fc2ブログ

がらくたにっき |

旦那の失墜はKの仕業だと思っていたのだが…

たまたまAmazonで見つけた荻原浩。その時にひかれたのが「ママの狙撃銃」。
表紙のピンクのポップな感じだし、“一見普通の主婦が実は元・暗殺者で、ある日「もう一度仕事をしないか?」と言われる”というあらすじを読んで、ポップでコメディタッチなものを想像して、面白そう!ととびついたのだ。

ところがどっこい、そんな生易しいもんじゃなかった。
コメディ、というよりも、“暗殺者”というものに重点においたもので、涙が出てしまう類だった。
想像してたものと大分違うが……想像より断然よかった!!!

主人公は、ちょっとというか大分頼りない旦那と、中1の女の子と幼稚園に通う男の子を抱える主婦・曜子。
一見普通の主婦だが人に言えない過去がある。
10年ほどアメリカはオクラホマ州に住む祖父のもとで育っていた。
その祖父にありとあらゆる銃の取扱方法を学ぶのだが、その祖父こそが暗殺者だったのだ。

そんな曜子が最初に暗殺したのは祖父のためだった。
どうやらケネディ暗殺を行ったのは、何を隠そう曜子の祖父だったらしいのだが、それを言いふらそうとした男の始末を言いつかったのだ。

暗殺は成功し、祖父は病死し、曜子は日本に帰ってきて、紆余曲折を経て今の夫と結婚し、子宝にも恵まれる。
そうやって平和な日々を暮らしていた曜子のもとへ、曜子に暗殺話を持ちかけてきたKから電話がかかってくる。もちろん最初は拒んでいた曜子だが、夫が退職してしまったりとお金が要り用となってしまい、結局引き受けることになる。

そうやって曜子が仕事を受け遂行していく様を、オクラホマ時代の記憶などの過去を曜子が思い出す形で交差させながら描いているのは、「殺し屋シュウ」に似ているかもしれない。
でも、まず暗殺者が主婦ってのが新鮮だし、主婦としての曜子の生活があまりに平凡で、それが曜子の暗殺者としての苦悩をひきたてる。
主婦になって初めての暗殺から帰ってきて、わざと置いてきた携帯を開いたシーンなんて涙が出てきそうだった。もちろん、家族は曜子がそんな仕事をしているとは知らないので、同窓会に行ってきたことになっていて、中1の娘が代わりにカレーを作ることになっていた。そんなわけで帰ってきたらメールの受信箱に

『こっちは心配するな。お前がいないから、発泡酒二本飲んじゃお。ゆっくりしてきなよ。でも必ず帰ってきてね (孝平)』
…(中略)…
『ねえちゃんのカレーは辛え~ サラダに生ピーマン! 怖え~ (パパに打ってもらった。秀太)』
 珠紀からもメール。こちらは夕方から夜にかけて何回も。
 19:32 『じゃがいもを煮るのは何分ぐらい?』
18:55 『ルーはきざんでいれたほうがいいの?おナベにフタをしたほうがいい?』
 18:03 『玉ねぎはみじん切り? くし切り?』
 16:52 『いまマルナカストア。学校からチョッコー。ルーはある? 買わなくていい? サラダにピーマン入れてみてもいい?』(p189-190)

と入っていたわけだ。特に珠紀からのメールは妙にツボだった。
まったく普通のメールなのに、読む人読む状況で泣けるツボになるとは、と妙に感嘆してしまった。

表紙とタイトルにだまされてしまった感がある内容だったけれども、いい騙しだったな、と思える1冊だった。


(荻原浩 「ママの狙撃銃」 2006年 双葉社)

スポンサーサイト



Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

まつげのエクステ話を読んだ次の日に同期がエクステまつげしてきてた!

読書友達が前々から「桜庭一樹のエッセイ面白いよー 三浦しをんのエッセイが好きなら好きだと思う」と言っていたので、気になっていた。
ということで、時系列に読もう!と「桜庭一樹日記」を読んでみた。

どうやらラノベの作家さんらしく、エッセイの文体もそんな感じで、三浦しをんさんとは大分違う。
ま、くだけた感じと、自分のダメな生活(飲んだくれてたりダラダラしてたり)を惜しげもなくセキララに綴られているのは同じだけれども。

三浦しをん女史の「ビロウな話で恐縮です日記」を読みながら、「桜庭一樹日記」を読んでみたけど、同じWebエッセイという媒体だし、それ故にくだけた文章に、中身も日常の結構どうでもいいこと、と書く題材も同じなのに、こうも印象が違うとは不思議だー
もちろん、生活内容が結構違いますがね。ちなみに桜庭女史は仕事して飲んで本読んでDVD観てCD聞いて空手してました。

あ 別にラノベはしょせん“ライト”ノベルよ~という趣旨なことを言っているわけではありません。悪しからず。
確かに、私はライトノベルを本当にちょっとしか読んだことがないけれど、それは「私は文学しか読みませんの」って思ってるからではなく、本当に本当にラノベの文章に馴染みがなくて読みにくいからなのです。ラノベっていわゆる“一般小説”とは違う様相の文体じゃありません?
うーん どこがどう違うかとか、どこがどう苦手とかはうまく説明できないけど・・・
あ!別にこれはラノベ小説家だからってわけじゃないかもしれないけど、

 むぅぅ~~という感じも。あり。ます。がー!(p89)

っていう書き方、いいなぁ~

話は小さく脱線してしまったが、とにかく友達が言うように“三浦しをんと同じ”ってわけにはいかなかった。うん、ちょっと読むのが難しかったな。

でもちょっとすごいな~かっこいいな~と思ったのが、「小説家という職業を一言でいうとどんな仕事だと思いますか?」という質問に;

 いたこ。もしくは、みんなわかってるけどまだ名前がないものをみつけては、みつけては、名づけていくお仕事。(p232)

という答えていたところ。

読みにくいとこぼしてしまったが、沢山本を読んでいらっしゃるみたいなので、読書日記を読んでみたいと思う。


(桜庭一樹 「桜庭一樹日記 BLACK AND WHITE」 平成18年 富士見書房)

Category : 随筆
Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

悪いけどミロの方が好きだな・・・

せっかくだから、柴田よしき作品全部網羅しよう、と思い立ったのは花咲シリーズに出てくる私のお気に入りキャラ、山内が出ている「聖なる黒夜」が、緑子シリーズのスピンオフ作品らしいから。
そんなわけで年代順に読みます!待ってろよ!山内さん!

さてさて柴田よしきのデビュー作は、横溝正史賞受賞作品の「RIKO―女神の永遠―」。
主人公はタイトル通り、新宿署の警部補である村上緑子(りこ)。
防犯課の鮎川慎二と強姦ポルノビデオの捜査をしていたが、それが殺人事件と絡んでいるということで本庁が介入してくる、というところから話が始まる。

その本庁こそが緑子の古巣で、上司と不倫した挙句、その妻と刃傷事件に発展してしまったことから、栄転という形で新宿署に流されたという過去を持つ。
しかも不倫がばれただけでなく、先輩より昇進したのと、告白されていたのに、それを蹴って不倫したということで恨みを買ってしまったが故に、先輩に強姦され噂を流され、という悲惨な過去を持っていた。
その上司と先輩が本庁からやってきて、緑子達の手柄をかすめ取りそうだというのだから、緑子も奮起する訳だ。

男運の悪さと、バリバリ働く女、といえば桐野夏生の村野ミロっぽいが(あ、名字も似てるし、どちらも舞台は新宿だ)、決定的に違うのは、ミロは男っ気がないのに対して、緑子は開き直ったかのようにお盛ん。
実際、そこが本書を特徴付けてて、扱う事件がポルノビデオであれば、エロシーンが結構の比率を占めてる。何せ緑子ったら、鮎川、元上司、元先輩、交通課の婦人警官とできちゃってるのだ。
それなのに、エロ小説になってないのが、柴田よしきの力量なのかもしれない。

それは多分、緑子がその一人一人のことが相当好きで、でも愛してるとは言えない、そして愛とはなんぞや、と悩んでいるのがビビッドに描かれているからだろう。
これは心の葛藤のシーンではないけれど、なかなかよく描写されているなぁと思うところ;

 緑子はそのまま、そこに泣き崩れた。だがもっと爆発するような悲しみを予想していた緑子の心には、その悲しみは余りに切なく、頼りない、捕らえどころのないものだった。緑子の喉から出て来るものは、悲しみの絶叫ではなく、糸のように細い嗚咽だった。(169)

ただやはり、柴田よしきの後の作品を知っているため、まだまだだな感がぬぐえなかった。
緑子のことばかりで、事件のことはすぐ忘れてがちだし、身近な人が犯人というシナリオもこの筋書きならお決まりネ、という感じだった。

まぁ なにはともあれ、山内さんまでまっしぐらに読み進めるぞー


(柴田よしき 「RIKO―女神の永遠―」 1995年 角川書店)

Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

今月末に次巻が出るらしい

荻原規子の最新刊として本書、「RDE はじめてのお使い」が本屋に積まれていた時、ケチな私でも手を伸ばしかけた。何せ、大好きな荻原規子だし、表紙はこれまた大好きな酒井駒子だったからだ。
でもAmazonで今一な書評を読んで、とりあえず図書館で、となってはや10ヶ月。
図書館ってなかなか入れないのね。

それはさておき、今一な書評はというと、当たらずも遠からず。
多分、これで完結ではないし、むしろ序章っぽいのが微妙な書評となっていた原因の一つでしょう。

主人公も荻原規子作品の女の子には珍しく、引っ込み思案でうじうじしている。
そんな主人公の泉水子は山伏の修験所として名高い玉倉神社に宮司の祖父と住んでいる。
といってもりょうしがいない訳ではなく、父は優秀なプログラマーとしてシリコンバレーへ、母は警視庁公安課に勤め日本中を飛び回っている。
そんな優秀な両親の娘であるのに、成績も運動もとんとダメな泉水子。その上対人恐怖症気味で、家である玉倉神社は恐ろしく山奥な為、通う中学校で浮いた存在。

そんな彼女が、他の女の子のようになりたい、と“はじめの第一歩”的に前髪を切ってから事態が変わってくる。
奇妙な現象が起こったのだ。
そして期を同じくして、父の友達である相楽雪政がやってくる。

初めて相楽雪政が山伏であったことを聞く泉水子。
更に驚くことに、彼の息子深行が現れ、雪政曰く泉水子の「下僕」らしいのだ!

この深行が顔良し、頭良し、運動神経良し、でも主人公にのみ意地が悪いってのが、少女漫画ちっくでぷって感じだった。しかも転校生で、自分ちから通ってるってのもお約束でしょ

話は結局、泉水子は姫神が憑依する器で、最終的にそんな自分を受け止める、といった感じになった。

う~ん 言ったら悪いが、結構平凡な感じだなぁ。これが荻原規子作品じゃなかったら途中で止めてたぞ。
しかも泉水子が最後に舞を踊るシーンなんて、彼女の既刊本「風神秘抄」を彷彿とさせたし・・・

でもこれは序章にしか過ぎない(はずだ)し、行く先を期待しとこ・・・って期待していいんだよね・・・?

だが、その影も、山頂の風がたちまちに吹き払ってしまい、深行がまばたきした後には、ぬぐい去ったように痕跡一つ残らなかった。(p301)

という本書最後の描写は、わりと好きだったのでやっぱり期待しようと思う。


(荻原規子 「RDG レッドデータガール はじめてのお使い」 2008年 角川書店)

Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

どうしても“そうじ”と読んでしまう

「蒼路の旅人」の第一感想は、チャグム!大きくなったな!本当に偉いよ!! とちょっと近所のおばさんモード。
いやぁ~ チャグム、本当に偉い。まだまだチャグムの試練は本書で終わったわけではないので、「頑張れ~ふれ~」という気持ちもあります。というわけで、早く続きが読みたし。

初っ端から次作への期待を書いてしまったが、本書ではチャグムの活躍ぶりが描かれている。
バルサたちと冒険してから早○年(←ちょっと忘れてしまった)。いまやチャグムは15歳の第一皇子として立派に成長した。そして星読み博士のシュガに教育されて人望も厚い。
ところがそれに妬むのが父である皇帝。嫉妬故、チャグムではなくチャグムの弟に皇位を譲りたく思っている。
ああ!いつになっても父親からは疎まれるチャグム!おいたわしや!

そんな皇帝に絶好なチャンスが訪れる。
サンガル王国より援軍の要請が来たのだ。実は今、南からタルシュ王国が攻めてきて、屈強なサンガル王国も苦戦を強いられているのだ。しかし、この援軍の要請は罠に違いない。
そうと分かっていても新ヨゴ皇国としては援軍を出さないわけにはいかない。
そこで皇帝が取った道とは、チャグムの母方の父、つまりチャグムの祖父で彼の後押しとなる海軍の将軍をやるということだった。
それに憤ったチャグムは、すったもんだの末、この援軍に加わることになってしまったのだった・・・
ああ!チャグム! その潔癖がゆえの短慮、チャグムらしいといえばそうなんだけど・・・

結局、覚悟していた通り、それは罠でサンガル兵によりタルシュに引き渡されることになってしまう。その時にチャグムの祖父である将軍は、自分もろとも船を焼く、という哀しいハプニングも起きるのだが・・・
その時に逃げようとするがそれもうまくいかなくて、結局タルシュのスパイ・鷹である元・ヨゴ皇国民であったヒュウゴに捕まってしまう。
ヒュウゴはチャグムに、民を戦火に巻き込まずに平和にタルシュの枝国になることを薦める。どっちにしろタルシュが新ヨゴ皇国を征服するのは変わりないのだから、それを無血で行うかどうかはチャグムにかかっているのだ。その為に父王を殺さなくてはいけない、と言う。
ああ!チャグム!命を狙っている相手だというのに、それでも殺したくないとは、あまりに純真すぎるよ!でもそれがいいんだけどね!!

タルシュの枝国を見て、なんとか打開策を考えるチャグム!
タルシュの王子に会って自信がくじけそうになるチャグム!
そして最終的にとった決断は、やっぱりタルシュに屈したくない。それにはロタ・カンバルと手を結び、三国で迎え撃つしかない!
ということで、チャグムがとった行動とは・・・新ヨゴ皇国に向かう途中に海に落ち、泳いでロタの方へ行く、というものだった!!!
チャグム、行けーーーーーーーー!!!

と妙なテンションでお送りしました、「蒼路の旅人」。
でも実際はそんな荒々しい雰囲気なわけではなく、チャグムが熟考する性格のせいか、浮ついた雰囲気では全然ありません。そこがまたいい!

綿密に練られた設定も本シリーズの魅力だけれども、文章もいい。例えば、チャグムがかっとなって父帝になじるシーンとか;

 そんな思いがつぎつぎに心にうかび、最後に、ひとつの思いが、しみるような痛みをともなって胸にひろがっていった。
(―これほど、あなたはわたしをきらっているのか・・・・・・。)
うすく笑った口もと。かすかに眉をひそめ、目に息子をさとす表情をうかべている父の顔をみるうちに、吐き気がこみあげてきた。
 目のはしで、シュガが自分をみているのは、感じていた。―こらえてくれ、と祈るように自分をみているのを。
 だが・・・・・・こらえられなかった。
 これまで、ためにためてきたものがせきを切ったようにつきあげてきて、チャグムは歯をくいしばって帝をにらみつけた。おさえようもなく、目に涙がしみだした。(P77-78)

こういう瞬間って物語的に面白いよな~と思う。思えば歌舞伎の「封印切」に似てるな、このシーン。今まで溜めに溜めていたものが、あふれ出る瞬間。駄目だと理性では分かっていても、感情が理性に勝つ瞬間。それがこんな鮮やかに描かれているのが、やっぱりすごいなぁ~と思う。
あとこの直後の帝の表情の描写もよかった。

一瞬、驚きにゆがんだ帝の瞳に、つぎの瞬間、怒りの色がひらめいた。(P78)

う~ん いいよなぁ


(上橋菜穂子 「蒼路の旅人」 2005年 偕成社)

Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

天使=男 悪魔=女 バージョンも読んでみたいな

インターネット上の書評にて“天使と悪魔が出会ってしまったら…?”的な内容が書かれていて、それにつられて“読むリスト”に入れていた「永遠の七日間」。あまり恋愛小説を読まない私としては珍しい。
それでその後、Amazonの内容紹介で“天使と悪魔”という単語は出てこないし、内容の欄にも「愛は人を育てるのか、人が愛を育てるのか―。嘘を知らない女と真実を語らぬ男。二人の出逢いは、神の誤算か、悪魔のたくらみか?今宵、あなたに「めぐり逢い」という名の奇跡が舞い降りる。」と書かれているのみ。あれ?私が期待していたものと違うのか!?と思って、気になって借りてみた。

そしたら、期待通りでしたよ。
主人公はCIAのゾフィアと、初っ端から人の不幸を楽しむなんだか怪しげなルーカス。本性はCIAってのはCentral Intelligence of Angels(ぷっ)ということでゾフィアの本性は天使、ルーカスは悪魔。
そしてゾフィアは上司のミカエルに呼ばれて、ミスターこと神と面会する。そこで語られたのが、悪魔のボス・ルシフェルとの不毛な戦いの終結のため、賭けを行うことにした、その賭けというのは七日間でどちらが多く人間を天使サイド/悪魔サイドに引きずりこめたか、というものだった。

まあ、それでこれはラブコメですので、同じ任命を受けたルーカスとゾフィアは、偶然にも出会い、恋に落ちるわけです。そして、途中でお互いに敵同士だと気づくが、二人の愛は止められない!
でもその賭けの七日間が終わってしまえば、二人はまた別の世界で住まなくてはいけなくなる。ということで、ルーカスが天使の世界に入るために善行を試したり、ゾフィアが悪の道に入ろうとしたりするのだが、うまくいかず、さてはてどうしたものか・・・

