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がらくたにっき |

一番の憎む相手は、バルサの父ではないか…?とちょっと思う

前作の面白さに、すっかり図書館の児童コーナーに入るのにためらわなくなり、さっそく借りてきた「闇の守り人」。そしてこれも面白くて、休みに入ったことをいいことに一気読みしてしまいました。
あ、図書館はもうしばらく開いてないから、続きは読めないというのに・・・

今回の話は、バルサが自分の生まれた国に戻り、自分の心の傷を治すために、今一度その傷に向き合う、という話でした。
前作にもバルサの生い立ちは出てきたのですが、バルサは新ヨゴ皇国を山越えしたところ、カンバル王国の生まれでした。母は小さい時になくなり、父はカンバル王ナグルの主治医でした。しかし、ナグルは病弱で、その次の座を狙う弟、ログサムは腹黒いやつで、バルサの父を脅してナグルを毒殺させます。
自分の身と、そして何より娘の身を案じたバルサの父は、親友で王の槍の一人であるジグロにバルサを託すのでした。
そうして、バルサはジグロと共に、追っ手をかわしながらの逃亡生活を始めるのでした。

そんなバルサの過去が、バルサを陰謀に巻き込むこととなります。
その陰謀というのは、<ルイシャ贈りの儀式>をめぐってのもので、ジグロの弟ユグロによって企てられたものでした。
この<ルイシャ贈りの儀式>というのは、山の地下に住む、山の王からルイシャ<青光石>を賜る儀式で、山ばかりで貧しいカンバルにとって何年かに1度の大事な儀式でした。
このカンバルを囲む山の中というのは、ヒョウル<闇の守り人>というものがひしめく、恐ろしい所であったので、<ルイシャ贈りの儀式>で王と9名の王の槍、そしてその従者が入る以外、禁じられている場所でもありました。

一番印象的だったのは、やはり山場。バルサがヒョウルと<ルイシャ贈りの儀式>にて戦うシーンです。
ヒョウルは実は元王の槍の人たちで、つまりはジグロ、そしてバルサとジグロを追ってジグロに殺された他8名の王の槍(つまりジグロの友達)だったのです。
そのジグロのヒョウルと戦うシーンは何度読んでも身をつまされます;
 
 (わたしは、うまれてこなければよかったというのか?それとも、自分で死ねばよかったとでも?)
 それは、むきだしの怒りだった。心の底にかくしてきた―自分にさえ、かくしてきた怒りが、おさえようもなくふきだして、バルサは、くるったようないきおいで槍をふるった。…(中略)…
 (あんた、知らないとでも思っていたのか?友を殺すたびに、わたしは、あんたがわたしをうらんでいるのを感じていた。―ずっと、感じていたんだ。)
 バルサのさけびは、じっと槍舞いをみつめている。八人のヒョウル<闇の守り人>たちへもむけられた。…(中略)…
 (……あんたが死んだあとも、わたしは、ずっと、その重荷をおって、生きてきたんだ!)…(中略)…
 バルサの槍にはねあげられて、ジグロの胸に、ぽっかりと大きなすきができた。
 あの胸に槍をつきこめば、ジグロが消える。
 バルサは、闇のなかで、自分をみつめているジグロの目を、みたような気がした。
 おれを殺せ―という声が、きこえたような気がした。
 その怒りのすべてをこめて、おれを殺せ。そして、怒りのむこう側へつきぬけろ……と。
 そのとたん、怒りにさらされてかわききった砂地に、ぽつり、ぽつりと雨がふりはじめたように、なまあたたかい哀しみが、胸にあふれてきた。
 みぞれがふる寒い夜に、商家の軒下の泥のなかで、こごえながらねむったおさない日、自分をしっかりとつつみこむようにだきしめてくれていた、ジグロのにおいと、ぬくもりとが、肌によみがえってきた。
 かなしみをかかえながら―苦しみに、うめきながら―ジグロは、それでも、ずっとバルサをかかえ、だきしめて、生きてきたのだ……。(p332-334)

この話の最大の魅力は、人々の哀しみみたいのが、美化されたりおセンチな感じで書かれていなくて、それでいて最後には、それを乗り越えていくさまがきっちり描かれていることだと思います。

話の筋とは関係ありませんが、今作は、ファンタジー度が上がってて(私見ですが)、カンバル国の食べ物やら服がばんばん出てくるは、山の底の民やティティ・ラン<オコジョを駆る狩人>やら出てきました。
あと新ヨゴ皇国と違いをつけるためか、カンバル”王”国であり、帝ではなく王でした。
というのに目がいくようになったのは、大人になったということでしょうかね(意味不明ですが)。

何はともあれ、ああ、早く3作目が読みたい。

(上橋菜穂子 「闇の守り人」 1999年 偕成社)

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挿絵のバルサの後れ毛がどうも気に食わない私(細かいが)

ずっと気になっていた本だったのですが、なかなか機会がなく(というか、図書館で児童図書コーナーに行く勇気がなく)、ずるずる読まないままこのまま来ていた本、それが「精霊の守り人」by上橋菜穂子

