さくさくと読もう「守り人シリーズ」。ということで今回はチャグムは出てこず、しかしバルサとタンダが大活躍の「神の守り人 来訪編」。 舞台は、北部と南部の貧富の差が激しいロタ王国。 ロタにはタルの民と呼ばれる、ロタ人に見下されながらひっそりと暮らす民がいた。 ロタ王国の建国にまつわる伝説に、その見下される理由というのがひそんでいた。曰く、昔タル民族にサーダ・タルハマヤ<神とひとつになれし者>が現れ、タルハマヤ<おそろしき神>を使って恐怖政治を行っていた。その治世を終わらせたのが後の初代ロタ王だということだ。 さて、バルサとタンダは新ヨゴ皇国の国境近くにてタル人の子供、チキサとアスラに出会う。そしてこの兄妹が命を狙われていることを知るのだった。 タンダの薬草師仲間にして呪術師のスファルがアスラを殺そうとしているのを知った二人は、この兄妹を助けることに決めるのだった。 まあ、そして色々あってタンダとチキサはスファルに捕まってしまう。そしてアスラとバルサの逃亡生活が始まるのだが、その時に何者かがタンダの名を使ってバルサに言付けを頼んだことを知る。それがスファルからの言付けだと思った二人は、その中で指定されていたジタン祭儀場へ向かうのだった。 一方タンダはスファルより、アスラが何故命を狙われているかを聞く。 アスラたちの母親は禁域であるサーダ・タルハマヤの墓にアスラを連れて行った咎で処刑される。その処刑時に大量虐殺を行われ、どうやらそれがアスラがタルハマヤを身に宿らせ、その力をもってしたことらしい。 そのように、タルの民が再びタルハマヤの力を持たないように見張るのがスファル達カシャル<猟犬>の役目なのだ。ちなみにカシャルは初代ロタ王がサーダ・タルハマヤを倒した時に手を貸したのがカシャルで、それから王族の猟犬となった。 そんなこんなわけで、アスラを始末するのがスファルの役目なのだった。 この「神の守り人」は二巻に分かれていて、この一巻の終わりは、実はその言付けをしていったのはスファルでもタンダでもなく、スファルの娘シハナの手下だったのだ。そしてそのシハナは父に背き何かをたくらんでいるようだったのだ・・・ と、ドキドキな展開で終わるのだ! 上記には書かなかったが、登場人物としてはまだ他に出てきていて、ロタ王国の王ヨーサム、その弟イーハンも物語に大きく関わってくる、ということも追記しておく。 それにしてもスファル、なかなか面白い術を持っていて、動物に魂を乗せることができるのだ。それはカシャルの術らしいのだが、スファルは鷹に魂を乗せてバルサを追跡するのだ。 ただ、腹がへってたまらなくなってきた。シャウ(鷹)が空腹なのだ。シャウの心が、だんだんスファルの魂からはなれて、地上の小さな獣や鳥に気がそがれはじめた。 それが幸運をもたらした。―シャウが小鳥の群れる木をみつけ、焦点をあてた瞬間、スファルは、白く光るものをちらりとみた。人の顔だ。(p161) ただ見つけた、というのでなく、そういう風な流れにするのが、なんというか芸が細かいな・・と思う。 さあ、下巻にいかなくては!! (上橋菜穂子 「神の守り人 来訪編」 2003年 偕成社)
スポンサーサイト
舞城王太郎、第2弾目。 この作家を教えてくれた友達を倣って、作品の発表された順に読んでみることにした。というわけで「暗闇の中で子供」。 前作品の続き物になっていて、今回の主人公は四郎から代わり三郎。それでも活躍しているのは四郎。前作から三郎のダメっぷりは好きだったのだが、こうも四郎ばかりが活躍して、四郎に「アホ」だの「死ね」だの言われてると、なんだかやるせなくなり、作者がいやんなっちまう。 さて、事件はというと全作品の連続殺人の模倣犯が現れたところから始まる。あ、物語自体は美少女がマネキンを田んぼに埋めているのを三郎が見つけるところから始まるんだった。 とりあえず、その美少女も連続殺人の模倣をマネキンで行っており、それと同時に本当の殺人も例の連続殺人を模倣して行われていた。 とまあ連続殺人事件がまた起きるのだが、前作に続きそんなのはメインではない(ように見える)。 そのマネキンを埋めていた美少女・ユリオは精神的に病んでいるところがあって、縁あって三郎が引き取る形で共同生活を行うことになる。 