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がらくたにっき |

人形館に次ぐ、島田潔の出番が少ない作品でした

「精霊の守り人」シリーズを借りようと児童書コーナーに行ったのに、続きの巻がなくてちょっとがっかりして目線をあげたところに、ミステリーランドシリーズがずらっと。
何人か自分の好きな作家の作品を読んだことがあったので、目を通していると綾辻行人の文字が!ということで、いそいそと借りる。奥様の小野不由美の「くらのかみ」が今のところこのシリーズ内でダントツに面白かったので、ちょっと期待しつつ

タイトルの「びっくり館の殺人」から察するに、綾辻行人のデビュー作で代表作(と勝手に私が思っているが概ねあってると思う)の館シリーズなんだろうなぁ、とふんでいたが果たして。主人公の永沢三知也が古本屋で鹿谷門美の「迷路館の殺人」を手に取るところから始まる!
この鹿谷門美は言わずもがな、館シリーズに出てくる島田潔氏で、確か「迷路館の殺人」は氏のデビュー作となっている(もちろん現実の世界にもあるし、蛇足ながら館シリーズの中でこれが一番好き)。
そしてそして!この「びっくり館」も中村青司によって建てられたということを、しょっぱなから主人公が思い出すことから読者も知ることとなる。ある意味、「中村青司が建てた」という記述で、この作品がまぎれもなく「館シリーズ」なんだ、と証明されたようなものかもしれない。

そんなわけで、最初のシーンでアドレナリンがどばぁぁぁぁっと出て、ふんふん鼻息荒くページをめくっていくことにあんった。

永沢三知也が「迷路館の殺人」を手にとったところで記憶が蘇り、回想していく形で話が始まる。
話の流れとしては、大学生の三知也が「迷路館の殺人」を手に取り、自分が小学6年生の時に遭遇した「びっくり館」でおきた、その館の主、つまり友達の俊夫の祖父が殺害された事件を思い出す。
そしてそこから、兵庫県A**市(たぶん芦屋市)に引っ越してきたばかりで、「びっくり館」の噂を聞いた頃から事件までの回想が始まる。

三知也が「びっくり館」に忍びこんだことから、そこに住む同い年の俊也と友達になるのだが、こういう話でよくあるように、俊也は病弱で美少年。「びっくり館」には祖父と二人きりで住んでいる。
母親も姉もいたようだが、姉の梨里香はおととし死んでしまい(後で母親に殺されたということが判明する)、嘆き悲しんだ祖父は腹話術用の人形にリリカと名づけて、その人形を梨里香として扱っている。

謎に包まれた屋敷に祖父と病弱な美少年、不吉な過去、気味の悪い人形、仕掛けのある屋敷、奇行に走る祖父。
とまあ、横溝正史的なというか、江戸川乱歩的なというか、怪奇な雰囲気と、主人公の三知也の悲しい過去も絡んできて話は進み、殺人事件へとつながる。

祖父は「リリカの部屋」と呼ばれていた部屋で、ナイフを刺されて死んでいたのだが、当然のことながら密室状態だった。
その間寝続けていた俊夫は、放心状態になっていて誰が話しかけても反応がなく。三知也は、前々から決まっていたとおり、父親に連れられてアメリカへと旅立つのだった。

そうして日本の大学で勉強するために、三知也はアメリカから日本に戻ってくるのだが、「迷路館の殺人」を手に取るまでその記憶を封じ込めていた。
誰が殺したのか、どうして密室だったのか。
それがここから推理されていくのかと思いきや……
三知也たち(発見者は三知也だけではなかった)が知っていて、世間を含め読者も知らなかった事実が明かされていくのだった……

最後はなんとも後味の悪いものだった。
ん~ 初期のいわゆる「本格派」のような感じが好きなのだが、どうも「暗黒館の殺人」といい、この「びっくり館の殺人」といい、おどろおどろしさを出すのはいいけど、ちょっとファンタジー入っていて、それが私には合わない気がする……

なにはともあれ、”かつて子どもだったあなたと少年少女のための”とうたわれているけれども、文体もそんなにいつもと変わっていなくて、どちらかというと「かつて子どもだったあなた」に重点がいっている気がした。

最後に蛇足ながら、すごく話の本筋とは関係ないながら、結構好きな表現があったので;