読んでいる最中、この本が読めてよかった!と思える本はなかなかないものですが、この本はその稀なる本でした。本当に面白かった!!
子供の頃に読んでいたらもっとはまって、一気に読み終えていたところでしょう。

主人公は女用心棒のバルサ。あらすじを読んだ時に、女用心棒と読んで「どうせ若い美人用心棒で、ファンタジーによく出てくる類のんじゃないの?」と思っていたのですが、どころがどっこい30超えたベテラン女用心棒でした。そこも何気にツボでした。

舞台は新ヨゴ皇国(おうこく)。バルサが第二皇子チャグムを助けたところから話が始まります。
この皇子、この頃奇行が目立ち、それはどうやら何かに取りつかれているようなのです。そのため、父である帝に命を狙われることとなり、母である妃はチャグムをバルサに託すのでした。

そのチャグムに宿っているものというのは、この世のものではなく、土着の民ヤクーが”ナユグ”と呼ぶ世界に住む”ニュンガ・ロ・イム(水の守り手)”の卵だったのです。
ところがこの卵のやっかいなところは、それを好物にするラルンガというものがいて、そいつに食べられてしまうと、その卵を宿らせているニュンガ・ロ・チャガ(精霊の守り人)も死んでしまえば、その後旱魃が起きてしまうのです。

そんなわけで、チャングムは都からの追っ手とラルンガから逃れるため、バルサとその幼馴染のタンダ、そしてタンダの師匠で呪術師トロガイと共に旅をすることになるのです。


と書くと、陳腐な感じですが、本当に面白い。
作者は文化人類学者のためか、神話がどのように作られていくのか、ということまで言及されているのもこの話をユニークにしていると思います。つまりは、歴史(神話)は勝者が作られていく、ということが書かれていて、それを登場人物たちが解き明かしていくさまは、なかなか他にはないと思いました。
また、各民族によって持つ神話は異なり、そのため考え方が異なれば、つまり神話が違うということは、様々な世界観が存在する、ということも描かれていたと思います。

あとちょっと面白いなと思ったのが、チャグムだとかバルサだとかヨゴ皇国だとか、カタカナ文字の名前が連なっているのに、地名は鳥影橋だとか青弓川だとか日本名っぽいのも面白かった。帝だし。
カタカナ文字と日本名が持つ雰囲気を混在することで、多国籍っぽい雰囲気を出したかったのでしょうか?

最後に、チャグムが時期帝にならなくてはいけないと決まった時の場面より;

「・・・・・・わたしとにげるかい?チャグム。」
 バルサのかすれ声に、兵士たちが、はっと身がまえた。バルサはわらっていた。
「え?ひとあばれしてやろうか?」
 チャグムは、バルサをみあげて、しゃくりあげた。バルサがなにをいいたいのか、チャグムにはわかった。…(中略)…
 チャグムは目をとじ、しゃくりあげをとめようと、大きく息をすった。おもいがけぬ鮮烈さで、木々のにおいが鼻にすいこまれてきた。しかし、ずっと感じていたシグ・サルアのにおいは、自分のからだからきれいにきえてしまっていた。もう、みようとしてもナユグはみえない。ニュンガ・ロ・イム<水の守り手>の卵はいってしまったのだ。―自分のなかで、ひとつのときがおわったことを、チャグムは感じた。
 自分でのぞんだわけでもなく、ニュンガ・ロ・チャガ<精霊の守り人>にされ、いままた、自分でのぞんだわけでもなく、皇太子にされていく。―自分をいやおうなしにうごかしてしまう、この大きななにかに、チャグムははげしい怒りを感じた。
 だが、そのいっぽうで、みょうにさえざえと、さめた気持ちも感じていた。それは、あのナユグの冷たく、広大な風景のなかで感じていた気持ちににていた。チャグムは生涯、この気持ちを心の底にもちつづけることとなる。(p314-315)

早く図書館に行って、続きを借りたいものです。

(上橋菜穂子 「精霊の守り人」 1996年 偕成社)

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映画のキャスティングは結構合ってると思う(観てないけど)

お目当ての本が図書館で見つからず、映画化されてポスターとかを良く見ていたからだろう、ふと目がとまったのが浅田次郎の「憑神」。
実は浅田次郎の本って「鉄道員」と「蒼穹の昴 上」しか読んだことがないけれども、この人の本って読みやすいですよね。
あまり妻夫木聡が好きでないので、映画はもともと観る気がなかったのですが、本を読んでからちょと観たくなりました。3人もの疫病神に憑かれる役なんて、妻夫木さん、うまそうじゃないですか(ほめているんだかけなしているんだか)

それはさておき、内容はというと、時は幕末、非常に不運な御徒士別所彦四郎が、三巡神社に手を合わせてしまったがゆえに、三人の疫病神に取りつかれるというお話です。
この別所彦四郎、武士の次男に生まれたのがまず不幸(だと思う)。学道、武術に長けていてもお役につくことはできず、でもちょっと幸運なことに、もう少し身分の高いところに婿養子に入ることができたのでした。でも、その幸運も長くは続かずに、男の子が生まれたとたんに、舅に難癖をつけられ、離縁させられてしまったのでした。
実家、というか兄夫婦の家の居候になってしまい、気分がくさくさしている時、ひょんなことから三巡神社に手を合わせてしまい、神に憑かれ、やった!と思ったらそいつは貧乏神だったのでした・・・