あ、これはラブコメなので、やっぱりハッピーエンドです。
最後の訳者のあとがきで;

貴重な休日に、木陰で(あるいは気持ちのいいカフェの一画、もしくはほかのお気に入りの場所で)リラックスして、自分を甘やかすために本を読む。保証してもいい。そういう読書をしたいと願っている人にこそ、この本はオススメだ。( p131)

とあるように、頭を空っぽにして読むのに丁度いい小説だった。それでいて本当に馬鹿馬鹿しいわ!という小説でもなく、適度にいい事が書かれている。例えば;

「人間に想像できる無限の善なんていうものはありはせんよ、ゾフィア。なんといっても、善は悪と違って目に見えないものだからな。あれこれ計算して導かれるものでもないし、厚かましくも言葉にされたらその意味も失われてしまう。善というのは、ごく小さな気配りを無限に集めたもので、それがひとつひとつ重なったものが、いつの日か、きっと世界を変えることになるんだよ。だれでもいいから訊いてごらん、世界の流れを変えた人物を五人あげてみろ、とな。そうだな、たとえば民主主義を生み出した者とか、抗生物質の発明者とか、平和をもたらした者とかいるだろ。奇妙なことだが、そういった者の名前まで覚えている人間はあまりいないんだよ。独裁者五人の名前ならば簡単にあげられるのにな。重い病気の名前なら知っているが、克服できた病気の名前は覚えていない。だれもが恐れる悪の極みとは世界の終末のことだが、善の極みについては、だれもが忘れているようじゃないか。創造の日というものがすでに存在しているというのにな。(p92-3)

とか、二人が敵対するもの同士で、これからどうしよう?という時につぶやくルーカスの言葉も;

「ベルリンの壁が崩れた日、人間たちはどちらの道もそっくりだと気がついた。壁のどちら側にも家が並び、車が走りまわり、夜にもなれば街灯に照らされる。幸福と不幸は同じようにはいかないが、西側の子どもも東側の子どもも、互いに相手が話に聞いていたのとはまったく違うことに気がついた」(p233)

じっくり考えると“そうかな・・・?”と思ってしまうが、読んでいる最中はしんみりしてしまう。

そうかと思えば、ルーカスが受付嬢に“アメリカ人は働きすぎだ。フランスでは法律できちんと労働時間が制御されている”的なことを言うと、受付嬢がそれに反発して;

「…(中略)…フランス人といっても、蝸牛を食べてる人たちじゃありませんか。…(中略)…」(p96)

と言えば、ルーカスも

「あんたはガーリックとバターの味を知らないらしいな。知っていたら、口が裂けてもそんなことは言えないはずだ」(p97)

と言い返すのは、作者がフランス人だと思うと“やっぱりフランス人はアメリカ人が嫌いなのね”と思ってぷっとしてしまう。まあ、その後に受付嬢が「ガーリックとバターがおいしかったわ」的なことを言うのはやりすぎだと思うけど。

作者は映画“Just Like Heaven”の原作者らしいが、あの映画と同じく、ラブコメ・エンターテイメントの真髄!という感じで、楽しく読めた一冊だった。


(マルク・レヴィ 「永遠の七日間」 藤本優子・訳 2008年 PHPエディターズ・グループ)

Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

舞城氏、なかなか絵がお上手。特に兎と狼が抱き合ってる絵が好き

舞城王太郎第三弾「世界は密室でできている。」

今作は前2作のようにつながっている訳でなくて、それでもちょっと関連ある物だった。
1作目で出てきた三朗が書いた探偵シリーズ、ルンババが主人公なのだ。つまり三朗が書いた小説って設定なのか!?

タイトルで宣言している通り密室てんこ盛りの今作。密室しか出てきません。
主人公はルンババだが、ルンババがシャーロックホームズであったら、ルンババの隣に住む僕こと西村氏はワトソン君。
彼の目線で話は進む。

大まかな話の流れはというと、中3の修学旅行で東京に来た僕とルンババ達。とある事情により、「僕」が皆のように都庁の展望台に登らずに待っていると、派手に痴話喧嘩をしてるカップルに出会う。
その喧嘩のとばっちりを受けた「僕」は、気絶し、彼女・椿に拉致されてしまう。
そんなきっかけで椿と榎という奇妙な姉妹と関わることになる。

主な事件は3つ。
1つ目はルンババが中学生にしてバリバリの探偵よろしく、警察の要請を受けて解く密室殺人事件。

2つ目は、椿の喧嘩相手=不倫相手の妻・子供が密室で殺害される事件及び、その後椿たちの家て不倫相手が殺される密室事件。

3つ目が1つ目の殺人犯がまた密室殺人を犯し、その犯人を別の奴が殺す、一見オープンな所での殺人だが、実は密室殺人という事件。

相変わらずぶっ飛んで、支離滅裂っぽいがそれが計算された上でのものだろう、と思わせる物語だった。
そして相変わらずな文体;

とにかく僕は、泣いてるエノキに背中がゾクゾクして、じっと立ってられなくて足踏み。ドタドタドタドタ。「エノキさん?何?どうしたあ?」「ふ、あのね、ちょっとウチにね、いられなくなったからね、今からそっちに行きたいんだけど」「え?」。何?「そっちってどっち?」「ふう、そっち」「どこ?」「福井、もう、馬鹿」。また馬鹿だ・・・・・・え?「福井?今から福井来るんかあ?どうやって」「新幹線」「何しに?」←もうやや絶叫気味。背中のゾクゾクが止まらない。「旅行?」。そんな訳ない。(53 54)

私は相当好きだが、好き嫌いが別れそうな文体だよなぁといつも思う。
物語自体はそんな好みでないので、ほとんどこの文体に会う為に舞城王太郎を読んでる感じがしてならない。
こんなユニークな文体でブラックジョーク的な話を書き、それでいて椿が死んでる妻のお腹から取り出した子供の名が三朗だったり、犯人を殺した犯人が奈津川と言うらしい、という茶目っ気があって、私はツボです。

しかし、こうも親との確執ばかりをテーマにされると、舞城王太郎さんに何かあったのかと邪推してしまう・・・


(舞城王太郎 「世界は密室でできている。 THE WORLD IS MADE OUT OF CLOSED ROOMS」 2002年 講談社)

Category : 小説:現代
Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

それにしても人が死にすぎやしないか・・・(涙

上巻では「物語の進行がたるい」的なことを書いてしまいましたが、前言撤回させて頂きとおございます。
「孤宿の人」、面白かった!!!

というか下巻を読み進めるうちに、この本のテーマみたいなものがようやく分かってきた。物語の進行がたるいというより、自分のおつむの理解の進行が遅かっただけですな。わはは、と笑ってごまかす。

この本のテーマ、というか私が感じ取ったテーマは、鬼とはいかなるものかということ。うーん なんだかうまく表現できませんな。
私は高田崇史のQEDシリーズも好きなのだが、それはストーリーラインが好きというより、歴史上の物事は「実は○○だった」と解かれているのが好きだ。例えば「節分で追い出される鬼は、朝廷の反逆者であったその土地の者で、たどってゆけば私達の祖先である(ちょっとうろ覚え)」とか、私達が“災い”と思っていることは「騙り」であって、その裏には政治的な物事が深く関わっている、というのが面白かったのだ。
でもQEDシリーズでは現代が舞台だし、身近な祭りなどが題材になっているためか、「へー」で終わってしまっていた。それに対して、「弧宿の人」はその「騙り」になっていく過程を、当事者の目線で語っている。

本書で「鬼」となるのは、江戸からのお預かりしている罪人・加賀さま。
加賀さまが幽閉されている涸滝の屋敷もいわくつきで、というのは城代の浅木家にて15年前、流行り病が発生して、その病人を閉じ込めていた場所だったのだ。

夏場の病、雷という天災から、琴江殺しという人災まで全ての凶事が加賀さまのせいになってしまった。
しかも15年前の浅木家の疫病も、実は跡目争いの末の毒殺で、今回もそれが勃発している。それだけではなく肝心の浅木家当主は、現丸海藩主の畠山家を狙っている始末。
そしてそれを全て「加賀さま」という存在を盾に遂行されているのだ。つまり、舷洲先生に言わせれば;

いたずらな恐怖。我執。欲や憎しみ。数えておっしゃる。
「加賀殿のようなお方は、周囲にいる者どもが日頃は押し隠しているそういう黒いものを浮き上がらせる。加賀殿の毒気がどうだの、魅入られておかしくなるのだというのは、何のことはない、その者がもともと内に隠し持っていたものを、加賀殿を口実に外へ出すことができるようになるからこそ起きることだ。火元は己れだ。闇は外にはありません。ましてや加賀殿が運んでこられたわけではない。」(p45)

となるわけだ。

そういう事実を宇佐や渡部の目線から知ると同時に、加賀さまの人柄はほうから知ることとなる。
ひょんな事件から(これは上巻の話)、加賀さまとの面会が日課となったほう。ついには加賀さまより手習い・そろばんの手ほどきまで受ける。そこから感じるのは加賀さま良い人!というもののみ。「阿呆のほう」という名の謂れを持つほうに、新しい漢字を与えるところからもそれが伺える。

しかも! 井上家子息の啓一郎は父の舷州より加賀さまの事件の真相を聞くのだが。
加賀さまは全然「鬼」ではなかったのだ!!
端的に言えば、妻と子供の無理心中であったし、それを隠蔽して自分が罪を被り、切腹もしないで「不気味な存在」になることによって、ある人たちに恩返しをしていたのだった。
それだけではなく、“加賀さまを本当に「鬼」にしてゴタゴタを一気に解決しよう”という丸海藩上層部の計画に同意して、自らの命を差し出すのだ!!!