 根拠といえるほどの根拠もない、およそ非現実的な考えかもしれない。何そんな、オカルト映画じみた妄想にとりつかれて……と、百人の他人に話せば百人みんなに笑いとばされてしまうかもしれない。けれど―。(p344-355)

思えば、推理小説系って主人公がこういう風に逡巡することが多いのだから、推理作家はこういう表現方法を色色考えなくてはいけないのかな、とふと思った。


(綾辻行人 「びっくり館の殺人」 2006年  講談社)

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Category : 児童書(推理)
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欲を言えばカラーにしてほしかった

「日本美術を見る眼」を読んでから高階秀爾氏にすっかり心酔してしまったのだが、その割に全然読んでいない私。
ということで「名画を見る眼」を借りてきて読みましたよ。

詳しく書くときりがないので、取り上げられている作品を列挙する意味で、目次を写してみた↓

I ファン・アイク「アルノルフィニ夫妻の肖像」―徹底した写実主義―
II ボッティチェルリ「春」―神話的幻想の装飾美―
III レオナルド「聖アンナと聖母子」―天上の微笑―
IV ラファエロ「小椅子の聖母」―完璧な構成―
V デューラー「メレンコリア・I」―光と闇の世界―
VI ベラスケス「宮廷の侍女たち」―筆触と魔術―
VII レンブラント「フローラ」―明暗のなかの女神―
VIII プーサン「サビニの女たちの掠奪」―ダイナミックな群集―
IX フェルメール「画家のアトリエ」―象徴的室内空間―
X ワトー「愛と島の巡礼」―描かれた演劇世界―
XI ゴア「裸体のマハ」―夢と現実の官能美―
XII ドラクロワ「アルジェの女たち」―輝く色彩―
XIII ターナー「国会議事堂の火災」―火と水と空気―
XIV クールベ「アトリエ」―社会のなかの芸術家―
XV マネ「オリンピア」―近代への序曲―

たとえばクールベの「アトリエ」とか、どこが写実主義なんじゃー!?とずっと疑問だったのが、あっさりと解けた。なんとも、疑問に思っていても調べない自分のずぼらさが妙な形で身にしみた。

(高階秀爾 「名画を見る眼」 1969年 岩波新書)

Category : その他
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「プレイバックPART2」を聞きながら書いたら、文が粗雑に…

花咲シリーズは既刊のものはすべて読んだーみたいなことを前に日記で書いていたが、図書館に行ってびっくり。
柴田よしき作で「ア・ソング・フォー・ユー」というタイトル。なんとなく花咲シリーズっぽいじゃないですか。手に取ってみるとはたして、登場人物に「花咲慎一郎」の名が…。
なぜ知らなかったんだ!? というかお気に入りのシリーズなら、既刊本くらい把握しておけ!って感じ。

収められてる作品は以下の通り;
ブルーライト・ヨコハマ>>ハリウッドスターの妻となった日本人女性の依頼で、彼女が20歳を超えたばかりという時に、当時住んでいた横浜にて2回きり出会った、その時男子生徒だった人を探す話。

アカシアの雨>>ハナちゃんが経営する幼稚園と隣のビルの隙間にまだヘソの緒が取れていない赤ちゃんが捨てられていたところから始まる。てっきりその話かと思いきや、そうではなく韮崎の紹介より韮崎の姪っ子の依頼で、彼女が飼っていたオカメインコを探す話。

プレイバックPART3>>娼婦の娘っぽい女の子の目線から話が始まり、すぐにその前の章でハナちゃんが探していた赤ちゃんを捨てたのではないか、という子だと分かる(読者には)。その子がハナちゃんの連れにぶつかったところで目線はハナちゃんに戻り、交互となる。ハナちゃんはそのぶつかった連れ(靴磨きのカンちゃん)がひどい怪我をしたこともあって、その子を探す話。

骨まで愛して>>前の話をちょっとひきずりながら、恋人のリサからの依頼で、ずっと行方不明だった祖父のお骨を盗んでしまった男の子から、お骨を取り返す話。


一番良かった話は「ブルーライト・ヨコハマ」だった。
小学生の頃に呪いごっこをはやらせ、しかも偶然にもそれが当たってしまったりしたものだから、大人たちに問題視された子供がいじけて成長してしまったのかと思いきや、精神的に本当に立派になっていたというのは心からほっとした。
依頼主の恵美子は、苦楽を共にした夫が浮気し、離婚してくれと言われたのもあって、遠い昔、高校生だったその子に“自分は呪いがかけられる。誰かにかけたくなった自分に言うように”ということを言われたのをふと思い出し、その子を探すことにしたのだが……

