「三月は~」の中で語られる謎のほとんどは、「黒と茶~」には出てきていないし。「三月は~」の方は、もっと脈略がない話で、でもそれでいて謎がすごく光っていたみたいです。ま、なにせ幻の本だし。 なんて気付いたら「黒と茶~」の話が続いてしまいましたが、この「麦の海~」は「三月は~」の設定のように、とても奇妙な学校が舞台となっています。なぜか3月から始まる学校。転入生も3月に入るのが原則。それなのに、理瀬は2月に転入してきます。どうやらこの学校では、2月にやってくる人にはジンクスがあるらしく、とても不吉らしいです。 この学校の不思議なのは、人がよく消えてしまうこと。そしてそのことを生徒は不思議に思っていないこと。その生徒達の上に君臨するのは校長先生。その校長先生も曲者で、男なのに女装したりする。校長先生のシンパも沢山にいるのだけれども、反対分子もやはりいて。理瀬のルームメイトの憂理(ちなみに「黒と茶~」で利枝子&蒔生カップルの破綻のきっかけになったのも同じ名。しかもどちらも女優を目指している)もその一人。 どうやら理瀬が転校してくる前にも麗子という子がいなくなっているようだった。 とまあ、謎の多き、しかも閉鎖されている、どこかゆがんだ学校にて、殺人事件が起きていくのです。そしていまいちつかめない主人公の理瀬。 結末を言ってしまうと、理瀬は記憶喪失で、実は校長先生の娘だった。麗子も娘で、彼女の場合はその後継者になりたさで、一回理瀬の首をしめて殺そうとする。理瀬はそのせいで記憶を失ってしまって、それを取り戻させるために、校長先生はまた理瀬をこの学校に転校させ、様々な画策をするのだが・・・という話でした。 何がこの話の魅力って、この学校の設定でした。 まず、この学校には三種類の生徒がいる;「ゆりかご」上質な教育を受けさせたいという親の要請で送られた子 「養成所」特殊な職業に就きたくてやってくる子 「墓場」いわゆる要らない子 どうやら中高一貫になっているらしく、縦割りに一学年から男女一人づつ12人で構成されているファミリーというグループから成っています。 ファミリーやら「大きな家」と呼ばれる建物から分かるように、家族のような共同体になっていて、学校内では苗字は使われず、みんなファーストネームで呼ばれるのです。 その上、学校は湿地帯の中にあって、本当に閉鎖された空間、というわけです。 いびつな少年少女。その上に君臨する圧倒的な存在の校長(しかも女装したりする)。閉じ込められた空間。さいこー!! 前の恩田陸の作品で、西洋と日本、といった関係の引用をしたけれども、今回も一つ; 「日本て、顔つき合わせる踊りってないじゃない。阿波踊りだって、盆踊りだって、一人ずつの踊りで、みんな同じ方向向いて踊る。二人で、しかも目を見合わせる踊りなんてない。そもそも結婚式ですら―いわゆる祝言てやつ?―男女は並んで座って最後まで目を合わせることはない。杯だって二人で前向いて飲むんだもん…(中略)… 社交ダンスって、個人と自我が確立している社会でしか成立しないよね。相手に触れるようで触れない。そこにいるのは相手と自分だけで、一対一で向き合って、一緒にいても決して混じり合わない。しかも、相手に向かって腹を見せてるわけだから、すごく無防備な姿勢じゃない?相手を信用してないと―言い換えると、互いに同じ常識を持っているという前提条件がないと成り立たない」(p164) 最後の最後まで「本当にこれ以上どんでん返しないよね!?このまま不幸な方向に転ばないよね!?」とはらはらしながら読めました。ちなみに、実はマフィアの子どもだったっていうヨハンがよかった(その裏設定が)。ちなみにちなみに、本のデザインを京極夏彦がやっていました。 (恩田陸 「麦の海に沈む果実」 講談社 2000年)
先日友達に会った時に、三浦しをんにはまっている、と言われました。というのも、その前に会った時に、私が「三浦しをんのエッセイを読むと、なんか自分に重なって重なって・・」などと紹介したもんだから、彼女は興味を覚えて読み始めたらしい。そうしたら、エッセイしかろくに手をつけていない私と違って(しかもこの頃は恩田陸に浮気気味)、彼女は小説まで手をつけて、驚くべき速さで読み漁っていました。 「このぐうたら度合いというか、そんな生活を愛してやまないところがそっくりだよね~」 と言い合いながら、「でもそんな三浦しをんと私たちの違いって、うちらはぐうたらするだけでなんの生産性がないのに対して、彼女はちゃんと生計をたてていいよね~ 手に職を持つ(?)ってすばらしい」とため息をつくのでした・・・。 そんなわけで、三浦しをんをまた読みたくなって「乙女なげやり」を読んだのでした。 