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がらくたにっき |

昔、本気で小熊が欲しかった

<中沢新一 「熊から王へ カイエ・ソバージュII」 2002年 講談社>




それはそれは昔に「世界最古の哲学」を読んで、面白いなぁと思ったことをふと思い出したので、その続編となる「熊から王へ」を読んでみた。

人類学には結構興味があって、「伝説」やら「神話」やらも興味あるし、その背景に流れる人類史みたいのにも多いに興味があるのだが、いかんせん門外漢の身としては何を読んだらいいのかも分からんしまつ。
そんなわけで「熊から王へ」は、中沢新一氏が中央大学で行った講義をまとめたものであり、そんなわけで語り口調だったので、とても読みやすかった。

今回のテーマは「野生」と「文化」。あるいは「国家」ができるまで。
一応、もくじを羅列すると;

序章   「ニューヨークからベーリング海峡へ」
第一章 「失われた対称性を求めて」
第二章 「原初、神は熊であった」
第三章 「海岸の決闘」
第四章 「王にならなかった首長」
第五章 「環太平洋の神話へ I」
第六章 「環太平洋の神話へ II」
第七章 「「人食い」としての王」
第八章 「「野生の思考」としての仏教」
補論   「熊の主題をめぐる変奏曲」

一般的に、“野蛮な地”といえば未開地のような、なんの法律もなく統制されていない所を思い起こし(インディアンなんて長い間“野蛮だ”と思われていたように)、逆に“文化的な地”といえば、アメリカが象徴するような、秩序があり国家としてなりたっている所を思い浮かべる。
ところが本当は逆なのだ、というのが本書の争点となっている。

まず一番の前提は、神話というのは国家を持たない社会が持っているということ。
そしてそのような社会は自然と人間の間に越えられない溝はなく(動物は毛皮を脱いで人間のようにふるまえたり、人間と動物は婚姻関係を結べたりできた)、“人間と動物の間や人間同士の間に、「対称的」関係が築きあげられて(p10)”いたのだ。
つまり、今のアメリカだの日本だの、“国家”と呼べるものがある社会は、それとの逆をいっているので「非対称的社会」なのだ。

その「対称的社会」というものこそ、いわゆる“文化”といえる。
つまり「文化」というのは「自然(野生・野蛮)」と対称的なものであって、自然界と「対称的社会」を営んでいる人間界は、そのまま「文化」を担っているわけだ。

では“文化”を内包する「対称的社会」はどういうものなのか。
それが綿々と語られているのだが、そこは割愛して(面白いなと思ったのは後述するけど)結論を述べると。

生活をするためには動物を狩らなくてはいけない。狩りをした後、人間たちはその動物を丁寧に解体し、骨まできちんと尊厳のある扱いをする(そうしないと、人間には狩られたくないと動物たちが思って、不作になるから)。
あくまでも対称性を大切にする彼らは、食欲に負けて食い散らかすこともなく丁寧に食べるのだ(食欲に負けてガツガツ食べるのは動物=自然(野生))。

何よりも面白かったのは、首長=権力者では決してないということだった。そもそも“権力”自体が対称的社会には存在しない。
では首長とはどんな人だったのか;

①首長は「平和をもたらす者」である。首長は、集団の緊張を和らげる者であり、そのことは平和時の権力と戦時の権力が、たいがいの場合は分離されていることにしめされている。
②首長は、自分の財産について物惜しみをしてはならない。「被統治者」によるたえまない要求を斥けることは首長にはできない。ケチであることは、自分を否定するに等しい。
③弁舌にさわやかなものだけが、首長の地位を得ることができる。(p137)




こうして「非対称的」になることを恐れた彼らは、自然の中にある「権力」を自分の内に取り入れることなく、それに近いことを冬にのみ行ったとしても、夏と冬を明確に分離していたのだった。

面白いことに、平和的に和解させようとする首長の働きが聞かなかった場合、戦となるのだが、そうなると首長ではなく、まったく違った戦専用の長が現れるのだ。そして戦というのは野生(自然)の行為であるため、戦が終わって村(文化的社会)に戻った時には、戦の長は引っ込んで、また首長が村を取りまとめるのだ。

最後にいかに「国家」、つまり自然界にあるはずの「権力」を包括した社会ができたのか、という説明は、日本神話の「八岐大蛇伝説」に表されている。
つまり、超越的存在(自然)の八岐大蛇を、これまた超越的なスサノオノミコトが倒し、首長の娘と結婚する。
ここまではそれまでの「対称的社会」を表す神話と同じかもしれないが、このスサノオノミコト、八岐大蛇から出てきた、良く切れる刀(草薙の剣)を持って国を治めるのだ。
この“良く切れる=殺傷能力が著しくある=野生”の剣を持つ、ということはすなわち、権力を持つ、国家ができる、ということなのだ。

というわけで、いかに“文明的な”現社会は“野蛮”を内包しているか、というのが本書が導き出した結論。

というのが、私が理解したところです。


最後にちと長いが、面白いなと思った事項の一つを抜き出す;