 そして、柏原圭介の口調を真似て(恵美子は)言った。
「私立探偵から、あなたを助けてあげろって言われました。でも、あの時の藁人形はもう、役に立たなくなっちゃったんです。もっと早く呼び出してくれれば良かったのに、寿命だったみたいです。それで今は、こんなの使っています。これ、幸せ倍返しの呪い人形です。この人形に頼んで誰かに呪いをかけると、呪いをかけられた人が幸せになるたびに、その倍だけ自分が幸せになるんですよ。相手が宝くじで一億円当たれば、自分は二億円、当たります。そういうのってものすごく悔しいでしょう?呪われた人にしてみたら、自分を呪ってるようなやつを幸せになんてしたくないのに、自分が幸せになればなるほど、もっとそいつが幸せになる。これって、なかなか強力な呪いですよ。前のよりずっと効果的だと思いませんか。そう言いました」(p105-106)


そんな温かい話とはうってかわって、「アカシアの雨」の悲惨だった。
性同一障害の少年が学校も行かせてもらえず、育ての親の娼婦に連れられて街から街へと渡り歩いていたと思えば、その少年のアパートに住む風俗嬢は、親の借金の返済のため風俗に身を売り妊娠してしまい、挙句のはてには餓死寸前となってしまったり。

最後に「社長(山内)の片思いの彼がいるわ! 園長、写真撮って!」という環がはしゃぐオマケがなければ、ちょっと重たい一冊だった。
余談だが、このシリーズを読み進めれば読み進めるほど、柴田よしきは女性作家と思い知らされる。なんで最初に男と思ったのか…


(柴田よしき 「ア・ソング・フォー・ユー」 2007年 実業之日本社)

Category : 小説:現代
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大変カテゴリ分けが難しいので、一応ファンタジーで

妹が居間にぽいっと置いていた「光の帝国」by恩田陸を無断で拝借し完読。
あんなに一時期読んでいた恩田陸作品もなんだか遠ざかった今、「光の帝国」はそんな私をカムバックさせる程でもなかった。残念ながら。

常野と呼ばれる一族は、それぞれ不思議な能力を持っている。超能力ともちょっと違うみたいで、例えばものすごい記憶力だったり、長命であったり。それでいて礼儀正しく、ひっそりと暮らしている。
そんな一族にまつわる短編集だった。うーん やはり短編集が苦手だから、そんなに魅力的に思えなかったのか。

その後にそれを再読した妹が、「ポーの一族に似てるものを感じるよね~」と言っていて、確かに私もそれはふと思ったことだったので、さすが姉妹。
ただ「ポーの一族」の繊細さがまったくなく、「ポーの一族」が詩的であるとすれば、「光の帝国」はもっと所帯じみてる感じがする。「ポーの一族」が夢の世界のようにふわふわしていたら、「光の帝国」はもっと生活臭がして、本当にその一族が“いそう”な気がする。

私はそういうの部分がちょっと苦手だったから、あまり魅力に感じなかったのだと思う。
つまり、この一族が「超能力」を持つ一族、というのであればもっと受け付けやすかったと思う。でも「超能力」というちょっと生活臭のただよう力ではなく、もっと浮世離れした力だったってのが、どうにもこうにもこの話の雰囲気と違った気がしたのだ。

もしかして、登場人物が日本人であるのと西欧人であるっていう違いなのか!?
確かにメリーベルだのエドガーだのアランに比べて、鶴先生ってなんか・・・ ってこの2作を比べるのがそもそもの間違えだと思うのだが、設定がちょっと似てるよねーと思ったが最後、なんかそういう目でしか見れなくなった単純細胞の私がいかんのだ。
ということで恩田陸先生はまったく悪くないんだよ、というお話でした。

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この本の印税があれに使われると思うと・・・

尊敬と親しみをこめて、三浦しをん“姉さん”と勝手に呼んでいる私だが、実を言うと彼女のエッセイ以外のもの(つまり小説)をほとんど読んだことがない。大いに“だめじゃん!”という状態なのだが、まぁなんというか、エッセイから入った小説家ってなかなかその人の作品に手がのびないものなんだよぁ
そんな言い訳をしておきながら、本屋で「まほろば」が目に留まって、その帯に「直木賞受賞作」とでかでかと書いてあれば、日ごろの後ろめたさも手伝って即買いしてしまった。