なんというか話がとりとめなくて、まとめるのが面倒くさくなってしまったので、キーワードを上げると;事件の真相は巨大おもちゃを人間で作ってみた、そのおもちゃを使うのはオゾンを与えられて育った巨人(子供)、三郎はキッチンの床下のちっちゃい倉庫にもぐりこむ、お腹を切られお金が埋められるという事件が起こる、三郎も切られるがお金は入っていない、それは医者の仕業で手術中に置き忘れたメスを探しての事件だった、前作でこん睡状態だった母親は覚醒し男といなくなる(らしい)、前作で「河路夏朗」は失踪した二郎だと四郎は推理したが実は違った・・・ そして極めつけは、最後の最後に三郎が手足を切られるのだ!! 納得がいかん!!!! 三郎プチ・ラブの私としては納得がいかなすぎて、作者を恨みたくなる とまあ、最後は気に入らねども、話の流れ方はテンポよくて本を置くのも惜しいくらい。 多分、話の筋は作者にとっては最重要点ではなかったのでしょう。ということで、これからは登場人物にそこまで感情移入せずに、物語の結末もさほど気にせず、物語の流れに身をまかせるのを楽しみながら舞城王太郎の作品を読むことにしようと思う。 最後に、三郎が小説について語ったところで; さて物語とは一体いかなるものなのか? …(中略)…ちょっと考えただけだと、人の想像力が物語を作っていることは間違いないように思える。全ては想像力が基盤であるように。…(中略)…でももしそれが正しいのならどうして想像力って奴は物語なんかに精力を傾けることにしたんだ?…(中略)…喜びも悲しみも楽しみも寂しさも現実にあるもので十分なのに、どうして作り話が必要になるんだ?作り話はつまり嘘の産物だ。何で嘘なんかがここに介入して来たりしたんだろう? 俺は答えをちゃんと知っている。それはつまりこういうことなのだ。 ある種の真実は、嘘でしか語れないのだ。 …(中略)…ムチャクチャ本当のこと、大事なこと、深い真相めいたことに限って、そのままを言葉にしてもどうしてもその通りに聞こえないのだ。…(中略)…言いたい真実を嘘の言葉で語り、そんな作り物をもってして涙以上に泣き/笑い以上に楽しみ/痛み以上に苦しむことのできるもの、それが物語り。(p33-35) というのが前に村上春樹のスピーチで語られていた内容と似ている気がする(私の記憶が正しければ)。 (舞城王太郎 「暗闇の中で子供 The Childish Darkness」 2001年 講談社)
ディケンズはなんとなく読んでみたいと思っていて、「大いなる遺産」とか読んでみたかったのだが、本屋に行ってみてなかなかの厚さにびっくり。 ということでまずは短めの「Oliver Twist」を読んでみることにした。映画、「オリバー!」を見たこともあったしな。 読む直前に妹に、「オリバートゥイスト!?あんなつまんないのによく読もうと思ったね!話、どんなのか知ってる?」と言われ、軽く殺意というか大変にむかつきというかを感じたが、それにもめげずに頑張った。 そして読んでみたら、挿絵のひどさにびっくり。オリバーとかひどすぎ!あまりにかわいくない!!ということで、「オリバー!」でOliver Twist役だったマーク・レスターの愛らしい姿を思い浮かべて頑張った。 いやねぇ 思っていたより面白かったですよ。最後の方はだれて読むのが面倒くさくなってしまったのも事実だが、古典だからというのもあってか、書き方などが面白かったてのも事実だ。 何せ章の名前ですら; CHAPTER THE THIRTEENTH IS A VERY SHORT ONE, AND MAY APPEAR OF NO GRAT IMPORTANCE IN ITS PLACE, BUT IT SHOULD BE READ NOTWITHSTANDING, ASA A SEQUEL TO THE LAST, AND A KEY TO ONE THAT WILL FOLLOW WHEN ITS TIME ARRIVES (p291) のように、「○章:○○」というような形式ではなく「○章は○○です」となっている。私の乏しい読書経験からして、こんな章タイトルをちょいとお目にかかったことがなくて面白いなぁと思ってしまったのだ。 