そんなわけで加賀さまに思いっきり肩入れした私は、最後は滂沱の涙。しかもほうが加賀さまを純真に慕う様も、健気でまた泣ける。

とここまで手放しで褒めてから、最後にちょっと文句を。
いくら江戸時代後期だからといって、先進的な考えを持っている人、ということで民主主義的社会を夢見る、という設定はいかがなものか、時々、江戸時代の話を読んでいて出てくるけど、江戸時代の世界にどっぷりつかって読んでいるのに、突然「江戸時代ではこういう風習・考え方がはびこってるけど、この後幕末があって明治維新があって、今はこうだよね」的なことを彷彿させることを書いて欲しくない。興ざめというか、登場人物が「いつかこんな不公平なことがなくなって、身分とかなくなればいいのに」的な発言したって「はいはい。あと100年くらいでなりますよ」と思うしかないではないか!!
と、文句おばさんはここまで。
フォローするわけではないが、本当に面白かったデス。


(宮部みゆき 「孤宿の人 (下)」 2005年 新人物往来社)

Category : 小説:歴史
Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

Molinaの姿はなんとなく「Jの総て」のJだったなぁ

「蜘蛛女のキス」。なぜかどこかで聞いたことがある題名だった。
洋書の古本を扱うサイトで”Kiss of the Spiderwoman” を見つけた時、知っているようだが内容は全然検討もつかない、Amazonで見てみてもやっぱり内容は知らない。
どこで聞いたのか思い出さなかったけれども、Amazonのレビューを読んで面白そうだったので購入してみた。
ちなみにそのレビューは和訳に対してのものだったのだが、「会話のみで成立している小説で、一人は女言葉、一人は男言葉だが、話が進むにつれこれは監獄の中での会話で二人は男だと分かる」みたいなことが書かれていた。さて、女・男言葉の差がない英語ではどうなっているのか、というのも興味の対象だった。

読み終わって・・・
本当に本当にこれは会話のみで成立している小説でした! びっくり。
いやぁ~ 別にレビューを疑っていたわけではないけれども。
そしてその「差」がない英語はどうだったかというと、ちょっとややこしかった。何しろシナリオのように
「A:おはよう。
B:おはよう。元気?
 A:うん。」
というようになっていなくて、
「-Good Morning.
-Good Morning. You alright?
―Yes.」
みたいな感じなのだ。だから一旦どっちか分からなくなると、どえらいことになって、片方がもう片方を呼びかけている文章まで戻らないと分からないのだ。私みたいに通勤中に読むとなれば、途中で中断されてしまうわけだから、次に読む時にはもう分からなくなっていることが多々あった。
ま、私は英語の機微まで理解できていなくて、二人の口調の違いが分からなかっただけかもしれないが。

それでもとても面白かったし、この会話だけっていうのが非常に効いていた。
登場人物は、監獄の中で一緒になった二人の男、一人は所謂オカマ・Molinaもう一人は革命家・Valentin。話の中心となるのはこのMolinaが映画のストーリーを暇つぶしに語る、というものだった。
どうやらこの映画、実在している映画みたいなのだが、描写がとても語られていて読者も引き込まれる。例えばこんな感じ;

She just liesthere sprawled on the carpet that's made of real ermine, her pitch black against the snowy white ermine, and the tears twingling like stars . . . And she looks up . . . and sees over on one of those taffeta hassocks . . . a sheet of paper.(p230)

それだけでなく言い間違えたり、あんまり覚えていなかったりとするところがリアルでこれがまたいい。読者もValentineと一緒に“聞いている”という臨場感にあふれている。

この文章の構成上、登場人物の背格好が全く分からないのだが、それが故か、二人の会話を盗み聞きしているような感じである。そしてなぜか二人の声が聞こえてくるから不思議だ。Molinaがちょっとゆったりした口調で、Valentinが低い幅のある声だな、私の中では。
ただ「映画の内容を物語る」という、一見小説としては成り立たないような内容なのに、飽きることなく読んでしまうのは、この臨場感のおかげだと思う。

一応、話の筋みたいのがあるのだが、ほとんどがこの映画語りだ。
前半はずーーーっとそのままハプニングも大してなく、映画語りが続く。
そして話の丁度真ん中にきたあたりで、Molinaと看守の会話が挟まれる。そこでMolinaはValentinから革命運動の情報を聞き出すために同じ監房に入れられていたことが、読者に知らされる。
それを知りながら読む後半は、前半と同じように映画の話ばかりのはずなのに、違った様相を帯びている。Molinaが映画を語るのはValentinを手なずける為だったのか?MolinaがValentinに話す内容には下心はあるのか?などと勘ぐって読んでしまうからだ。

でもMolinaの気持ちは”Kiss of the Spiderwoman”のタイトルに表れていると思う。
実際にMolinaがValentinに“恋”心を抱いていたのかは謎だけれども、愛情を傾けていたのは本当だろう。
私だったらValentinに好意を抱いているなら、良心の呵責にさいなまれて打ち明けてしまうと思う。それに対してMolinaは絶対真実を語らず、Valentinがちょっとでも革命運動の仲間の話をしようとすると頑なに拒む。
でもそれは、Valentinに嫌われたくないから言わないんじゃなくて、自分が今まで好意で行っていた事が、下心があってやったわけじゃなくて純粋なる好意による行動だ、という証明のような気がしてならない。というのは私がMolina贔屓だから・・・?

何はともあれ、邦訳でも読んでみたい。
会話がどう進んでいくのかが気になるというのもあるけれども、ちょっと気になる点がいくつかあったのだ。
一つは、全然Molinaがそういう発言をしているわけではないのに、注釈がついていて、その注釈の内容がホモセクシャルに関する学説の紹介だったのだ。これは英語版だけなのか?
もう一つは、登場人物の思っていることがItalicで書かれているのだが、それが全然会話と合っていなくて、とても読みづらかった。しかも本文に関係ないところが多かったし。
ということでほとんどすっとばして読んでしまったので(何せItalicって読みにくいんだもん)、日本語ならちゃんと読めそうだ、ということで。


(Manuel Puig "Kiss of the Spider Woman" tran. by Thomas Colhie, 1991, Vintage)

Category : 小説:現代
Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

藩医を匙と呼ぶのがかっこいい・・・

久しぶりの宮部みゆき作品で「孤宿の人」の上巻をやっと読了。
やっとというのは、なんだか興が乗らなくて、なかなかページが進まず、図書館から延滞に延滞を重ねて、その上借り直して“やっと”読み終わったのだ。何故ページが進まなかったかというと、なんとなく出だしがのんびりしていて、ぼんやりした、うやむやな雰囲気で話が進むのだ。「あれ、宮部みゆきってこんな歯切れ悪かったっけ?」と思うくらいに。


舞台は江戸時代は讃岐・丸海藩。
訳あって、たった9歳でほうは江戸から金比羅参りにやられる。しかも途中で病気になって、その間に置き去りにされてしまう! ただ幸いなことに藩医「匙」である井上家に引き取られ、平穏な日々を手に入れるのだった。ところがそんな平和な日々が長く続かないのだ、もちろん。

その井上家の息女琴江が毒殺されことから事件が始まる。
でも犯人の検討は既についていて、それは梶原家息女美祢であった。何しろほうや下男が見ていたのだ。それなのに、琴江の死因は「病死」とされるのだった。

その背景には藩の情勢というものがあった。
というのは、同じ時期にして丸海藩は幕府の命で罪人を預かることになっていた。
何しろ、幕府からお預かりの“罪人”だ。その上罪人は元勘定奉行の高官で、彼を扱うのは非常にデリケートな問題だったのだ。
で、美祢の父親の役職、物頭というのが、その罪人・加賀様を扱うお役目。だもんだから、一家から殺人者が出るなんて、最終的には藩命にかかる。だからなかったことにしなくてはいけない、というわけだ。


本書で主要人物を勤めるのはほうの他にあと二人いる。
一人は女だてらに引手(江戸でいう岡っ引き)の見習いをやってる宇佐。縁あってほうを引き取ることになり、琴江の死の真相に迫ろうとするが、その途中で事の深刻さを知る。
もう一人は町役所の同心渡部一馬。井上家長男啓一郎の道場仲間で琴江に惚れていた。最初の方こそ真相を掴もうとするが、こちらは事情をすぐ察しすぐ手を引く。