分かっちゃいるけど面白いわ~ そして友達になりたい・・・。てか弟子にしてくれ。 エッセイに出てくる三浦しをん女史の友達方がまたもや濃い人が沢山で、そんな中でキャラが濃いのは弟さんのような気がしてなりません。やっぱり血・・・?と言ったら、弟さんに猛然と抗議されそうですが・・。 少女マンガを語ると熱い三浦しをんさんの、少女マンガ考にうなされました; 「少年漫画」の反対語が「少女漫画」であるかのように思えるけれど、それはちょっと違っていて、「少年の冒険・成長」をテーマの主眼に据える作品が多い少年漫画とは、少女漫画の方法論は実は異なっている。 話は少しそれるが、たとえば「週刊少年ジャンプ」に掲載されている漫画を、女の子たちが熱心にパロディー作品にする現象がある(たいてい、登場人物を勝手に同性愛の関係にしてしまう)。これは、「少年漫画」(少年のために描かれた少年が主人公の物語)という非常に閉ざされた世界を、自分たちの物語として読み換えるための手段なのではないか、と感じることがある。…(中略)… 比べるに、少女漫画がパロディーの対象になることはとても少ない。それはたぶん、少女漫画の作品内ですでに、さまざまな人間関係の形を表現することが試みられているからであり、物語世界から弾き出された読者が自分の参入する余地を求めて作品を深読みしなきゃならないほど、閉鎖的な造りにはなっていないからだ。 つまり、「少女漫画」は元から、「対象として想定する読者枠」などというものが存在しない物語を擁してきたのではないだろうか…(中略)…。 じゃあ、少女漫画をはっきりと少女漫画にたらしめる一番わかりやすい要素はなにかと考えると、「絵柄」なんじゃないかと私は思う。(p37-38) これからも三浦しをん様についていこうと思いました。 (三浦しをん 「乙女なげやり」 太田出版 2004年)
順調に恩田陸作品を読み進めています。今回は「黒と茶の幻想」。 どうやらこれは「三月は深き紅の淵を」」の中に出てくる同名の本の、第一部に作品っぽいです。タイトルもまったく一緒だし。男女混合4人のグループがY島(多分屋久島)に旅をするという話。そして「三月は~」の説明であった通り、4人は様々な謎を提示しながら、それについて議論しながら旅を続けるのです。その謎は本当に小さなものから殺人事件までありました。 登場人物は、利枝子、彰彦、蒔生、節子で、彰彦以外は同じ地元出身。蒔生と節子は幼稚園から一緒で、蒔生と利枝子は高校から一緒(だから節子と利枝子も高校から一緒)で、この二人は高校から付き合っていました。彰彦は蒔生と大学時代の友達で、彼を通して他の二人と仲良くなったのでした。発端は、共通の友達が会社を辞めて実家で事業を手伝う、というのでお別れの飲み会での席で、蒔生が、どこかに行きたい、と言ったことより。それから彰彦が屋久島旅行を思い立つのです。 四部に分かれていて、一部つつ各々の視線から語られます(順番は上記の通り)。それだからこそ明らかになってくる4人の過去。登場人物が語る謎のほかに、読者が感じるだろう謎(もしかしたら登場人物もかもだけど)も解明されていきます。その謎というのが、どうして蒔生が利枝子と別れたのか、ということです。二人は大学時代に蒔生の一方的な別れ話によって別れています。その言い訳というのが、その当時、利枝子の大親友であって女優志望の子のことが好きになった、というものでした。そしてその後にあった、その子の一人芝居に舞台の後、その子は忽然と姿を消してしまいました。 それが明かされる前に、その大親友は利枝子のことが好きだったのではないか、とか、彰彦は利枝子のことが好きだったのではないか(実際は結構ひねくれて好きだったみたいだったけれども)、とか小さな謎の解明も、結構分かってしまったりと、ツメが甘いというのか、明かされても“うおお~~!”感が少なかったので、そこはちょっと寂しかった気がします。しかも、その蒔生と利枝子間の謎(というかもやもや)も、蒔生の部分で解明されてしまうので、節子の章では、謎も少ないしあっさりしていました。その上、ドロドロした中身の蒔生の後のせいか、いくら実は節子の旦那は癌で余命少ない、ということを抱えていたとしても、あっさりした感じがしました。まあ、あんな蒔生の後に節子を持ってこないことには、話の後味が悪くて嫌だったかもしれません。 蒔生といえば、皆に好かれるキャラに描かれていますが、どうも好きにはなれませんでした。読者はドロドロしている部分を知っているかもしれませんが…。なにせ、彰彦は蒔生のことが大好き、利枝子もまだ未練がある、節子も最後には蒔生のことが好きだったのだ、と分かるくらいです。