fc2ブログ

がらくたにっき |

なんで『シンデレラの足』なんだろう・・・

恩田陸にはまっていいことは、読んでも読んでも読むものがなくならないことのような気がします。
そして今のところハズレがないのがすごいし、何冊読んでも飽きが(今のところ)きてないのが、本当にすごい・・・
今回の「ねじの回転」もものすご~く面白かった!というか、発想に舌を巻かざるを得ない。

話のテーマは「歴史は自己を修復する」か否か。タイム・スリップものでよく出てくるテーマといえばテーマでしょう。
今回の話は、タイムスリップが出来る技術ができ、「聖なる暗殺者」によって苦い歴史を抹消したことがきっかけから始まります。それによりHIDSと呼ばれる(AIDSをもじったものらしい)病気が世界中に蔓延してしまったのです。その病気とは恐ろしい勢いで老化し、死体になると周りの人々に感染させてしまう、という恐ろしい病気だったのです。
それを直すべく、国連はプロジェクトを打ち出しました。それが『シンデレラの足』とよばれるコンピューターを使って、歴史をもう一度繰り返させる、というものでした。それは歴史上の人物を呼び出し、主旨を説明してもう一度、同じことをしてもらうのです。その間に、歴史と違うハプニングが起きてしまい、『シンデレラの足』が「不一致」と認識した場合、また元に戻ってやり直さなくてはいけないのです。

今回、ピックアップされたのは「2・26事件」でした。そして呼び戻された人物は決起部隊より安藤輝三、栗原安秀、そして鎮圧する方からは石原莞爾でした。
不一致になることもありつつも順調に進むかと思いきや、おかしなことが続きます。歴史上では安藤は鈴木貫太郎にとどめを刺さず、そのおかげで鈴木は助かるのですが、なんと鈴木は死んでしまいます。それなのに「不一致」とならず。
また、歴史上では栗原は岡田総理の義弟を討ち、それを総理と誤認することから、岡田は生きながらえるところを、栗原が試しに殺してしまいます。それでも「不一致」にならず。
しかも、どうやらハッカーが侵入してきているようで。その上、猫によりHIDSが陸軍の中で蔓延してしまったのです。

と混乱してくるのですが・・・
真相をさらりと言ってしまうと、ハッカーはその国連チームの技術者が、好奇心によりしていた、という迷惑極まりない行為で、『シンデレラの足』が「不一致」と認識しなかったのは、国連の上層部による思惑からでした。というのは、岡田と鈴木はこれでしばらく歴史の舞台から降りることとなるのですが、第二次世界大戦の最後の方で、終戦に向けて大活躍をするのです。
ところが国連の意向としては、岡田・鈴木両氏の終戦工作をなくし、日本をアメリカの州にしてしまいたかったのです。そうすれば日本に愛国心が生まれ、アメリカはベトナム戦争をしなくなる、と見込んでのことでした。
そんな国連の思惑とは裏腹に、呼び戻された3人はそれぞれ自分の願いを叶えるべく、歴史とは違う行動をとってしまうのです。そこで最終手段として、国連局員のマツモトが上司の命令によって、秘密裏に、それらの行動を阻止しようとするのです(ここで、ハッカーの仕業かと思っていた出来事と同じ事をマツモトがしてしまいます)。
このマツモトが歴史の中に入れた理由(?)となる概念が面白い;

 物質とは、生命とは、時間である。
 …(中略)…時間があってこそ初めて、固体の物質や生命が存在する。つまり、人間が時間の中で生きるものである以上、その時間その時間で固有の物質が存在するはずだ。今のマツモトがこの再生時間の外側にいる以上、かつての再生時間の中のマツモトとは別に今のマツモトが存在することになるのだ。(p408)

ところが、これが裏目に出てしまう結果となり、最終的には上司の制止も聞かずに、マツモトは国連と歴史を繋げる懐中連絡機を放り投げて、歴史にまぎれてしまうことになるのです。
その結果、私たちが今知っている通りの「2・26事件」が終結するのでした。