もちろん章タイトルだけが面白いというわけではない。 映画ではthe Artful Dodgerが好きだったのに、原作ではあんまり出番がなくちょっと寂しかったが、映画以上に登場人物も多ければその一人一人がキャラクターが際立っている。ちょっとティピカルな感じもしないではないが、(善悪がきっちりしているところだとか)その人物達が入り混じり話の流れていくさまは群像劇を見ている感じがした。 どうやらディケンズの特徴として、主人公が埋没してしまう、というのがあるらしいが(Wikiで見たら)、確かに"Oliever Twist"というタイトルになっている本作でも、オリバー自体はあんまり活躍しない。 大体、この話のビッグイベント(?)の一つとして「オリバーの出生秘密探り」というのが上げられると思うが、それもオリバーが行うのではなく、オリバーの周りの人物が行っているのだ。 それでもマーク・レスターの姿のオリバーはかわいくて仕方がない。オリバーってばしょっちゅう泣いたり震えたりしているのだが、なんか可愛いねぇ。 そしていじらしいんだ、これがまた。Rose達に拾われ、幸せに暮らしている中、体調も良くなったということで(その前にオリバーは撃たれていたので)以前お世話になったMr. Brownlowに会いに行くのだが、もう引き払ってしまっていたというシーン; This bitter disappointment caused Oliver much sorrow and grief even in the midst of his happiness; for he had pleased himself many times during his illness with thinking of all that Mr Brownlow and Mrs Bedwin would say to him, and what delight it would be to tell them how many long days and nights he had passed in reflecting upon what they had done for him, and bewailing their cruel separation. (p261) いつまでもご恩を忘れずにいるところがなんとも・・・。 こんなオリバーが可愛いと思うのは歳をとったせいだろうか・・・ (Charles Dickens, "OLIVER TWIST, or, The Parish Boy's Progress; Edited with an Introduction and Notes by PHILIP HORNE" 2003, Penguin Books)
何故かファンタジーは好きなのにSFはあんまり好きでない。好きじゃないというより苦手。でもどこが苦手と口で言い表せないので、虫が好かないってのが一番いい言葉かもしれない。 何故か結構人気のあるエジプトがあんまり好きでない。これも好きじゃないというより苦手。でもこれは理由がある。なんとなくあの「エジプト文明」とやらが怖くてたまらない。ピラミッドなんて暴くなよ~!って本気で思うくらい怖いし、博物館でエジプトミイラとか祭具が飾ってあると呪われそうな気がしてならない。とにかくエジプトはあんま関わりたくない。 それなのにこの二つが合体した「ラー」を読み終わってしまった! しかもかなり楽しんで! 大体、なんで読もうと思ったのかが謎だが、多分この本の情報の出所(推定)である三浦しをんさんのエッセイで、熱く語られていて面白そうと思ったんでしょう。 主人公はジェディ。彼がどこ出身の人かとかの情報はないのだが、一人の「エジプト」、特にピラミッドに魅せられた現代人。彼の持つすべての物を投げうって、タイムマシーンを完成させ紀元前2624年、ピラミッド建設中の時代へとやってきたのだった。 かの有名なピラミッド(たぶん、エジプトと言えば思い出すあのピラミッドのことだと思うけど)は、現代ではクフ王のピラミッドということになっているが、ジェディは意外な事実を知る。 