こっちとしては蒔生よりも彰彦の方が魅力的で好きでした。ま、美青年(美壮年?)でひねくれてるってのは、やっぱりツボだったのですが、それプラス、彰彦の言う事も面白くてよかったです。例えば; 「俺、神っていうのは習慣だなって思うんだ」 …(中略)… 「…(中略)…教えられて、毎日接することによって初めて身につく。突然できるようになったり、最初からできたりはしない。だから、欧米人だって子供の時からしつこく刷り込みを続けるわけだ。習慣の中にしか神がいないことを知ってるのさ。逆に、習慣にでもしなきゃ、神の存在なんか信じられないんだろう。人間は飽きっぽく忘れやすいからな…(中間)…だから、ここに毎日通ってた島民は山の神を信じたけれど、よそからやってきて初めてここに入った奴は、そういうものの存在を信じない。そいつには、この場所は習慣じゃないからだ」(p407) しかし、もし「三月は~」がなかったら、これを読むかというと謎です。大して何も起こらなくて、謎は提示されていてもそんな大したものじゃないし、それでいてあの厚さ。面白かったけれども、あの厚さ。時間がなくて、本の中の本を読んでいるという面白さがなかったら、読まなかった気がしますが、どうでしょう…。読むのかな。 (恩田陸 「黒と茶の幻想」 講談社 2001年)
またもや有栖川有栖作品。今回は火村さんシリーズから。「乱鴉(らんあ)の島」。面白くて一気に読みました。 タイトルから分かるように、これは孤島ものでした。疲れているような火村さんを見て、下宿屋のおばあさんが勧めてくれたので、火村さんと有栖川は鳥島に行く事になるのです。ところが、手違いがあって、鳥島ではなくて烏島に行ってしまうことになるのです。その島には大物作家海老原の家があり、そこには人々が集まっていました。船が迎えに来てくれないため、火村さんと有栖川はそこに泊まらせてもらうことになるのですが、人々はなんとなく歓迎しない感じです。そこへ、今をときめく起業家、初芝がヘリコプターでやってきます。客の一人である医師の藤井さんを訪ねてきたのです。その藤井さんはというと、ひどい調子で追い返します。 そんなこんなで、殺人が起きるのです。今度は、電話線が切られているわ、船は二日後にしか来ない、ということで閉じ込められるわけです。 「女王国の城」に続き、何かを隠している人たちとともに、閉鎖された空間の中で起きる殺人、というシチュエーションでした。が、続いていようがこのシチュエーション、やっぱり面白い。多分、推理小説の醍醐味が凝縮されているシチュエーションなのかもしれません。 このシリーズの有栖川は、江神さんシリーズを書いている設定だったような気がするのですが、微妙に本当の有栖川氏に反映しているのかもしれません。子供達二人が、有栖川の名前を知っている、という設定で、その時に一冊だけ子供向けのを書いた、というくだりがありました。多分それは、「虹果て村の秘密」のことなのでしょう。 あと、あ~そうなんだ~と思ったところ。 手の込んだ本格ミステリの書き手は、必ずしも頭脳明晰ではない。というよりも、本格ミステリの創作と卓越した知性はほとんど関係ない。執筆の上でコモンセンス以外に必要なものは、このジャンルに関する基礎的な知識――その面白さの理解が大きな比重を占める――といくつかの技法の習得、そして無用なものに手間が注ぐという根気だ。…(中略)… 名探偵は、結末を知っている書き手から真相を耳打ちされているがゆえに、天才や賢者のポーズが取れるにすぎない。しかし、名探偵が偉大な頭脳を持っているかのような演出をされるものだから、なにやらその小説の作者もお利口そうだと勘違いする人もいるのだろう。(p226-227) (乱鴉の島 有栖川有栖 新潮社 2006年)
歴史小説が読みたかったのと、吉川英治が久しぶりに読みたかったので、手に取ったのが「新・水滸伝」。全四巻のうち、まず第一巻。 さすが巨匠。文章がかっこいい。しかも、文章だけでなくて各章のタイトルがかっこいいのです。例えば、「蘭花の瞼は恩人に会って涙し(なんだし)、五台山の剃刀は魯を坊主とすること」など。 内容はというと、やはり古典中国小説だからか、登場人物がやたらめっぽう多い。そして、「封じられた百八の魔星はどっと地上に踊り出た。やがて、その一星一星が人間と化して、梁山泊をつくり、天下を揺さぶる(背表紙のあらすじから)」って書いてあるから、すっかりその星とやらが、悪者だと思っていたのに、なんとなくそんなことない。だって、中国の皇帝徽宗は政を無視して風雅に生きるし、その下で働く徽宗のお気に入り高俅は悪くなっていくし…。 とりあえず、登場人物はかっこいいし、その描写もかっこいい。