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がらくたにっき |

いつになったら続編を出してくれるのでしょうか・・・

子供の頃はまった本に「若草物語」がある。多分自分が三姉妹で、四姉妹のお話と少しかぶるところがあったからだと思う。
でもその「若草物語」よりももっとはまったのが、“「若草物語」のイギリスバージョン”というのがうたい文句だった(確か)、「丘の上のセーラ」から始まるシリーズだった。
四人が順番に主人公となるシリーズで、総計4冊出版されている。でも実はこれで終わりというわけではなくて、続編が出るのが想定されていたのだが、続編は全然出ないで今に至る。

心の隅で気にしていたものも、すっかり忘れていたのだが、ふとこの間思い出したら最後、もう一度読んでみたくなった。
というわけで第一巻"Sarah's Story"。

Sarahは四人姉妹の中の末っ子。他の3人と歳が離れてもいる。
話は母親が亡くなり、服をすべて黒く染めるシーンから始まる。これがなかなか印象的で;

Tonight was worse than any nightmare. She could not pretend tonigh that her body was lying inbed upstairs. Sher knew it was here, in the kitchen, shivering on a stool. while Annie, like a witch at her cauldron, took the brightly coloured garments from pile on the table and dropped them one by one into the bubbling copper on the range. One by one, the happy colours became the dreary black of night until only the garment reminded. (p7)

視覚的に印象的なシーンから始まるのは、Sarahの絵画へのコンプレクスを暗示しているようだ。というのはうがちすぎだろうか?

冒頭で孤児になってしまったFrances、Julia、Gwenの姉妹は、牧師さんを後見人としてthe Quantock Hillsに住み続けることにする。その牧師館には姉妹と同じ年頃の少年たち、Gabriel、Geoffery、Antonyと女の子Lucyがいて、まあ想像できるようにそれぞれ恋い慕うようになる。
主としてGabrielとFrancesの恋の行方が描かれるのだが、それはSarahもGabrielのことを慕っているからであって、巻を追うごとに実は後の二人の少年たちにもPurcell家姉妹とのロマンスがあったことが分かる。

私の記憶では、誰と誰がひっつく(というかロマンスがある)というところまで覚えていたけれども、SarahがこんなにGabrielのことが好きだったということは、全く覚えていなかった。
ただおぼろげに、Gabrielはかっこいいお兄ちゃんで、非の打ちどころがないようなのに、それにFrancesだって好きなはずなのに、なぜか彼女は彼に反抗したりなんかしてはがゆい、というのは覚えていた。たぶん、歳のせいでしょうね。実はSarahだってGabrielのことが好きだったってことに気づいたのは。

物語は、第一次世界大戦に巻き込まれて、一人は亡くなり、一人は怪我を負い、一人は精神が荒んだりなんかするのに、ものすごいドラマチックに展開することもなく、割と淡々と進む。
基本的にSarahの成長物語で、上の3人の姉たちが母親に似て絵の才能があるのに対して、全くその才能がないSarahが、自分の才能を他の方面で見つけて最後にはOxfordに行く、というのが話の筋といえば筋。
別に“才能がなくて葛藤して、それを乗り越えて開花する”というようなシーンが書かれているわけではなく、逆にそのテーマは第一次世界大戦や牧師館の兄弟との交流の話に隠れてしまっている。でも、Sarahの視線があまりに鮮やかで、Sarahが姉たち(特にFrances)へ抱いている劣等感が手に取るように分かる。

さすがに好きな話だけあって、あらすじはあらかた覚えていたけれども、Sarahの描き方に舌を巻き、風景の描写に感嘆した。
「若草物語」よりもマイナーな話で、内容的にもメジャーになるような物語ではないけれども、大人になってもふと思い出してしまうとは、子供の頃の私の琴線に触ったんだな、とつくづく思う。それでまた読み返しても面白い、と思ったというのは、つくづくいい本に巡り合えたな、と思う。


(Ruth Elwin Haris "Sarah's Story", 1986, Candlewick Press)

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Category : 小説:歴史
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やっぱカバーイラストが好き

読むたびに散々文句を言っているくせに、新刊が出るとそそくさ買ってしまう「心霊探偵八雲シリーズ」。
5巻も、電車の吊り広告で新刊が出るとみるやいなや、本屋さんに寄ってしまった。しかもそこには売ってなくて、3件も梯子した挙句、3件目では店員に聞き、あっさり「売り切れました」と言われ、そんな売り切れるほど人気なんかい、あれで!?(酷い言いよう)、ときれつつ、次の日に大手の本屋で買ってしまった・・・

それはともかく、八雲の出生の秘密が分かる事件が内容だった。
心霊関係のテレビ撮影にて、廃墟となった当時殺人事件が起こった屋敷に、幽霊が現れる。
その殺人事件自体、まだ犯人が決まっていなくて、そんな折に失踪中の容疑者が現れる。

そんなこんな訳で、その幽霊事件から洗いだそうと、例によって八雲に助言を求めに行くのだが、そのビデオを見た途端、八雲は失踪してしまう。
その上、事件現場の屋敷に行った後藤刑事まで誘拐されてしまったのだ。

こうして、晴香と石井刑事と真琴がその二人を探しつつ、事件を追うこととなった。
そんな中で、晴香の母親と八雲の母親が実は友達だったことが分かる。

まぁ結局は、両目が赤い男が諸悪の根源で、八雲も後藤も戻ってこれてめでたしめでたし、で終わるのだが・・・
なーんか、由貴香織のカインシリーズと同じ匂いがするよ~ 
親子の確執、母親が子供に憎しみ(恐れ)を抱いて精神錯乱する、目が特殊、父親が諸悪の根源・・・
ま、主人公の心のよりどころ(?)が男性でなく女性(しかも彼女が彼が好き)ってのが、少女マンガと違うのねって感じだけど

どうやらこのシリーズ、舞台にもなり、ドラマにもなり、映画にもなり(確か)、相当人気なのね~って感じだけど、どこがそんな人気となっているのか気になる。
と、新刊出るとなんとなく買ってしまう私が言えることでは全くない気がするが、逆になんとなく買ってしまうからこそ、なんでなのか気になる。
多分、八雲が“暗い過去があり、ひねくれてるけど、心根は優しく繊細で、でも毒舌で素直じゃない”というポイントを押さえたキャラだからってのが大きな要因の一つだと思う。少なくとも私にとっては。

「逃げられたんだよ」
 後藤は、苛立ちを抑えながら言った。
「よく聞こえませんでした。もう一度」
 八雲が、わざとらしく手を耳に当て、聞こえないとアピールする。
 いつもは声がデガイと文句を言うクセに、本当にムカツク野郎だ。
「だから……逃げられたんだよ!」
「なるほど。運動不足の短足刑事では、逃げられて当然ですね」(p66-67)

ってかわいいじゃないかYO!
んーまーでも、映画化とかされるほどのものかの疑問はまだ残るけど。


(神永学 「心霊探偵八雲5 つながる想い」 平成21年 角川書店)

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村上春樹の小説は変態じみていると先輩は言うが

売り出した途端に増刷が間に合わないくらいバカ売れの村上春樹の新作「1Q84」。
村上春樹が割と好きな私としてはめっちゃ気になってた。でも前作の「海辺のカフカ」が自分にとっていまいちだった為、買うのをためらってもいた。だって2冊もあって、それで面白くなかったらがっかりがすごいと思うんだよね。
それで、同僚が買おっかなぁと言っているのを聞きつけるや「貸してね」「いやいや、君が買って自分に貸せ」「いやいやいや。なんだったら上巻と下巻、それぞれ買う?」「じゃ、俺下巻買うわ」「え?なんで」「だって下巻の方が絶対面白いじゃん」なーんて会話をしていたのが。
「あ 新宿の紀伊国屋、先行販売今日から開始だって」と私が言った途端、「え 今日帰りに買ってこよっかな」と同僚は言い、そそくさと買い、私はちゃっかり借りたという展開に。