上巻の最後の方ではほうが加賀様が幽閉されている涸滝の屋敷の下働きとして住み込むことになる。
前述しなかったが、この“罪人”加賀様が為した罪状というのが、妻子供・部下を殺すという残虐なことで、江戸の者から丸海藩の者にまで「鬼」として恐れらている。
その上、涸滝の屋敷自体にも曰くがあって、ある意味、毒をもって毒を制すというわけだ。

そんな所にたった9つのほうがやられる。
それに憤りを感じて抗議しようとした宇佐にも災いがふりかかる。
宇佐の親分の子供が肝だめしだといって涸滝の屋敷に忍びこんで、斬り捨てられてしまったのだ。それを宇佐が知ったシーンはさすが宮部みゆき!という感じだった;

 水に入ったわけでもないのに―よく知っている、いつも散らかってるが居心地のいい嘉介親分の家のなかで、いつも太郎と次郎の明るい声がいっぱいに弾けていたこの家のなかで―宇佐は溺れてゆくのを感じた。どんどん深みに吸い込まれてゆくのを感じた。(p391)

この後、嘉介親分の代わりにやってきた親分によって、宇佐は職をも失ってしまう。


ほうが涸滝の屋敷に入る頃からは面白くなったが、それまではどうも調子が出ない。
宮部みゆきがお得意とする江戸が舞台じゃないからなのか、テンポのいい江戸と地方の讃岐と差をつけようとしたのか、とにかく歯切れの悪い感じで話が進む。
何しろ犯人は分かってるのに、「何もなかったこと」になってるのだ!登場人物としては手も足も出ず、読者としてはモヤモヤするばかり。
とりあえず、上巻が終わりそうな時に面白くなって良かった。


(宮部みゆき 「孤宿の人(上)」 2005年 新人物往来社)

Category : 小説:歴史
Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

ソフォスって誰だか全然思い出せませんでした。

興奮が覚めない内に、と急いで「盗神伝」の下巻を読了。

実は前の話では上巻が面白かったので、期待大にして下巻を読んだらがっかり、というハメになった。ということで、期待しないように読んだら、それが功をなしたのか、はたまた本当に面白かったのか、非常に楽しめた。

暗殺者を一人で倒し、無能ではないと証明したはずなのに、一向に人望を得られないエウジェニデス。そんな彼が近衛隊長まで皆に王と認められるまでの話だった。

先ほど、「楽しめた」とコメントしたが、補足すると、物語が面白い訳ではない。
何しろあらすじを述べようと思ったら2行程で終われるくらいで、ジェンが偉業を為したり冒険したりするわけでないのだ。
ただ、“実はああだった”“実はこうだった”という小さなどんでん返しのオンパレードで、それが本書の魅力となっている。

あとは、エウジェニデスがいかに従者や近衛兵のいじめをかいくぐり、彼らの目を盗んで政の策略をはりめぐらすか、というのも面白いところだろう。

本書の筋と関係ないが、エウジェニデスがこう言うシーンがある;

「安全なんてものは幻想だ、コスティス。盗人はいつ落ちてもおかしくない。神がそうしようと思う日はいずれやってくる。三階の高さの梁にいようが、階段の三段目にいようが、神の手のなかにいるのはいっしょだ。神はおれを無事でいさせてくれるかもしれないし、くれないかもしれない。ここにいようが、階段にいようが、同じなのさ」(p237)

どうやらジェン達の神様は気まぐれらしい。
なんとなく日本の神様を思い出したが、考えれば「盗神伝」のモデルとなったギリシャの神々もそんな感じだ。
多神教の神は大体そうなのか!?一神教の「信じる者は救われる」系とはちと違う気がする。

素人の下手な考えはさておき、なんとなくこのシリーズ、続きそうな気がする・・・。
ソウニス王の後継者であるソフォスが行方不明、と途中で出てくるのに、最後はなんにもそれに関して触れられてなかったし。
えー・・・ 続き出たら読むのかな、私・・・


(M・W・ターナー 「盗神伝V 新しき王‐栄光‐」 金原瑞人&宮坂宏美・訳 2006年 あかね書房)

Posted by nizaco on  | 2 comments  0 trackback

私もこの会合に参加したいが語るネタ無し

本屋さんでふと見つけて興味がひかれた浅田次郎の「沙高楼綺譚」。

それぞれの道で成功した者達が集まり、貴重な体験話をする。
女装したオーナーが
「お話になられる方は、誇張や飾りを申されますな。お聞きになった方は、夢にも他言なさいますな。あるべきようを語り、巌のように胸に蔵(しま)うことが、この会合の掟なのです―」(p16)
と言うのを合図に語り手が、自分が体験したちょっと不思議な話、それでいて同業者などには話せない類の話を始めるのだ。

その設定だけでなんだかワクワクする。百物語じゃないけど、一人ずつ順繰り物語る、とという状況だけで、期待に胸を膨らませ前のめりで聞いてみたくなる。文章には出てこないが他の登場人物がしているだろう姿と同じ感じに。

その形式の特性により、短編集のようになっているのだが、ある一晩で語られた話は以外の通り;

「小鍛冶」 刀剣の鑑定師の話。徳阿弥家という足利将軍より刀剣鑑定の家元として召し抱えられてきた由緒正しい家柄の家元のもとへ、見事な贋作の刀剣が現れる。その贋作師と徳阿弥家の関係とは。

「糸電話」精神科医の話。小学生時代に転校してしまった幼なじみの女の子に、人生の節々で出会う話。

「立花新兵衛只今罷超候」映像監督の話。戦後間もない頃、新撰組の映画を撮ることになった。その時に妙に侍役に成りきった男が現れる。そして、近藤勇に討たれ「向こう」に帰ってしまったという話。

「百年の庭」軽井沢の華族の別荘で庭を守ってきた庭師のおばあさんの話。

「雨の夜の刺客」ヤクザの親分の話。三下だった頃、ある事件により組長を殺せと若頭から命ぜられる。その事の顛末までの話。

説明文で察しがつくだろうが、1話目と3話目と最後の話が面白かった。
1話目は話が、というより刀剣鑑定師の存在とその世界にびっくりした。
3話目は、実はオチみたいのがあって、それがゾクッともするし、とても哀しいのだ。この“哀しい”と思わせるのが、浅田次郎のすごいところで、つまり立花新兵衛をその前に丁寧に書くことで得られる効果だと思う。

最後の話は、一見ヤクザ物の小説ではよく見る物語に見えるかもしれない。でも何が他と違うって、語り手が人を殺しに行くまでの情景、心情を鮮やかに克明に語っているところだ。

気づかない内に結構、浅田次郎の本を読んでいる私だが、実は「浅田次郎」という作家の印象が自分の中では薄い。でも知らず知らずの内に、なんの気もなしに手に取り、楽しんだり、感嘆したりしてるのが、ちょっと不思議。でもこうやってひょいと手に取る関係が、私にとって丁度いいみたいだ。


(浅田次郎 「沙高楼綺譚(*「高」と「楼」は旧字態)」 2002年 徳間書店)

Category : 小説:現代
Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

三田図書館の盗神伝はまるで新品

あまりの読みにくい文体のせいで読むのを放棄してしまった「盗神伝」シリーズ。
しかしこのシリーズの存在を教えた相手である長年の読書仲間が完読したと聞いて、闘争心というか負けん気の強さがムクムクと目覚めてしまって図書館へ直行と相成った。
ま、シリーズ最後の物語で、残るは2冊と分かったからなんだけどね。

あんまり期待せず、正に義務感で読み始めた

が!!!

まったく本から手を離すことができず、一気に読みきってしまったよ!!!


前作でアトリアの女王と結婚したエウジェニデス。つまりはアトリアの王になったということなのだが、そうも簡単にアトリアの国民、というか女王周辺の人達に受け入れられない。そもそもエウジェニデスの性格的に、素直に好かれるように振る舞うはずがない。
そんな訳で、アトリアの城の人達とエウジェニデスの攻防が話の中心となっている。
そしてこの巻では城内の陰謀をほのめかしつつ次巻へと続くのだ。

今回の主人公は、思わずエウジェニデスを殴ってしまった近衛兵のコスティスだ。
縛り首になるところを、エウジェニデスの恩赦で逃れられ、代わりにエウジェニデスの従者となる。
最初は他の皆と同じくエウジェニデスのことを嫌っていたのだが、エウジェニデスが暗殺されそうになった時に、「自分は地獄の底までついて行くだろう」と確信したのだった。


ちょっと共感したシーンを。
アトリアの女王が失神して、エウジェニデスが女王の名を呼んだ時のシーン。ちなみにコスティスが女王を抱き止めました;

コスティスは腕のなかにいる女王をみて思った。この方にも名前があるのだ。イレーネという名が。今まで「アトリアの女王」以外によび名があるとおもわなかった。しかし当然、女王であると同時にひとりの女王なのだ。腕のなかにいると、おどろくほど人間らしく、女らしくみえる。(p287)

この間、高校の時の先生に会うことがあって、今まで「先生」としか見てなかったのに、もう彼の生徒でなかったせいか、突然「あ、先生も私と同じ一人の先生なんだ」と、よく考えたら変な感慨を覚えた。それを思い出させたワンシーンでした。