 狩人は自分の家から離れた瞬間から、特別の「狩りことば」を使いだします。シベリアの狩人は、「狩りに行こう」というかわりに「家のうしろに行こう」と、遠慮がちの提案をする必要がありましたし、狩りをする場所は「ずいぶんな道のりを行かなければならないおばあさん」などという、遠回しな表現をしなくてはなりません。森は「枝のない木々」ですし、小麦粉は「灰」、鍋は「かけら」、茶碗は「円いもの」、銃は「白い鶴」、火薬は「黒い小麦粉」です …(中略)…
 日常生活では「ことば」と「もの」が、惰性でべた(『べた』に傍点)にくっついてしまっている傾向がありまう。それでことばというものが、「自然」とは異なる「文化」の原理を体現している本質が、消えてしまいます。そこで「文化」の行為を携えて、流動的な力の領域に踏み込んでいることを表現するのに、「ことば」と「もの」が極端に分離された状態で、言語活動をしてみせる必要があるでしょう。茶碗を「茶碗」と言うだけなら、「ことば」は「もの」に付着してしまいますが、それを「円いもの」と言えば、「ことば」ともの」の間には遠回りのバイパスのような媒介状態がつくられます。(p94-95)

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Category : その他
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「夢乃」という名で「ドリちゃん」というあだ名がかわいい

<荻原規子 「樹上のゆりかご」 2002年 理論社>




荻原規子といえば、時代物や洋風のファンタジー(といったら身も蓋もない感じだけど)って感じだが、今回はちょっと珍しく学園物。
とここまで書いて思い出したが、最近出た「RDG」も学園物っぽいね。

ま、とりあえず、今回のお話は、不思議な力を持っている登場人物や不思議なことも何もなく、純粋なる学園物。
そして、私の中では「学園物=恩田陸」という図式が成り立っているものだから、読みながら幾度か恩田陸と間違えてしまった……
“あれ 文章の雰囲気が違うな。なんというか、登場人物に「あく」がない”なんて思ってたら、あ そうか荻原規子だったもんね、となってしまったのだった。

それが示すように、荻原規子の学園物は恩田陸のそれと比べて、やわらかく、“しみ”のないものみたいだった。
一応事件もあって、悪質なことが起きるのだが(パンの中にカッターとか、力を合わせて作ったものが破損されたりだとか)、恩田陸であればその犯人を、情け容赦なく、遠慮なくびしびし描くのに対して、荻原規子のまなざしはどこまでも暖かいように感じた。
つまり、恩田陸の描く学園物は、どんな明るい物語だとしても、どこかしら狂気めいたものが秘められていて、まるで“美しい絵のはずなのにどこかおかしな処があるねぇ あらここにしみがあるわ”的な感じ。
それに対して荻原規子のは、どこまでもきらめいていて、登場人物たちの哀しみや怒りや不条理なところまでも、暖かい光を包含している気がした。

とまぁ 観念的な語りになってしまったが、この年になって“学園物”に興味を持ってしまったようだ。


さて、肝心な話はというと、上田ひろみは辰川高校に通う2年生。
この辰川高校、かつては二高であったらしく、その歴史は長く、もともとは男子校であった学校である。そのため女子の人数が少なく、「男子クラス」なるものが存在する(ひろみは幾度も「女子クラス」も作るべきだと言及し、この「男子クラス」が辰川高校を特徴づけているらしい)。
だからといってただ堅苦しい進学校なのではなく、制服も廃止されて久しく、非常に生徒の自主性を重んじた学校なのだ。

こういう学校の歴史、というか校風がかっちりしていなくちゃぁ、いい“学園物”にはありつけない。
いいぞ いいぞ、とばかりに話が進むのだが、ちゃんとこの後も“学園物”の定石をふんでいく。

例えば、行事に非常に熱心であること。
この辰川高校では、三大イベントとして、合唱コンクール、演劇コンクール、体育祭があって、それぞれに並々ならぬエネルギーを注ぎ込む。そしてもちろん全て生徒主体。

それから学園内に存在する暗黙のルールが存在すること。
あと何よりも、学園が“閉ざされた空間である”ということが深く強調されているのが、“学園物”の特徴であり、醍醐味だろう。

登場人物としては、とりしきる人たちのグループが多いかもしれない。
今回は生徒会執行部の面々が中心となっている。
そして今回の学園の最大のポイントは、この生徒会執行部を中心に学園はまわっていて、大人たちの干渉が少ない、ということかもしれない。
何しろ;

 どうしてそうなのか、校長先生に限らず教師がマイクをもつと、辰川高校の生徒は、わが子が一人で歩いたのを目にした両親のごとく、最大の愛情をこめて応援することになっていた。
 わずかでもジョークを聞けば、それはもう盛大に笑う。かけ声などもかかる。(P38)



といった態なのだ。

会長を鳴海智章にすえた生徒会執行部に、中村夢乃によってひろみは引っ張り込まれ、江藤夏郎、加藤健一といった人たちと交流しながら、ある事件に巻き込まれいく……というのが今回の図式である。
その事件というのが、行事への妨害だったわけだが、犯人である近衛有理が持つ“歪み”がちょっと物足らなかったのが、読了後の正直な感想だった。