例えば、魯智深なんて結構好きだったりします。この人は元は提轄(憲兵)だったですが、悪者をこらしめていたら殴り殺してしまうわけです。それで追われた魯達は縁あって頭をまるめるわけです。ところが、酒は大好きでつい飲んでしまう。その中で、最初に飲んでしまうシーンがかっこいい。 墨染めの法衣(ころも)を刎ねて、諸肌ぬげば、ぱッと酒気に紅を染めた智親が七尺のりゅうりゅうたる筋肉の背には、渭水の刺青師が百日かけて彫ったという百花鳥のいれずみが、春らんまんを、ここに集めたかのように燃えていた。 「……ううい。ああ、なんとよい眺めだ、絶景絶景。腹の虫も雀踊り(こおどり)しおるわ。……待て待て、まだまいるぞ」(p109) 視覚的にかっこいい。 次に寺子屋の先生だった呉用もいい。今孔明と呼ばれているけれども、こんなかわいい一面もあったり。子供達に、寺子屋は今日はおやすみ、というのを伝えるために書いたのが; 先生ハ今日 急用デ、オ休ミスル オ習字ハ 家デヤルコト 遊ブ者ハ 蛙ト遊ベ 河へ落チルナ (p243) あと、キャラクター的には好きではない楊志ですが、賊に大切な荷を盗まれ、死のうかと思うところ。そこから生きよう、と思う過程が、さすが吉川英治、いい!! 死の谷を見おろした刹那、楊志の胸には、過去三十年の自身の絵巻が、いなずまの如く振返られた。 父母の面影が映る。弟妹の声が聞える。武芸の師、読書の師、およそ、この身を育んでくれた天地間のもの、ありとあらゆる生命の補助者が、ひしと、彼の袂をつかまえて、「なぜ、死ぬのか」「死は易いが、生は再びないぞ」と、引き留めているような気がした。 「ああ、恐い。意味のない死は、こんなに恐いものか。やはり俺は死にたくないのだ。意味を見つけたいのだ、死の意味か、生の意味かを」 彼は急に、岩頭から後ろへ跳んだ。死神の口から遁れたように、以前のところへ戻ってみると、そこには醜い十六個の影が、まだ眼を白黒させたり口ばたに泡を吹いている。 「ばッ、バカ野郎っ」 満身の声が、ひとりで衝いて出た。すると急に、気がからッとしてきて、 「ようし、おれは死なんぞ。こんなやつらと心中してたまるものかい。そんな安ッぽい一命じゃなかったはずだ。後日、今日の匪賊どもを捕らえるのも一使命だし、あとの命は、どう使うか。そいつも、生きてからの先の勝負だ」 ふと気づけば、あたまに失くなっていた自分の一剣が地におちていた。拾い上げて、腰に横たえ、空を仰ぐと、夜鳥の一群が、斜めに落ちていくのが見える。その方向を天意が示す占と見て、楊志は、何処の地へ出る道とも知らず、やがてよろよろ麓の方へ降りていった。(p308-309) 続きをどんどん読んでいこうと思ったのですが、この一巻を読んでから気付いたのが、これは吉川英治の絶筆で、未完で終わっていた……。水滸伝の話をまったく知らない状態なので、まず完結してるのを読んでから、もう一回読み始めようかと思っているところです・・・・。 (新・水滸伝(一) 吉川英治 講談社 1989年)
待望の「女王国の城」が手に入りました!!うれしすぎて小躍りしましたよ。なにせ、江神さんシリーズですよ!!やっと図書館から回ってきたのでした。 「双頭の悪魔」が出てから早15年経ったようです。そして本の中でも、ほんのちょび~っと時間が経っていました。モチさん・信長さんコンビは就活にあけくれ、江神さんは大学生活8年目を迎えてしまったため、最後の一年となってしまっていました。 そんな江神さんがいなくなってしまった、というところから話が始まります。江神さんの部屋を見る限り、その頃はやりだした新興宗教、人類協会の本拠地、神倉に行った模様です。その宗教というのが、宇宙人を崇め奉るもので、新しい教主はまだうら若い女の子。まあ、江神さん大丈夫か!?ということで、後輩どもは神倉に馳せ参じるわけです。ところがその神倉に着いても、その人類協会の建物(そこ自体が街みたいになっている)の中に入ることもできず、策を案じて江神さんとコンタクトをとってみたら、SOSを含ませる返事が・・・・。 結局中に入って、江神さんと合流することができるのですが、そこで殺人事件がおきるわけです。ところが、協会側は警察に通報することもしません。当然、江神さん一向ともう二人が閉じ込められることと相成ります。そんな中、第二、第三と殺人が続くのです。 凝ったトリックが登場して、ほお~ということはなく、犯人の動機も結構軽い印象を受けました。でもやっぱり面白かった。出るに出られない状態。決死の覚悟で脱走しても、その村一帯が教団の味方のようですぐ捕まるし。とにかく怪しい教団。江神さん一向の捜査に協力するふうでも、肝心なところは隠したまま。