それはというと、ピラミッドはもっと大昔から建立が始まっていて、ある目的のもとで建設されていたのだが、クフ王はそれを文字によって乗っ取ろうとしていたのだった。ジェディはなんとかこのピラミッドの秘密を探ろうとするのだが、ピラミッド建立の監督官であるメトフィルもそれに対しては口を閉ざしたまま。 現代に戻るのにタイムリミットもある中、奔走するのだが・・・ というストーリーラインだけが面白いのではなく、設定とか考え方などが面白い。 例えば、古代エジプト人ははっきりと地球が太陽の周りを回っているということを認識をしていた、というのも面白い。 最後にジェディが行き着いた結論、というか正確に言うと結論に至るまでの考察もなかなか興味深い; それこそが、ジェディの同時代人たちが超能力という名で呼ぶものではなかったか。霊とは単に人間の中に生じる神秘的融即などではなく、まさしくすべての存在の抽象的な側面なのだ! タウィの民が神々と呼ぶものは、言わば肉体を持たない、純粋なる魂だったのではないだろうか。彼らの世界は本来、やはり純粋な抽象の世界だったのかもしれない。しかし物質の宇宙にエントロピーが蓄積してゆくのと同時に、抽象の宇宙にも劣化が起こり、それは物質で出来た宇宙を生み出した…(中略)…。魂もまた、抽象世界から具象世界に向かって落ちて肉体というものを持つようになり、物質の世界に住まざるを得なくなった。(p234-235) エジプトに興味がある人が読んだら、私の何十倍も楽しめるのは間違えなく、ジェディが至る結論も何割増しか興味深かったかもしれない。 それでもなんだかんだ楽しめて一気読みできたのが、自分にとって驚きだった。 ということで、「アイオーン」読んでみようかと画策中。 (高野史緒 「ラー」 2004年 早川書房)
家の近くの図書館と、会社の近くの図書館に何度も通ってチェックしていたのに、なかなかなかった守り人シリーズの次巻。 ある時外部から図書館データベースに検索をかけたら「貸出可能」になってるではありませんか!!!! 慌てて図書館に行きましたとも! というわけで「虚空の旅人」をむさぶるように読んだ。守り人シリーズの外伝となっていて、バルサやタンダは出てこない。その代わりといっちゃあなんだけど、チャグムが主人公として活躍する。 チャグムはいつの間にか政調していて14歳になっていた。それでもってしっかり皇太子としての政務をこなしていて、本書ではその一貫として隣国のサンガル王国へ〈新王即位ノ儀〉に参列するためにやってきていた。 本書を通して、また一段とチャグムは成長するのだが、特に最後の星読み博士でありチャグムの相談者であるシュガに言う言葉がすごい; 「わたしは、あやうい皇太子だな。…(中略)… ゆるせよ、シュガ。このあやうさゆえに、わたしはいつか、そなたをも破滅へとひきずってしまうかもしれない。―そうなりそうだと感じたら、いつでも手をはなせ。わたしはけっしてうらみはしない。そんなときがきたら、むしろ、そなたには生きのびて、わたしとは別の方法で国をよくしていってもらいたい。…(中略)… わたしは、あえて、このあやうさをもちつづけていく。天と海のはざまにひろがる虚空を飛ぶハヤブサのように、どちらともかかわりながら、どちらにもひきずられずに、ひたすらに飛んでいきたいと思う。」(p355-356) と言ったかと思うと、とどめには 「……そなた(シュガのこと)の才能を、まつりごとだけにすりへらすな。驚きをもって異界をみるまなざしを、けっしてくもらせないでくれ。」(p357) なんて言っちゃうなんて、本当に14歳か!?という感じもしないではないが、成長したチャグムを見るのは、ちょっと寂しくもあり何故か誇らしくもある。昔読んでいた“建築探偵桜井京介シリーズ”の中の蒼が大学生になっちゃった時に感じたものと似てる気がする。 それはともかく。チャグムがやってきたサンガル王国はいくつもの島から成り立つ王国で、島守りと呼ばれる各島の領主と、王族の娘たちが婚姻関係を結ぶことによってまとまっている。 さて〈新王即位ノ儀〉に各国の要人が集まった頃、カルシュ島の娘が〈ナユーグル・ライタの目〉となってしまった。