いやぁ~ それにしても、嬉しい方向に期待を裏切られ、すぐさま次の巻に進みたいが、また一気読みしたら明日に支障が出るので、ぐっと我慢のコ!今日はおとなしく寝ます。


(M・W・ターナー 「盗神伝IV 新しき王 前編-孤立-」 金原瑞人、宮坂宏美・訳 2006年 あかね書房)

Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

そういえば、昔、舞妓さんになりたかったなぁ

図書館にて「和」のコーナーなるものがあって、なんとなく面白そうだったので、「和の仕事」を借りてみた。
和の職人さんのインタビューだというので、純粋なるインタビュー集だと思っ
てた。ところがどっこい。職業斡旋といか、職探ししてる人の指南書でしたよ
!私にはちと、というかかなり(!?)遅すぎだよ、と思ったけれど、ま、せっか
くなので読んでみた。

いやぁ~ みなさん、10代半ばくらいでよく「一生、この仕事をしよう!」と
決心したよなぁ。本当に感心です。
確かにこんな本をタイトルでつられて借りてきてしまうくらいなので、いわゆる“職人さん”仕事には昔から大変興味がある私。興味があるというより尊敬していると言ってもいいくらい。
手先は器用なので、仮に修行始めたとしても親方に「悪いことは言わなエ。今からでも遅くないだろうから、違う仕事探しな」と言われることはないと思う。
しかし、私には「根性」というものが欠けているということを、重々承知しているので、職人になろうと思うなんて1光年くらい早いのだ。「根性」がないというよりも、根気がない、飽きっぽい。もう全然ダメ。
多分、だからこそ職人に憧れるんでしょうね。

「一度、私の計量が不正確だったばかりに400個のドラ焼き用生地をむだにしてしまったことがあります。『生地がドロドロで、焼いてもぜんぜんかたまらないぞ』と先輩に怒鳴られ、ようやくミスに気づいたんです。その先輩は生地こねの段階で計量が正しくないことに気づいていたはずですが、あえて注意しなかった。たとえ生地をむだにすることになっても、私に『正確な計量の大切さ』をたたきこもうとしたんでしょう」(p24)

なーんていうのも、職人世界の極意でしょう。本当にこんなことがあるんだ、と感心しつつ、なんかそういう教え方というか生き様ってかっこいい、と思いつつ、でも私は無理だー、と不甲斐なくも思ってしまう。

ここに書かれている仕事は、本当に気の遠くなるような緻密さや正確さや経験や、それに伴う苦労を必要としているものばかり。というかそれしかない。それでもひたむきに究極を目指している人がいる。こんなちゃらんぽらんな生活をしている私からしたら、この人たちが「うらやましい」、その一言に尽きる。


(旗智優子 「「和の仕事」で働く」 2006年 ぺりかん社)

Category : その他
Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

DER VORLESER = The Reader = 朗読者 = 愛を読むひと

随分前に、作者は失念してしまったがベストセラー本を読み辛口批評をしている本を読んだ。
その中で結構痛烈な批判を受けていたのに、怖いもの見たさなのか読んでみたいと思っていた本がある。そうしたら映画化され、この前のアカデミーにノミネートされ、確か受賞もした。
それが「朗読者」だった。

図書館で予約待ちかと思ったら(何せアカデミーで取りざたされたら注目あびそうだし)、驚いたことに借りられていなかった。まだ映画が公開されていないから?映画のタイトルがあまりに違うから、原作とは思わなかったから?

まあ、それはさておき。

確かに酷評されていただけあって、そりゃないよ、という話の流れだった。
ほぼ行きずりといっていいほどの15歳の少年を36歳の女性が受け入れるだろうか?
それで愛が芽生えるだ? 本書を読むかぎり15歳の少年は体目当てにしか思えない。
「胸を締めつけられる残酷な愛の物語。」といううたい文句のわりに、あまりにおそまつな恋愛過程だと思う。

と文句はタラタラなのだが、これを読み切れたのは「恋愛小説」という側面に目をつぶって、「第二次世界大戦後のドイツのナチスへの思い」を描いている小説として読んだからだろう。

あらすじは、主人公は15歳の時に21歳も年上の女性と関係を持つ。
そこんとこは読み取れなかったが、一応幸せであったが、主人公が年を重ねるごとに彼女の存在を隠すようになり、ある時彼女は彼の前から姿を消す。

それから再会するのは、主人公が大学で法律の勉強を始め、ナチスに関連する裁判を研究するゼミをとり、法廷へその裁判を見に行ったときだった。
その時、被告人として彼女がいたのだ。彼女は親衛隊に入り収容所の看守だったのだ。
裁判で中心となっている出来事は、空襲時に囚人たちを閉じ込めていた部屋の扉の鍵を開けなかったので、囚人が焼け死んでしまった、という事件だった。この空襲時に奇跡的に2人の囚人が生きていて、戦後このことを本にして出版したのが、この裁判のきっかけらしい。

彼女以外に4人の元看守の女性たちが被告人として裁判に臨んでいたのだが、裁判が進行するにつれて彼女は不利な状況へと追い込まれていき、ついには他4人の罪状をも押し付けられるかたちで無期懲役となってしまう。

その時になって、やっと主人公は彼女が文盲であったことに気づく。
そしてそのことをひた隠しにするが故に、彼女がどんどん不利になっていったのだった。
もちろん主人公は彼女が文盲である、ということを裁判官に伝えるべきかを迷う。なにせ、それがこの裁判のキーとなることが分かっているからだ。でも、彼女は自分の罪が重くなるにも関わらず、この事実を必死で隠しているのだ。
結局父に相談した時に;

「…(中略)…他人がよいと思うことを自分自身がよいと思うことより上位に置くべき理由はまったく認めないね」
「もし他人の忠告のおかげで将来幸福になるとしても?」
 父は首を左右に振った。
「わたしたちは幸福について話しているんじゃなくて、自由と尊厳の話をしているんだよ。幼いときでさえ、君はその違いを知っていたんだ。ママが正しいからといって、それが君の慰めになったわけじゃないんだよ」(p135-136)

と言われ、何も言わないことに決める。

最後の最後を言ってしまうと、恩赦がおりて彼女は刑務所から出てこれることになる。主人公は彼女のために住居や職を探してきてあげるのだが、その出所前日に彼女は自殺するのだ。

あ・と・あ・じ・わ・る~~~~~~~~~~~~~~~~~~

もうね、裁判官に言ったれや!!!とやきもきしたり、手紙書いたれや!!!と主人公の生ぬるい優しさにいらいらし通し。
パパの言うことは分かるのよ。そしてすんなりくるのよ。でも主人公の気持ちがあんまり伝わってこない。あんまりリアルじゃない。大義名分をふりかざして、ただの自己中にしか見えん。

というわけで、恋愛小説としては絶対読むべきではない。
最前も書いたが、“第二次世界大戦後のドイツ人のナチに関する姿勢”が描かれていると読まなくてはやってられないし、実際、その面では興味深いと思う。
例えば、その彼女と再開するきっかけになったゼミでの;

 思い出せるのは、ゼミの中で、過去の行為をさかのぼって罰することを禁止すべきかどうか討論したことだ。収容所の看守や獄卒たちが裁かれる根拠となっている条項が、彼らの犯罪行為を行われた当時すでに刑法に記載されているということで充分なのか、それともその条項が犯罪の起こされた時点でどのように解釈され、適用されていたかということが重要なのか?当時は収容所職員の行動が刑法に照らされることなどなかった点を重視すべきなのか?法律とは何だろう?法律書に載っていることが法なのか、それとも社会で実際に行われ、遵守されていることが法なのか?それとも、本に載っていようといまいと、すべて正しいことが行われる場合に実施され遵守されていることが法なのか?(p88)

というシーンは印象的だった。
戦犯という言葉はもちろん知っているし、それで裁判が行われたことだって知っている。しかし、実際にそういう人たちを“裁く”ということは考えたこともなかった。

というわけでそういう面では興味深い本だったけど、いかんせん「胸を締めつけられる残酷な愛の物語」はないよなぁ


(ベルンハルト・シュリンク 「朗読者」 松永美穂・訳 2000年 新潮社)

Category : 小説:現代
Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

記憶力の低下のおかげで二度楽しめました

久し振りに会った友達と「テロリストのパラソル」の話になって、話を覚えていないことが判明。
友達は相当好きだったらしく、事細かに説明してくれたのだが首をひねるばかり。でもな~んとなく覚えているし、何よりも「面白かった!」と思ったことは克明に覚えている。
そうなったらいてもたってもいられなくなって、ブックオフにて購入。次の日から会社だというのに、夜更かしして読み終わってしまった。
いや~面白かったよ。

主人公はアル中のバーテンダー。晴れた日の日課である“中央公園でウィスキーを”をしに行くと、そこで爆弾テロが勃発する。
逃げ去った後に、置いてきたウィスキーに自分の指紋をつけたままだったことを後悔する主人公だが、その理由は彼の過去にあった。
彼は東大在学中に大学闘争に加わっていた。その時一緒に籠城した友人二人(男女)がいたのだが、闘争が終わった後、その女の子と一緒に住んだり(同棲ではなかったが)、3人での交流は続いていた。
男友達の方は工場で勤め始め、主人公はボクサーデビューをしたのだが、しばらくして男友達は海外に行くことを決意する。
その出国間際に二人でドライブをするのだが、途中でおんぼろ車のブレーキがきかなくなってしまう。

