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がらくたにっき |

表紙の模様は幸田文のお気に入りの着物の柄らしい

実は幸田露伴の作品を一冊も読んだことがない。でも露伴が何を書いたかを知っているし、その作品の一場面を思い描くことができる。そう思うと「文豪」という単語が思い浮かんでくるのだが、それでもこれは露伴を“知っている”とは言えないだろう。
そういう意味でいえば、その娘の幸田文を知っているし、その孫の青木玉も知っている。
だから幸田文の書いた「父 その死」を読むのは、夏目漱石の妻・鏡子が語った「漱石の思い出」を読むのとは、私にとって趣がちょっと違う。つまり「漱石の思い出」は、しっかりと“漱石”を意識して読んでいるが、「父 その死」は“幸田文の父”という思いで読んでいる。極端に言えば、例えば向田邦子が彼女の父について書いているのを読むのと似たような感覚で読んでいる自覚がある。

そんなわけで、幸田露伴が亡くなるまでを書いた「菅野の記」と「葬送の記」は、父の死の床に臨む幸田文の心が綴られたエッセイとして読んだし、「こんなこと」は父との交流を主とした思い出記にしか感じられなかった。

と御託はここまでにして中身のことだが、どうもこの本、前に読んだ気がしてならない。
「あとみよそわか」なんて聞き覚えがものすごくあったし(未来の私用に説明すると、掃除をし終わった後に「あとみよそわか」と呪文をとなえ、もう一度よく見る、というもの)、細々したエピソードも耳なじみがある。
これは絶対読んだ事あるな、うん。それをすっかり忘れてしまったとは…

それはさておき、結構驚きだったのが、幸田文は露伴にあまりかわいがられていなくて、むしろ亡くなった兄弟の方が気に入られていて、露伴はそれはそれは悲しがった、ということだった。しかも、それは幸田文の僻みとかではなくて、露伴の姉である叔母に言われたりしているのだ。子供の頃「次郎物語」だとか「にんじん」だとかを読んで、それはそれは驚いたものなのだが、何がびっくりって、ひいきする親が悪いのではなくて(しかも実の親)、頑固だったり可愛げがない子供に非があるような書き方をされていることだ。もしかして昔はそういうことが割りと普通だったのか!?
でも幸田文の場合は、そうは言っても娘は父を慕い、父も娘を可愛がっていたのが察せられるエピソードもあるので、そこは安心した。

最後に、全然本筋ではないがちょっと気になった文体をば;
 当時としては大ぶ晩い(おそい)縁づきようで、おとしよりの歯にさわると蔭口される、薹のたった嫁菜であった。(p182)
こういう言葉遊び的な要素がちょっと入った文章がさらりと書けたらかっこいいよなぁと思う。

今度は既読だということは覚えているが、ぼんやりとしか覚えていない「おとうと」を読みたいと思った。

(幸田文 「父 その死」2004年 新潮社)

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Category : 随筆
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京都に来てしまったピエールの恋の行方が何気に気になる

花咲探偵シリーズにすっかりはまった私が読書友達に柴田よしきを勧めたところ、彼女は花咲シリーズでなく「ワーキングガール・ウォーズ」を読んだらしく、逆に勧められた一冊。そういう点でも読者仲間は重宝重宝。

主人公は37歳・独身・キャリアウーマンと言ったら聞こえはいいが、要するにお局も超えた墨田翔子。
お昼はいつも一人。皆に嫌われていてもどこ吹く風で、小言をいいまくる。

ところがあることがきっかけで、たまりに溜まっていたストレスを発散する目的で、オーストラリアのケアンズにペリカンを見に行くことにする。
もともとは行く気がなかった翔子だが、行くのを決心したのはケアンズ在住の嵯峨野愛美からのメーリスを通してのコンタクトがあったからだった。
かくして翔子と愛美はケアンズで出会うわけだが(愛美は添乗員)、ある騒動をきっかけに大泉嶺奈も交えて3人仲良くなるのだった。

話はテンポよくぽんぽんと進み、登場人物の本音が出ているのだが、それがネチネチすることはあまりなくあっという間に読み進める。
交互に翔子と愛美の視線から語られるのだが(なぜか嶺奈の視線はない)、やはり翔子の視線が面白い。特に部下をいじめるところとか・・・と思うのは、私が翔子の意地の悪さに共感できちゃってる証拠なのだろうか・・・
でも;

