映画をみる前に原作を、シリーズで「カスピアン王子のつのぶえ」です。 小さい時にナルニアシリーズを読み、本当に好きで好きで、それが過ぎたが故に「さいごの戦い」が読めなくて今に至るのですが。 あんなに好きだったのに、悲しいかな。話の内容全く覚えていません・・・。歳をとるって嫌だなあ ふぅ~ ただこの「カスピアン」で覚えているのは、「カスピアン」がナルニアシリーズの中で、一二を争う面白さだったこと。それなのに覚えていないとは!!! 普通に読むのは悔しいので、原作で読むことにしました。 読了後の感想は、「あれ?こんなあっさりとした話の流れだったっけ?」でした。よく考えたら子供の本なんだから、こんなものだったのかもしれません。だって、小学校3年生くらいの時に読んでいた記憶が・・・。 それから、前に、C. S. Lewisは、聖書の話になぞらえてナルニアシリーズを作った、と聞いたことがあったので、それが常に頭の隅にある感じで、「確かにここは聖書っぽい」と思いながら読んでいました。 話の流れはざっと言うと、ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーが新学期が始まると言うので、駅のプラットフォームにいると、突然ナルニアの世界にひきこまれます。そしてどうやらそのナルニアは、4兄弟が王・女王であった時代から遥かに経った時代のようなのです。 そこで出会ったドワーフの話から、カスピアン王子の話を聞くのです。曰く、ナルニアは今や、ピーターたちの知るナルニアではなく、しゃべれる動物やケンタウルスやらそういった動物達が追いやられている時代でした。というのは、Telmarineという人間の種族がやってきて、支配してしまい、そういう者達を追い払ってしまったのです。 カスピアン王子の父親である王は、叔父に殺され(その事をカスピアン王子はしばらく知りません)、その叔父夫婦に育てられていました。カスピアン王子は、かつてのナルニアの話を乳母から聞いて育っていました。それを知った叔父は乳母を追いやるわけですが、その代わりにやってきたのが、教育係のCorneliusでした。彼はドワーフの人間の相の子で、カスピアン王子に密かに、Old Narniaについて伝授します。 そのうち、叔父夫婦に子供ができてしまい、Corneliusの計らいで、カスピアン王子は城から逃げて命拾いします。そして、Old Narniaの仲間たちに出会うのです。ついに、叔父と戦うことになるのですが、如何せん弱い。困った、ということで、女王スーザンが持っていたと言われる、角笛(「ライオンと魔女」でサンタクロースからもらった、吹けば助けが来るというもの)を吹くのです。 そういったわけで、4兄弟はナルニアに呼び出されたわけです。 4兄弟にプラス、アスランも加わり、カスピアン王子軍が勝ちます。 最後にアスランは、Telmarine族に、もしOld Narniaとやっていきたくないのであれば、違う世界を用意しよう、と持ちかけます。その違う世界というのが、ピーターたちの世界で、疑心暗鬼なTelmarineたちにお手本を示す形で、ピーターたちはこの世界に戻ってくるのでした。 なにが聖書っぽいって、アスランが、アスランを信じる人にだけ見える、といったところや、アスランに善人が付いてくる、といったところでしょうか。 それでもやっぱり、アスランはいい!アスランの言葉に、目頭が熱くなることもしばしばでした。かっこいいアスランの言葉の一つを; “Yes, and it wouldn’t have been alone, I know, not if I was with you. But what would have been the good?” Aslan said nothing. “You mean,” said Lucy rather faintly, “that it would have turned out all right --- somehow? But how? Please, Aslan! Am I not to know?” “To know what would have happened, child?” said Aslan. “No. Nobody is ever told that.” “Oh dear,” said Lucy. “But anyone can find out what will happen,” said Aslan. (p149) (C. S. Lewis, “Prince Caspian”, Harper Trophy, 1994)