結末は、設定があまりに面白かったので、ちょっと物足りない終わり方のような気がしました。
逆にいえば、それくらい設定が面白かった!
一番ユニークだな、と思ったのが、歴史上の人物がちゃんと記憶のあるまま、このプロジェクトに参加していることでした。つまり安藤も栗原も、自分たちが処刑されることも知っているし、この時点でどうなるか、とかがよく分かっているのです。だからこそ、安藤や栗原の心情を思えば、哀れで仕方がないのです。特に、安藤の心中の吐露を読むたびに悲しくなりました。本当に農村を含め日本の状態を憂え決起し、それでいて若い部下に同情を抱き、その上、この決起の行方を知っている。これ以上切ないことはあるか!?という感じです。

そんな「2・26事件」、国連のこのプロジェクトの責任者であるジョンにかかると;

「確かに、これは日本的な事件だな。責任の範囲と所在の曖昧さ、コミュニケーションよりも隠蔽を『和』と呼んで尊ぶ欺瞞。非常に日本人らしい。記録を読むと、それぞれの言うことは決して極端なものではないし、誰も悪い人はいない。みんな互いによかれと思っている…(中略)…青年将校たちは、陛下の正しい判断を側近が邪魔しているのでそれを取り除きたいと望んでいる。彼らの上官たちは、部下の気持ちが義憤だと知っているので無下にできない。陛下は国民の困窮を全く知らないから、青年将校の気持ちなど全く有難くない。陛下の周りの人々は、陛下が胸を痛めるのを恐れて国民の実情を教えない。また、彼らは青年将校たちが陛下を慕っているのもよく知っているから、陛下が彼らを怒っていることも言えない。見よ、この『思いやり』のオンパレード。極めて日本人的だ」(p43)

となる。
確かにこの日本人的感覚は、国際社会では通用しないものだとは思いますが、それが日本人らしさの一部かと思うと、国際化の中でなくなっていくのはさびしいものに思えます。


(恩田陸 「ねじの回転 February Moment」 集英社 2002年)

スポンサーサイト



Category : 小説:SF
Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

この主人公も、女には最終的に優しかった

この間友人に、「そういえば藤原伊織って亡くなったよね」と言われたのを、図書館にて彼の本を見つけたときに、ふと思い出したので思わず借りてきてしまった一冊。
江戸川乱歩賞と直木賞のダブル受賞を果たした「テロリストのパラソル」を読んだのははるか昔すぎて、話の内容は覚えていなかったけれども、とても面白かったという記憶だけは有。しかも、どこか哀切を感じる本だったのもぼんやりと覚えていました。
そんな印象しか持っていないまま読み始めた「ひまわりの祝祭」。

読んでいる途中に、すごくこの話の流れというか、雰囲気というか、何かに似ているよな~と前半に思い続けていたのですが・・・ そこでふと思い出しました。
他の作家さんと比べるのはあんまり良くないと思うのですが、なんとなく村上春樹に似ている気がしました。主人公の男の人がちょっと奇妙な人で、本人の意志とはうらはらに事件に巻き込まれ、なんだか主人公や読者のあずかりしれぬところで事件が発展していく感じが似ている気がしました。
ただ村上春樹と大きく違うのは、「ひまわりの祝祭」の方が何千倍も現実的なところです。

主人公の秋山秋二は、高校の時には油彩、大人になってからはデザインの方面で、注目を浴びるほどの人だったけれども、奥さんが亡くなって、今は無職で何もしない生活を送っている。そこへ昔の上司の村林がやってきて、頼みごとをされるところから、秋山は事件に巻き込まれることになります。
非合法のカジノ。そこへ老人に連れられやってくる、妻にそっくりな女の子。しきりに自分と接触をはかろうとする、その老人の秘書であり、カジノのマネージャーの原田。その原田に雇われて、自分を見張っている新聞配達の青年。それらと敵対しているらしい、ヤクザの一味・・・・
と次から次へと、目まぐるしく登場人物が現れてきます。
そしていつも、その人たちに注目を浴びている主人公。それが何故なのか分からないところから始まって、段々と事情が分かってくるのですが・・・