ところがこの神様、彦四郎を不憫に思って、とっておきの回避の仕方を教えてくれます。それが「宿替え」といって、取り憑く先を変えるというものでした。
とりあえず、貧乏神には憎い舅に行ってもらい、次に来た疫病神には、お役をまったくきちんと行わなくて、そのお役を取られそうになってしまっている別所家長男の兄に行ってもらい、そして死神はというと・・・
ということろで、幕末という時代が出てきます(それまですっかり忘れてたけど)。実際は大政奉還も終わり(いつの間にか)、鳥羽伏見の戦いで散々になったところで、つまりそういう時代に彦四郎は自分の死に様を探すのでした。

わたくし、どうも彦四郎が好きになれずに終わってしまいました。確かに、3人の神様に同情されるくらいの災難続きだけれども、どうも神様含め他の人が思っているように立派な人格者のようには見えない。
人が好いと言われはするけれども、他の人にちょっと強く勧められるとすぐに宿替り先を指定してしまうし。
まあ、なんというか。ちょっと軽くて時代背景を含め、人物があんまり書かれていなかったせいかもしれません、この感情移入のなさ。
最後の部分は、彦四郎の武士らしさが出てきて良かったのですが。例えば;

(権現様から頂いたといわれる、先祖代々の家宝の刀を砥ぎに出したら、それが実は贋作だと伝えられたシーンにて)
「しかし、わが祖はこの御刀を畏くも権現様より―」
「それを言うな。どういう言い伝えがあろうと、言葉に形はない…(中略)…さて、どういたすかの」
 と、喜仙堂はしおたれる彦四郎に答えを求めた。金と手間をかけて研ぎ上げるほどの刀ではないが、どうする、というふうに聞こえた。…(中略)…
「ご亭主に申し上げる」
 考えに考えた末、彦四郎はやはりこれしかないと思い定めた意志を口にした。
「おっしゃる通り、言葉に形はこざらぬ。伝承の真意を証すものは、形あるこの刀でござる。しかし、形なき言葉には、信ずる者の心がこもっており申す。よしんば刀が贋物にせよ、伝承が嘘にせよ、そうと信じて勧め(つとめ)力めた(つとめた)祖宗の心にまさる真実はござりますまい。その努力精進さえも過ちと断ずる勇気を、拙者は持ちませぬ。たとえ天下の目利きがこぞって贋物と鑑じましても、別所の家に生まれ育った侍にとって、この御刀は正真正銘の御紋康継にござりまする。畏くも東照神君より賜った、葵下坂の名刀にござりまする。どうか、ご亭主もそうと信じてお研ぎ下されよ」(p192-193)

さすが建前の文化の武士。哀れにも感じるけれども、侍小説好きの者にとっては、こういう心意気がたまらない。
あと、ちょっと横道にそれるけれど、ちょっと面白い士農工商の話があったのでそれも;

「世の中には士農工商という身分の定めがあるがの、正しくは武士がその他の人々の上位に置かれており、農工商はひとからげの庶民なのだ。ただし、武士が偉いわけではない。平時には政をなし、戦さの折には軍役を果たすのが武士の務めであるからして、偉そうに見えるだけなのだ。ゆえに、かような飢渇せる庶民に対して、武士は憐れんではならぬ。珍しがっても、忌み嫌ってもならぬ。申しわけなしとみずからの不行き届きを恥ずるのが、武士たるものだ」(p200-201)

こういうようなシーンがもっと早くに出てきたらよかったのにな。
とまあ、偉そうに言いつつも、ちゃっかり楽しみ、ちゃっかり映画も観たいな、と思ったのでした。

(浅田次郎 「憑神」 2005年 新潮社)

Category : 小説:歴史
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ギリシアから本当に泳いで帰ったらふやけそうだ

三浦しをん姉さんお勧め本リストのストックから一冊;「泳いで帰れ」by奥田英朗

なかなか個性的な(?)なタイトルから察せられる通り、文章全体からにじみでるおもしろさがたまりませんでした。
内容はというと、アテネオリンピック(ということは前の前のオリンピックですな)の野球を見に行こう!という名目で、作家・奥田英朗(出不精)がアテネまで行ってしまう旅行記です。
直木賞まで取られているそうですが、お恥ずかしながらお名前も知りませんでした。すみません。でも、これは面白かった!