そんなわけで上巻。

「海辺のカフカ」よりは面白い。
でもなんというか、私が思う“村上春樹らしさ”はあまり感じられなかった。
村上春樹の何が好きって、許容範囲をひょいと超えたような話が、こちらの「?」をものともせずぐんぐん進み、それにいつのまにか吸い込まれて、話にぐるぐる巻きこまれて撹拌されるって感じなのがいい。そんなわけで、村上春樹の本は読み終わると現実に戻るのが結構大変だったりするんだけど・・・

今回は割と普通のお話だった。つまりそんな許容範囲を超えてしまうような設定ではなかった。
主人公は二人、天吾(男)と青豆(女)。この二人の話が交互に進む。
天吾は予備校で数学の先生をしながら小説家もどきをしていて、青豆はジムでインストラクターをしながら暗殺の仕事をしている。

天吾の物語の筋書はというと、新人賞に応募された「空気さなぎ」という小説を、天吾が書きなおす、というもの。その本当の作者は高校生の美少女で、どうやら「空気さなぎ」はその子がコミューンに住んでいた時に実際経験したことを書いたようだ。その美少女・ふかえりとの交流を描きつつ、天吾の過去(父親がNHKの集金係で日曜日の集金に連れまわされたという暗い過去)が書かれている。

一方青豆の方はというと、どうして暗殺をするようになったかがちょこちょこ書かれている。暗殺といってもゴルゴ13のようなハードボイルド的なものではなくて(そんなのだったらあまりに村上春樹に似つかわない)、今で言うDVを働き妻を追い詰めた男を殺す。
物語としては、青豆が突然ふと、この世界は昔からの世界と同じ世界なのだろうか?と疑問に持つのがキーとなって進む。

二人とも全く接点のないような感じだが、実は奇妙にリンクしていて、例えば天吾の回想に出てくる宗教団体「証人会」(エホバの証人のことなんだろうか?)の信者の娘はどうやら青豆のようだ。そしてどちらにもヤナーチェックの『シンフォニエッタ』が出てくる(青豆は冒頭のタクシーの中で、天吾は回想の中、一時期ブラバンだかなんだかのクラブに入った時に演奏した曲)。あとは大事なところでは、ふかえりが所属していたコミューン「さきがけ」がどちらにも出てくるし、リトルピープルという不可解なものも出てくる。
これは私の予想なのだが、青豆の話は天吾が書いている話の世界なんじゃないかと思う。なぜなら、天吾が書いている話にも月が二つ出てくるし、青豆が感じる変調の一つに月が二つ出る、というのがあるからだ。

“村上春樹らしさ”があんまり感じられない、と評したが、それでも村上春樹節は健在だ。
例えば、細かいほどの人物描写、独特な言い回し。あとドキッとするような言葉。その言葉の中で心に残ったのがこれ;

「やった方は適当な理屈をつけて行為を合理化できるし、忘れてもしまえる。見たくないものから目を背けることもできる。でもやられた方は忘れられない。目も背けられない。記憶は親から子へと受け継がれる。世界というのはね、青豆さん、ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘いなんだよ」(p525)

あと、村上春樹が“物語”について思っていることの一部なのかな、と思ったのがこれ;

もちろん小説を読むことだってひとつの逃避ではあった。本のページを閉じれば、また現実の世界に戻ってこなくてはならない。しかし小説の世界から現実に戻ってきたときには、数学の世界から戻ってきたときほどの厳しい挫折感を味わわずにすむことに、天吾はあるとき気がついた。なぜだろう?彼はそれについて深く考え、やがてひとつの結論に達した。物語の森では、どれだけものごとの関連性が明らかになったところで、明快な解答が与えられることはまずない。そこが数学との違いだ。物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される。天吾はその示唆を手に、現実に戻ってくる。それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるのかもしれない。そんな可能性が彼の心を、奥の方からじんわりと温めてくれる。(p317-8)

さてさて、下巻を借りなくては!!


(村上春樹 「1Q84 上巻」 2009年 新潮社)

Category : 小説:現代
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こういう人と一緒に旅したら面白いだろうな

前に読んだ高田崇文の「毒草師」。それの続編を読もうと図書館に行ったら、それが実はQ.E.D.シリーズのスピンオフ小説だったと知り、それじゃあということで御名形史紋が初登場する「QED 神器封殺」を読み始めたのだが・・・意味が分からん。
どうやらその前の「QED~ventus~熊野の残照」から読まなくてはいけないみたい。
長いな道のり、と思いつつ読み終わりましたよ「熊野の残照」。

今回は事件という事件はまったくなし。
いつも奈々目線なのに、今回は違って神山禮子の目線。
学薬旅行にて熊野に行くことになった一向。学薬旅行初参加となった神山禮子は、年の近い奈々と行動することにする。彼女には人には行っていないことがあって、実は熊野出身だった。しかしあることがあって、熊野の家を飛び出し東京に住む叔母の養子となって現在にいたる。

この神山禮子の回想(というか“レイちゃん”と呼ばれていた人の回想)が、学薬旅行のシーンに挿入されている形なのだが、その回想にちょっとしたどんでん返しがあるだけで、あとはひたすら桑原が熊野の蘊蓄を垂れ流す趣向となっている。

しかしまぁなんというか、毎度毎度桑原の、というか高田氏の知識には驚かされる。
が!
1作目の「百人一首の呪」が一番面白かったんだよな~ そして何が面白かったのか考えると、それが身近なものだったから、よく知っているものが「実は○○だった」というのが面白かったのだ。
それが熊野だとなると、熊野のことは全く知らないので(熊野古道だとか那智の滝だとかは分かるが)、気のない「ふ~ん」で終わってしまうのだ。
もとから知らないものを「実は○○でした」と言われて、感動するなというのが無理なんです。

とりあえず、熊野には詣でる順番があってそれが五行説にならっているらしい。
つまり、『本宮本社・西(阿弥陀如来)』が金、『速玉大社・東(薬師如来)』が木、『那智大社・南』が火(だから山火事の危険を冒しても、火祭りが行われるらしい)とおくとすんなりいく。
面倒くさいのでその後を抜粋すると;

「でも……」沙織さんが口を挟む。「本宮・新宮・那智じゃ、五行のうち三つだけでしょう。『土』はないんですか?」
「もちろんあるよ」
「それは?」
「熊野古道じゃないか(傍点)」 
「え」
「那智大社から本宮へ向かう道だよ。数多くの上皇たちが通った大雲取・小雲取超えじゃないか。円座石のある、古道を代表する参詣路だ」
「なる…ほど。それじゃ『水』は?」
「そのままだ。熊野川(傍点)じゃないか」
「あっ」
「そしてこれが、本宮大社から速玉大社へ向かう正式なルートとなるわけだ。これで全て繋がるだろう。本宮大社(金)→熊野川(水)→速玉大社(木)→那智大社(火)→熊野古道(土)。そして再び本宮大社に戻って……とね。…(中略)…」
…(中略)…
「中には、那智大社から速玉大社、そして本宮大社へとまわった人もいたとおっしゃっていましたよね……」
…(中略)…
「言っただろう。木は火を生じ、火は土を生ずる。そして土は金を――素戔嗚尊を生ずるんだ。時計回りにきちんと参拝することによって、五行を巡り、新たに太白が、熊野坐神が、素戔嗚尊が誕生する(傍点)んだよ」
「あっ」
「だから、それを防ぐべき立場にいる人間は、逆にまわったんだろう。流れを堰き止めるためにね。…(中略)…」
…(中略)…
 思わず横顔をじっと見つめてしまった私の視線の先で、桑原さんは、くしゃっとアルミ缶を潰した。そしてポツリと言う。
「これで――証明終わり
さてお次は「神器封殺」だ。


(高田崇史 「QED~ventus~熊野の残照」 2005年 講談社)

Category : 小説:現代
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トーヤ湖って洞爺湖のことなのだろうか?