 面白みのない女。
 そういうことなんだろうか。
 ただエルメスだというだけで十数万円を布製のたかがトートバッグに費やせる感覚は、面白みというのではなくて滑稽と呼ぶのだ。そうあたしは信じている。…(中略)…
 信念はあったが、そうやって自分は正しいと思い込めば込むほど、疎外感が深まるのはどうしようもなかった。そして、最近では、そんな疎外感を楽しむこともおぼえてしまった気がする。ファッション雑誌で誇らし気にエルメスを下げている若い女の顔に、馬鹿女、と声に出して呟いてやる、その快感(p27-28)

なんて、確かにエルメス云々は共感を持てるのもあるからかもしれないが、その開き直り具合にいっそ清々しさを感じてしまう(実際にそれに快感を覚えたらオワッテルと思うが、自分に為しえないことを主人公がやってのけてることへの読者の快感というものがあると思う)。

ただこの視線の交差は面白いことに、あまり二人が出会っている時のシーンがない。しかも愛美が翔子を見る(考察する)ことがあっても、翔子が愛美を見ることがない。
なので、翔子の姿形がどんなであるかとか、翔子が相手にどんな印象を与える人かはわかるのに、愛美のことはその内面ばかり知って、外側が全く読者には分かり得ないのだ。

それがちょっとひっかかっていたのだが、最後の藤田香織さんの「あとがき」を読んではたと気づいた。
そっか!これは翔子の話なんだ!!
愛美も人生のあれこれを悩んでいるけれども、それはほんの愛美の人となりの紹介にすぎなくて、愛美は翔子を客観的に見るという位置づけだったわけだ。
そうなると、この小説がもっといきいきとしてきて、翔子がケアンズに行ってからちょっとずつ変わっていく様子に厚さができた気がした。
まだまだ修行が足りぬ。

(柴田よしき 「ワーキングガール・ウォーズ」 平成19年 新潮文庫)

Category : 小説:現代
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まだMAが終わってなかったニールでした

ついに来てしまった ニール・ケアリーシリーズを読み終える日が。
一つ前の作品が、そこまで面白くなかったのもあって2重にドキドキだったが(最後の巻が面白くなかったら悲しすぎる!)、それも杞憂に終わった面白さだった。
面白さのポイントその1は、ニールに1人称で語られていたからだろう。やっぱニール最高!

前の巻で「友達」の仕事からほされたニールが、なぜまた「友達」の仕事をすることになったか。Simply because Graham called him.
そんなこんなわけで、2か月後にカレンとの結婚がひかえている中、カレンに子供が欲しいと言われ戸惑っている中、ラスベガスへNathan Silversteinを迎えにむかうことになったのだ。
とんでもなく単純に思えたこの仕事、例によって例の如く、そうは簡単にいかなかった。

Nathan Silversteinに会ってみたら、彼はニールが子供のころ(確か)名を馳せていたコメディアンでずぅぅぅぅううううっとしゃべり続けている。そしてなかなか言うことをきいてくれなく、ただこのNattyをベガスから彼の家のカルフォルニアはPalm Springsに連れて行くという簡単な仕事を進められない。
口が達者なのがすごくて

"This is a non-smoking room," I (Neal) said.
"The room isn't smoking," Nate snapped. I'm smoking. If the room was smoking, I'd leave the room. I may old, I'm not an idiot." (p15)

という応酬がずっと続く。
しかも本当にいらいらするくらいの我儘じじいで、行方をくらましたのをやっと捕まえて空港まで連れてくれば、飛行機はいやだとだだをこね、車を借りてきたら日本車とドイツ車はいやだと言う。

ここまでしてNattyが家に帰りたがらなかった理由は。
Nattyの隣家でおきた火事は、保険が下ろすのが目的の放火で、そのバックにはマフィアがついていた。
それに挑戦した保険会社が目をつけたのが、その放火を見たと思しき隣に住むNatty。
マフィアに脅されるわ、保険会社からしつこく証人になるよう要請されるわで、ベガスに逃げてきたのだった。
Naturally, マフィアに追いかけられることとなり、ニールはもちろん巻き込まれ、ついでにカレンとNattyの彼女(?)も巻き込まれ、砂漠で死闘を繰り広げることになったのだった(ちょっと大げさ)