この〈ナユーグル・ライタの目〉の“ナユーグル”というのは、タンダ達が言う“ナユグ”と似たようなものらしく、サンガル王国では海の底にあるという。そして“ナユーグル・ライタ”というのは海の民のことで、その“ナユーグル・ライタ”は時折海上の世界、つまりこの世をのぞきにくるというのだ。 その方法というのが、この世の人間の魂を吸い取り、体を乗っ取って来る、というもの。 もし“ナユーグル・ライタ”がこの世の悪しき物を見てしまったら、海の神の子である彼らは海の神にそれを伝えてしまい、その結果この世が滅びてしまうことになる。 というわけで、人間は乗っ取られた“ナユーグル・ライタの目”を丁重にもてなし、その魂を返すということでその乗っ取られた人間を海に落とすのが習わしだった。 想像通り、チャグムはなんとかこの〈ナユーグル・ライタの目〉を助けようとし、それだけでなくサンガル王国の謀反の危機を助けと奔走するのだった。 あのバルサやタンダやトロガイを慕って、自分の身分を憎むチャグムが一皮成長し、サンガル王国の危機を助ける為に、他国の王と交渉しにいくシーンなんて、“チャグム、本当に偉くなったねぇ”とどこかのおばさんよろしくジーンとしてしまった。 これからもチャグムから目が離せない! (上橋菜穂子 「虚空の旅人」 2001年 偕成社)
またもやFigaroより。 そこの書評に「権力の座についた女は、男の”嫉妬史観”(?)もあって、たいてい悪女。本書の語り手である唐の則天武后(7世紀)も、彼女が玉座にいた周(国号)はなかったことにされた。そんな彼女に血肉を与える本書は史実を丹念に拾うが(中国史はそれだけでドラマティック!)、どこか回想調の語りになっているのが印象的。この手法が最大の効果を上げるのがラストの8行。女の普遍を謳うような、まるで詩」 こんなことを書かれたら読むしかないではないか。 と言ってもなかなか巡り会えず。なぜか図書館の検索にヒットしなかったのだ。ところがある時、図書館の本棚をちらっと見たらあるではないか!! 運命!! なーんて。 肝心の中身はというと、単純な感想だがとても面白かった。 だからこそこのFigaroの書評に不満を覚える。何せどう考えてもこの人、最終章しか読んでいない気がしてならないのだ。つまりこの書評にて触れられてるのは全て最終章に書かれているものなのだ。 例えば’男の”嫉妬史観”’という下り; …(中略)…私は野望に狂った女の象徴と見なされている。年代史では、私は王皇后を陥れるために娘を絞殺したと書かれている。女性蔑視の歴史家たちは、私が自分の権威に異議を唱えた長男を毒殺したと非難する。(p373) なんてそのままではないか!! そして件の最後の8行。とても楽しみにしてワクワクしていたのだが; 私は赤らむ牡丹であり、揺れる木であり、ささやく風である。 私は巡礼者を天の門へと導く険しい道である。 私は言葉や叫びや涙のなかに存在している。 私は浄化する痛みであり、侵食する苦悩である。 私は季節を経て、星のように輝く。 私は人間たちの物憂げな微笑みである。 私は山の寛大な微笑みである。 私は永遠という歯車をまわす者の、謎に満ちた微笑である。 (p375) ん~~ そんな大層なものか。いや締めとしては申し分がないが、そんな大げさなものではないよ、と思う。 では何が魅力的なのか。 確かにこの書評に書かれるとおり、回顧調の口調がとても印象的なのだ。 何せ、これは則天武后(本の中では武照)が産まれるシーンから始まるのだ。もちろんそこも回顧調。 そして最後は自分が死んで、何年も経ち自分の陵から世界を見つめて、例の8行が紡がれて終わるのだ。そんな形式の歴史小説ってなかなかない。 話自体ももちろん面白い。 裕福の家に生まれた武照。ところが父の死をきっかけに貧しく卑しめられる生活が始まる。 それがひょんなツテで後宮に入ることになるのだった。その後宮の生活に完全に蝕まれることなく、武照らしく生きるのだった。 やがて皇帝の息子の寵を受け、皇帝がなくなって皇子が位を継いだ後には皇后になるのだった。 といういわゆるサクセスストーリーは面白いし、後宮の女の戦いというのも興味深い。そしてその中で皇帝の寵を得ることに固執しない武照は単純にかっこいいのだ。 それが不思議なことに皇后になり、皇帝の代わりに政務をこなすことによって権力を欲しいままになった頃から、武照が”並の人間”にしか見えなくなる。やはり、頂点を極める人間は並みではないが、栄華を極めた人間は似た行動をとり似た末路をたどるのだろうか。 (山颯<シャン・サ> 「女帝 わが名は則天武后」 訳:吉田良子 2006年 草思社)