芥川賞受賞作品、第二作目は鶴田知也の「コシュマイン記」。
Wikipediaによると、2・26事件勃発の関係で、第二回は開催されず、この「コシュマイン記」は第三回昭和十一年上半期に受賞した作品となるらしい。

アイヌが舞台となり、松前藩と対立している様子が描かれているので江戸時代の話だろうか。
主人公はタイトルにもなっているコシュマインで、まだ赤ん坊の頃に、セタナの酋長(オトナ)であった父親が日本人に殺されてしまう。実は祖父も日本人に殺されていたし、自分自身も殺されそうになったのだが、母親と父親の部下と一緒に間一髪逃れることができた。

そうして期を待って、他の部族の者たちと一丸となって日本人と戦おうとするのだが、大人になって周りを見てみれば、若者は日本人に取り入るようになり、日本人反対派である者たちは既に年老いている。
絶望し涙したコシュマインは、母親と妻とで僻地に住んでいるのだが、そこである日、瀕死の日本人の労働者に会う。結局その日本人は死んでしまい、コシュマインたちは手厚く葬るのだが、その次の冬に他の日本人たちと知り合いになる。
そして仲良くなったかと思いきや……殺されてしまうのだ!!! あんぎゃぁあああ

こんな感じのお話で(つまり主人公が偉いところの子供で、その親は敵に殺され、主人公は命からがら周りの人の力を借りて逃げ伸び、逃げた先で武術などを身をつけて成長し、最後は仇打ちをする)ハッピーエンドに慣れてしまっていた私にとって、最後はものすごくショックだった。
しかも、祖父も父親も、そしてコシュマインも日本人に“騙し打ち”されてしまうのは、本当にショックだった。

外国から日本を見てみると、みんな髪の色や目の色、肌の色が同じもんだから、うっかり日本は単一民族の国だと思ってしまうが、実は全然そんなことなく、こういう過去があったんだ、ということを改めて感じる。

そしてこの作品はただ“日本人がアイヌ人にした仕打ち”を書いているのではなくて、コシュマインが日本人に手なずけられているアイヌ人を見て絶望するように、周りがいつの間にか変わってしまっていることのやりきれなさのようなものが、よく書かれているなと思った。
そのうえ、その者たちを諌めることなく、また神威の森を荒らす日本人に歯向かうことなく、淡々と見つめているだけで何もしないコシュマインから、彼の諦念が伺えて切なくなった。
話が前後するが、コシュマインがあちこち見てきて、父親の代の酋長にあってそれを伝えた時の酋長の言葉に;

「知恵が俺たちを敗かしたのだ。ブシ(鳥冠草)の毒矢より鉄砲が勝れているのだ。…(中略)…俺たちがオロッコ族より強いように、日本族は俺たちよりも強いのだ。俺たちは、石でなく金を自由にし、土器であなく陶器を作り、チキサニ(水楡)の衣でなく紡いだ衣を織り、伝承でなく文字を使い、刳り抜いた木舟でなく板の船を操り、足の下自然に出来た径でなく手で墾いた路をつけ、銭を飾り物としてでなく品物の交換に用いる理を知らなければ、もはや同族の運命はオロッコ族よりも惨めであろうお。コシュマインよ、俺は、あんたの父上とともに死ななかったのを常に悲しんでいる」(p82)

とある。その後にコシュマインが隠居したような生活を始めるのだが、コシュマイン自身は何も語っていないけれども、それだけに彼の絶望を感じる気がする。

話自体は短かったけれども、内容が濃かったせいか、全然短編の気がしなかった。


(鶴田知也 「コシュマイン記」 in 「芥川賞全集 第一巻」 昭和57年 文藝春秋)

Category : 小説:近代
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「刀語」を“とうご”と読み、言語の種類かと思っていた…

本屋で見つけて思わずタイトルに惹かれたのが「刀語」だった。
中身をまったく見ずに手帳に書き留め、すっかり忘れた頃に図書館で借りてみた。

そしたら先日散々苦手だと言っていたライトノベルだったよ!

薄い本なのになんかすらすら読み進められない。
例えば;

 剣術の稽古――といった雰囲気ではない。
 どう見ても。
 六人の男達は全員、よく知られた氷床道場の黒い道着に身を包み、それぞれ木刀を中段に構えているが――その木刀に囲まれている男の方は、驚くべきことに手ぶらである。控えめに考えてもとても穏やかで平和、牧歌的な場面とは言えそうもないが、しかしその男は、六人の男達には目もくれず、むしろ己の足元――道場の板張りを、気にしているようだ。
…(中略)…
 うーん、と男は首を傾げるように――
 足元を気にしている。
 「どうかしたか?」
 と。
 少し離れた、道場の端の方から、そんな声。(p8-9)

なんで“――”が多用されてるの?どうして文章がぶちぶちと切れてるの?
とそれらに意味を見出そうと深読みして、“あり?”が続く。つくづく本を読む、というのはあるルールにそって読んでるんだな、と気づかされる。

話の内容はというと、時代ファンタジーになっていて、江戸時代がモデルでなってるであろう展開となっている。
主人公の鑢七花は他界した父親が島流しになった関係で、姉の七実と一緒に無人島で暮らしている。外の世界の記憶はまったくない七花は、代々鑢家に伝わる剣法虚刀流を守っている。

そんな彼の前に奇策士と名乗るとがめが現れる。
そして、刀を使わないという一風変わった虚刀流と敵対関係にあった、刀鍛冶・四季崎記紀が打った刀の因縁を語る。とがめの要件というのは、その刀鍛冶が打った千の刀のうち十二の刀を探し出すのを手伝う、というものだった。

どうやら12巻あるらしいのだが、ま、私はこの巻だけでいいかな。


(西尾維新 「刀語 第一話 絶刀・鉋」 2007年 講談社)

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芥川賞って昭和十年から続いていたのですね

ふと芥川賞作品って読んだことないなーと思いつき、そうだこの際だから第1回目の芥川賞作品から読んでみよっとと思ったのは、この頃自分の中ではやりの「時系列順に読む」というのが意外と楽しいからに違いない。
いやぁ、なんか時系列で読んでいくと、攻略感があって妙な達成感があるんですよ。こんな不純な同意で果たして読書はしていいものなのか、と自分の読書に対してのプライドに聞いてみたが、「ま、楽しければそれでいいんでない?」と返ってきたので、さっそく「芥川賞全集1」を借りてきてみた。

まずは栄えある第1回芥川賞(昭和十年)受賞作品:「蒼氓」by石川達三。
先日、暇だったのでWikipediaで太宰治について読んでいたら、彼は憧れの芥川龍之介を冠したこの賞に応募し、候補にあがったそうだが、この作品に負けたそうな。でもその落選した太宰治は知っていても、当選した石川達三は知らなかったから、時代ってのはそういうもんかね。

話はというとなかなか社会派で、ブラジルへ移民として渡るお話でした。
といっても、主人公がいてブラジルに移住し、艱難辛苦を乗り越え栄光を手にする、といった類のものではなく、ブラジル移住をめがけて様々な人が神戸へ集まり、審査に通って、ブラジルへ出向までの何日かをスケッチ風に書かれたものだった。

様々な人といっても、大概は貧しい農村からの人が多く、家財を売り払って新天地めがけてやってきた、という人が主だった。なかには、「満五十歳以下ノ夫婦及ビ其ノ家族ニシテ満十二歳以上ノ者」という渡航費補助移民の条件を満たすために、偽装結婚する者もいたりした。