でも、この“閉ざされた”学園内において、適応できなかった者・異端者が起こした事件だった、というのは興味深かったし、その異端者をオスカー・ワイルドの「サロメ」のサロメと対比させながら語っていくのは、流石だなと思った。

そして、私が学園物を楽しいと思えるのは、自分が学園世界外にいて、でも学園の記憶を持っているからなのかなと思った。

Category : 小説:現代
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魔女(でも禿っぽい)に扮したルネ先生がとても可愛かったです

<内藤ルネ 「内藤ルネ自伝 すべてを失くして」 2005年 小学館>




何かの折に中原淳一について調べている時に、内藤ルネの名前にヒットした。
ちょっと気になていた時に、渋谷だか原宿だかで内藤ルネの店を見つけた。もう閉店していたが、外から見るとかわいいし。
今度は内藤ルネについて調べてみると自伝を発見したので借りてみた。

感想はというと、「違う世界に住む人だなぁ」ということだった。
あんなに成功したのに、“自分の絵は下手だ”と言っているので、自分に自信がない人なのかなぁと思いきや、自分が愛されていることに疑いがない。

中原淳一に感銘を受け、何通も何通も絵付で手紙を送り続けた結果、東京から呼ばれる。
上京して下積み生活を送ってから、「ジュニアそれいゆ」で活躍する。
そのあとも他雑誌用に付録などに絵を提供したり、デザイン・アイディアを提供し続ける。ギャラはとてつもなく少ないし、アイディアもどんどん盗まれていく。
でも内藤ルネのすごいところは、それに憤りを感じることなく、どんどん描きこなしていくのだ。
その心意気自体も、凡人では考えられない。例えば、パクられたことについても;

 ファンの方が長い間、大事に持っていてくださったのがニセモノだったりすると、さびしいです。せっかく手放さずにいてくださったのにね。
 お地蔵さんを作ったときも、みるみるうちに六社くらいにアイデアを持っていかれて。それがね、どれもよくできていたんです。
 これは、自分の作品もがんばっていいものに変えていかないといけないと思いました。ありがたい、という気持ちすらありました。私のものがこんなに真似されるなんて、やっぱりお地蔵さんってすごいんだ!とね。
 それにね、コピーされてどうのなんて、へたっている暇はないんです。まだまだ、思いがけないことがあといくつできるか。そう考える方が先……。私の世界にはいつも、まだまだ「続き」があるからなんです。(p129-130)



と語っている。
時代の先端を駆ける人って、こういう思考回路になっているのか!と驚かされた。


パートナーとなる相手も見つけ(といっても、ずっと恋人の関係ではないが)、順風満帆かと思いきや、こんな俗世間から隔離された世界に生きているようなのに、それとも“だからこそ”なのか、バブルの崩壊に巻き込まれる。

「美術館を建てる」という詐欺に出会い、何もかも失ってしまうのだ。
蓄えも、仕事も。

そうこうしている内に、内藤ルネもパートナーも倒れてしまう。
内藤ルネの方は深刻で、退院後はパートナーとその恋人と東京を離れ修善寺に引っ越すのだった。


内藤ルネ氏はまだご存命なので、ここでthe endという訳ではないのだが、この自伝のきっかけというのは「内藤ルネ展」があったからみたいのなのだ。
ミーハーに聞こえるだろうが(ま そういう気持ちも大いにあるが)、行ってみたかった~
内藤ルネの描く絵はかわいいが、それと同じくらい彼がかわいいよ! と小娘に言われるのもなんだろうけど。
“かわいらしさ”とか“美”を真摯に追い求める人は、やっぱりかわいくなるのだろうか?

Category : 自伝
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この人たちの歳がいまいち測りかねた

<恩田陸 「木曜組曲」 1999年 徳間書店>




思い出したかのように恩田陸で「木曜組曲」。

ひっじょぉおお~~~~に面白かった!!!

実は読み始めるちょっと前にアメリカドラマの「24」にはまって、それから「木曜組曲」を読んだらどちらも止まらなくて、「24」を見ながら「木曜組曲」を読む、というなんとも邪道な(どっちに対しても)ことをしていたのだった……。
この時ほど体が二つ欲しいと思ったことがなかった。
というか脳が二分できたらなぁ


話の内容はというと、
死後四年経っても影響を与える耽美小説家の時子。
その時子に影響を受けた5人の女性・絵里子、静子、えい子、つかさ、尚美。
えい子は敏腕編集者(時子の担当者であり崇拝者でもあった)で、他4人は遠からず時子と親戚でしかも物書き。
5人は時子が毒を飲んで死んだ時、現場にいた。

不審な死であったけれど、遺書が見つかったことから自殺と判定される。
それから5人は、時子が好きだった、そして亡くなった木曜日をはさんで、2月の2週目に2泊3日、時子の家『うぐいす館』に集う。

ところが今年はいつもと雰囲気が違った。
毎年皆、胸に想いを秘めたまま解散するのだが、今回は“フジシロチヒロ”という謎の人から花束が贈られたことをきっかけに様子が変わる。
その花束にはカードが添えられていて、そこに

「皆様の罪を忘れないために、今日この場所に死者のための花を捧げます。」(p29)