小学校からの仲の本友達というのがいるのだが、関西と東京と住む所が違えども面白い本情報は交換している。それで教えてもらったのが舞城王太郎。しばらく「玉太郎」と読み間違えして、検索に苦労したのはご愛敬。 まず、処女作の「煙と土と食い物」を読んだ。 さすが友よ、趣味が似てるよ。面白いよ、この本。 あらすじには、「アメリカ/サンディエゴ/俺の働くERに凶報が届く。連続主婦殴打生き埋め事件。被害者は俺のおふくろ。」と書いてあったので推理小説かと思ったら、確かに推理小説っぽいが、どちらかというと前述の文に続く「ヘイヘイヘイ、復讐は俺に任せろマザファッカー」の一文に凝縮されているものだった。 つまり、謎解きのような推理小説が本来持つ面白さというよりも、話がスタイリッシュにぐいぐいと進んでいく面白さを持つ本だった。 主人公はサンディエゴのERで働く不眠症気味の四郎。母危篤の知らせを受け日本は福島の実家へと戻る。 四郎の上には兄が三人おり、上から一郎、二郎、三郎と続く。彼らの父親は政治家で、つまりその街の名士の一家だった。 母親は連続主婦殴打生き埋め事件に巻き込まれて昏睡状態にあった。その事件というのは、まず後頭部を鈍器で殴られ、家の庭に生き埋めにされるというものだった。 その時に人形も一緒に埋められていたり、体全部がすっぽり埋められるのではなくて、一部飛び出ていたり、と奇妙な事件でもあった。 それを四郎が、警視庁で働いている元同級生を東京から呼び出したりなんかして、事件の解明へとつなげていく、というのが話の本筋だ。というか、話の本筋のはずだ。 というのは、実際は、話の半分くらいが事件の解明というより四郎の家の話となっている。 またその話がすさまじくて、ずいぶん昔に失踪してしまった兄・二郎と父親の確執が綴られているのだが、語り口調も鮮やか。本当に先へ先へと進む。 そして途中から事件なんてどうでもようなって、家族の結末ばかりが気になったりもしちゃうし。 当然のことながら、その失踪してしまった二郎とこの事件がつながりを持っていて、そう言ってしまえば平凡な話になってしまうかもしれない。でも、この本の最大の魅力は、文体にあると思う。とりあえず面白い。 冒頭から面白いのでちと長いが抜き出すと; サンディエゴにはおよそ三百万の市民がすんでいるが、そいつらがどういうわけだかいろんな怪我や病気を背負い込んでホッジ総合病院にやってくるから、ERにいる俺は馬車馬三等分くらいハードに働いてそいつらを決められたところへ追いやる。チャッチャッチャッ一丁上がり。チャッチャッチャッもう一丁。やることもリズムも板前の仕事に似ている。まな板の上の食材を料理するときのチャッチャッチャッチャッ。板前と違うのは奴らが切り開いたり切り刻んだりするだけのところを、俺達は最終的に全部元通り縫い合わせてしまうというところだ。何かを一旦メチャクチャに傷付けてそれをまた元通りに戻すなんて作業をするのはこの世で外科医くらいのものじゃないか?多分そうだ。俺はこの仕事が好きだ。人の怪我を治せることが嬉しいんじゃない。忙しいからだ。俺は忙しく働いて手を動かしなが歩き回ったり走り回ったりするのが好きなのだ。俺は腕がいいからチャッチャチャッチャと目の前の仕事をこなしている間にいくつか立て続けに命を助けることがあるので、そうなると自分が神になったような気がしてくる。この世の唯一神というわけじゃない。ギリシャ神話やローマ神話に登場するような大勢の神の一人だ。医療の神。治癒の守護神。どんな奴でもかかってこい。(p6-7) この句読点のなさと改行のなさ! 読みにくいはずなのに、なんだか勢いがあるように見える。 舞城王太郎を読んでいきたい。 (舞城王太郎 「煙か土か食い物」 2001年 講談社ノベルズ)
該当の記事は見つかりませんでした。