面白かったですよ、しをん姉さん!!!!とどこまでも慣れ慣れしいが、いやほんと、結構面白かった。

男二人が主人公、しかも嫌イヤ言いながらもなんだかんだ仲良い、という設定に関しては、彼女の嗜好が垣間見れる気がしたが、それ以外は結構真面目。だからといってものすごく硬いわけではなくて、結構真面目な題材を、淡々というかひょうひょうというか、そういう雰囲気で包み込んでいる感じ。うーん なんか上手く言えないな。

話はというと、主人公の多田はバツ一。昔は勤め人だったが今は便利屋を営んでいる。そこへ高校時代の同級生、行天が転がり込んでくる。行天はものすごく変わった奴で、高校時代に一言も口をきかなかったという、一風変わった時代を持つ。彼もバツ一だが、後々に分かることだが、レズビアンの知り合いに子供を授けるためだった。
時々行天の得体が分からなくなりつつも、多田はなんだかんだ言って行天を受入れ、二人で便利屋の仕事をこなしていく(と言っても行天は役立たず)。

解説などを見る限り、舞台となっている「まほろば市」は三浦さんの住まいである町田市をモデルにしているようだが、それを読んでなるほどと思った。というのは街の情景が、そこに住む人々の営みも含めてものすごくリアルだったからだ。行天という人物やら、「便利屋」という仕事がどこか非現実な感じはするけれども、舞台がリアルだから登場人物もリアルに感じる。それのおかげか、多田と行天に暗い過去があったりするのだが、それが「お話に定番の登場人物の過去」という感じではなく「誰しもなにかしら暗い部分ってあるよね、うんうん」という、実生活で誰かからその人の知り合いの話を聞いている感じがする。
なんだか上手くいえてないが、つまりそういう過去があまり嘘くさくならずにすんでいるのは、舞台がリアルだからだと思う、ということが言いたいのだ。

とにかく、ちょっとシリアスになることもありつつも、そんな深く掘り下がっている訳ではないので、読みやすい上に面白かった。


 失ったものが完全に戻ってくることはなく、得たと思った瞬間には記憶になってしまうのだとしても。
 今度こそ多田は、はっきりと言うことができる。
 幸福は再生する、と。
 形を変え、さまざまな姿で、それを求めるひとたちのところへ何度でも、そっと訪れてくるのだ。(p345)


みたいな言葉が重すぎず、軽くなりすぎず書かれているとは・・・さすが三浦しをん姉さん! 


(三浦しをん 「まほろば駅前多田便利軒」 2009年 文芸春秋)

Category : 小説:現代
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表紙の魚の絵がかわいい

てっきり三浦しをん姉さんお勧め本だと思ったら、昔のFigaroに載っていた本だったよ"Flush"。

タイトルの"Flush"はなんのことはない、トイレのフラッシュ。ちなみに本の中ではOperation Royal Flushという暗号になっていた。

舞台はフロリダ州のthe Florida Keysという島(今辞書で調べた)。どうやらマイアミに近いらしいです。
主人公の男の子Noahは父・母・妹Abbeyの4人暮らし。
父親がちょっと変わった人で、母親は3人の子供を抱えているようなもの。Noahは妹と同盟を結んでいて、曰くNoahは父親の面倒をみ、Abbeyは母親の面倒を見るとのこと。

話は父親がDusty Mulemanのカジノボートに自分の船をぶつけて沈没させた罪で、捕まっているというところから始まる。父親の言い分としては、気持ち悪いことにこのDustyが、カジノボートで溜まった汚物を海に流しているので成敗しただけだ、というものだった。
しかし汚物を流している証拠がない。そこで父親はNoahに、昔カジノボートで働いていたLice Peekingに証言してもらうよう頼みに行かせる。
ところが、商談が成立してたはずなのにLice Peekingが姿を消してしまい、その彼女であるShellyが彼氏の仇打ちとばかりにNoah達に協力することになるのだった。

そうこうしているうちに、父親は釈放され、母親が離婚まで考えていたことを知ったこともあって、すっかりDustyのことは忘れることにしたのだった。
でもそこで黙ってはいなかったのがAbbey。夜中に抜け出してビデオを撮るまでした(残念ながら暗すぎて何も映っていなかったが)のだった。それもあってNoahも一肌脱ぐことになったのだった。