ともかくあらすじというあらすじはあまりなく、そういった淡々とスケッチが続いていく。
文学を解す脳が発達していないのか、残念ながら「面白い」だとか「興味深い」だとかちっとも思わず、ただ「暗いな」という感想しか持たなかったけれど、昔の作品って現代ではなかなか書き得ないものをひょいと書いちゃうんだな、と思った
前も安倍公房を読んで思ったけれども、現代においてこんなの書いたら、人権無視だと言われてしまいそうな描写があったり、幸田文を読んで思ったように、よくも気持ち悪い情景をホラーとかそういうジャンルでないのに緻密に描写するよな、と感嘆してしまう描写があったりした。
例えば、渡航にあたって体格検査が行われたシーン;

「乳を飲むかい?」と医者は吃りながら訊いた。母親は両手にこの子を抱いたままぼんやりと窓の外の雨を眺めていて返事もしない。医者は父親をふりかえった。大きな体格をした父は右の手の甲で鼻水をこすってそれを左手で揉み消している。その三人を囲んでうようよと九人の子供だ。その中の三人の女の子は頭に虱が霜の降った程にたかっていて、中の一人は頭一杯の腫物で膿が流れて髪が固まって悪臭を放つ中を虱が歩いている。二人の医者は呆れてこの白痴のような夫婦をつくづくと眺めた。是は人間であるか獣であるか。そして毛むくじゃらな熊の様に逞しい本能の姿をまざまざと見たように慄然として顔を見合わした。(p12)

もしかしたら“現代では見られない描写”というのは、現代ではこんな人たちがいなくなったからかもしれない。
「暗い」だのなんだの言っても最後まで読んだのは、その時代のリアルな描写が為されていたからに違いないとも思う。

ときれいにまとめようとしておいて蛇足になるだろうが、補足を。本作に「命短かし恋せよ乙女」という歌を歌う、というシーンが出てきたのだが、これってそれってやっぱり、「夜は短し歩けよ乙女」ってここから来てるのだろうか? とちょっと切ないシーンだったというのに、はっとしてしまった。


(石川達三 「蒼氓」 in 「芥川賞全集 第一巻」 昭和57年 文藝春秋)

Category : 小説:近代
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登場人物が自分と同じ名前だと、妙な気分になる

一時むさぼるように読んでいた恩田陸作品。
最近読んでないなぁ~と思って、ふと「いったい彼女の作品、どれくらい読んだんだろう」と思ったがつき、仕事中にちょちょちょっと検索して、自分が実はあんまり読んでいないことに気づいた。というか多作すぎるよ。
ということで時系列順に読んでないのを片っ端から読むことにした。

そんなこんなわけで、1作目をとんで2作目「球形の季節」。

久し振りの恩田陸だったが、残念ながらいまいちだった。特に最後は「え!?これで終わり!?」という腑に落ちないものだった。

舞台は東北の田舎町・谷津。ここには主に4つの高校があり、一高という進学率の高い公立男子校、文武両道の長篠という私立男子校、進学率の高い二高という公立女子高、可愛いがおつむが弱い私立女子高の藤ヶ丘。
いったい頭の出来があまり良くない男子はどこの高校に行けばいいんだ?という疑問はさておき、この4校、お互いライバル心を持っていたりするのだが、その4校が合同で行う唯一のクラブ活動がある。それが「谷津地理歴史文化研究会」、略して地歴研。
本書はこの地歴研の面々が中心となって繰り広げられる、一風変わった学園物なのだ。

何が一風変わっているかというと、学園物のジャンルというのは「学校」という独特な社会の中で繰り広げられる物語といった感じが強いのだが、本書は確かに「学校」が中心であれども、その学校が複数にまたがっている。
はては田舎町という狭い社会であるがゆえに、“広い社会の中の1学校社会”という“広い中の小さい社会”という図式が成り立たない。何せ学校の先生がその学校出身だったり、町の人がどこかの高校出身だったりするわけだ。だから独特な閉鎖された社会である学校が、なんとなく外に開かれ、他の社会(他校の社会であったり、日常社会であったり)と微妙に繋がっているのだ。

というのが、私がちょっと変わってるな、と思ったところデス。

さて話の発端は、「五月十七日、エンドウという生徒が宇宙人に連れて行かれる」みたいな噂が生徒の中で爆発的に広がったこと、そして「地歴研」がその噂の源を探ろうとしたことから始まる。
そうしたら本当に遠藤志保が姿を消してしまったのだ!!

そのほかにも金平糖にまつわるおまじないが流行ったり、またもや似た噂が広まったり、長篠で願い事を言ったテープをこっそり木のうろに置いたらかなえてくれる、という噂が流れたり・・・と色んな事象が起きる。

結論を言ってしまうと、ある人物(長篠の生徒)が操作していたのだが、それに谷津が持っている異空間も登場して「おいおいどうやって収束つけるんだ?」という状態になる。
挙句の果てには、その人物は全員を異空間に連れて行きたいとして、「八月三十一日、教会にみんなを迎えにくる」と噂が流し、ハーメルンの笛吹きのうように皆がなんとなく行ってしまう…でも主人公格の一人みのりは行かず、次の日の朝を迎える、というところで話が終わってしまう。

正直、消化不良ですよ。
私は仁さんと晋さんの対決が読みたかった!!

とりあえずなんとなく奇妙な感じで話が進むのだが、各章のタイトルも変わっている。
例えば、第八章は「プールのむきだしの底は死んだ魚の腹のよう」で、これとまったく同じ文がその章に出てくる。しかも別に重要な文章ではなくて;

 プールのむきだしの底は、死んだ魚の腹のような妙な白っぽさで、その上を体操着姿の生徒たちが散らばって柄つきブラシを動かしていた。(p117)

といった、情景描写の一部だ。
こんな風に何気ないセリフとか描写文の一部がタイトルになっているのだ。
なんか意味があったのかな?私にはさっぱり分からなかったよ。
ついでになんで“球形の”季節なのかも分からなかったし。

まあでも、最後まで読ませるのは恩田陸の筆力なのか。はたまた私の恩田陸への愛なのか。かはは


(恩田陸 「球形の季節」 1994年 新潮社)

Category : 小説:現代
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三代そろって同じ分野の学者って他にもあることなんでしょうか?

大学時代に友達から金田一春彦先生の本借りた。
ちょうど留学中で「言葉」に対して敏感になっていたせいか、うぉぉぉおおおお!!!!とツボにはまって一気にファンになってしまった。といっても、あんまり読んでないけど。

そんなわけで本屋でちらりと見かけ、思わず手にとった「日本語は京の秋空」。
目次は以下の通り;

嫁ぐ―赤縄の縁
恋文―ラブレター
兄弟序あり
いそしむ文選一里
面接試験
日本人の笑い
人との関わり
江戸・東京の言葉
言語形成期
常識
はやり言葉
言霊
悪口雑言
あえる
舞台の名乗り
尋常性ざ(「座」のやまいだれバージョン)瘡

内容は細かく書けないので抜粋するが、まずは「っへぇええ~」と思ったのを、標準語の生い立ちの話から;

 もともと徳川将軍家は、三河(愛知県東部)出身である。「三河屋」「伊勢屋」「近江屋」など、江戸で身代を築いた商人は関西人が多い。だから、この人たちの話し言葉の中には関西方言の影響が色濃くみられる。たとえば「おめでとうございます」「ありがとうございます」という言い方だが、これを純粋に関東弁で言うなら「おめでたくございます」「ありがたくございます」になる。(p87)

標準語が成り立つ上で、関西弁が深く影響を与えているというのは前に読んだ本でも書いてあったが、「ありがとう」「おめでとう」のことは書いてなかったと思う。確かに、関西弁って“とう”に変換する節がある! これは神戸弁だけど「○○やっとお(やってる)」って言うし! と膝をポンと叩きたくなった。