その事情というのが、ゴッホの「ひまわり」は12点ある、というのが定説だが、本当はもう一枚あるのではないか?というところから始まります。
結果的にいうと、この本の中では本当にもう一点あることになっていて、しかもそれを秋山の妻のおじいさんが、洋行した際に譲り受けてきた、ということになっています。
そしてその妻は、秋山の子どもでないはずの子どもをみごもったまま自殺してしまっていました。
そんなこんなで、原田側の人間と田代側が、秋山を中心に据えて、「ひまわり」の行方探しが始まるのです。
最後の方で、田代側には秋山が昔勤めたデザイン会社の社長がついていて、彼が秋山の妻を陵辱して、それのせいで妊娠してしまった妻が自殺したことが分かります。そこで、秋山は原田側につくのですが、秋山&原田vs田代の一味の死闘が繰り広げられ、秋山&原田は絶体絶命の危機に陥るのです。そこへ、妻にそっくりな娘が乱入してきて秋山&原田の勝利となりますが、その娘は死亡。
「人が死んだ。あのひまわりのために、ふたりが死んだ」(p425)ということで、秋山はその「ひまわり」を、燃やしてしまうところで話は終幕。

出てくるキャラの中で、一番魅力的だったのは、この原田でした。
原田は優美で頭もよく、武道にも長け、それでいてゲイ。この“ゲイ”であることが、原田を魅力的にするのが、ある意味お約束、と思いつつ不思議でした。なぜ小説の中のゲイは、大抵はいいキャラなのか?と・・・  
多分、キャラがゲイであれば、社会的立場が他に比べて不利な分、付加価値がどんどん付いてくるからでしょう。原田に限っていえば、優美であったり、物腰が柔らかかったり、かしこかったり・・・と、ここまで完璧な人はいないだろ!という人なのにゲイ、という・・・。逆に、ゲイにすることによって、現実にはなかなかいないようなキャラにすることができるのかもしれません。
などと、本におけるゲイキャラについての考察で終わる前に、面白い沈黙についての描写を;

 沈黙があった。今度は長いあいだつづいた。かたつむりの歩みを聞くような沈黙だった。(p259)

(藤原伊織 「ひまわりの祝祭」 講談社 1997年)

Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

諸行無常の響きあり

この前借りた吉川英治の「新・平家物語」があまりに汚く(なにしろ、あるページに毛のついた鼻くそがはさまってた!!)、なにか他にないかと思いつつ、吉川英治全集を探してみると・・・ ぶっといせいで誰も借りないのか、新品のように美しい!! 
ということで、「新・平家物語」第二弾のはずなのに、また(一)だったりします。

新院と麻鳥の話から始まりました。もう歩けない新院を負ぶう麻鳥。
本当に新院がかわいそうでかわいそうで仕方がありませんでした。流される時も、父上のお墓のあるお寺の前で、一目お墓参りをさせてくれ(結局新院はお葬式にも出られていない)、と頼むのですがそれも許されず、罪人の乗る輿の中から手を合わせるしかできないのです。
そして、心を平安に保たれようと流された先で始めた写経を、そのお寺に奉納しようとしても、新しく権力を握っていた信西により、却下されてしまいます。もちろん都から訪ねてくる人もいないし、便りもありません。
そんなおかわいそうな新院のもとに、役人の目を盗みながらやってくるのが我が麻鳥なのです!!新院とのお約束を果たすべく、月夜の中、笛を吹くのです・・・・(ちなみに、写経を拒否され、怨霊となるのはこの後)

しかしもって、この信西というのがむごい。ただでさえ保元の乱は、家族が二つに分かれて戦うため、悲しみがつきまとうのに、それに追い討ちをかけるように、信西は身内に処分させるのです。ことに、為義・義朝が悲しい。為義は息子の義朝を頼って来るのですが、義朝の嘆願もむなしく、信西は義朝に為義を討つように命じるのです。自分の手ではできないと配下にやらせるのですが、そこのシーンの為義のセリフが身をつまされるようでした;