あと二日待って欲しい、とことごとく言われ、その二日後に何があるのか。などなど。 そんな謎も、事件の解決と、あと提示されていなかった事件の解決をもって、すっきりと晴れていくのです。ついでに江神さんが神倉にやってきた理由というのも、最後に出てきます。 そしてやっぱり、モチさん・信長さんコンビがよかった!実は江神さんシリーズの方が、火村さんシリーズよりも好きというのは、もちろん江神さんが好き、というのもありますが、このコンビがいるからだったりします。いるだけで場面が明るくなる存在というのは、推理小説の中でも結構珍しいのではないかと。 あとは何が何でも、読者への挑戦が入ってるのがしびれますね。せっかちなので、何度も熟読して挑戦を受けよう!とはならないのですが…。なのにあるだけでウキウキするとは、変な心理状態です。ということで読者への挑戦; この物語がすべて現実の出来事だったならば、揺るぎない論理と動かぬ証拠をもって真犯人を指摘することはまず不可能だろう。警察による科学的な鑑定がなされておらず、独特の信仰を持つ人々(しかも、明らかに何かを隠している)の思考は窺い知れないため、第九章でマリアが嘆いたとおり「土台なしで家を建てるようなもの」だ。 しかし、それでも――事件を振り返り、土肥憲作、弘岡繁弥、子母沢尊人を殺害した犯人が誰なのか推理していただきたい。 随分と気弱な挑戦状だ、と苦笑されるかもしれないが、本格ミステリとは<最善を尽くした探偵>の記録だ。江神二郎の推理こそ、この物語を完結される唯一の解答である。 ご安心いただくために、威勢よく言い直そう。 論理の糸の一端は読者の眼前にあり、それを手繰った先に、犯人は独りで立っている。作者が求める解答は、その名前と推理の過程だ。 そんな江神さんシリーズ、五作で終わりらしいです。ということは、あと一作… うううう…… その頃は先輩方は卒業しているのでしょうか… (女王国の城 有栖川有栖 東京創元社 2007年)
「からくり からくさ」を忘れないうちに、と思って「りかさん」を大急ぎで読みました。時間軸的には、「りかさん」が先ですが、なんというか、「からくりからくさ」を読んだ後だからか、どうしても「からくりからくさ」の番外編、という感じがして仕方がありませんでした。「りかさん」から読めば印象はちがったのかもしれないけれど。 「りかさん」自体には、もちろん与希子やら紀久やらマーガレットも出ずに、ようこ(ここではひらがなの表示)がりかさんを手に入れ、人形たちの声が聞こえるようになるところから始まります。そして人形のお話が繰り広がるわけです。 それだけでは番外編感はそこまでだろうけれども、なにがそんな番外編っぽくしているか。ずばり、全然出てこないけれども、与希子とか紀久とかマーガレットがらみの人たちが出てくるのです。特にマーガレットに関しては、マーガレットの母親が出てきて、これから産まれる子供(マーガレット?)に関しての悩みを吐露するわけです。そしてそれが、話の本筋ではなかったはずなのに、ようこは人形からマーガレットに“人形の笑い声を聞かせる”という使命を引き受けるのです。そういうのがさらりと入っていれば、そこまで番外編的ではないのかもしれないけれども、その使命云々というところ、りかさんが重々しく(?)いうのだから、マーガレット関係の話ではないのに、そちらに強きが入ってしまうわけです。だからこそ番外編っぽくなっているのではないか、と思いました。 そんな番外編的な本ですが、蓉子の染色のもととなったものが見れるのがよかったです。ようこの最初の染めの話もよかった。 「…(中略)… 植物のときは、媒染をかけてようやく色を出すだろう。頼んで素性を話して貰うように。そうすると、どうしても、アクが出るんだ。自分を出そうとするとアクが出る、それは仕方がないんだよ。だから植物染料はどんな色でも少し、悲しげだ。少し、灰色が入っているんだ。一つのものを他から見極めようとすると、どうしてもそこで差別ということが起きる。この差別にも澄んだものと濁りのあるものがあって、ようこ…(中略)… おまえは、ようこ、澄んだ差別をして、ものごとに区別をつけて行かなくてはならないよ」 …(中略)… 「どうしたらいいの」 「簡単さ。まず、自分の濁りを押しつけない。それからどんな『差』や違いでも、なんて、かわいい、ってまず思うのさ」 …(中略)… 「そうしたら、『アク』は悲しくなくなるの」 「ああ」 …(中略)… 「それは仕方がないんだよ。アクは悲しいもんなんだ。そういうもんなんだ」 (p202-204) 「りかさん」のなかには、書き下ろしとして「ミケルの庭」が入っていました。それは、あの四人のその後で、マーガレットの子供、ミケルが三人に育てられている様子が描かれています(マーガレットは中国に留学中)。これを読んで、この五人の生活をまた読みたいな、と思いました。 (りかさん 梨木香歩 新潮文庫 平成15年)