金田一春彦氏の何がいいって、日本語を本当に愛してるんだなぁ、としみじみ伝わってくることだ。
しかも、「今の日本語は乱れている!」と頭ごなしに批判するのではなく、逆に“言語というのは常に変化するものだ”というスタンスをとっている。ま、考えれば平安時代と江戸時代でも言葉が違うし、変化するものなんでしょう、言語は;

こうして見てみると、はやり言葉というのは、庶民にとっての娯楽から生まれた言葉が大変多いということに気付く。現代のテレビや雑誌のようなマスコミがなくても、戦記物を語る講釈師、落語家、歌舞伎など、大衆にアピールするものがあったのである。そういう中から流行語が生まれたということは、昔も今も変わらないことが言える。(p115)

やはり言語はコミュニケーション・ツールなのだから、多数とコミュニケーションを取る場である庶民の娯楽でこそ、発達するものなんでしょうかね。

あと、へ~と思ったのが、忌み言葉について。
「言霊思想」というと、何やら日本特有な感じがするけれど、他の言語でも見られて、例えばスペインでは蛇のことを“ヘビ”と呼ばずにラテン語の“這うもの”といい、英語の“bear(熊)”も「褐色のもの」という意味だそうだ。
確かに、「ゲド戦記」でも言葉は重要な役目を持っていたし、聖書でも「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。万物は言葉によってなった。なったもので言葉によらずになったものは何一つなかった」的なことも言ってるしな。あれ?これはちょっと“言霊思想”とはちょいと違う様相のものなのか?
あと追加で、養蚕農家では蚕の敵であるネズミのことを「嫁が君」というらしい。可愛いな。

可愛いなついでに、金田一先生も可愛い(といったら失礼かもしれないけど)。
出かける間際に「ハトガマメクッテ、パ」と唱えるらしい。これは「ハ」ンカチ、「ト」けい(時計)、「ガ」マグチ、「マ」んねんひつ(万年筆)、「メ」がね、「ク」し、「テ」ちょう(手帳)、「パ」ス(定期券)のことらしいが、“くし”を持ち歩くとはなかなか身だしなみを気にする方だったんですね。

「言葉は変化するものだ」というスタンスをとっていらっしゃる金田一先生だが、もちろん日本人の美点を現す言葉が消えることに寂しさを感じていらっしゃるみたいだ。そんな中で;

会社より自分が大事、仕事をとるより自分の生活や趣味をとるか。それはそれで結構だと思うが、一つだけ忘れてほしくない日本語がある。それは「いそしむ」という単語である。
…(中略)…「励む」と「いそしむ」は意味が少し違う。「励む」はガムシャラに働くことだが「いそしむ」は働きながら、働くことに喜びを見出だしているというニュアンスがある。…(中略)…日本人の労働時間が短くなり、働くことよりも遊ぶことを大切にする生き方に変わったとしても、この言葉だけはいつまでも生きのびてほしいと思うのだが。(p44-45)

身にしみる言葉です……。
日曜日の夜に読むのにぴったりかもしれぬ……。


最後に、金田一春彦先生のお父様が言語学者だったというのはもちろん知っていたが、二人の息子さんが言語学者ってのにはびっくりした。
そしてその内の一人、金田一秀穂氏が最後に「随想」を書いていて、そこで「言語が変化するのは当たり前のことだ」「そうは言っても“若者は言葉が乱れてる!”と思ってしまうよ…むにゃむにゃ」というところを解説していた;

 なぜ人は言葉が変化することに対して不快感を持つのか。
 人は思春期までに、言葉によって自分のアイデンティティを形成する。アイデンティティは、言葉でできている。…(中略)…
 しかし、周りの言葉は、勝手に変化していく。…(中略)…それは、自分のアイデンティティに対する冒涜のように思えてしまう。それが許せない。それで、言葉に対して、人は保守的にならざるを得ない。


もう何年か前に亡くなられたが、今だに「そうだ、亡くなったんだった」と寂しく感じる。
ま、金田一先生の著書すべて読んでから寂しく思えって感じだが。


(金田一春彦 「日本語は京の秋空」 2009年 小池書院)

Category : その他
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万城目学と森見登美彦は仲がいいそうです(Wiki情報)

なんの根拠もないが、京大出身の作家ってなんとなく分かる。なんでだろうなぁ~
ただはっきり言えるのは、森見登美彦と万城目学が似てること。といいつつ、つい最近までは二人ともの作品を読んだことなかったけど。でも本の醸し出す雰囲気が似てたというか、なんというか。

そんな漠然とした思いで初めて読んだ万城目学作品「鴨川ホルモー」。
読み始めて直観が確信へ変わった。
やっぱ森見登美彦に似てるわ~
私が唯一読んだ彼の作品「夜は短し歩けよ乙女」と舞台がが同じ京都で京大(「夜は短し歩けよ乙女」でははっきり書かれていないけど)だからだろうか?
唯一、ここが似てる原因だろう、というのが;

目を閉じたまま俺は、これから延々と続くであろう真夏日の毎日を、本当に実家から送られてきたあの古い扇風機一台で乗り切ることができるのか、自問自答を繰り返した。否。…(中略)…できることなら、俺だって扇風機などさっさと見切りをつけ、豪放磊落にエアコン購入に踏み切りたい。だが、いかんせん金がない。…(中略)…「冷」を取るか「食」を取るか、滑稽なれど切実な問題が、そこには大きく横たわっていた。(p41)

というような、四字熟語と格言的な文体で、非常に日常的なことを描くところが似てる気がする。


それはさておき。
この「ホルモー」というへんちくりんな名前は一体なんだ?と思って読み始めたのだが、それについてのお話だった。
ホルモーというのは、使役、またの名は式神・鬼を使って戦う競技のことで、選ばれた者のみがホルモーのサークルに勧誘され、戦うこととなる、由緒正しい秘戯だった。

ホルモーについてもう少し詳しく書くと、ホルモーのサークルがあるのは京大だけではなく、京都産業大学、立命館、龍谷大学にあり、それぞれ玄武組、白虎隊、フェニックス(朱雀ではやくざっぽいという理由で先代に改名されたらしい)と京都大学青竜会と称する。
一人につき百匹のオニがつき、計十人一組となって戦う。
実際には血を見ない戦いとなるのだが、もちろんオニも体力が消耗する。そして最後には消えてしまうらしいが、その消える直前にレーズンを与えると復活するらしい。
そのレーズン補給がうまくいかなくて、百匹のオニが全滅すると、それを保有していた人間は、「ホルモォォォォォォォ」と否応なく叫ばなくてはいけなくなる。

さて話の発端は主人公の安倍が、葵祭の行列の帰り道にサークルに勧誘されるところから始まる。
酒と食べ物目当てにやってきたコンパで、同学年の(つまり同じく勧誘されてやってきた)早良京子に一目ぼれしたのが運のつきだった。
早良京子会いたさにサークルに参加するようになり、挙句の果てにはホルモーに巻き込まれることとなるのだった。


うーん 結構期待していただけあって、今一な感じだった。
描かれる恋愛もちんけなものだし、さんざんサークルをこじれさせておきながら、しかも一旦サークルから抜けようとしていたくせに、最後には安倍が会長になるってどうよ!?と激しく思う。
う~ん 比べてはならないと重々承知だけど、森見登美彦の方が私は好みだな・・・


(万城目学 「鴨川ホルモー」 2006年 産業編集センター)

Category : 小説:現代
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確かにジョン・レノンの息子は彼にそっくりだ

エッセイを読み終わったとろこで早速、奥田英朗氏の初めての小説を、初めて読んでみた。ふふふ
今まで読んできたエッセイは、結構皮肉的なウィットにとんでいたので、小説はどうなるのやら、と思っていたら、意外にもなかなか暖かい話だった。
最後は今一な感じだったけれども、全体的に好きだなーと思わせる小説だった。