『そうか』と、この帰結を、大きく受けとるような、返辞だった。
 しかし、輿の外に、すわり直して、一言、こうはいった。
『なぜ、義朝は、それをわしへ、いえなかったのか。いえない気もちも察せられるが、父の心とは、そんなものではない!……』
 語気を強めたここで、さすがのかれの満面は、急に下る涙となって―
『そ、そんな、小さな親の愛。せまい料簡の父と、為義を、見ていたのか。―幼少、母の乳をはなれ、父のひざに、とりついて、この父の顔を、見覚えてから何十年。……まだ……まだ、この父の、心の隈ぐままでは、分からなかったか』
…(中略)…
『……義朝よ。それ一つが、残念だぞよ。世は、泡沫といえ、深い深い宿縁の、子ではないか、父ではないか。―こうと、なぜ、胸を割ってくれなかったぞ。いかに、零落したりといえ、為義は、親心までを、路傍に捨てて、お身を頼ったわけではない。……是非なければ、それもよし。父子、今生の一夜を、心ゆくまで、惜しみもし、語りもして、別れたものを……』(p265)

そうなじられた義朝ですが、信頼につくことで運命が変わってしまいます。
保元の乱後に政権を握った信西は、次々の容赦のない政策を行います。それのため、反感を買うことになり、信西が目をかけていた清盛が熊野詣りに行ったすきに、信頼は義朝を味方につけて挙兵するのです。信西を討つだけならまだしも、おこがましくも上皇・天皇を幽閉して自分が天皇のようにふるまってしまうのです。もちろんそれに反感を抱く人も多々出てくる中で、その知らせを聞きつけて清盛が戻ってくるのです。
こうして平治の乱が起きたのですが、信頼がどんどんダメになっていく様がすごい。しかし武士として、『義をつがえて、ひとたび盟を陣にむすんだ以上、心変わりをしないのは、累代弓矢に生きる源氏のならいだ。』(p353)と言って、義朝は果敢にも平家に弓を向けるのでした。

結果的には教科書通り、義朝の負け。次々の源氏一門はとらわれ、処刑されていきます。
特に頼朝のところがかわいそう。というか、頼朝のあどけなさがかわいい。それでいて、子どもながらに武士の一門、しかも棟梁の家の子、としっかりと心得ているのがいじらしい。とらわれた時も(頼朝は、父親や兄たちと逃げる中、眠くなってしまってはぐれてしまった);

『童よ。痛かったか』
『…………』
『どこへ行く。都から東国へ行くか』
『…………』
『父は何者だ。お汝(こと)の父は』
『…………』
 何を訊かれても、答えなかったが、父はといわれると、ぽとんと涙をこぼした。そしてその涙のあとも乾くまで、なお黙りこくっていた。
 宗清は、声に、威嚇をこめて、
『答えろっ。答えぬと、痛い目にあわすぞ』
 と、まゆをいからして見せた。
 すると頼朝は、かえって、その小さい両の肩を正して、おとなの顔へ水をかけるようにいった。
『おまえはたれだ。おまえこそ、馬を降りてものをいえ。わしは平家の下侍(げざむらい)などに、馬上から何か訊かれるような者の子ではない』(p395)

この宗清が池ノ禅尼に、頼朝のいじらしさを訴えたところから始まり、頼朝は助命されます。

この巻は、義経たちの母親である常盤が清盛の寵愛を受けて、藤原長成の後家へと嫁ぐところでおわります。
しかし!この頼朝云々の話が終わってからが、結構読みづまりました。やっぱり清盛の話になると、どうしてもどうしても・・・ くっ
やっぱりどうしても、感情移入できない清盛でした。

(吉川英治 「吉川英治全集・33 新・平家物語(一)」 講談社 昭和42年)