今、私の中で旬な作家が梨木香歩です。なんか遅れてるけど。そんなことで次に読んだのが「からくり からくさ」。本屋でちょっと「りかさん」を立ち読みした後に、実はその前はこの「からくり からくさ」だ、ということに気づいたので、慌てて読んだわけです。 時間軸的には「りかさん」の方が前のようです。「りかさん」は、りかさんが蓉子の手元にやってきた話に対して、「からくり からくさ」はそのりかさんをくれたおばあさんが亡くなったところから始まります。そのおばあさんが住んでいた家を、このままにしておくのはもっといない、ということで、蓉子の両親はそこを下宿宿にするのです。 そんなわけで、大家の蓉子と、蓉子とLanguage Exchangeをしていたマーガレット、蓉子が外弟子として通っている染色工房に糸を買いに来る、美大生の二人、与希子と紀久と女の子四人で住む事になったのです。 肝心のりかさんはというと、おばあさんの道行きに見届けるためにいなくて、空っぽな状態なわけです。それでも蓉子はりかさんとの生活をしているので、ある意味、りかさんを中心に四人の生活が始まるわけです。そして、お話自体もりかさん中心にまわっていくところもあります(りかさんの生い立ちを探るっていくことによって、与希子と紀久がつながっていたことが分かったり)。 そんな中で、のんびりとまったりとした話になっていきそうなところを、雰囲気にしまりを出しているのは、マーガレットでしょう。マーガレットは外国人であるだけでなく、唯一、りかさんの存在が認められない人です。そんなマーガレットが、最後に子供を産む、というのがまた面白い。 しかし何よりも面白い、というか印象的なのは、やはりクライマックスです。りかさんが燃えていく、というのがあれほど衝撃的で、それでいて悲劇的、というよりも燃え盛るりかさんが美しかったというのに納得を感じるのは、それまでの話の積み重ねが大きい気がします。一見、当たり前の事のようですが。でも、りかさんがそれまでは静かに黙していた、というのがミソなような気がします。静な美から動な美へ、みたいな。最後の場面は、芥川龍之介の“地獄変”を少し思い出しました。 四人の中で、一番、その言葉が沁みたのは紀久でした。性格的には与希子の方が好きだったんですが、紀久の機織子を見る眼差しが好きでした。 古今東西、機の織り手がほとんど女だというのには、それが適性であった以前に、女にはそういう営みが必要だったからなのではないでしょうか。誰にも言えない、口に出していったら、世界を破滅させてしまうような、マグマのような思いを、とんとんからり、となだめなだめ、静かな日常に紡いでいくような、そんな営みが。(p95) 私はそこの土地で採れる作物のような、そこの土から湧いてきたような織物が好きなの。取り立てて、作り手が自分を主張することのない、その土地の紬ってくくられてしまう、でも、見る人が見れば、ああ、これはだれだれの作品、っていうようにわかってしまう、出そうとしなくても、どうしても出てしまう個性、みたいなのが好きなの。自分を、はなっから念頭にいれず、それでもどうしてもこぼれ落ちる、個性のようなものが、私には尊い (p143) (からくりからくさ 梨木香歩 新潮文庫 平成14年)
北村薫が覆面作家だったころ、彼は女性だと信じて疑わなかったので、初めて写真を見たときの衝撃は今でも忘れません。今は、北村薫は男だと知っているのですが、それでもやっぱり、彼の作品を読むと、女性が書いている印象が拭い去れないのは私だけでしょうか。別に女々しい、と言っているわけではなくて、文章がきめ細やかで、雰囲気がどうしても女性っぽいわけです。 なんて偉そうなことを言っておきながら、実を言うと、彼のデビュー作であり、代表作ともいえる、円紫さまシリーズを読んだことがないのです。正確にいうと、読了したことがないのです。つまり挫折をしてしまったという・・・ な~んか苦手で避けてきたのですが、もう一回トライしようと思って、図書館に行ったのに、第一作目がなく。仕方がなくて読んだのが、「冬のオペラ」。 そんな本に悪い理由で読んだのですが、面白かった。 前作の「生首に聞いてみろ」に比べたら、なまぬるい推理小説ですが、ふーっと一息つける本でした。 読書の醍醐味は、私にとっては、色んな沢山の人生を体験できる、というものなのですが、それともう一つ。作品によっては、読むことによって、お風呂に入ってるような、ほっと一息つける、というのがあると思います。