そこで出てくるのがOperation Royal Flush。
食品用着色料を大量に買い込み、カジノボートに忍び込み、トイレでそれを流すというのが作戦。それには仇打ちのためにカジノボートにバーテンとして働いてたShellyが手を貸してくれた。


かくして全て成功に、ついでに死んだと思っていた父親の父(つまりお祖父ちゃん)も現れて、最高のHappy Endで終わる。
そのOperation Royal Flushの成功が分かってからも、話がなんとなくだらだら続いて、しかも全然カジノボートの話も出てこずになんだ!?と思っていたら、ちゃんと最後にオチもあって、なんとも楽しい本だった。

児童書というのもあるだろうが、全体的に大味でアメリカのホームドラマっぽい感じだったが、通勤の読書としてはちょうど良かった。このthe Florida Keysって魅力的で(何せマナティーにぶつかったり、イルカが当たり前のように見えたりするのだ!)、実際に行ってみたくなった。
そのthe Florida Keysの夕焼けのシーン;

Gradually the sun changed from gold to blazing pink and seemed to turn liquid as it dimpled the horizon. None of us said a word because we didn't want the moment to end.
People who've never seen a sunset at sea would be blown away. Time seems to slow down until finally that huge blazing ball looks like it's just hanging there, balanced on the far edge of the earth. In reality, though, it's dripping fast. (p155)

情景を描くのは作家の力の見せ所だろうが、太陽を液体に例えるのが面白い。


(Carl Hiassen, "FLUSH" 2005, Random House Children's Books)

Category : 児童書
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表紙の女の人がなかなか不細工と思ったらトロガイだったみたい

またしても一気に読んでしまった守り人シリーズ第三弾。
まあ 児童書というのもあるが、1日で読み終わってしまった「夢の守り人」。

このシリーズの醍醐味の一つは、その世界の死生観や信仰について細かく設定していることだと思う。例えば;

 人のなかには、ふだんは目にみえぬ糸でむすばれている〈生命(いのち)〉と〈魂〉とがある。
 〈生命〉は、人が死ぬと別の生き物の胎内にやどって新たな魂とむすびつき、永遠にこの世をめぐっていく。
 〈魂〉は、さまざまなことを思い考える〈心〉で、夢をみるのもこの〈魂〉だ。
 たいていの夢は、〈魂〉が、さまざまな記憶やら欲望やらをまぜこぜにしてうみだしているにすぎないが、ときに、〈魂〉は、身体(からだ)をぬけだして異世界を旅することがある。そういうときにみた夢は、だから、別の世界でほんとうにおこったことなのだ。
 人が死ぬと、生命とむすばれていた糸が切れた〈魂〉は、一度あの世へと吸いこまれ、前世のすべてをわすれてから、新たな〈魂〉になってこの世へうまれでてくる。(p44-45)

というのは、びっくりするくらい独創的ではなく、なんとなく耳馴染みのあるような感じだが、だからこそ受け入れやすい。そしてちょっと親近感があるせいで、架空の世界の物語が、夢物語のようなふわふわしたものではなく、人が本当に住んでいるsolidな世界に見えてくるように思う。

なにはともあれ、今回の話はこの〈魂〉、〈生命〉、そして夢がキーワードとなっていた。
舞台は1作目と同じ新ヨゴ皇国。今回はバルサの幼馴染でトロガイの弟子、タンダが大活躍する。

眠りについて何日も目覚めないという奇妙なことがタンダの姪に襲う。しかしそれはタンダの姪だけではなく、有名どころでは新ヨゴ皇国の一ノ妃、はてまでは1作目で出てきたチャグムも襲われてしまった。
それはどうやら、向こうの世界・ナグムに咲く夢の花が芽吹き、種をつけたからのようだった。

タンダは姪を助けるべくその夢の世界に入り込むのだが、逆に花にだまされて人鬼となりこの世界に戻ってきてしまった。なんとか意識を守る呪いを唱えたおかげで、意識はその夢の中にとどめることができ、そこで夢にとりつかれているチャグムに出会う。
チャグムは帝になりたくないのに、第一皇子が亡くなったため王位継承者になり、バルサやタンダ、トロガイと別れを告げなくてはいけなくなってしまったのに対して悲しみを抱いており、そのため夢に捕らわれてしまったのだ。そんなチャグムを必至で説得したタンダは、チャグムをもとの世界に戻し伝言を頼むのだった。