主人公の名前はジョン。どうやらイギリス人らしく、日本人妻ケイコともうすぐ4歳になるジュニアと共に、ケイコの実家が持つ軽井沢の別荘にやってきている。
そこで道端で、自分の母親とよく似た声の女性が「ジョン!」と子供を呼んでいるのを聞いた時から、パニック・ディスオーダーに苛まされることになる。
しかも、精神性のものなのか酷い便秘に悩まされる。

とにかく最初の方は、ジョンという人がおぼろげにしか見えない。
どうやら昔は有名人だったらしい、とか、今は隠遁生活をしていて、ケイコが仕事で世界を飛び回っているのに着いて行っているらしい、とかそんなのがなんとなく分かるのみ。
そして人を殺してしまった、という罪におびえているのだが、その罪自体もなかなか明かされない。
面白いなと思うのは、その罪を何度も何度も取り上げて(何せジョンが何度も何度も悪夢にうなされてるから)、次第にその内容を明瞭にしていっている。

まあ、そんな感じで、序盤はとにかく読者はよく分らないまま、ジョンの便秘話に付き合っている感じ。
まさか、ジョンという人が過去を思い出して後悔の念でうんうんうなりながら、便秘に苦しむ話で終わりじゃないだろうな、と思っていたら、もちろんそんなことでは終わらなかった。

突然;

 そうしてジョンは前妻と離婚し、ケイコと籍を入れた。
 世間はたちまち反発し、「ジョンは東洋の魔女にたぶらかされている」とマスコミは書き立てた。バンドのメンバーもケイコを嫌った。前衛芸術に傾倒していくジョンに「目を覚ませ」という者すらいた。(p62-23)

という文を読んで、“ジョン”はただのジョンじゃないんだ!ジョン・レノンなんだ!!と気づいたのだ。
人によってその場所はまちまちだと思うが、ある時突然、これは「ジョン・レノン」の話だったんだ、と気づく。もちろん、伝記ではないのでまるっきりそのままという訳ではない。現に妻の名前はケイコだし。

でも“ジョン・レノン”が見え隠れし始めると、ぐっとこの物語の雰囲気が変わる。
ジョンが過去に人に対してしてしまった冷酷な仕打ちに後悔し、悪夢を見、でもお盆時期もあってか霊界からその対象となっていた人々が次々現れて、ジョンは浄化していく、という過程が、何か厚みがあるように感じられるのだ。
そうやって、“架空の世界でかつて有名人だったジョン”でも成り立つ話が、現実の世界の“ジョン・レノン”とリンクすることによって、違う様相になるというのは、とても面白かった。

奥田氏が「文庫版へのあとがき」でこれを書くことになった動機を書いているが、曰く;

 彼の人生は多くのライターたちによって記述されている。…(中略)…
 ただ、わたしはかねてよりひとつの疑問を抱いていた。不満と言ってもいい。それは七六年から七九年にかけての、彼の「隠遁生活」における言及があまりに少ないことだ。…(中略)…
 だが、彼のアルバムを聴き直してみると、ファンならばあることに気づくはずだ。それは四年の空白期間を置いて発表された最後のアルバムが、主に家族愛を歌った実に穏やかな作品だということだ。(p307)

らしいが、さすが目の付けどころが違う。
そして「つまり、わたしは、フィクションで彼の伝記の空白部分を埋めてみたかったのだ。」(p308)というのだから、かっこいい!!!
そしてそして、躊躇なく“ジョン・レノン”と便秘を結びつけた奥田氏に敬意の念を抱く。


(奥田英朗 「ウランバーナの森」 2000年 講談社)

Category : 小説:現代
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私はO型だが、血液型を信じないというのは同意する

すっかり奥田英朗が気になった私は、まず彼の初出版物・「B型陳情団」を読んでみた。

これは前に読んだように旅行記ではなく、奥田氏が日々思うこと・感じることをつらつら綴っているものだった。
既読の「泳いで帰れ」とか「野球の国」よりは面白さがちょっと劣る気がした。当たり前かもしれないが。
というのは本書含めて3冊とも、偏屈な感じが伺えられるのだが、「泳いで帰れ」とか「野球の国」の方がそれにプラスして洒脱さが出ているのだが、本書はちょっとそれが薄い。そのためか、時々くどく感じる。
でも概ね面白かった。

話は非常にそれるが、私はどうやら“繰り返しの構造”というものが好きみたいだ。
例えばクラシック音楽だったら変奏曲とか好きだし。そうやって何度も繰り返す中で、中身がちょっと変わったり、変調していったりするのがなんか好きだ。
今回の「B型陳情団」にもそういう箇所があった。
奥田氏はスースーするものが好きらしいが、そのスースーを求めて、スースー遍歴を繰り広げていた、というくだりで

〈ホールズに出会った時〉;
「ガキはあっち行け、シッシッ」
というわけである。
このシッシッの思想と潔さは実にいい。(p165)

<ホールズ・エクストラに出会った時〉;
「菓子と一緒にするなよ、ケッ」
というわけである。 このケッの思想とスノビズムは実にいい。(p167)

<スーパーレモンキャンディに出会った時>;
「ただの菓子だと思うなよ、フッ」
というわけである。
このフッの思想とアイデアは実にいい。(p168-9)

フ<ィッシャーマンズ・フレンドに出会った時〉;
「飴だと思ってなめるなよ、フフン」
というわけである。
このフフンの思想と伝統は実にいい。(p169-170)

となるのだが、それが妙にツボ。
なぜでしょうね。こういう繰り返しテクニックってそう珍しいものではないはずなのに。
私の琴線に触れるみたいです。
ポイントはくどくなく、しゃれた繰り返しと洒落た型はずし、といったところでしょうか。

次は奥田氏の小説を読んでみようと思う。



(奥田英朗 「B型陳情団」 1990年 講談社)

Category : 随筆
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私の中で、タンダの髪はストレートなんだよな

よ・読み終わってしまったーー……“守り人シリーズ”最終巻「天と地の守り人 第三部」。
こんなに読み終わってしまって残念なシリーズって久し振りかも。

新ヨゴ皇国の皇軍は、切り捨てるところは切り捨て、籠城を覚悟で帝が住む光扇京を守ることにする。とはいうものの、ずっと平和であった新ヨゴ皇国。兵法も随分古いものでどうにもこうにも頼りなく、緒戦は惨敗となる。

一方バルサは、皇軍に切り捨てられた、かつては行商たちが集まって賑わっていた四路街へやってくる。
そして商人たちに雇われた、バルサの同業人・護衛士たちと話し合い、ロタ王国へ商人・平民たちを逃がすことにした。
間一髪で燃え上がる四路街。そこはタルシュ軍と新ヨゴ軍との戦場となった。

またもや新ヨゴ軍がやられる……という瞬間、チャグム率いるロタ王国・カンバル王国の連合軍が後ろから攻めてくるのだった!
こういう援軍がやってくるっていうのは、お約束っちゃあお約束だけれども、心が躍る。醍醐味というやつでしょう。

あと、「ツボをおさえてますね~」と思ったのが、このシーンのちょっと前で、四路街からの難民たちが騎馬武者に出会うシーン;
 先頭の騎馬武者がちかづき、その顔がみえはじめたとき、ガシュは目をまるくした。
 …(中略)…
 そしてロタとカンバルの騎馬兵をひきい、みがきあげられたカンバルふうの胴当てをまとっている先頭の騎馬武者は、なんと、ヨゴ人だった。
 …(中略)…
 若者は兜をとり、わきにかかえると、しずかな声でいった。
「そなたらに、文書をわたす。イーハン王子への文書だ。戦がおわるまで、わが国からの避難民をうけいれてもらうよう、電化におねがいする。ジダンに着いたら王城へおもむき、この文書をわたすがいい。…(中略)…」
 …(中略)…
 じっと若者の手もとをみつめていたアオノは、文を書きおえた彼が、末尾にしたためた署名をみた瞬間、息をのんだ。
 こおりついたように自分をみているアオノを、若者はしずかにみつめかえした。
 …(中略)…
「あ……あなたさまは、い……いきて……。」
 かすれ、あわれなほどにふるえている彼に、若者はこたえた。
「生きている。――海から、生きてもどった。」(p107-110)