アテネオリンピックなんて記憶がおぼろげで。というかその時は国外にいたものだから(しかもあんまりオリンピックに興味のない国)、オリンピック気分にひたってなかったので余計記憶にないのでしょう。
でもゴールドラッシュだったのは覚えています。あと、オリンピックのメインスタジオは果たして仕上がるのか!?と心配されていたことも。

それはともかく、どうしてこう作家って旅をこんなに面白く書けるのでしょう?(作家だからという答えはなしに)
多分、私が同じくアテネオリンピックに行ったとしても、こんな面白くレポートできる気はまったくしません。
奥田さん本人が書くように”海外旅行の土産話は、その大半が五割増しで語られる(p5)”から、この旅行記も実際より面白く書いてあるのかもしれません。でもやっぱり、楽しい旅をして、それでもって楽しい旅行記を書けるなんていいよなぁ~と思ってしまうのでした。

奥田さんが書いていることいえば、簡単に言ったら、オリンピックを参戦して、ギリシアの暑さに辟易して、ビールを飲んで、クルーズに行って、日本人と他国の人の違いをひしひしと感じて、最後には負けた日本の野球チームにぷんぷんして終わっているわけですが、それを面白く書けるってさすがだなぁ~と妙に感心してしまったのでした。

まあ、しきりに感心してみせたのは、そうじゃないと「ずる~~~~い!!!!!私もギリシアに行きたい(オリンピックはいいけど)!!!!!」という気持ちが噴出しそうだったからでした、はい。奥田さんよりは旅行好きなのでね。


日本人と他国の人との違いといえば、オリンピックという性質上のためか、席取りから知る違いが面白かったです;
 
 世界の国境線がどうやってできたのか、なんとなくわかった気がした。日本人の感覚では、自分が一歩引けば向こうも引くと期待する。しかし世界はそうではない。一歩引けば、向こうは踏み込んでくる。国境線は話し合いで決められたわけではない。戦争の末だ。熾烈な鍔迫り合いの結果、生まれた線なのだ。(p80)

(奥田英朗 「泳いで帰れ」 2004年 光文社)

Category : 随筆
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原題の『水の通う回路』の方がいいタイトルだと思う

先輩から借りた松岡圭祐作品第三弾、「バグ」。今回借りた三冊の中で一番面白かった気がします。

話の発端は、小学生が突然刃物で自分のお腹を突き刺し、自殺をはかるというショッキングなところから始まります。
そして、それはその子だけに留まらず、全国的にあちこちで子供達が自殺をはかるという事象が起きるのです。そして、その子たちが決まって言うのが、黒いコートの男が追いかけてくる、というものでした。もちろんそんな男はいなくて(全国で同時に現れるわけないし)、運ばれた病院で検査しても薬物を投与した形跡もない。
そうしているうちに見つけ出された共通点というのが、フォレスト・コンピュータ・エンターテイメント社のアクセラ4というゲームで遊んだということでした。
そこから、フォレスト・コンピュータ・エンターテイメント社の創業者で社長の桐生に焦点があたって話が進んでいきます。
社員で凄腕のプログラマー津久井が、ライバル社と内通している疑いがあって・・・

と次々に襲ってくる、会社の危機。それに立ち向かうのは、社長としてはちょっと甘いところがある桐生。その桐生の人柄が実に“普通の人”(子供のけんかの仲裁が下手だったりとか)で、親近感がわくためか、ひたすら応援していました。特に、津久井のことを信じたいけれども、信じきれず、それでもなんとか信じよう、という心の揺れの部分は、妙に共感してしまい、そのためか津久井のことを憎みきれずもやはり「津久井、お願いだからお前の心のうちを社長に言ってやれ!」となじりたくなったのでした。

最後に明かされる、黒いコートの男と怯える子供達の件についての真相は、拍子抜けで納得のいかないところもあったし、しかもやっぱり「主人公の近しい人が犯人」という法則でした。でも今回の犯人は、あまり主要人物でなかったので大して打撃もなければ、そもそも、真相に行き着くまでのプロセスが面白かったので、自分の中で最後がいくらあれでも満足感がありました。

最後に「水のはいった袋」と「水の通う回路」という面白い話があったので;

 水のはいった袋は人体、水の通う回路は人間の脳。…(中略)…少年(注:最初に自殺未遂した子供)は人間の本質論を求めていたのだ。
 少年が最も知りたがっていた疑問は、ひとつの質問に集約されている。なぜ袋じゃなきゃだめなの。少年はそういった。すなわち、人間はなぜこんな形をしているのか。なぜ、水のはいった袋でなければならないのか。そして、その水のはいった袋は、用意なことで壊れてしまう。壊れると、水の通う回路が機能しなくなる。すなわち死んでしまう。しかも、水のはいった袋は罪をかさねていくようにできている。すなわち、ほかの生命を殺して吸収する、食べるという行為をくりかえさねばならない。だが、罪をかさねてまで、なんのために生きているのかさだかではない。そこで少年は生きている意味はないと考えた。だがそれを受けいれるためには自分の死を容認しなければならない。それは恐怖をともなう。だがしょせん水の通う回路がつくりだした幻想だと考えられる。だから恐怖という感情をまやかしだと決めつけた。意識から締め出そうとした。しかし、人間が恐怖を感じなくなる事はありえない。(p534)

(松岡圭祐 「バグ」 2001年 徳間書店)

Category : 小説:現代
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表紙の写真の女の人、よく見るとあんまり美人じゃない