と書いてあったのだ。

皆の心の内を吐露していくうちに、一人ずつ順繰りに疑いがかかってくる。
そして誰にもそれが“事実”である証明できない。


最後には、「事件の真相」っぽいのが出てきて、それが結局“皆が共犯だった”ということになるが、それに対して何もしないことにして、それぞれ別れていく。


と思いきや、(ここからネタばれ)実はすべてえい子と絵里子が仕組んだことだったのだ。


全体を通して、とても面白かったし、とにかく心理戦の描写がページを繰る手を速めていたが、最後のオチはないんじゃないかと思う。
来年の約束をして、皆がそれぞれ別れていく…という終わり方で全っ然よかったのに~って感じ。
恩田陸ってどうも蛇足とか、最後が尻すぼまりな時が多い気がする(偉そうですが)。

と文句は言っても「さすが恩田陸!」というところはもちろんあって、やはり彼女の筆力には舌をまく。
本書は3人称でつづられているのだが、ところどころその人物をズームするように、突然2人称になるのだ。
う~む うまく言えないけど、たとえばこんな感じ↓

 尚美は落ち着き払った表情で、膝の上に手を置いて静かに座っていた。
 お人形のようだ、とつかさは思った。いつもこの子はお人形さんみたいだった。
 …(中略<つかさの回想が始まる>)…
 つかさが老舗の文学雑誌の新人賞を取った時の尚美の目は、今でも忘れられない。それは、一言で言えば『裏切り者』という目だったと思う。つかさはなぜかしどろもどろに言い訳をした。
 いやあ、尚美を見ていてとっても羨ましくなったのよ。
 …(中略)…しかし、尚美はどうやらつかさのその言葉を信じていなかったようなふしがある。
 外は雨。古い洋館のこぢんまりとした客間は、さながら法廷の様相を呈してきた。
 ほんの少し前までは青ざめた静子にスポットライトが当たっていたはずなのに、今ライトが当たっているのは、それまで無口だった尚美らしい。
「――説明してもらえる?」
 正面から尚美を見据えながら、静子が有無を言わせぬ迫力を込めて尋ねた。
 尚美はチラッと静子を見た。…(中略)…
 ほんとうに手強いお嬢さんだこと。
 静子は心の中で舌打ちをした。実は、生前時子と尚美の間で何か密約めいたやりとりがあったのではないかと彼女はかねがねえい子と共に疑っていたのだ。(p73-77)



長い引用になってしまったが、くるっと視点(ここではつかさ→静子)が変わったのがお分かりでしょうか?
とにかく鮮やか。
4人が物書きということで人の観察が鋭いのだが、こうやってズームすることで彼女たちがそれぞれ冷静に他の4人を観察していることがよく出てる(それ故か、えい子の視点のシーンは他より少ないのかインパクトが薄い)。

本当につくづく、恩田陸ってすごいなぁ~~~と思った一冊でしたとさ。

Category : 小説:現代
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表紙のデザインがいい

<法月綸太郎 「しらみつぶしの時計」 平成20年 祥伝社>




久しぶりの法月綸太郎。
短編集だから尻込みをしていたのだが、Amazon.co.jpでの評価が高く、背中を押されて読んでみた。

割と短い話ばかりで、法月綸太郎が得意とする”事件のやりきれなさをきめ細やかに描く”という部分はすっぽり抜けて、パズルっぽい要素の方が強かった。
時には推理の要素がまったくなく、ただ物語のエッセンスみたいのもあった。

「使用中」
ミステリ作家と編集者が喫茶店で次回作の話をしている。密室について語るミステリ作家。
その喫茶店のウェイトレスによって、ミステリ作家はトイレの個室で殺される。
そうと知らず後からやってきた編集者はうっかり死体の入っている個室に入ってしまう。奇しくもミステリ作家が語った密室の状況のようになってしまう。

「ダブル・プレイ」
仲の冷え切った夫婦。旦那は打ちっぱなしで交換殺人を持ちかけられる。
ところがどっこいそれは妻からの差し金で、逆に殺されてしまう。

「素人芸」
パートにも行かないくせに浪費癖のある妻が、腹話術人形を買ったのをきっかけに、勢いで殺してしまう。そんな時に警察がやってくる。死体をとっさに屋根裏に隠し、腹話術の人形を使って取り繕う。

「盗まれた手紙」
冒頭の;

 レンロットの明敏な頭脳が挑戦を受けたあまたの問題の中で、牡牛と百合の紋章を浮き彫りにした鉄の状箱と、その中から紛失した手紙にまつわる事件ほど、スキャンダラスで不可解なものはなかった。事件のスキャンダラスな側面――プライベートな恋文をネタしたお定まりの恫喝――に関しては、お偉方どうしの裏取引によって、政治的な決着がもたらせることになったが、それにもまして、関係者がこぞって頭を悩ましたのは、盗難方法をめぐる知的な問題だった。(p128)