この章の終りまで、チャグムの単語は出てこずに終わっているのだが、こういう演出とか小にくい。いやぁ~かっこいいですね。

こうしてチャグムは新ヨゴ皇国に戻ってくるのだが、父帝は受け入れず、かといって前のようにチャグムを殺すこともしない。
ナユグに到来した春のために川が増水して光扇京も沈む、というのを聞いても、宮殿と運命を供にすることを決めたのだった。チャグムはそんな父と決別して、連合軍や貴族、平民を連れて高台へと移動するのだった。

そこで繰り広げられる戦。
こういっちゃなんだけど、結構あっさり勝利に終わる。しかもチャグムが寝てる間だったし。でも、個人的に戦いのシーンはそこまで興味がないので、それはそれで全然OK。

タルシュ側としては、戦に負けただけでなくタルシュ王が崩御し、兄王子か弟王子、どちらが王位につくか、という問題も起き、それにまたプラス、ヒュウゴの意見もあって、タルシュ軍は新ヨゴ皇国と和睦を結ぶことにしたのだ。

とざっくりあらすじを書くとこんな感じ。
あ、バルサのことを書くのを忘れてたが、バルサはタンダと出会うことができる。
でもタンダは深い傷を負って、腕を切り落とさなくてはいけない有様だった。
最終的には回復し、もとの家に戻れたとさ、という流れ。

一応、誰も主要人物は死なず、ハッピーエンドになったけれども、チャグムは帝になってしまったし、そうなるとバルサたちと決して会うことはない。
そこが寂寥感漂うエンディングとしている気がする。ハッピーエンドのはずだけど、底抜けに明るいハッピーエンドではなく、憂いが含まれたハッピーエンド、みたいな。

いやぁ~ 今回は三部作だったけれども、でもハリーポッターだとかそういうものに比べて、話の長さはそんなない。
なのにこんなにも「厚く」感じる。これってすごいと思う。
もし、子供時代に読んでたら、影響は大きかっただろうな。
ま、でも、自分が生きている間に読めてよかった。
と思わせるシリーズだった。
上橋菜穂子さんの違う話は、もうちょっとほとぼり冷めてから読もうと思う。



(上橋菜穂子 「天と地の守り人 第三部」 2007年 偕成社)

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島民は「音楽」という概念はあったのかが気になる

この頃時系列に読むのがはやってます、自分の中で。
ということで前々から友達に薦められ、何作か映画化されている伊坂幸太郎のデビュー作「オーデュボンの祈り」。
一言でいえば、奇妙な話だった。

主人公の伊藤がまったく奇妙な島に連れてこられてしまった、というのは、まぁお話的によくある展開だから分かる。
でも案山子がしゃべる、っていうシーンで、虚を突かれたというか、なんだこれーーーー!!!と頭の中は混乱状態になった。まったくあらすじを読んでいなかったので、本書に対する基礎知識もなく、とつぜん「しゃべる案山子」。しかも島民に慕われ、まるで神のように崇められている。

一応話の筋は、ある日案山子は引っこ抜かれ、頭も取られ、“殺されて”しまった。そしてその殺人事件を主人公が解く、という流れになっている。

でもそれはぼんやりとした本筋であって、本書の大半を占めているのは、外界、つまり読者サイドの伊藤と、奇妙な島民たちのやりとりとなっている。
実際、実に個性的な人物が次々と登場する。
伊藤の案内役となっているのは、どこか人間として欠けていそうな日比野。
外界と唯一橋渡しとなっている轟(伊藤を連れてきたのも彼)。
反対言葉しかしゃべらない画家園山。
地面に耳をつけて自分の心音を聞く少女若葉。
罪を犯した人を銃殺する美青年桜。そしてそれを容認する島民と警察たち。
などなど。

最初の方、あまりに訳のわからなさに、放棄しようかと思ったが、

 僕は忘れ去られた黒子のごとく、脇に立ち、三人の会話を聞いていたが、幾つかのことを把握した。(p92)

という表現に行きあたって、「村上春樹みたい」「この表現好き」と思ったので読み終えることができた。
不思議なもので、いったん“村上春樹みたい”と思ったら、本当に至る所で村上春樹要素を感じ取った。少しずれた奇妙な人たちが現れるところやら、それでいて奇妙なりに秩序があるところやら、登場人物がきれいな日本語をしゃべるところやら、文章が醸し出し雰囲気やら、なんだか似てる。
そう思ってたら、Wikipediaに「いわゆる春樹チルドレンの代表格といわれ,村上春樹の影響が強く感じられると指摘されている。」って書いてあった。ふーん

まずまず面白かったので(偉そうだ)、読み進めて行こうと思う。


(伊坂幸太郎 「オーデュボンの祈り」 平成15年 新潮社)

Category : 小説:現代
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次巻でも誰も死者が出ませんように・・・

第一部を読み終えて本棚にしまったその手で第二部を取りだした「天と地の守り人」。
そのままマッハの勢いで読み進んで、日付的には次の日、でも体的には同じ日に読み終わってしまった。

バルサとチャグムはカンバル王国へ向かう。
様々な困難が立ちふさがるが、最終的にはカンバル王に謁見でき、ロタ王の弟イーサムの新書を携えて、同盟までこぎつけた、というのが本書の大まかなあらすじ。

この北方の危機だけではなく、ナユグに春が来ていることからこちらの世界でも弊害が出てきている。
というのはナユグの世界では、海面が上がり、こちらの世界でいえば山まで水につかっている状態。このままだと雪解けも通年よりも早く起き、それによって雪崩や土砂崩れが起きるのだ。

ということで、戦争も起きるわ、天災も起きるわでにっちもさっちもいかない状態なのだが、やっぱりメインは戦争。
でも血みどろなものではなく、できるだけ血を流さず、大国へ歯向かうってんだから、息もつかせぬ展開となっている。

一番の見せ場はチャグムがカンバル王の前で膝を折ったところだろう。
そこが緊迫したシーンだったのはもちろん、その後;

 ねがいつづけてきたことがかなったのに、なぜか思ったほどによろこびがわいてこない。心の底に、しこりのように屈辱感がくすぶっているのを、チャグムはもてあましていた。
 自分が、これほど皇太子であることを誇りに思っていたとは、これまで気づかずにいた。天ノ神の子であることをほこり、あがめられるのを当然と思っている父に反発していたくせに、いざとなると、こんなにたいせつなことのためでも、人の前で膝をおったことが、たえがたい恥辱に感じられる。(p282-283)

とチャグムが思い悩むシーンがリアルだ。あまりくどくなく、決して“正義”だけでないチャグムの姿を見せてるから、親近感というか応援したい気持ちになるんだな。

あと、ファンタジーの醍醐味で、想像上の食べ物はもちろん、架空の独特な言い回し、というものがあると思う。
作者が文化人類学者のせいか、ちょっと土地特有の食べ物や言葉が紹介されているのだが、それがまたいい。たとえば;

「アラム・ライ・ラ。」
 バルサがつぶやいた。…(中略)…
「ヨンサ方言のカンバル語で、山が頬をそめている……って、いったんだよ。母なるユサの山々は、お日さまに恋をしてるんだとさ。いとしいお日さまが、眠りにつくまえに、ああして頬をなでると、山は頬をそめる。――千年も、万年も、年をとった老女でもね。」(p92)