多分書評だか、誰々さん(有名人かなんか)のオススメの本ということでメモをしていた「綺譚集」by津原泰水(やすみ)。でもそこでの紹介文をまったく記憶していないので、その時の私が何を基準に「おもしろそう」と思ってメモをしたのか謎で、つまり「なんでこんな本をメモったんだろう」というくらい私の趣味じゃない本だったのでした。

短編集で、収録作品は;
天使解体
サイレン
夜のジャミラ
赤假面傅(せっかめんでん)
玄い森の底から
アクアポリス
脛骨
聖戦の記録
黄昏抜歯
約束
安珠の水
アルバトロス
古傷と太陽
ドービニィの庭で
隣のマキノさん
でした。

耽美小説というのか、幻想小説というのか、とにかく雑食な私としては、機会があったら読むけれども、自分からは読まないという類でした。実際、読んでるときは、さっさと終わってくれとばかりに、だーっと速読の勢いだったし。
大体こういう類の本って、やたらと旧字体を使ってみたり、死体とか腐敗物をむやみにきれいに書いてみたりとか、神経症の主人公だったりとか・・・そういうお決まりのものが出てきて、いかにも“これは耽美/幻想小説です!!”という感じがどうも苦手なのです。

と文句をたらたら書いたところで、しばらく日にちが経ってしまったのですが。
不思議なもんです。その間に読み終わった本とか読みかけの本があるのに、なぜか時々ふと思いだすのはこの短編集の話。
事故でお腹がさかれちゃった女の子の腹をもっと破るなんて最低すぎる(天使解体)だとか、美しい物/者にキスをして美のエッセンスを吸い取って、キャンバスにその美を投影する話(赤假面傅)とか、それ(玄い森の底から)を読んでやっぱり書道って面白そうと思ったこととか、交通事故にあって右足を亡くした知り合いの、その右足を事故現場で見つけてずっと持っておく話(脛骨)、結局主人公は犬なの?意味分からなすぎる、てかヒロスエリョウコとかそういうのって狙いすぎだろ(聖戦の記録)!とか、歯が痛くて痛くて、というくだりとか、その話のとりとめなさが夢っぽかったな(黄昏抜歯)とか、ぼつんぼつんと思い出すのでした。

記憶に残る本=良い本/自分好みの本、とは思わないけれども、あまり好きではないと言いつつも、少なからずとも私に影響を与えた本なのでしょう。

妙に「脛骨」が記憶に残っているので一節を;
「流されちゃったのかもしれない、あたしの屍体」
「屍体とはいわないんじゃないの」わたしは無遠慮にいい返した。「多恵さんはここで、まだちゃんと生きてるんだから」
「だって屍体じゃない。ほかになんていうの。善福寺川のよどみでぷかぷか上下しながら、むくんで、腐って、どろどろした汚い汁を滲みださせてるものが、この生きてる左脚と同じものだっていうの…(中略)…いまもはっきりと右脚の感覚があるの。足首を伸ばしたり、指を開いたり閉じたり、たしかにできるのよ。でもその足首も指このベッドにはない。じゃああたしが動かしてるのは、川面に浮かんだその腐ったものなのかしら。それともそこから抜けだした脚の亡霊なのかしら。…(中略)…」
…(中略)…
 人体から切り離されて朽ちていく右脚というものを、ただマネキンのそれのように物体として捉えるべきなのか、それともあの世のものとして拝むべきなのか、わたしにもまるで判断がつかなかった。切った髪ならそのうち存在を忘れてしまうし、時間が経てばまた同じ長さに伸びてくる。しかし脚となるとそうはいかない。
 物理的には死んでいる右脚だが、それが生きている多恵に帰属しているのは間違いない。感情のうえのみならず、たぶん法的にもそういうことになるのだろう。彼女はいま生きながらにして、死んだ肉体を所有しているのだ。(p107-108)

もう一節。今大変興味のある書道について;
 もしそちらに、意義のあるほうへと筆が引きずられれば、書はたやすく堕落する。岡本太郎の漢字をモチーフにした連作がどうにもいただけないのは、書の伝統美から逃れようとして意義におもねってしまっているからだ。…(中略)…
 かといって意義から脱すれば、それはもはや書ではない。書というのは読まれる、読めるものであり、そのいみでは羅針盤のように明快なのだ。方角を定められずにぐるぐると廻りつづける羅針盤を、進化した羅針盤と重宝がる人はありまい。(p78)

(津原泰水 「綺譚集」 2004年 集英社) 

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どうも分類しにくいので、カテゴリは「現代」で

先輩から借りた松岡圭祐本第二弾:「霊柩車 No.4」。
それにしてもちょいと恥ずかしい題名でないか、これ。霊柩車ってので、なんとなく外に見せづらく、ブックカバーをかけてたから、大して気にしてなかったけど、改めてみると恥ずかしいよ~