を読んだ時には、これは!!と思った。ミステリランドの為に書いた「怪盗グリフィン、絶対絶命」に似ているではないか! 
果たして軽快なアメリカの推理小説(あくまで私の印象)みたいだった。
将軍の妻が学者に恋文を送る。恋文が入っている箱に鍵のついた鎖をつけて学者に送る。学者は違う鍵のついた鎖をつけてまた送る。夫人は自分がかけた鍵をはずしてまた送る。そして学者は自分のかけた鍵をあけることで、はれて中身にたどり着くのだ。
そんな手の込んだ事をしたのに、ならず者によって手紙が盗まれてしまう。

一回、この文体でこんな調子のちょっと長めの小説を書いてくれないだろうか?
割と面白いと思うんだけどなぁ

「イン・メモリアム」
文壇にひそかに存在する<評議会>。そこでは存命中の作家への追悼文を書かされる。
そしてしばらくするとその作家は死んでしまうのだ。
本当に短くて、「だからなに?」という感じだった。この文章自体が<評議会>に提出された追悼文、というオチなのかと思ったが、そういうのもはっきりしてなかった。

「猫の巡礼」
猫はある歳になると、巡礼に行くという。動物病院でまで推奨される巡礼。
ある飼い猫の巡礼についていくことにした飼い主の、巡礼までのお話。
これまた“なんじゃこりゃ?”という感じで、こちらは無駄に長い気がした。

「四色問題」
元・刑事が息子である現役刑事より、事件の話を聞くという設定。
戦隊物に出ていた女優が殺される。不思議なことに瀕死のなか、彼女は利き手である左手の手首に×形の傷をつけていた。しかも腕時計をはずして。
彼女の伝えたかったダイイング・メッセージとは?

「幽霊をやとった女」
もとはニューヨークでも指折りの探偵だったクォート・ギャロン。今はルンペンである彼のもとへ、夫の様子がこの頃おかしいので探ってほしい、との依頼を受ける。
尾行をしていたが様子がおかしいので声をかけた途端、彼の姿を見て自殺をしてしまう。

「しらみつぶしの時計」
ある施設の中に違う時間を刻む1440個の時計がある(1440というのは24時間×60分)。
そこに「きみ」はとじ込まれ、体内時計を狂わされた中で、正しい“現在”の時計を探し出す。

どうやって探し出すのかというのが描かれていたが、残念ながら私はまったくついていけなかった……

「トゥ・オブ・アス」
本書は法月綸太郎が出てこないことになっているが、唯一この話だけ法月“林”太郎が出てくる。
お父さんが法月警視というところも一緒だし。

法月警視がOL殺しの話を持ってくる。
そのOLは仲の良い友達と一緒に住んでいたのだが、その友達が失踪しているので、彼女がそこはかとなく怪しい。
死体が持っていた鍵のついた日記をひも解くうちに、ある誤解が生んだ犯罪だということが分かってくる。

途中で展開が見えてしまったので、せっかく唯一の法月“林”太郎が出てくるっていうのに拍子抜けだった。

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猫を紫に染ちゃうなんて幸田文の茶目っけにびっくり

<青木玉 「幸田文の箪笥の引き出し」 平成12年 新潮社>




着物が好きで、幸田文も割と好きとなれば、自然興味を持つ一冊「幸田文の箪笥の引き出し」。
前に幸田文が父・露伴のことを書いたのを読んだが、今回はその娘が幸田文のことを着物を通して語っているのは、それはそれで乙なものだった。

着物が好きで自分で着付けもして、どこかへ出かけることもあるので、一般の人よりは着物に触れる機会はあるとは思う。でもこの本を読んで、いいなぁと思ったのは着物が日常生活で“着るもの”だったから。
やっぱり今の時代は、着物を着るとなると一大事になってしまう。

幸田文の時代(戦後とか)でも、着物が一般的ではなくなっていっているが、幸田文はあくまでも普通に着ている。

それでいて着物一着一着に対して心配りが為されていて、光の加減を考えていたりとか、晴れた日用・雨の日用に分かれていたりとか、私はよくわからないけれど、これが“粋”というものなのかしら、というのが詰まっていて、ただただいいなぁと思ってしまった。

特に好きだったエピソードが、青木玉さんの結婚式の時に「嫁さんの親は黒の留袖にするのが決まりだけど、黒は何だか着たくない。向こうのお母さんに許して頂いて、ちょっと外して紫にしよう」(p17)と言って、紫に染めてしまう。
そして結婚式当日。
 

親族の席は遠い、テーブルに着くと男の礼服も女の黒留袖も、とかく沈んで喪服に似る。隅の一点に紫がある、ああ母さんはこれを考えて着物を作ったかと悟った。
 「私はここに居るよ」と。(p21)



着物を通して親子の情愛が描かれているのが、それが事実を語る随筆とはいえ、うまいなぁと思ってホロリとしてしまった。

あとホロリときてしまったのが、幸田文の死後、箪笥を整理していると浴衣の反物が出てきた。
広げてみると裁ちかけである。幸田文は浴衣を作るとなると、一気にささっと半日で作ってしまうのになぜだろう?
と思ったところで

ここまでやって母さん疲れたんだ。明日の朝、手元が明るい中でと考えていたけれど、その明日もやる気が起きなかった。一ト区切りついた時につづきをやろうと思って片付けたのならば気にも止めなかったか、いや、もう縫い切れないと承知していたのだったらば――。(p106)