最後はシリーズ最後!という感じがしなくて、もっと続けようと思えば続けれる感じで終わったのが救いだった。ぜひ是非ぜひ続けてほしい・・・
別に大きな事件があるわけでもなく、結構普通の探偵(?)話が好きだったのになぁ


( Don Winslow "While Drowning in the Desert" 1996, St.Martin's Paperback's)

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みれば見るほどクドカンって味のある顔してると思う

三浦しをん女史推薦本リストより(確か)、クドカンの「妄想中学校ただいま放課後」を読んで、つくづく対談本は苦手じゃ~と思った。それを知っているはずなのに、読む本リストに入れておいたということは、本の紹介がよっぽど上手かったのだろう。
そして読了後に「なぜに私はこれを借りる気になったのだろう」と思ったというのは、対談本が苦手なだけではなく、ここに出てくる人達にまったく興味がなかったり、話の内容についていけなかったりしたからだろう。
なにせ私はテレビをあまりみない。そしてクドカンはそういう系の仕事の人。となると対談するのはそういう関係の人だったり、内容がそのような内容だったりする訳である。

その中で面白かったのは羽生名人。将棋の世界をまったく知らなかったので(ついでにルールも大して知らない)、対戦中に相手のthinking time中に抜けてもいいなんてびっくりだった。
「ヒカルの碁」からの知識によると、碁の世界では年齢制限があったのだが、将棋の世界でもあるらしく、25歳までに4段(一人前のプロ)にならないとプロになれないらしい。

宮藤 芝居も年齢制限あれば良いのにな。ある程度の年齢で、ある程度のところまで行かなきゃ辞めなきゃいけないって。
羽生 自分で線はひけないですからね。
宮藤 ねえ。「絶対いつか良いことがある」って思って続けていってダメになっていってる人ってどんな世界にも間違いなくいるじゃないですか。
羽生 ええ。
宮藤 だから、うん。それは親切なんだと思う。そうやって諦めさせてくれるって。先のことを考えたら絶対そっちのほうが良いですもんね。 (P147)

「ヒカルの碁」を読んで年齢制限を知った時には「可哀そう…」としか思わなかったが、このコメントを読んでなるほど、と思った。やはりそんな人が沢山いる業界にいるクドカンだからこその感想だなぁ。「絶対いつか良いことがある」と思って続けている人が読んだら腹がたつかもしれないけれども。

とりあえず、クドカンなんてあまり大した興味も持っていなくて、紹介でもされなかったらこの本だって絶対読まなかっただろうが、読んだおかげで将棋の世界が垣間見れて良かったっちゃぁ良かった。でもまぁ、対談本、特にテレビだとか芸能関係の人のはもうしばらくはいいや。

(宮藤官九郎 「妄想中学ただいま放課後」 2003年 太田出版)

Category : その他
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読んでいると手越の顔がちらつくとはテレビ(映像)の力はすごいな

ずっと人気のようで、ついでにドラマにもなり、絶対読んでみたいと思いつつも図書館ではずっと貸出し中。私の周りで読んだ人がいなくて本当に面白いか分からないため、買うほどのものなのかも分からないしぁ、と思い先延ばしになっていた本。それが「しゃばけ」でした。それがこの間図書館に行った時、まぁないだろうなぁ、と思って「は」の本棚にいったら普通に何食わぬ顔してあるじゃないか!うほうほになって借りて帰る。

大体において、妖怪だとか化け物だとかそういった類の本が好きなので「しゃばけ」は面白そうだと思って仕方なかったのだ。
最初のシーン。暗闇の描写からして引き込まれた;

 厚い雲が月を隠すと、江戸の夜の闇は、ずしりとのしかかるように重かった。
 前も後ろもない、うっかりその闇の中に踏み込んだら、そのまま落ちていきそうな、ひやりとする暗さ。その黒一面の中を、提灯の明かりがぽつりと、わずかに夜をわけて進んでゆく。(p3)

主人公は長崎屋という大店の一人息子一太郎。この若旦那、非常に体が弱くて生き死をさまようことはざらにある。でもそれだけでなく、若旦那にぴたりと付いていて守っている二人の手代仁吉・佐助は人間ではなく妖白沢・犬神だったりする。当然、若旦那はそれ以外の妖も見ることができる。
話の発端は、若旦那が体が弱いというのに夜に出歩き殺人事件の現場に居合わせてしまったところから始まる。殺人はそれ一件にとどまらず、なぜか薬問屋ばかり狙われ、そしてその都度違った下手人が捕まる。一体何故、こんな似たような事件が続くのか。