今回の主人公は性別変わって、霊柩車ドライバー伶座彰光。死体を乗せながら、その死体の死因を当てたりまでしてしまう。
というような最初のエピソードを読んで、霊柩車ドライバーを探偵に仕立て上げた探偵小説なのかと思いきや、どちらかというとハードボイルドチックな話でした。
最初のエピソードは何だったんだーと思うくらい、次の霊柩車の客から話が一変していきます。
婚約者の死をきっかけに伶座と知り合ったいわゆる女子アナの安倍香織は、伶座からの影響もあって、ある病院の不正を暴こうとします。それと同時進行に伶座の過去が語られ、曰く伶座の妻は車にひかれて亡くなってしまった。ところが、伶座は裁判に負けてしまい、犯人は罪を問われることなく自由の身に。その二つが交わって、ある事柄が解明されていくのでした。

ところで、先輩が松岡圭祐の話をしたときに、「まぁ、始めは面白かったんだけどね。あの人の話ってパターンがあって、主人公が懇意にしている人が犯人だという・・・」と言っていましたが、まさにその通り!!
先に読んだ「千里眼」と驚くほど構成が似ている。
岬美由紀が伶座だったら、最初は嫌がっていたが生き抜く同士となる蒲生は香織。それから美由紀が崇拝していた友里先生は、住職兼火葬場主の今村でしょう。主人公が懇意にしていた人に裏切られる構成が似ていれば、裏切られて人間不信になってしまうような状況に立った主人公に、心のよりどころを与える人物(しかも最初は主人公が邪険にしたり嫌がったりしている)もいる。あと、主人公が命を狙われ、そこからその心のよりどころパーソンと命からがら逃げるところも似てるかね。

でも最後はちょっと違った様相をしていて、香織が病院の不正を暴こうとしたきっかけになった入院中の少女・由梨華が黒幕らしい・・・というのが最後のほうにちょろりと出てきて、これがシリーズだということがほのめかされていました(実際シリーズなのかは知りませんが)。
あと、最後の章が「序章」となっていたのが、アイディア勝ちって感じでした。

最後に霊柩車がテーマだけに、「死」に関する伶座のセリフを;
 「愚か者、だと?」
 あまり感情を表にださない伶座の顔に、はっきりと憤りのいろが浮かんだ。伶座は語気を強めてまくしたてた。「おまえのほうこそ、壊した物の大きさを知らない!生が幻想にすぎず、死を弔うことは偽善だと?三十万年前のホモ・サピエンスですら死者に花を添えることを忘れなかった。おまえはその旧人以下だ!」(p253)

死生観とか宗教とか云々とかの前に、死を弔うというのは原始的で単純で理屈ぬきの行為なのかもしれないな、と思ったのでした。

この本のしおり:角川文庫の「最先端ミステリー発見。」などと書かれた赤いしおり
 ブックカバー:かぶ(伊右衛門シリーズより)
(松岡圭祐 「霊柩車 No.4」 平成18年 角川文庫)

Category : 小説:現代
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個人的な趣味でいえば女自衛隊の方がいいなぁ

職場の先輩と本の話になって、その話の成り行きで先輩に松岡圭祐著の本三冊を借りました。
まずはと手に取ったのが「千里眼」。

なんというか。最初の方は、その人の文体に慣れないのか、ちょっと読みづらかったです。最初は目線がちょくちょく変わるからかと思っていましたが、最大の原因は本当に簡単な字が漢字で表記されていないってことだったみたいでした。例えば;

 美由紀はため息をついた。「はやくカラーコードをおしえてくれませんか」
 マセッツはあわてたようすでいった。(p84)

というように、小学生レベルの漢字がひらがな表記になっているのです。全体的にみると決して漢字が少ないわけではなく、標準くらいの量でしょう。多分、漢字が多すぎるのを避けるためにひらがなにしたりしているのでしょうが、情景を伝えるような文章(「あわてたようすでいった」)とか、その文章の中で結構大事な情報を持つ単語(「おしえてくれませんか」)がひらがなであるがために読みにくかったのでしょう。
というのは私は、どちらかというと、文章をきちんと読む方ではなく、邪道かもしれませんが漢字をざっと読む傾向があります。特に、こういうハードボイルドではページの隅々までを読むことはなく、スピード重視の読み方になってしまうため、どうしても漢字を読み取る形になってしまうのです。その時、大事な部分がひらがなだと、どうしても読み落としてしまう。
作家の問題というよりは、私の問題かもしれませんが、とりあえず慣れるまでは読みにくかった!

さて内容はというと、主人公は元空軍自衛隊員で現カウンセラーの岬美由紀。
その時、世間を賑わせていた宗教団体恒星天球教が起こす無差別テロを阻止すべく、自衛隊時代の上官から頼まれたことから、美由紀は事件に巻き込まれていくことになります。
美由紀が診ていた女の子が天球教に関わりがあることが分かり、その原因をつきつめていく中で、美由紀に付き纏っていた刑事・蒲生とともに、天球教の教主の正体、そしてその実態を暴いていくのでした。

結局、教主の行方は分からないまま話は幕を閉じるのですが、特に最後のほうの場面は息もつかせぬ勢いで、一気に読み終えてしまいました。
天球教の信者達は脳に施術され、人格がなくなっているなんて、SFまがいで私の趣味には合いませんでしたが、時間がない中、密室状態で(つまり外部に援護を要請できない)、なんとか切り抜いていく場面はドキドキワクワクして、ハードボイルドの醍醐味を実感できました。