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この「スノーボール・アース」は、三浦しをんセレクション(三浦しをんさんのエッセイに紹介された本で面白そうなのをピックアップしたリスト)より。 科学の知識がまったくなくても面白い、ということでしたが、まさにその通り!でした。まず、出てくる科学者がものすごく個性的(まあ研究者なんて変人じゃないと務まらないんだろうけど)で、生き様や、ぶつかり合いなどの人間ドラマが面白い。それから、単純に、地球は凍っていた、という学説が出され、それが反証されたり、立証しようとしたり、というのも面白い。そういう学説とかも、とても分かりやすく紹介されているので、本当に面白いのです。 色々抜粋してみると; 四十億年とは気が遠くなるほどの長さであり、想像するのも困難である。…(中略)…地球が誕生してからこれまでの期間を一年とすると、春、夏、秋、ハロウィーンをはるかに過ぎ、冬の初めまで、アメーバに支配されていたことになる。それをさらに天地創造の六日間にまで縮めると、土曜の朝六時までにあたる。マラソンコースにたとえるなら、三十六キロ地点までアメーバー状生物の支配が続く。 しかし私がいちばん好きなイメージは、ジョン・マックフィーのアイディアを借りたものだ。腕を伸ばして球を包むように輪をつくり、それを地球の歴史とする。アメーバの時代は左ひじの前で発生し、左腕全体から体を横切って右肩、前腕、ひじ、そして右手首のあたりまで続いた。地球の歴史のほぼすべてに達するこの長さに匹敵するほど、長く生きたものは他にない。恐竜の時代は、指一本分の長さでしかない。またヒトの存在期間にいたっては、右手の中指の爪をやすりでゆっくりこすりとったくらいだ。(p29-30) こんなに長い間、単細胞生物は生き長らえ、それに不自由のなかったのに、なぜある日突然進化し、高等な生命体がうまれたのか。それが最大なる問題なのです。 それを解く鍵が、「スノーボール・アース」と呼ばれる地球凍結説にあるのではないか?とポール・ホフマンが眼をつけたところから論議が始まるのです。 この本では、この地球凍結説の論議がほとんど取り上げられていて(それくらい地球凍結説は問題だったらしい)、進化のところはほんの一部です。でも、反証され、それを検証の末立証したり、と様々な科学者が取り組んで、一つ一つ解いていかれるのが(もとに戻る事もあるけど)本当にワクワクするのです。 そしてまた、このような事態(大陸が動いたり、凍ったり)が二億五千万年の間にあるかもしれないらしいのです。 われわれの子孫はどうするだろうか。…(中略)… 地球は強力で頑固な暴君だ。わたしたちが使える資源を制限し、大地に関する意志はとても測りがたい。 …(中略)… しかし次の全地球凍結は地上の生物すべてにとって、世界の終焉となるわけではないだろう。それは以前のときと同じだ。破壊的なほどの猛威をふるった前回の全凍結のあとには、空前絶後の新たなる始まりがあった。全地球凍結が生物をどのような方向で進ませるか、いった誰が知ろう。 私たちの地球は、何といっても発明の王者である。地球史を通じて、地球は常に新しい形へと変容し、目を見はるような新しいアイデンティティをたずさえてきた。地球の内部からのぼってくる熱い岩のプレームによって、大陸の表面は絶え間なく形を変えている。山脈が隆起する。別なところでは落ち込む。海がこちらで開き、あちらで閉じる。人間にとっては天災である地震も噴火も津波もすべて、地球が変容しようとする、圧倒的な一部でしかない。頼りない大気でさえ、地球の変化傾向に適応し、変化を拡大する役目を果たしている。変化は地球にとって危険なことではない。それこそが本質なのだ。この地球の一段面を共有する私たち人間や他の動物は、弱き者なのである。(p282-3) これを読むと、「地球にやさしい」という言葉、いかに人間の驕った考えの表れかが分かる気がしました。 (ガブルエル・ウォーカー 「スノーボール・アース 生命大進化をもたらした全地球凍結」 川上紳一・監修 渡会圭子・訳)