その時になって、男友達は爆弾を積んでいることを明かす。曰く、闘争中に爆弾を作ってみたのだが、出国の際に始末しようとし、それでこのドライブを企画したのだ。

車を慌てて乗り捨て、周りの人に逃げるように叫んだのだが、その爆弾事件に警察官が巻き込まれてしまったので、テロとして捜査されることになってしまったのだった。
とりあえず主人公は男友達に逃げるよう勧め、海外でほとぼりが冷めた頃に出頭するよう助言するのだった。

そんなこんなで、事故だったのに前歴があるために逃亡生活を余議されなくなった主人公。
今回の事件でまた容疑者になってしまい、逃げながら事件の真相に迫るのだった。

江戸川乱歩賞と直木賞をダブルでとっただけあって、すいすいと読める。
そしてどこか哀愁が漂うのは、事件の真相を迫るのが即ち過去を辿ることとなったからだろうか。とにかくそれが本作の魅力だと思う。

「テロリストのパラソル」というちょっと変わったタイトルは、女友達が詠んだ短歌からとってある(みたい)。なぜかそれが印象的だったみたいで、詳しくは覚えていなかったくせに、爆発後に青いパラソルが空の高いところからくるくる舞い落ちる、というイメージが残っていた。たぶんそれは;

〈殺むるときもかくなすらむかテロリスト蒼きパラソルくるくる回すよ〉(p352)

という短歌から来てるみたいだ。微妙に情景は違うけどね。

ちなみに主人公とつるむことになるやくざの浅井が妙にツボだったのだが、どうも前回読んだ時も同じように感じていた気がしてならない。
高校時代から嗜好(思考)は変わらないのか、私よ。


(藤原伊織 「テロリストのパラソル」 平成19年 角川文庫)

Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

それでもやっぱり数学に魅力を感じないのはよっぽど嫌いなんだなぁ、私

家族全員が読み終わり家族内でブームとなったらしいのに、なぜか私だけ読んでいなかった「博士の愛した数式」。
いやぁ いかにも“泣きまっせ”という小説に手が伸びなかったのだが、実家に帰った時読む本がなくなってしまって、やっと手に取ることとなった。

良いですね!!この話!!!

主人公は息子を抱え、家政婦として働く女性。
ある日派遣された先は、記憶が80分しかもたない数学博士の家だった。博士は体中にメモをはりつけた背広を着て、数学の懸賞問題を解きながら日々を暮らしていた。
博士は離れに住んでいるのだが、母屋には博士の兄の妻、つまり義姉(兄は他界)が住んでいる。
一応雇い主はその義姉みたいだが、母屋と離れは交流がまったくない。

家政婦の派遣会社との契約で、雇われ先には子供とかを連れて行かない、というのがあるのだが(当たり前だろうけど)、子供を溺愛する博士は、主人公に小学生の子供がいると知るや否や、強固に子供を連れてくることを要請する。
こうして、主人公とその息子と博士との交流が始まるのだった。

その息子を交えての交流がなんとも微笑ましい。博士が初めて息子に出会った時、彼の平べったい頭を見てあだ名をつけるシーンがいい;

 それから博士は息子の帽子を取り(タイガースのマーク入り帽子)、頭を撫でながら、本名を知るよりも前に、彼にうってつけの愛称を付けた。
「君はルートだよ。どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号、ルートだ」(p45)

もちろん微笑ましいだけではない。
博士が高熱を出してしまって、看病のために規約違反である宿泊をしてしまい、それが義姉に見つかって解雇されてしまう。後になぜ義姉が過剰反応したのかが分かるのだが、それでもただほのぼのした小説ではなく、世間一般の冷たい視線を描き心がヒヤリとする場面もあり、それが小説の厚みになっている。

当たり前のことだが、博士の記憶が80分しかもたない、という時点で十分にハッピーな話ではないのだが、私は「悲劇」ではないよなぁ、と思うのだ。
主人公やその息子は博士と出会い、博士の愛にふれることができたし(抱擁をされたことがなかったというルートが博士に溺愛されたりとか)、博士も80分しか記憶がなくても、毎80分を濃密に過ごせたと思う。
何せ、今までの家政婦さん達が博士の語る数字の話にうんざりしていたのに代わって、主人公や息子はその数字の話を楽しみ、博士を尊敬していたのだから!

そんなわけで、最後に博士は80分も記憶を保つこともできなくなって施設に入れられ、最後の最後に亡くなるわけだが、全然「悲しい」という感じがしなかった。

このような題材だったらすぐに「お涙ちょうだい」的な話になりがちなところを、幸せに満ちた話に仕立て上げた作者に脱帽。


(小川洋子 「博士の愛した数式」 平成17年 新潮文庫)

Category : 小説:現代
Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

京大出身作家ってなんでかなんとなく分かるのはなぜだろう

友達に強く勧められ、本屋さんに行けば山積みとなっている。それが「夜は短し歩けよ乙女」だった。
しかもタイトルもいい。「夜は短し歩けよ乙女」。口にすると調子よくてますます期待は高まる。ちなみに表紙もめっちゃ好みだ。

それなのに本屋さんでお買い求めにならなかったのは、”ポップなラブ・ストーリー”的なことが書かれていて躊躇したのと、山積みされていたため天の邪鬼な部分がむくむくと出てきてしまったからだった。
というわけで、図書館で借りましたよ。

蛇足だが、これを京都に行く前日、奈良で読み終えた。舞台は京都、作者は奈良出身、ということで「これを読むのになんて絶好なシチュエーションなんだ!」と妙に悦に入ってしまった。

それはさておき、本書は連作のような形で、大学の先輩(男)と後輩(女)の恋模様が描かれてる。
といっても、彼女の方はさっぱりで、先輩の奮闘記といっていいだろう。先輩と後輩の視線が交互に描かれているのだが、本当に小憎い描き方がなされているのだ。
例えば、最初の先輩→後輩のシーンでは;

 そこで私は彼女を見失う。
 …(中略)…
 かくして私は早々と表舞台から退場し、彼女は夜の旅路を辿り始める。
 ここから彼女に語って頂くとしよう。(p12)

そして次に先輩が出てくる時には「読者諸賢、ごきげんよう。」(p53)と始まり、1章の終りには;

 ついに主役の座を手にできずに路傍の石ころに甘んじた私の、苦渋の記録はここにて終わる。涙をのんで言う。さらば読者諸賢。(p69)

となる。
と、確かにポップな感じで軽快に不思議な話が紡がれている。

話自体もちょっと不思議系であるが、とにかく不思議な人物がたくさん出てくるので、この独特な雰囲気が作られているように思う。
うわばみのように酒を飲む美人羽貫さん。
職業が天狗だという樋口さん。
よく分からなん人たちのボスっぽい李白さん。
古本市の神様らしき少年。
韋駄天コタツに偏屈王にパンツ総番長。
閨房調査団とその青年部。などなど などなど

なんだか不思議の国のアリスの世界のように、至極まともな先輩とちょっと天然入っている後輩の前に次から次へと奇妙な人たちが現れ、騒動を起こすのだ。
ちなみに、私は樋口さんが気に入った! なんてわかりやすい私!!

文章とこの不思議雰囲気がうまくマッチして、現代の不思議の国のアリス(飲酒含編)を織りなしているのが本書と言っても過言ではないと思う。
一言で言えば「面白かった!!」


(森見登美彦 「夜は短し歩けよ乙女」 平成18年 角川書店)

Category : 小説:現代
Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

肩・背中凝り性の作家って、お気の毒としか言えない

奥田英朗のエッセイ第2弾。
出所を覚えていないが、読む本リストに「泳いで帰れ」とともに「野球の国」が書かれていたのと、「泳いで帰れ」が結構面白かったのとで、他館にあったのを近所の図書館で取り寄せてもらった。
正直、野球に対してそんなに情熱がないし、ひいきのチームもないので、話についていけるのか、というところからして不安だったのだが、「泳いで帰れ」の時もオリンピック話とはいえほぼ野球の話だったしなぁと思って読み始める。

「泳いで帰れ」の奥田英朗の印象は、軽快な語り口で時々サクッといい事を言うって感じだったので、「野球の国」の第1章“沖縄編”を読んだ時には驚いた驚いた。終始暗い感じで、鬱気味な言葉が連なる。例えば;

 わたしがメディアを避けるのは、わたしの神経が、すっかりやわになってしまったからである。
 ゴシップ週刊誌の広告の見出しを見るだけで憂鬱になる。人の悪意と、嫉妬と、欲望に、たじろいでしまう。そういう自分の弱さが、いやになる
 沖縄にいると、普通にテレビが見られる。東京との距離が関係しているのだろうか。「どうせ内地の出来事よ」と、余裕でいられるのだ。(p35)