カウンセリングと宗教が表裏一体な感じについて;
 「友里先生は尊敬できる人です」
 「それはどうだろう。だが、俺が気になっていたのは、あんたが本心では恒星天球教のようなカルト教団の存在を認めているのか、それとも否定しているのかということだ。いっぽう、あんたたちカウンセラーも集まってきた相談者たちを救おうとする。これは同種のものに思えるんだが、ちがうかね」
…(中略)…
 「…(中略)…科学的に精神面での苦しみを救済する、東京晴海医科大付属病院のカウンセリング科のような機関が存在しなければ、人々は宗教に依存せざるをえなくなってしまいます」
…(中略)…蒲生はため息をついた。「やっぱり宗教の信者とおなじように思えるな。信者もその宗教団体を礼賛しがちだ」
 「意味がちがいます。宗教は、その信者になることが人生にとって最良の道だと説くでしょう。でもカウンセリングは、できれば一生お世話にならないほうがいいんです。」(p351-352)

でも、神をよりどころにしていた昔の人とは違って、科学をよりどころにしている現代人にとって、そういう意味では“科学的に”精神面での苦しみを救済するってのは、現代の宗教ではないのか?カウンセリングは一生お世話にならないほうがいい、と言っても、カウンセリングを認めて欲しいと思っているのであれば、その宗教を認めてと言っているのとも同じではないか?
と一瞬、美由紀に反論してしまいました。
まあ でも、ハードボイルドに真面目な話は向かないと思うので、これはこれ。この辺で。

この本のブックカバー:南天(伊右衛門シリーズ)

(松岡圭祐 「千里眼」 2000年 小学館文庫) 

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野沢さん、ご冥福をお祈りいたします

Amazon.co.jpにてランキングの中に入っていて、しかもいたるところで「著者がハリウッドで映画化を夢見た幻のシリーズ」なんて書かれていたら読むしかない。
それが「殺し屋シュウ」by野沢尚でした。
彼の作品は「破線上のマリス」を読んだことがあるきり、しかもわりといつもあることですが、内容がさっぱり思い出せない。でも面白かった記憶はある。ということで、図書館でなかなか借りれない日が続き、古本屋で見つけたときには迷わず買いました。

その時にあっと思ったのが、文庫版の表紙がニール・ケアリーシリーズの日本語版の表紙の絵の人と同じ!(朝倉めぐみさんと言うらしい)
それがきっかけで、シュウとニールの共通点がちらちら見えて仕方のない一冊でした。

話の内容はというと、そのものずばり、舞台は日本、主人公は普段は大学の職員、でも実は殺し屋のシュウのお話でした。短編になっていて、それぞれのタイトルと内容はご覧の通り;
第1章 ファーザーズ・デイ(そもそもの話の始まり。シュウの父親は悪徳マル暴警官で、あることをきっかけにシュウは父親を殺す事となる。その罪は母親が背負い、シュウは両親の知り合いで、父親のビジネスパートナー(もちろん“悪徳”の部分の)である匠のもとで殺し屋として働くこととなる。)
第2章 マーシー・オブ・サムライ(シュウが殺し屋として特訓を受ける話。そして最初のアサイメントをなんとかやり遂げる。)
第3章 シュート・ミー(薬中で歌えなくなりつつある超人気ロックスター・椎名ゆかを、本人からの依頼により、ライブの最終日、舞台上で殺す話。)
第4章 ショットガン・スコール(やくざの組長からの依頼で、組内で力技という古いやり方を貫き通している部下を殺すことになる。殺した後、その部下こそが組長の父親であり、それを組長も知っていた。)
第5章 スーサイド・ヒル(山荘で一人暮らしをしているかつての映画監督。実はアルツハイマーを患っていて、シュウに毎月一回通ってもらって、もしボケてしまっていたら殺して欲しいと依頼する。)
第6章 ナイト・フラッシャー(高級娼婦が国会議員の危ない情報を得ているとして、客のふりをして暗殺をたくらむ。しかしその寸前で、何者かに彼女は殺されてしまう。)
第7章 キル・ゾーン(人をさらってきて人間狩りをしていた金持ち達。その犠牲者の父親から敵を討って欲しいとの依頼。しかし仕事直前に、依頼者は拷問にかけられた末殺されてしまう。相手方はシュウの恋人をターゲットにする。絶体絶命の危機にたつシュウ。)
エピローグ ニュー・ファミリー・デイ(シュウの母の帰還。シュウとその恋人は結婚する。)

定石となっているのは、シュウの遣う拳銃はいつも違い(7章はライフル)、そして最後はシュウがカクテルを飲んで終わり、というもの。

何がニールと似ているかって、境遇もさながら、その仕事に対するためらいややる気のなさかもしれません。まあ、殺し屋が主人公となる話で、嬉々としてコロシをしているっていうのはなかなかないかもしれませんが。
読んでいる時は「面白い!」と思って、一気に読み終えてしまいましたが、読了後はなんとなくありきたりな話だったな、という印象しか残りませんでした。これが“ハリウッドで映画化を夢見たシリーズ”?とも。それだったらニール・ケアリーシリーズの方が見たいぞ!