とか。
ハリーポッターも想像上の動物・食べ物・単語が良く出てきて、私はそれが面白かったのだが、いかんせんディーテールに凝りすぎて、本文よりもそっちに気を取られる傾向にあった。それが本書では、そういうバランスもうまく取れていて、感服の至りです。

さあ、このまま第三部へ!
といきたいところだけれど、明日が怖いので寝ます。


(上橋菜穂子 「天と地の守り人 第二部」 2007年 偕成社)

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読み終わってから、これが最終章と知った悲しさ・・・ゆっくり読まなくては

「蒼路の旅人」からいてもたってもいられず、急いで借りた「天と地の守り人」。
一気に第一部を読んでしまった。

ここでチャグムが活躍が描かれている“旅人シリーズ”と、バルサたちが活躍する“守り人シリーズ”が結びつく。

チャグムからの手紙を受け取ったジンは、使いを出しバルサにロタへ行くよう頼む。
ロタにたどり着き、なんとかチャグムの足跡をたどろうとするバルサの前に、チャグムをさらってタルシュへ連れて行った張本人、ヨゴ枝国のヒュウゴに出会う。そして彼から、タルシュ帝国の王子二人の勢力関係を知り、“ロタとカンバルの同盟を実現させたらタルシュの勢いは止まるだろう”というチャグムへの伝言を受ける。

そしてその後、バルサはロタ王族のカシャル〈猟犬〉に出会う。
そこでチャグムの安否を知る。というのは、チャグムがロタに来て初めて訪れた領主こそ、タルシュ王国の兄皇子と密通していた南部領主の一人だったのだ。でもそこから脱出し、バルサが出会ったカシャルの案内で、ロタ王の弟イーハンの元へ向かっていたのだった。

バルサは、いったんはチャグムの言付けを聞いて、新ヨゴ皇国、タンダの元へと帰りかけるのだが、ヒョウゴが密かに置いて行った文を見て、チャグムを追いかけることを決意する。
その文には、チャグムは見てはならないカンバル人を見てしまったらしい、そのために刺客が放たれた、と書かれていたのだった。

これは読者が知っている事実なのだが、チャグムは二つの重要な事実を知っていた。ひとつは、タルシュの兄王子には南部侵略権を持っていないという事実。もう一つは、ロタの南部の領主と通じている、カンバル王の〈王の槍〉がいる、という事実。
なぜこれらがキーになるかというと、タルシュ帝国の兄王子と弟王子は競い合っている。今、新ヨゴ皇国を攻めようとして次期王の道へ着々と進んでいるのは弟王子。兄王子はそんな弟王子を出し抜くには、ロタを手中に収める必要がある。そんなわけで、ロタの南部領主たちを味方につけているのだが、南部領主たちが兄王子サイドについているのは、弟王子が南部侵略権を握っていることを知らないからだった。
そんなわけで、チャグムは兄王子の勢力に狙われることになったのだった。

バルサはロタ王の弟イーサムにやっと謁見できたものの、チャグムと入れ違いになってしまう。
そしてイーサムより、ロタは新ヨゴ皇国とは同盟を結ばない、と聞かされる。
カンバルへ向かったチャグムを追いかけるバルサ。
そしてやっとチャグムと出会うのだった。

かなーりはしょってしまったが、あとはこれにナユーグに春が来て、異変が起きているらしい、とか、タンダが徴兵されてしまった、とか。

バルサがやっとチャグムに出会えて;

「あんたをさがしはじめたとき、あんたにあえたら、いってやろうと思っていた。
 皇太子として葬式あげられちまったなんて、天がくださった贈り物だ。ようやくくだらない鎖からときはなたれたね、おめでとうってさ。」(p341)

と言うシーンがあるのだが、確かにチャグムはずっと皇太子になるのを嫌がっていた。でもシュガへの手紙で;

 枝国されてしまえば、新ヨゴの民は枝国軍の兵士として徴集され、ロタ王国やカンバル王国を攻める道具に使われる。これまで友であった国々の民を殺すよう命じられるのだ。…(中略)…
 こんな未来を、わたしは、民に与えたくない。――望んで帝の子として生まれたわけではないし、帝になりたいなどとは一度なりとも思ったことはないが、それでも、わたしは、否応なく国の司としての立場にある。そうであるなら、わたしは、民の幸せのために、己ができる、最高の選択をせねばならない。(p2) 

なんて書いてるチャグムは本当に本当に成長したんだな、と妙に感慨深くなってしまう。
こんなに登場人物に感情移入できるなんて、作者の上橋菜穂子女史には敬服してしまう。

さあ、さくさく第二部読むぞーーーー


(上橋菜穂子 「天と地の守り人 第一部」 2006年 偕成社)

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医者しながら小説書くってすごいよなぁ・・・

図書館で予約して、やっと回ってきた「ナイチンゲールの沈黙」。読み出したら止まらなくて、次の日が月曜日だというのに3時までかけて完読してしまった。おかげでとても眠い。

前作の「チームバチスタの栄光」から随分離れて読んでしまったので、人間関係を把握するのに時間がかかってしまったが、いやはや本当に面白かった!

今回の主な人物は、小児科看護師小夜とその担当患者の少年牧村瑞人。
あとはひょんなことから、主人公田口が担当することになってしまった歌手冴子もキーとなる。

事件は話の3分1過ぎてやっと出てくる。
牧村少年のどうしようもない父親が殺害される。しかも、体内の臓器が取り出され、部屋に分散されていたのだ!

そんなこんなで、白鳥が登場し、白鳥との古い友人であり警察庁から出向中の加納も登場する。

犯人は結局意外な人物だった!というわけではなく、ずっと容疑者として提示されてた人物だったし、どうやってやったのかも概ね予測通りだったので、推理小説の醍醐味ってのはなかった。

と文句ついでに、もう一つ。
病院ものということで、とても現実的な雰囲気を醸し出している中、話の本質みたいなところでおとぎ話みたいな話が出てくる。
というのは、歌手冴子と小夜の歌声は特殊で、人々にイメージを植え付けられるのだ!
実際、小夜は歌を通して告白したりするのだ。
そこがどうも受け付けられなかった。エピソード自体が、というより、それがバリバリ医療推理物に組み込まれてると違和感を感じるというか、なんか釈然としない。

それが結構話の中心になっているので気にくわない訳なのだが、では何が面白かったか。
ずばり(なんか古くさい表現ですな)、登場人物の相関性が面白い。
具体的にいうと、加納と白鳥の絡みとか、田口と速水と島津との絡みとか。あー 私はこういう古い付き合いのじゃれ合いって好き。
それだけでなくて、事件が発生するまでの、田口先生と子ども達の交流もよかったなぁ。
とにもかくにも、事件があって、それを推理し解決する楽しみというより、病院内で繰り広げられるヒューマンドラマみたいのが面白かった。医者と患者とか看護師と患者の絡みだけでなく、医者同士の絡みとかね。

いくつか面白い描写があったので抜粋;

さらさらと笑い声が流れる(45)

田口は、加納と白鳥の二人を交互に見つめる。隣で玉村も同じように視線を走らせている。視線の綾取りをしているみたいだ。(244)

加納の口から出ると、「仲良し」という単語が異国の言葉に聞こえるのはなぜだろう、と田口は思った。(249)

強気同士のアクティブ・フェーズ、オフェンシブ・トーク(攻撃的話法)がぶつかりあうと、こういう事態になるのか、と田口は心の中の学習帳に観察日記を書きとめた。日記のタイトルは“どつき合い”。(253)

こういうクスッと笑ってしまう文章をアクセントとして話を進行させてるというのも、私の中でポイント高い要因の一つだ。


(海堂尊 「ナイチンゲールの沈黙」 2006年 宝島社)

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