久しぶりの恩田陸です。 「木漏れ日に泳ぐ魚」は、出だしがかなり面白くて、非常にワクワクして期待値がマックスの中始まったせいか、なんとなく尻すぼまりな印象を持ってしまいました。 男と女が交互に視点を変える形で、話が進んでいきます。 二人が同居していた所から引越し、それぞれの生活を始める、その前日の夜が舞台となっています。 何がワクワクしたって、二人がお互いにある男を殺したのではないか?と疑っている所から話が始まるのです。読者は、最初の方は、二人の名前を知らなければ、二人がどういう関係なのかも分かりません。そして、事故死として片付けられていて、問題になっている男の死、というのがどういう状況で起こったのか、とか、その男は誰か分からないまま、しばらく話が進むのです。 当たり前の事ながら、話が進むほどに話が見えてくるのですが…。その明るみになってくる事実というのが、なんとなくありきたりなのです。残念なことに。 まずこの二人ですが、カップルかと思いきや、双子の兄弟だったのです。そして、生き別れの兄弟で、偶然に大学で知り合ったのです。 対する死んでしまった男というのは、二人の父親だったのです(二人が生まれる前に離婚したので、父親は子供の存在を知らない)。二人は、父親が山でガイドの仕事をしているのを風の便りで知っていて、二人でその山に登ることにするのです。その時に、父親を指定するわけではないけれども、偶然にも彼が当たるのです。 ありきたりに感じたところは、まず生き別れの兄妹話にありがちなことに、二人は恋に落ちるのです。それでもって、話が進むうちになんとなく、もしかしてこの女の方は、本当の妹でなく、つまり“すりかわり”があったのではないかな、と思っていたら、ドンピシャでした。 しかも、それが分かってからの女の豹変ぶりがなんか腹立たしかったし。 あと、結局父親であるガイドの死の真相が、いまいちはっきりしないので(二人の中で結論みたいのは出るけれども、それも推測にすぎないので)、そこもモヤモヤ感が残る要因となりました。 とまあ、文句ばかり書いてしまいましたが、今、これを書くにあたり、パラパラ読み返したら、そんな悪くない気がしてきました。どうやら期待値が高すぎたみたいです。ある夏の一夜に、お互いが犯人なのではないか、という強固な仮説が壊れていくのを皮切りに、すべてが壊れていく様が描かれているのが面白いかもしれません。それは時間軸に関係なく、回想も含めると、本当に様々な想いが壊れていっているのです。例えば、彼らは強固に自分達は兄弟として想いあっているのだ、と思っているのですが、それが男女の恋に変わります。そこから兄弟である、という事実が壊れ、それから恋が壊れるのです。 それがとりとめないような雰囲気で描かれていて、そんな雰囲気が夏の夜の気だるい感じにマッチしているように思えてきました。 そんな中で印象的なのは; 食料品というのはこんなに重いものなのか。 そう思ったのは、高校を卒業してアパート暮らしを始めた時だった。…(中略)… ジャガイモに玉ねぎ、キャベツにリンゴ。サラダオイルにツナの缶詰。 食料品とは、イコール生き物なのだ。生き物はこんなに思いのだ。 …(中略)… 彼<サークルの友人>が買い物に行くと、いつもカップラーメンやスナック菓子ばかり選ぶので、ビニール袋はひどくかさばっていたが、受け取るとその軽さに戸惑った。 こっちは生きてない食べ物なんだな。 カップラーメンの新商品を嬉々として説明する友人を見ながら、そんなことをぼんやり考えたことを覚えている。(p22-23) 何気ないところでハッとさせられることが多い気がします。 (恩田陸 「木漏れ日に泳ぐ魚」 中央公論新社 2007年)
子供の頃、本を選ぶ基準の必須項目に、表紙の絵と挿絵が入っていました。それくらい本の装丁は、私にとって今も大事です。それが選ぶ基準になることはこの頃、少なくなってきましたが、それでもまったくないとは言い切れない気がします。 そんなこんなで、久しぶりに装丁で飛びついてしまった本が表れました。それは高田崇史の「毒草師」でした。絵だけではなくて、タイトルに大変ひかれたのですが、何せお金がないのでせいぜい買える本といえば文庫本。ということで、図書館で借りようと思ったのですが、それが入るのに時間がかかり…。 その待ちの時間に色々と妄想してしまいましたよ。内容はまったく知らない状態だったので、「毒草師」から妄想したのですが、舞台は平安時代かその後期くらい、毒草から毒薬を作ったり解毒剤を作ったりというのを生業にしている“毒草師”が活躍していて、ベテランの毒草師が権力抗争にまきこまれ……みたいのを想像していました。 