とまあ、これはまだちょっと明るさがあるが、ずっとこんな感じ。

何せエッセイを1冊しか読んだことがないのだから、もしかしたら「泳いで帰れ」がオリンピックってことで浮かれていたのかもしれないし、と思っていたら次章の”四国編”にて編集者の人たちに心配されていたので、やっぱり普段の彼からしたら暗かったんだ、と納得。
でも不思議なことに、そんな側面を知ると「一体彼の書く小説はどんなものなのか!?」と興味を覚えたりして。

さてさて内容の方はというと、タイトルが表すとおり、野球の話のみ。
奥田氏が地方で行われる試合を見にあちこちに行く、旅行記+野球鑑賞記みたいな感じ。具体的に言うと、「沖縄編」「四国編」「台湾編」「東北編」「広島編」「九州編」となっている。
でも旅行記とは言っても奥田氏が行うのは、どこに行ってもマッサージとか映画鑑賞とか野球鑑賞のみ、大して代わり映えはない。
それでも面白い!と思って飽きもせずに読みきったとなると、月並みではあるが素直にすごいな~と思った。

好きだな、と思った文章を抜粋すると;

〈四国編〉
(路面電車に乗って)ブリーフケースを提げたビジネスマンと、古風な電車のミスマッチが楽しい。生活の足として、溶け込んでいる。
 窓から松山城が見えた。城下町は安定感がある。殿様がいなくなっても、誰かに見守られている感じがするのだ。(p75)

<台湾編>
(故宮博物院にて)いきなり魅せられた。胸が躍った。
 いいのである。ポップで。中国美術はポップアートなのだと、今日はっきり認識した。瓶に三本の脚をつける。これはオチャメでしょう。曲面に突起を並べる。これはオタクの業でしょう。(p142)←なかなか斬新な見方!

〈広島編〉
 以前何かで読んだのだが、食欲や性欲とならんで、人間の本能の中には「面倒くさい」という欲望もあるのではないか、と説を唱えていた人がいた。
 全面的に支持したい。わたしにとって「面倒くさい」は立派な動機だ。(p190)←I agree too!

<九州編〉
 家族を養うでもなく、任務を与えられているでもなく、世に無用の小説を書き散らしている―。
 もしもこの国が火星人の襲来に遭ったら、わたしは命を賭して戦う覚悟でいる。それが好き放題に生きている人間の「社会的責任」だ。堅気衆に犠牲を強いたりはしない。銃を手に立ち上がるのはわたしだ。
 だから火星人さん、当分、来ないでくださいね。(p218)←ただただ笑い


(奥田英朗 「野球の国」 2003年 光文社)

Category : 随筆
Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

「ややこしい」が関西弁ということを初めて知ったよ

確か三浦しをん女史が面白いと感想を書いていたので読んでみようと思った「黒いトランク」。
もちろん作者の鮎川哲也のことは既知だった。何せ有栖川有栖を世に出したのは鮎川哲也氏らしいし。それに乗じて「リラ荘殺人事件」も読んだことがあるし。

そこでまず感想を正直に言いますと、わたくし、電車とか物の移動が絡む推理小説を苦手としているようです。もうね、地理感覚もなければ数字に弱いとなれば、懇切丁寧にトリックを説明していただいても何がなんだか分からん!

事件の発端は東京・汐留駅に届いた黒いトランクより腐乱死体が発見されたところから始まる。そのトランクの送り主である近松千鶴夫が犯人ということが確定した頃に、彼が瀬戸内海で入水自殺をしてしまい事件は一件落着となる。

それに疑問を抱いたのが千鶴夫の妻だった。曰く、千鶴夫には人を殺す度胸もなければ自殺する度胸もないという。そこで鬼貫警部に再捜査を頼むのだった。というのは、鬼貫警部と千鶴夫は学生時代の友達で、千鶴夫の妻をとりあった仲でもあったのだ。

それはさておき、事件の捜査を進めていくうちに、死体が入っていた黒いトランクとそっくり同じトランクの存在が浮かび上がってくる。そこからどのように二つの黒いトランクが動いて、中の死体がすり替わっていったのかというトリックが暴かれていくのだ。

残念ながら、前述したとおり、わたくしの乏しいおつむではなんだかよく分からないうちに終わってしまいました。
すみません鮎川先生。凝りまくったトリックにはシャッポを脱ぐばかりで、どうにも手も足も出ません。ちなみに、三浦しをん女史がよく使う「シャッポを脱ぐ」という表現が本書に出てきたが、鮎川先生から来たんでしょうかね?

何はともあれ、ちょっと古いだけあって、表現が見慣れないのばかりで面白かった。羅列すると;

…(中略)…ごみ溜にすてられた洋梨<ペア>のように気味わるい色をしている。(p15)

彼はそう考えて、自分の頭のなかの疑念を、アンドロメダ星雲のかなたに放りなげてしまった。(p49)

彼がもどってきたのは、三時を少しすぎた頃だった。昨日とまるきり変って、満面に喜びをたたえ、それがあふれてポタリポタリと床の上にしたたりおちそうである。(p283)


(鮎川哲也 「黒いトランク」 2002年 光文社)

Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

ロタ王国建国話はなんとなく指輪物語に似てる気がする

先を急くように読み終わった「神の守り人 帰還編」。

父親スファルの意向に背いて、というかカシャル<猟犬>の役目に反目して、シハナが企てたのは、タル人のラマウ<仕える者>(異能者でタル・クマーダ<陰の司祭>にいずれなる者たち)と結託してサーダ・タルハマヤ<神とひとつになりし者>を蘇らせるというものだった。
ロタ人に虐げられてきたタル人が、この話に乗るのは分かるとして、なぜカシャルであるシハナがそれを企てたのかというとロタ王の弟イーハンのため。
イーハンは貧しい北部に同情的で、かつタル人の娘と恋に落ちたことがあったこともあって、タル人に対する差別をなんとかなくそうとしている人物だった。そんなわけで北部の人やタル人には人望があれども、豊かな南部の人たちには大変評判が悪い。
現ロタ王のヨーサムは良き支配者ではあるが、体が弱く後継者もいない。もしここで亡くなったら、大きな氾濫となる。
そんなわけで、世界を自分の力で変えてみたいという野望を抱くシハナはこれを企てたのだった。

一方、ラマウ達はロタ国創建に関する伝説に疑問を持っていた。
サーダ・タルハマヤは恐怖をもって治めていた、というが本当は違うのではないか?それはロタ人が都合のいいように変えた伝説なのではないか?

バルサと別れて、シハナとラマウ達の手元に渡ったアスラは、その考えにすっかり感化されてしまう。そもそも、アスラは自分の中にいるのを「カミサマ」と認識しており、自分達を悪者から守ってくれる、と思っていたのだ。

一方、バルサはタンダとスファルと合流して、なんとかこの企てを止めようとするのだった。

結論を言ってしまうと、もうすぐで完全なサーダ・タルハマヤになってしまいそうだったアスラは、兄やバルサの言葉を思い出し、「サーダ・タルハマヤになりたくない!」と強い意志を持ち、アスラをチャマウ<神を招く者>とならしめて首の周りの宿り木の輪を引きちぎるのだった。

前作までは、建国の伝説はこうだが実は・・・という感じだったのに、今回はそれを逆手にとる形なのが面白かった。
虐げられた民が状況打破のために大量虐殺も辞さないというのが、子供向けのファンタジーといえども妙にリアルだった。それでも最後にアスラが自分の危険を感じつつも、宿り木の輪を引きちぎるというのは、希望を与える感じでよかった。それにアスラがまだ子供、という設定もきいていた気がする。
というのは、アスラは大人の、特に母親の言うことを素直に信じる年頃で、それが故にタルハマヤを「カミサマ」と見なしている。
そうやって洗脳されるかと思えば、それを心配して、なんとかしてアスラを人殺しにならないように奮闘するバルサがいる。

「わたしには、タルの信仰はわからない。タルハマヤが、どんな神なのかも、知らない。
 だけどね、命あるものを、好き勝手に殺せる神になることが、幸せだとは、わたしには思えないよ。……そんな神が、この世を幸せにすることも、思えない。」
 涙を流しながら、アスラはバルサを見つめた。
「そんなものに、ならないでおくれ、アスラ。……狼を殺したときの、あんたの顔は、とてもおそろしかったよ。」
 氷のように冷たい手が、胸にふれたような気がして、アスラは、目をみひらいた。
「サラユのような色をした衣をまとって、お湯からあがってきたときの、あんたは、とてもうつくしかった。……みていたわたしまで、幸せな気分になるくらいに。」(p132)

それでも純粋なアスラはなかなかバルサを信じられない。
そんなアスラが最後に宿り木の輪を引きちぎる引き金になったのが、兄の姿とこのバルサの言葉、というのが、やはりアスラがあの年頃だったからのような気がしてならない。

つくづくお見事!とひざをたたきたくなる。


(上橋菜穂子 「神の守り人 帰還編」 2003年 偕成社)

Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback
該当の記事は見つかりませんでした。