さて、そもそもの原因はというと。
花の受粉に蜂や風が必要なように、この夢の花にも風となるこちらの人が必要で、それがバルサが偶然助けたユグノのだった。小さい頃から、その夢の世界に通っていたユグノだったが、あることをきっかけに通うことを止めてしまい、それが原因で花の受粉時期や種をつける時期を知ることができず、それが故に、花に捕らわれた人々が帰ってこれなくなったのだ。
ところがこのもっと根底となる原因は、一ノ妃のわが子を亡くした悲しみにあった・・・


一作目で出てきたチャグムが、夢に捕らわれるくらい悲しみを抱いていた、というのはなかなか胸のつまされるものだった。
しかも最終的に、バルサ、トロガイ、タンダに会うことはできたが、またチャグムは宮殿に帰らなくてはいけなくて、その悲しみを癒される結果になることはなく、それが妙に現実的だった。

早く次の巻が読みたい

(上橋菜穂子 「夢の守り人」 2000年 偕成社)

Category : 児童書
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「バッテリー」をちょっと読んでみようと思った

友達に「バッテリー」を勧められたが、立ち読みした最初の部分でひねた野球少年が云々というくだりが、どうも今の気分にあわなくて読まずに今に至る。でも、遠い昔のFigaroに紹介されていた同じ作者の「弥勒の月」が気になり、やっと借りて読んでみたら・・・

またもや、私は何をもってこの本に興味を抱いたのか謎。たぶんタイトルだろうが。そしてそのタイトルから勝手に想像していたのと、中身がえらい違ってびっくり。まず江戸時代の話とは知らなかった・・・
そうは言っても、話の内容としては十分楽しめた。

捕り物話で、同心の信次郎、岡っ引きの伊佐治が話の中心人物。
江戸時代で捕り物話といったら、人情ものが定番のような気がするが(宮部みゆき作品みたいに)、今回はちょっと違う。
まず同心の信次郎が残忍性のある、時々何を考えているのか分からない、危険な香りがする奴なのだ。

話は小間物問屋・遠野屋の若奥さんおりんが身投げするところから始まる。その旦那というのが婿養子で遠野屋の若旦那におさまった清之介。
清之介がたっての願いで信次郎・伊佐治は事件を洗いなおすことになる。といっても実際のところ、信次郎はこの遠野屋をいたく気にしていて、伊佐治と共に捜査することになったのだ。
確かに遠野屋はただ者ではないようで、武士くずれ、しかもただの武士ではないらしいのをちらちら伺える。

そうこうしているうちに、おりんが身投げするところを見た履物問屋の主人や、その主人を見ていた夜鷹蕎麦のおやじやらが殺された。挙句の果てには遠野屋も襲われる始末。

と色々事件は起きるが、なにが魅力的って一筋縄にはいかない登場人物。
信次郎はもちろんのこと、後ろ黒いらしい遠野屋といいもっと知りたくなる。二人のコンビがいいと思ったのが、遠野屋の義理の母親(つまりおりんの母親)が首を吊っているのを見つけた時の反応;

 人がぶら下がっていた。鴇色の紐の先に女の身体が揺れている。
「遠野屋!」
 信次郎が叫んだ。鞘を持って、柄を向ける。遠野屋の指が柄を握った。同時に、刀身が鈍く煌く。信次郎は、両手を広げ、落ちてくる女の身体をがちりと受けとめた。僅か半歩のよろめきもなかった。(p77-78)

一気にかっこいいと思ってしまったシーン。
登場人物に続き、情景描写もなかなかよかった(ちょっと偉そうな口ぶりだが);

 女中が軒行灯に灯を入れた。それを合図に、店内に灯がともる。しかし誰も、帳場側の行灯に灯を入れようとはしあかった。自分たちを囲む闇が、一層濃くなったのを伊佐治は感じた。(p55-56)

 曲り角で立ち止まり振り向くと、遠野屋は、まだ店の前に立っていた。振り向いた伊佐治に頭を下げる。その身体の上に細かな雪片が無数に舞い落ちていた。漆黒の夜の中で、軒行灯に照らされたそこだけが、淡く浮かび上がり、雪に閉ざされていく。現とはかけ離れた、妖かしの絵のようだ。(p84)