と、とことん別の話と比較してしまっては作者に申し訳ないというか、邪道な本の読み方かもしれませんが、自分の心ってのはコントロールしがたいものです。
期待がやたら大きかったぶん、読後の“な~んだ”感は否めませんでした。

(野沢尚 「殺し屋シュウ」 平成17年 幻冬舎文庫)

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やっぱり推理小説好きだ!!!

時間つぶしのためにブックオフで買った「一の殺人」by法月綸太郎。
でもその時は読まなくて、しばらく経って、ふと思い出し、夜寝る前に読んだら止まらない止められない。必死で自分をなだめすかして(翌日も平日だったため)、次の日の電車の中も読みふけり、昼休みをそうそう取って一気に読んだのでした。
このところ、珍しく読書不調が続いていたのが嘘のように一気読み。そして読書の楽しさを再確認したのでした。

さてお話の方はというと、例によって名探偵法月綸太郎が出てきて事件を解決するのですが、今回の視点は法月ではなく、被害者目線でした。

事件は、まちがった子供が誘拐され、結果的に身代金受け渡しがうまくいかなくて、子供が殺されてしまうところから始まります。
主人公は、その誘拐されるはずだった子供の父親で、まちがった子供を誘拐したとは気付いていないらしい犯人より子供を救出するために、東奔西走します。ところが最後の最後で足をすべらせてしまい、頭を打って気絶をしているうちに犯人との約束の時間が過ぎて、子供が殺されることとなるのです。

この誘拐事件をややこしくしているのが、この殺されてしまった子供の母親は、遠い昔の主人公の不倫相手で、その母親曰く、その子供は主人公の息子らしいのです。
そして主人公の子供は、実の息子ではなく、妻の妹(つまり義妹)の子供だったのです。妻と義妹は同じ頃に妊娠し、妻は流産した上に子供を産めない体となり、義妹は子供の命と代償に自分の命を落とすこととなったのでした。その結果、心のバランスを崩した妻を助けるために、義妹の息子(つまり自分の甥)を養子として迎えるのでした。もちろんそれに際し、義妹の夫(つまり義弟)が猛反対し、ただでさえ最愛の妻を亡くして気落ちしているところを、その姉妹の父(つまり義父。そして主人公が勤めている会社の社長でもある)の力も借りて、子供を奪い取り、そのために素行が悪くなった義弟を関西へと追いやるのでした。

そんな背景がある中の誘拐事件で、主人公は当然のように義弟が犯人だと確信を持ちます。
ところが彼には鉄壁のアリバイがあったのでした。それが法月綸太郎と一日中一緒にいたというものだったのです。

それでも信じられない主人公は、義弟の家に忍び入り証拠を探そうとしているところを、義弟が帰ってきてしまって、またもや殴られ気絶してしまいます。
そして意識を取り戻した時には、義弟が死体となっていたのでした。

そこから法月綸太郎の力も借りつつ、主人公は犯人探しを始めるのでした。


犯人は、私も怪しいな・・・と思っていた人だったのですが、よく考えたら、登場人物のほとんどを「この人怪しい・・・」と必ず一回は思っていたので、当たり前といえば当たり前でした。
そして、この前に読んだ法月作品でもそうだったのですが、なんとも後味の悪い作品でした。後味が悪いというより、最後に哀しい気持ちというか、やりきれない気持ちが残る作品といった方がいいかもしれません。それは、主人公はある人のために、またその人の(自分も入っていますが)幸福の為に犯人探しをしていたのに、それが全く報われない結果になってしまったせいもあるかもしれませんが、何よりも、その犯罪が犯人の心の弱さから来たものだったからかもしれません。

やはり人間の弱さだとか、人間の暗いところなどを、推理小説に巧みに織り込むとなれば、法月綸太郎の右に出るものはないと思います。
というか、推理小説で犯人もトリックもわかってすっきりするところが、やりきれなさだとか空しさで読了後、ずーんと来るのは彼の小説くらいかも・・・

大体最後に主人公が犯人に語りかける(心の中で)言葉なんて;

 いや、わたしを許すな。わたしを憎め。わたしを愛したことを呪うがいい。わたしは罪深い男だ。愚かな男だ。おまえを愛していると言いながら、おまえの痛みに気づかなかった。おまえに苦しみを与えていながら、それに気づかぬふりをした。とうとうおまえを見殺しにしたのだ。一生をかけても、償いきれるものではない。ならば、おまえの憎しみを引き受けよう。おまえひとりではない。わたしに関わって不幸になった者、死んでいった者、全ての憎しみと怨念をこの身に課すがいい。(p340)

暗い、暗すぎる!!!
やっぱり法月綸太郎は「悩めるリンタロウ少年」だ・・・

(法月綸太郎 「一の悲劇」 平成8年 祥伝社文庫)

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