ところがどっこい。 舞台は現代。そしていわるゆるミステリー小説でした。高田崇史が好きで散々読んでいて、彼が推理小説家というのをいやっていうほど知っているはずなのに、なぜか何故か「毒草師」が推理小説だと爪の先ほども思っていませんでした。 というわけで、私の妄想とはかけ離れた話だったのです。 主人公は西田真規は、医療業界系のものを扱う出版社に勤めていますが、上司からの命令で、その頃起きた不可解な事件に首をつっこむはめになります。 その事件というのは鬼田山家の離れにある密室から人が消えてしまったというものでした。実は以前にも密室から人が消えてしまう事件がおきていて、まずはその家の主人が消えてしまい、その後に隅田川で死体で見つかり、それからまた娘が消えてしまったのです。そして今回は主人の後妻(娘は先妻との子だった)が消えてしまったのです。 そして消えるたびに出てくるのが、“一つ目の鬼”でした。 西田は、隣に住む自称“毒草師”の変人、御名形史紋にこの話を持ち込むことによって、彼をこの事件に巻き込むこととなります。 事件は、高田崇史特有の、歴史の謎にからめて進んでいきます。今回は、在原業平と「伊勢物語」に絡んでいました。しかも探偵役(御名形)が変人でとらえどころがない、というところもQEDに似ていました。 でもQEDシリーズのように、歴史の謎を深めていくことはなく、推理小説の要素が幾分強かったような気がしました。 でもなんとなく、もっと“毒草師”の設定を生かして欲しかったです。もっと毒草がメインになるとか… 「毒草師」のタイトルにひかれた為か、そこのところが物足りなく思いました。 最後に祟ならぬ御名形のうんちくを。「伊勢物語」の鬼一口の話にて; 「よみ人知らず?」 「ご存知でしょうか」 …(中略)… 「…(中略)…つまり本当は、その歌を詠んだ人間は誰なのか判明している。しかし、その人間の位階が余りにも低かったために、彼あるいは彼女は、その歌集に名前すら載せてもらえなかったということです。実際には『よみ人知らず』の歌のかなりの部分が、この部類と考えても良いでしょう。当時、殿上人未満は『人』ではなかったわけですからね。そんな『人でなし』には、当然名前などないだろうし、あったところで私が知っているわけでもない―――という、貴族たちの傲慢な心が、この『よみ人知らず』という名称を生み出したんです…(中略)… つまり、この場合の業平も同じです。その夜、芥川のほとりを走った殿上人は二人。その他には、弓や胡籙(やなぐい)を背負った『人』でないモノが一人か二人。ひょっとしたら、もっと大勢だったかも知れません。記録にすら残らないのだから、全く分からない。しかし、そのために、さっきのようにあり得ない状況が出来上がったというわけです。しかし当時の人たちにしてみれば、余りにも当然のことなので、わざわざ改めて説明するまでもなかったというわけです」(p253-254) (高田崇史 「毒草師」幻冬社 2007年)
猫好きでしょ、という言葉と共にもらったのが「猫語の教科書」でした。 感想は常に… かわえええええええええええええ!!! というものでした。 本の設定は、ある家猫が、若い猫たちにどうやって人間の家をのっとるのか、を書いた、いわゆるhow to本になっています。それを人間語に訳したのがこの本、というわけです。 この本の目次を見るだけで面白いのです; 第1章 人間の家をのっとる方法 第2章 人間ってどういう生き物? 第3章 猫の持ち物、猫の居場所 第4章 獣医にかかるとき 第5章 おいしいものを食べるには 第6章 食卓でのおすそわけ 第7章 魅惑の表情をつくる 第8章 ドアをどうする? などなど・・・ 本当にこの猫ってば、したたか。何しろ人間をしつけているわけです。 こんな本が出てしまうというのは、そのまま、猫の魅力はこういうところにある、ということではないでしょうか?つまり、猫っていうのは、一体何を考えているのか分かりづらく、気まぐれで、犬とはまったく違って、そこがいいわけです。そしてそんな猫の性質に魅力を感じつつも、猫好きとしては、なんとかして猫の隠された(と思える)部分を解明したくてしょうがない、というのが表れた結果がこの本ではないでしょうか? こんなしたたかで、性格の悪い猫なのに、かわいい!と思ってしまうのは、やっぱり猫にしつけられてしまっている証拠なのでしょうか? (スザンヌ・サース 「猫語の教科書」 灰島かり・訳 筑摩書房 1995年)