とここからあっさりネタをばらすと、妖が一枚かんでいたからだったのだ。
最終的には若旦那がなぜ体が弱いのかとか、なぜ妖が付いているのかとか、などなども明かされ、一応めでたしめでたしで終わることとなる。

話全体的には、最初こそワクワクすれども、のめりこむこともなく終わってしまった。それが期待しすぎたからなのか、それともその作品ゆえなのかは分からないが、宮部みゆきが同じ題材で書いたらもっと面白かっただろうなぁ、と大分失礼なことを思ってしまった。
それでも本屋に行けば、結構な売れ筋みたいだし、シリーズを読み続けてみようかな、と思った。

(畠中恵 「しゃばけ」 2001年 新潮社)

Category : 小説:歴史
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Mrs.Charbuqueがどんな顔だったのか知りたい

今年初の読了済の本は、はるか昔のFigaroに載っていた"The Portrait of Mrs.Charbuque"。
章が細かく分かれているせいか、すいすい読むことができた。

舞台はニューヨーク。といっても、ビルが建ち並ぶニューヨークではなく、cabといったら馬車(確か)、オスカーワイルドの"The Portrait of Dorian Gray"が最近出版されたような時代のニューヨーク。
主人公は画家Piambo。もっぱらお金持ちのパトロンの肖像画を描いて生計をたていて、ある意味成功している画家である。そんな彼が、肖像画に嫌気がさし始め、芸術品を描きたい、と思った矢先にとんでもない依頼が舞い込む。

その依頼主はMrs.Charbuque。彼女の肖像画を描けば法外の値段の褒賞を与える、というものだった。
ただ普通の依頼と違うのは、彼女はスクリーン(衝立)の向こう側にいて、Piamboは彼女を見たり触ったりすることができないまま、彼女の肖像画を描かなくてはいけない、というものだった。
そしてその法外な褒賞とは別に、もしPiamboが彼女の姿形を写し取ることができたら、更に賞金を与えるという。

はじめは拒否しようかと思ったPiamboだったが、友達であり画家でもあるShenzに「この依頼を受け、とりあえず肖像画を描いたら、賞金がもらえる。そのお金があれば、他の肖像画の依頼を受ける必要もなくなり、それで芸術品を描くことができるのではないか?」という勧めを受け、この依頼を受けることにする。
こうして、Mrs.Charbuqueとの対話が始まり、Mrs.Charbuqueは自分の話を始めるのだった。

そのMrs.Charbuqueの話の中で、なぜ彼女がスクリーンの後ろにいるようになったのかも明かされるのだが、この話はそれだけで済まずに、この二人の対話の外では連続殺人事件が勃発したりだとか、Mrs.Charbuqueの旦那が現れてPiamboの命を脅かしたりするのだった。


スクリーンの向こう側の人の肖像画を描く、という題材自体が面白いのだが、時代背景と淡々とした文章と話の流れ、絵ができあがっていくプロセス、などなどが入り混じって不思議な雰囲気な、ノスタルジックな感じを醸し出している気がする。
Mrs.Charbuqueが最後の方に語る、なぜ自分の肖像画を描かせるのか(しかも物語の中盤でそれ以前にも、多くの画家が依頼を受けていたことが分かる)というのは、さらっと描かれてはいるが、この物語の中核となるものかもしれない;

"In a world ruled by men, a woman's looks are more important than her moral character. Women are to be seen and not heard. That is why my audience was always so enchanted and somewhat afraid of me. I had attained great power as a woman simply because I was invisible yes possessed something men desire: knowledge of their fate, their destiny. I will not join the world until my outer form and inner being can be perceived at once, each equal to the other. So I wait, and test the waters now and then by hiring a man to show me what he sees." (p272)


個人的に、画家を夢見ていた時期があった私としては、少年Piamboが素晴らしい絵を見て”あのように美しい絵を描きたい”と思ったところなどは、とても共感が持てた。

とりあえず、新しい年のスタートをきるには良い小説だった。

(Jeffery Ford, "The Portraid of Mrs.Charbuque" 2003, Harper Perennial)

Category : 小説:歴史
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