と悟るところがまた切なかった。


着物というのは人が着るものなのだから、色々とドラマがある。
しかも昨今の洋服とは違って、たとえば幸田文の場合などだったら、繰り返し洗ったり繕ったり、仕立て直されたり、最後には座布団になったりと、長いこと使われていく。それだけに、単純に考えるならば、より長いドラマが繰り広げられていく。

着物の魅力を改めて感じた。

Category : 随筆
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「ベイジイ」が外国人の名前に見えてしょうがなかった

<小路幸也 「空を見上げる古い歌を口ずさむ」 2003年 講談社>




「東京バンドワゴン」が面白かったので作者の小路幸也氏を調べてみたら、メフィスト賞受賞した経歴があるのを知り、ぜひとも読みたくなって借りたのが本書「空を見上げる古い歌を口ずさむ」だった。


一回読み始めたら、あれよあれよとページがめくられる。それくらいどんどん読ませられる話だった。
といっても、話の内容が奇想天外だったり特別面白い設定だったりしたわけではないので、話の運び方というか、筆致というか、それが巧みだったのではないかと思う。

話の始まりは、凌一の息子彰が「みんながのっぺらぼうに見える」と言い始めた。
実は凌一の兄は、凌一の周りで「のっぺらぼう」に見えると言う人がいたら、自分のところに知らせてほしい、と言ってずっと昔に失踪してしまっていた。
そこで兄の言葉に従って、なんとか連絡をとり、すぐさまやってきた兄に話を聞く、というのが発端となっている。

そこから兄・恭一の語りが始まる。
恭一も彰と同じく、皆が「のっぺらぼう」に見えるようになってしまった人だった。
その「のっぺらぼう」になってしまった数日後に、皆に慕われていたおまわりさんが自殺をしてしまう。実は恭一は自殺の現場を見ていて、その現場にはもう一人男がいたのだった。ところが恭一は「のっぺらぼう」に見えている為、その人が誰だかわからない。

その上、同じ日に友達のヤスッパがいなくなってしまう。
更に続けざまに2人目・3人目と平和な町で人が死んでいく。

恭一の方はというと、「のっぺらぼう」に見えない人の存在に気付いていく。
一体これはただの病気なのだろうか?なぜ「のっぺらぼう」な人とそうでない人がいるのだろうか?

と話は進んでいくわけだが、う~ん その「のっぺらぼう」の結末は割とあっけなかった。
「解す者」「稀人」「違い者」というものもなんか薄っぺらいし。
なんというか、ここまで期待させておきながら、何やらSFっぽいというか、そういう安っぽい結末だったのが残念だった。

とここまで文句言いながらも面白くてどんどん進めたのは、少年の頃の回顧話が面白くて、しかも殺人事件や「のっぺらぼう」が絡めば、少年探偵団並みの面白さになる。

 おもしろがるな、とカビラに言っておきながらケイブンはきっと楽しんでいた。仲間内の暗号とかそういうものは皆大好きだった。(p174)



なんていうのは「そうそう」と頷いてしまうし、とにかく「のっぺらぼう」としか見えない恭一を受け入れ、なんとかヤスッパを見つけようとするお話は、青春物の熱さとは違った、少年少女の友情冒険物語の面白さを思い出させてくれた。
だからこそ、最後が駆け足のような気がして、腑に落ちない気がしてならなかったのかもしれない。

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額縁屋の男は「オーデュボンの祈り」の伊藤なのか!?

<伊坂幸太郎 「ラッシュライフ」 2002年 新潮社>




図書館で予約した時は40番目だかなんだか、気の遠くなるほど後だったが、けちな私は買うこともせず予約したまま。忘れたころに順番がやってきた。
もちろん後にも人が待っているので、半ばせっつかれるように読み始めたが、読み始めたら最後、面白くてがんがん進んだ。

登場人物が複雑に絡み合い話が進んでいく。
まず登場人物と行動を列挙していくと;
・画家の志奈子と金持ち画商の戸田
  →仙台へ行く電車に乗っている。志奈子の回想するシーンがほとんど。
    戸田は金で買えないのは何もないと思っているらしく、
   現に自分の元から独立した画商・佐々岡が開店する前に根回しして、
    結局佐々岡は開店することができなかった。

・空き巣泥棒の黒澤
  →出かけに隣りの部屋から酔っ払いをかかえた青年に出会う。
    舟木という人の家に泥棒に入り、帰り際老夫婦の強盗に会う。
    二件目の家(後で黒澤の家だと判明)で、やっぱり空き巣に入った佐々岡に出会う。

・“高橋”という男を信望する河原崎
  →神と崇められる高橋。
    そんな宗教のトップクラスの塚本に呼び出され、神=高橋の解体を行うことを告げられる。
    それに立会いスケッチを始めるが、その死体は高橋ではなくて
    Missingの男だったということが分かる。 
    塚本に裏切られた、となって塚本を殺してしまう