そして、そういう本って、お風呂のお湯の熱さの好みが人によって様々、というように、人によって微妙に違うと思います。 私にとっては、それがこの「冬のオペラ」だったわけです。 そこらそこんじょの事件では動かない探偵。いや、名探偵。そして、ホームズにはワトスンのように、記録係の少女。事件も最後の事件以外は、殺人ではなく。でも、雰囲気がふわふわしすぎないのは、名探偵が手がける事件だからこその、人間関係の嫌な部分がぴりっとしたスパイスになっているわけです。 でも何が魅力って、北村薫の筆力の一言に尽きると思います。 たとえば、主人公であるワトスン役の姫宮あゆみが京都で感じたこと。 光がさすと、わたしの見ていた白砂の頂が、ほんのわずか、ほろりと崩れた。 論理的に考えるなら、暖かくなって砂の水分が蒸発したせいだろう。――乾いたから崩れた。しかし、わたしの目には爪の先ほどの、砂の波頭が、光の力に押されて散ったように見えた。 私の他に、誰も見た者はいない小さな小さな事件。 宇宙から見たら、いや、そんな大きなことをいわずとも、せいぜいわたしの町内から見たところで、わたしの存在が消えるのも、この砂の先が崩れるのも、同じくらいの出来事だろう。(p173-4) 前半の、“光の力に押されて”っていうのがすごく好きです。その感覚がすごくいい! そして後半の部分は、確かに京都に行って、お寺のお庭に行くと、そういうふうに感じる時が必ずある気がする。 よし。このままだと、円紫さまシリーズ、読めそうだぜ。 (北村薫 冬のオペラ 角川文庫 平成14年)
綾辻行人作品の「どんどん橋、おちた」のなかで、りんたろう青年が、悩める青年として出てくるのですが、確かに、法月綸太郎の作品って、どこか哀しさが漂っているような気がします。法月綸太郎といえば、そういえば、高校の時にはまって、学校の図書館に彼の作品を全作入れさせたものです(うちの学校は、リクエストをすると買ってくれる、という大変良心的な学校だったので)。 その法月綸太郎の作品で、評判になっている、ということで手に取ったのが「生首に聞いてみろ」でした。 面白いことに、殺人事件は、お話の中ほどまでこないと起きません。この先、ネタばれになるので、もし、読んでいない人が紛れ込んでしまったようでしたら、スキップしてください。 彫刻家の川島伊作が死ぬ前に完成させた遺作、愛娘、江知佳をかたどった彫刻の首が切られているのが見つかるのが、事件の発端となります。その作品というのが、十数年前の事件を告発するものだった、そしてそれに気付いた江知佳が、その犯人たちに殺される、というのが、事件の真相なのですが。 からくりが面白いのは、さりながら、今回の哀しさというのが、真相の明かし方によく出ているのではないか、と思ったのです。 というのは、事件のあらましは、綸太郎の後輩とその知り合いで、事件解明に関与した人に、綸太郎が語る、という形で明かされます。でもその時には、決定的な、この事件の大本となった事件の真相が語られないわけです。 その真相というのは、伊作の妻の孕んでしまった子供の父親は誰か、ということなのですが。本当は、妻の妹の旦那なのですが、その妹達の陰謀により、伊作は、伊作の弟だと誤解するように吹聴されます。その誤解で起こった陰謀、そして伊作とその弟の仲違い(弟からしたら一方的な絶交状態)、弟との誤解とけた途端に、計略にはめられたと気付いた伊作が造った作品によって、真相を知ってしまったがために殺された娘、と事件が事件を呼び、またもや事件とつながる、というわけなのですが。 その大本の真相は、お話のクライマックスに、綸太郎が伊作の弟(つまり江知佳の叔父)に語る、という形で明かされるわけです。その後にもらす、伊作の弟の言葉が、本当に哀しい。 「―――兄貴の誤解が解けなければよかったということか。十六年前の秘密をそのまま墓場へ持っていってしまえば、エッちゃんが殺されることもなかった。死んだ律子さんに顔向けできない。私たち兄弟は、絶交したままでいればよかったんだ」(p492) その二重の、真相解明によって、この作品の哀しさというのが、出ているような気がしました。 最後に、引用されていた文章で面白いのがあったので、メモメモ。 「彫刻家の観点からすると、彫刻という形式で表現する際の人間の頭部の(しかもおそらく人体すべてのうちの)もっとも難しい部分は目である。彫刻の全史を通して目はつねに頭部の立体的表現のなかで最大の問題を提示してきた。これはもちろん、人体のすべての部分のうちで目だけが、形からではなく、虹彩と瞳孔という色彩からできた模様をしているという事実に起因するのである。 <ルドルフ・ウィトコウアー 『彫刻――その製作過程と原理――』>」(p5) (法月綸太郎 「生首に聞いてみろ」 平成16年)