江戸時代の小説となると、暗闇の中の光の描写がよく出てくる気がするが、そこもこの時代を舞台にする上での魅力なのだろう。


とここまでいい材料がそろっているのに、最後のあの終わり方はないだろう!!と声高に言いたい。
あのあっけない真相。そして尻切れトンボ的な終わりかた。
違う結末を見たかった。


(あさのあつこ 「弥勒の月」 2006年 光文社)

Category : 小説:歴史
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タイトルからの印象と中身が結構違っていた

多分、三浦しをん女史推薦本:「図書館の神様」

児童書のエリアから取ってきたのだが、本当にこれは子供に読ませていいのか?と思った。
まず主人公は結構生気のない感じだし、しかも不倫している。この頃の小学生は早熟だからいいのかねぇ、と思っていたのだが。
ふと、ヤングアダルトって小学生というよりも中学生なのか? う~ん 中学生からは公立の図書館ではなく学校の図書館しか使っていなかったから、その区分がよく分からん。

などと変なところで首をひねってしまったが、話としてはなかなか面白かった。薄さもあって1日でざっと読む終えたし。

主人公は早川清。鄙びた学校の国語講師をしている。
小学校の頃から青春時代はバレーボールに人生を捧げていて、それ故にそこそこ実力も持っていた。
しかし、ある試合の時、絶対勝てる相手であったのに仲間のミスで負けてしまい、バレーボールに関しては厳しい、キャプテンつとめる彼女が、その部員にきつい言葉をかけてしまう。そんなことは彼女にとってはいつものことだったので、自分では気にとめていなかったが、その部員はその日自殺してしまったので、事情はガラリと変わってしまった。
誰もが口には出さないが、みんな彼女のせいにしているし、彼女も責任を感じ退部し、それから生気のない生活(私見だが)をおくることになるのだ。

国語の講師になったのは不倫相手浅見さんの助言で、バレーボールに選手としてではなく監督というかたちで携わってみたらどうか?という理由からであった。
しかし人生はそう簡単にいかず、文芸部の顧問になってしまったのだった。
その文芸部、垣内君たった一人しかいなくて、活気もへったくれもない。
しかも、清は国語の先生であっても、本なぞ全然読む習慣もなく、文芸部なんて退屈極まりないわけだ。

そんな清が、文芸部(というか垣内君との交流)を通して、浅見さんとの関係を通して一歩前進する話なわけだ。というと身も蓋もない言い方かもしれないが。

でも基本的に淡々とした日常が描かれているというのが、確かに一歩前進って劇的な変化からくるものもあるかもしれないけれど、こういう日常からくるってのもあるよな、と思わせた。というか日常を過ごす中での一歩という方が多いのかも。

何はともあれ、川端作品に鼻血がよく出てくると垣内君に聞いて、げらげら笑うシーンなど、垣内君との絡みがよかった。
余談ながら、この主人公に弟が出てくるのだが、このちょっとやる気のない主人公といい、姉のことを気にしているのだかしていないのか分からない感じの弟といい、なんとなく三浦しをんの「格闘するものに○」を彷彿させられた。三浦しをん推薦本(推定)だからというものもあるかもしれないが。

余談2:秋の訪れのくだりで;

 この辺りは、夏は激しく唐突に終わる。…(中略)…そのきっぱりとした気候のせいか、秋の彩りも美しい。緩やかな温度の低下とともに色を変えていく紅葉とは違い、山はぱっと黄金色に染まる。…(中略)…じっくり燃えるような紅葉ではなく、輝きを放つ紅葉。
 目になれし山にはあれど
 秋来れば
 神や住まむとかしこみて見る
 石川啄木の短歌を授業で取り上げた時、生徒は私の何倍も鋭く早く歌の内容を読みとった。何人かの生徒が「わかるなあ」「そのとおりだ」と感慨深げに言うのを、不思議に見つめていたが、秋が来て、それがよくわかった。
 実際に秋の山を目の当たりにすればわかる。山には神が住んでいる。単に美しいのではなく、神々しい。すぐ後には厳しく長い冬が待っている。その短い秋をたたえるように、神社では小さな祭りが行われる。(p81)

というのを読んで、確か大野晋の日本の神についての考察で、日本人は山を通して神の存在を認識していたというような内容をふと思い出した。

(瀬尾まいこ 「図書館の神様」 2003年 マガジンハウス)

Category : 児童書
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