・精神科医の京子と不倫相手のサッカー選手青山
  →絶対離婚してくれなさそうだった京子の夫から、離婚を迫られ喜ぶ二人。
    あとは青山の妻を殺すのみ。その妻のもとへ行く途中、人を轢いてしまう。
    とりあえずその死体をトランクに入れるが、何度かトランクから落ちるは
    挙句の果てには、最後にはばらばらの死体になってしまっている。
    最後には、青山は自分の妻と共謀して、自分を殺そうとしてことを知る。

・リストラされた豊田
  →舟木にリストラされた豊田。
    ひょんなことで拳銃を拾う(京子が用意したもの)。
    途中で野良犬に出会い、行動を共にしながら郵便局強盗をしてみたりする。


この登場人物たちが、ちょっとずつリンクしてくのだが、途中で同じ時間軸でそれぞれの話が進行していっていないのが分かる。
そして最後の最後には、最初に黒澤が出会った酔っ払いを抱えた青年こそが、塚本の死体を抱えた河原崎で、河原崎側ストーリーでは最後のシーン。ということは話がぐるぐるまわっている。
何度も話に出てくるエッシャーの絵(表紙の絵でもあるけど)と、良く似た構造になっている。

こういう沢山の登場人物が出てきて、それぞれの視点で話が進む時、“同じ時間の中で、同じ速さで時間が進んでいく”というルールみたいのがあると思うが、それを見事に破った作品だと思った。
とにかくブラボー!!!

最後に引用を。
これの前に読んだ「アイオーン」が神のことを書いてあったが、こちらにも書いてあって、神は自分の胃に似ていると書いてあったのが面白くて;

「俺は自分の意志で勝手に生きている。死ぬなんて考えたこともないし、誰かに生かされているとも思ったことがない。ただ、そんなことは胃がまともに動かなくなったら途端にアウトだ。・・・俺は胃を直接見られない。せいぜい、胃が発する警告やしるしがどこかにないかと気を配るしかできない。後は祈ることだ。内臓ってのは基本的には俺が死ぬまで一緒のはずだ。いつも見えない場所で、そばにいて、一緒に死んでいく。神様と近いだろ?俺が悪さをすれば神は怒り、俺に災害を与えてくる。時には大災害かもしれない。それに、人はそれぞれ胃を持っている。そこも神様と似ている。誰もが自分の神こそが本物だと信じている。相手の神は偽物だとね。ただ、誰の胃も結局は同じものであるように、みんなの信じている神様はせんじつめれば、同じものを指しているのかもしれない」(p72-73)



「アイオーン」の方にも、“キリスト教やイスラム教、色々神がいれども、結局同じものを指しているのではないか”という話があったので、まぁ オリジナリティに溢れているわけではないけれども、胃に例えるのが面白かった。

Category : 小説:現代
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表紙の天使がザビエル禿げで、なんか残念だった

<高野史緒 「アイオーン」 2002年 早川書房>




図書館でぶらぶらしている時に「アイオーン」のタイトルを見つけ、そうだ!読みたいと思ってたんだ!ということを思い出した。ので早速借りてみた。

エピローグが;

 星は夜を彩り、夜はその果てで地に接していた。天と地は、人の目にはいつでも共にある一対のものだが、どこまで歩いても、どれほど遠くまで行こうとも、その二つが互いに触れ合うその地平線に到達することはできない。
 ファビアンはふと立ち止まり、星夜光を見上げる。 (P5)



と始まった時はワクワクしながら読み進めたのだが、ページがすすむにつれて読むスピードも減速していった。

う~ん 前回読んだ「ラー」の方が面白かったな。
実はローマ時代に科学が発達していたが、核戦争の為殲滅、そして暗黒時代の中世では“物質”が否定されている…などという設定はとても面白かった。
でもどことなく散文的で、あまりまとまっていない気がしたので、連作という形ではなくて、長編小説にした方が良かったのではないか?と素人考えながら思ってしまった。


ざっとした話の流れはというと、“暗黒時代”と呼ばれる中世が舞台。
医師のファビアンは、学生・アルフォンスに出会ってから運命が変わっていくこととなる。
アルフォンスより「科学」の存在を教わったファビアンは、キリスト教と科学の中で煩悶しながら旅を始める。

連作のタイトルを列挙していくと;

「エクス・オペレ・オペラート」
ファビアンはアルフォンスに出会う。
そこでローマ人は衛星を打ち上げる程の技術を持っていたが、核戦争によって失墜したことを知る。
そもそもファビアンを含め、皆奇形であったりするのは(ファビアンは足が悪い)、この核戦争の影響らしい。

「慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において」
アルフォンスが主役の話。
砂漠にある幻の女神の王国・に行き着く。その壁の模様の螺旋図(マーキュリーの杖のよう、と表現されたいた)はどうやら遺伝子のようだ。

「栄光はことごとく乙女シオンを去り」
再びファビアン登場。
教皇使節団の一員としてコンスタンティノープルにやってきたファビアン。一見荒廃した都市に見えたが、実はビザンツ人が見せる幻覚で、本当は電気が走り非常に発達した都市だった。
マルコ・ポーロに出会い、東洋の発達した「科学」の知識も得たり、ビザンツ人が持つ教典を知ったりしたファビアンは、使節団をあとにしてコンスタンティノープルに留まる。