Category : 小説:歴史
Posted by nizaco on  | 0 comments  1 trackback

百合はお見舞いに持っていってはいけない花

なんでこんなに恩田陸がつぼになったのかを考えつつ一筆。
多分、この人の書く“異常”がつきまとう闇みたいのがやけに魅力的なのでしょう。もちろん、そういうのがないさわやかな「ネバーランド」もすごく好きなのですが、恩田陸の魅力、といったら、どちらかというと「三月は深き紅の淵を」のような作品をとっさに思い浮かべてしまいます。私は。

そんなこんなで恩田陸、「黄昏の百合の骨」を読みました。
これは「麦の海に沈む果実」の続編になっています。
この中では理瀬はあの学院ではなくて、イギリスに留学していることになっています。そこから一時帰国し、祖母の家に住むところから始まります。
祖母は突然事故で亡くなり(家の中で)、その祖母の家には、祖父の連れ子の梨南子と梨耶子が住んでいました。彼女達は夫が亡くなったり、別居したりでこの言えに戻ってきていたのでした。
ちなみに「麦の海~」で出てくる、理瀬の実家というのはここだったのでしょう。

その祖母の家は白百合荘と呼ばれ、近所の人々には忌み嫌われていました。しかも、その祖母の死も謎めいていて、本当にあれは事故死だったのか・・・?というわけです。
その上、梨南子も梨耶子も得体の知れない人物たち。
今回の理瀬の仲間(?)たちは、隣に住む、理瀬と同い年の朋子。その弟の信二と幼馴染の雅雪。雅雪の親友で、朋子に惚れている田丸。それから、理瀬の従兄弟の(「麦の海~」に名前だけ出てきた。兄妹のように一緒に育てられた)稔と亘。

今回の大きな謎は、この家は一体なんぞや?というもの。この家の周りで動物たちは死ぬわ、祖母も死ぬは、田丸くんは消えるは、しかも何かをつかんだらしい梨耶子も死んでしまう。
ネタをばらすと、この家はどうやら軍に使われていたらしい。二階の部屋全ては盗聴できるようになっていて、どうやら娼館として使われていたのではないか。しかも、地下には死体を処理する(文字通りあとかたもなくす)部屋もあった。というものでした。
もちろん、それだけがメインなのではなく、どんでん返しがいくつもしかけられているのでした。

とにかく登場人物で異様な人の率がとても高い。主人公の理瀬もいわゆる真っ当な子ではないし、稔もそう。梨南子も最初から奇妙だし、「光」の世界を歩んでいる、という設定の亘も、従兄弟の理瀬が好きだったりする。私にとって何気に一番怖かったのは、朋子でした。しょっちゅう、その幼馴染の雅雪によって指摘されているけれども、可愛い子の面の裏側の様は、本当に不気味。しかも最後には狂気じみた場面もあり、ふと、恩田陸は、こういう一般的に理想的な女の子、というものに容赦ないなあ、と思いました。

一番最初の話に戻るけれども、恩田陸の魅力は、彼女の描く歪みが魅力的なんだ、ということで抜粋;

 しかし、今ではぼんやり分かる。悪は全ての源なのだ―善など、しょせん悪の上澄みの一部に過ぎない。悪を引き立てる、ハンカチの縁の刺繍でしかないのだ。でなければ、善がいつもあんなに弱く、嘘くさく、脆く儚いことの説明がつかない。
 つまり、この世の全ては悪の巨大な褥から生まれたのだ。そして、悪の褥は常に新しい血を必要としており、その血を生まれながらに持った者がいつの世も必ず存在する。悪の存続は人間にとっての必然であり、自然の理として強く運命づけられているのだ。(p152)

あともう一文。非常にはっとさせられた表現で、梨耶子が死んだ場面;

存在の重さよりも、不在の重さの方が日毎にずしりとこたえてくるものなのだ。(p200)


(恩田陸 「黄昏の百合の骨」 講談社 2004年)

Category : 小説:現代
Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback
該当の記事は見つかりませんでした。