先のライオンハートが、読み応えがあったため、ちょっと軽い物が読みたい、と思って手に取ったのが、三谷幸喜の「三谷幸喜のありふれた生活2 怒涛の厄年」でした。 三谷幸喜って、特別文章がうまいわけではないのですが、その人柄が出ているというか、そんな文章の巧拙に関わらずおかしい生活を過ごしていらっしゃるというか・・・。 しかし、三谷幸喜の生活って、三谷幸喜の描く作品に似たところが沢山あるというか。一生懸命生きているのだけれども、それが傍から見るとおかしい、という。 例えば、ぼけてきた、という話で。 「飲み終わったミネラルウォーターのペットボトルを、せっせと水道の水で洗っている自分に気付いた時、言い知れぬ不安を感じたのはつい最近のことだ」(p128) ということで、脳のスキャンに行くのですが、そこで 「あれは何の音ですかと先生に尋ねたら、検査室内の電磁波をほにゃららするために、ほにゃららしているのですと親切に説明してくれた(極度の緊張のため、ほとんど覚えていない)」 とのこと。ああ、検査している先から!と、思わずつっこみたくなってしまう。 当たり前のことながら、作品ってその作者の人柄が、よく出ているものなのだな、というのが、エッセイを読みつつ作品をみると分かるのでした。 (三谷幸喜 三谷幸喜のありふれた生活2 怒涛の厄年、朝日新聞社、2003)
「ネバーランド」のような、読みやすい恩田陸を求め、手に取ったのが「ライオンハート」でした。ま、あらすじをちゃんと調べて読まなかった自分が悪いのですが、全然読みやすくなかったです!でもほら、「ネバーランド」と「ライオンハート」、なんか似たようなタイトルでしょ。 読了後の“?”の数としては、前のやつよりは、少なかったけれども、すらすら読める類のものではなかったです。何せ、時空を超えた、愛の物語(?)てな感じなんです。 エリザベスとエドワード。お互いに夢を見ながら、恋焦がれるのだけれども、会えるのは、ほんの一瞬。その夢というのが、その前のエリザベスとエドワードの出会った記憶だったりするわけです。 その何組かのエリザベスとエドワードの話で構成されている一冊なわけです。 その構成で面白いのが、なぜエリザベスとエドワードなのか、なぜめぐりめぐるのか、という謎が、最後にあかされるのではなく、途中であかされること。謎を劇的にあかすのではなく、それが淡々感を出すというか、らしさを出しているのではないかと思ったのです。 あと、各章の表紙になっている絵が、その話に関与している、というのも面白かったです。 たった一瞬しか会えないエリザベスとエドワードだけれども、一組だけ、一緒になったエリザベスとエドワードがいるのです。その一組も、エリザベスの方が記憶喪失だったので、歳をとってから知るのですが。その時の、エドワードの言葉が 「ついに、私のエリザベスに会う。 老いてはいたが、やはり彼女は美しかった。 そして理解した。 魂は全てを凌駕する。時はつねに我々の内側にある。 命は未来の果実であり、過去への葦舟である。」 で、それをその孫(また違う組のエドワード)が見るのです。ちなみに、その孫の話の方が先で、この言葉も先に出てくるのです。 一番好きな話は、エジプトの話でした。話の大筋は、エリザベスとエドワードの話ではなくて、妻を殺した犯人を追ってやってきた老人の話になっています。老人が目星をつけていた犯人こそが、エドワードだったわけです。そのエドワードとエリザベスの会う場面が、なんか感動的で好きでした。 その話の中に出てきた、紋章のお話が面白かったのでメモメモ。イギリスと日本の紋章について話しています(ちなみに話し手はイギリス人)。 「…(中略)…あたしたちとは省略のしかたが全然違うの。あそこもかなり歴史の古い国だそうだから。ただ、日本の紋章は家を単位に決まっていて、未来永劫子供も孫も同じデザインを使い続けるそうよ。イギリスの場合は、個人個人で少しずつ縁取りを付けたり、模様の一部を変えたりして常に変わり続けていくから、その辺りは違うわね」 「へええ。遠い未来にイギリスお受けとミカドの子孫が一緒になったらどうなるんだろう」 …(中略)… 「そうね。王家の紋章に日本の家紋が入る日が来るかもしれない」(p156) この会話が成されたのは、大分昔の設定ですが、これが起こるかもしれない可能性は、未だにある、というのが面白い。 (ライオンハート 恩田陸 新潮社 2000年)
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