「太古の王、過去の王にして未来の王」
アーサー伝説を下敷きにしたお話。
アルフォンスがパラミラにいる間、関係していた二人はアルフォンスが去ってから女の子を産む。
パラミラは巨人に襲われ、二人の子供はイギリスに連れてこられる。その子のうち一人は妖姫・モルガン、もう一人は女騎士アーサーとなる。

「S.P.Q.R.」
大天使の塔が倒壊し、混乱となったローマ。
公会議が開かれるということで、コンスタンティノープル代表の司教としてローマへやってきたファビアン。
ところがまともな公会議は開かれず、夜な夜な仮面を被っていたり、仮面+奇妙な声色で話す人たちが身勝手に議論を講じるだけ。
それはまるで現代のチャットやら掲示板のよう…

「トランペットが美しく鳴り響くところ」
いよいよ巨人の進出が激しくなり、ファビアンは巨人撃退の軍にいる。
マルコ・ポーロは死んでしまい、不老の力を持ったアルフォンスに再会する。
アルフォンス曰く、あんなに科学が発達した東洋も破壊されたらしい(というか、巨人は東洋が放ったらしい)。


冒頭でも書いたけど、設定は面白かったし、「宗教」と「科学」の間で揺れるというのに中世を舞台にしたのは成功だったと思う。
でもなんだかなぁ 最後の方に出てくる巨人とか、正直「????」という感じで、今まで衛星だとか電気だとか遺伝子だとか現実の世界の科学が元になっていたのに(そしてその設定が面白かったのに)、突然ナウシカの世界になって、正直おばさんはついていけませんでしたよ。

もっとファビアンの揺れを、掘り下げて書いて欲しかった。

Category : 小説:SF
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明彦が父親だから達彦だとやっと気付いたよ!

<柴田よしき 「月神の浅き夢」 平成12年 角川書店>




RIKOシリーズ第三弾。

文庫本の裏表紙には“「RIKO」シリーズ最大傑作”と銘打っていたけれども、残念ながら私はそう感じられなかった。正直、無駄に長い気がした。

主となる事件は、若い独身の男刑事、しかもかっこいい刑事を狙った、連続猟奇殺人事件だった。
手足や性器が切り取られ、木につるされるという、なんとも残忍な事件が続いていたのだった。
緑子は前作の事件より、辰巳署に配属されていたのだが、高須義久に呼ばれてこの事件の捜査に携わる。

分担で回ってきた蓼科刑事の殺害事件を洗っているうちに、蓼科も他に殺害された刑事も一人を除いて皆、山崎瑠奈というアイドルのファンクラブに入っていることに気づく。
そして、蓼科刑事が独自で捜査していたような形跡より、何年も前に起きた殺人事件にたどり着く。その事件とは、犯人は第一発見者であった刑事だった、という警察にとって大変不名誉な事件だったのだが、実はそれだけではなかった。
その真犯人が捕まる前に、冤罪で捕まった男が、証拠不十分で釈放された後、首つり自殺をしていたのだった。しかも、その男には小さい娘がいたという。

その事件と果たして関係あるのか…?

とまぁ、簡単に結論を言うと、関係があったわけですが。
それよりも何よりも、他のエピソードがやたら多くて、しばしばメインの事件を忘れてしまった。

その他エピソードというのが、前作で逮捕された麻生龍太郎が刑期を終え出所したり、麻生と山内の関係を例によって緑子が悩んだりなじったりしたり、ついでに例によって麻生と関係をもっちゃったり…
緑子よ、一体何がやりたい!!!??ということが多かった。

というか、作者の柴田よしきが山内練が好きなのはよく分かる。
私だって好きだ。
でも、こんな山内がぼかすかぼかすか、事件と関係ないところまで出ちゃったりしたらどうなの!?と激しく思う。
麻生と山内の話とか、山内の過去の話とか、本当に必要なんだろうか? しかも割とBL的な内容だし。

そんなこんな訳で、事件の内容が本当に薄かった気がする。
冤罪から生まれた自殺、そしてその自殺者の遺族から生まれた犯罪、という、割と大きなテーマだったはずなのに…
この冤罪事件の捜査に携わり、結局警察を辞めてしまった人の;

「しかしね……わたしは思ったんですよ。もしかしたらこんな事は、しょっちゅう起こっていることじゃないかってね。これほど凄惨ではなくても、大なり小なり、似たようなことは毎日どこかで起こっている。人間が人間を捕まえて罰を受けさせようというこのシステムには、それを防げない何かがある。いや、防がないといけないんだ。いけないんだが……少なくとも今自分が働いている警察というシステムには、それを防ぐ手だてがない、そんな気がした。そんなシステムの中で働き続けるということは、この先もずっと、大罪を犯し続けることになるんじゃないか……あの頃のわたしは、そう思い込んでしまったんです。」(p238)



という苦悩も、せっかく描き出しているんだから、もっと無駄な部分をなくした方が、そういうのが浮かび出て良かったんじゃないかとつくづく思った。

ということで、いくら山内好きでも、そして山内の過去や家族が知れるという特典があっても、あんまり良くなかった、というのが私の感想でした。

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