神永学 「心霊探偵八雲 SECRET FILES 絆」 平成21年 角川書店
気づいたら出てた“心霊探偵八雲”シリーズ。 タイトルからして番外編チックなのか。八雲が中学生の時のお話。 本題に入る前の話が逸れるが、文庫本の帯に「コミックも発売!!」とあって、中にもちらし(っていうの?)が入っていたので読んでみたら、なんか八雲の設定が微妙に違うみたいですね。何せ美青年。おお~ 前に出てた方の漫画を立ち読みしたことがあるけど、そんな設定じゃなかったような・・・ というかなんでそんな何度もコミック化するんだろう・・・とちょっと疑問。そしてどうせなら鈴木康士氏に描いていただきたい!!! それかそんな雰囲気の人に! と言いつつ、新しいほうの漫画にもめっちゃ興味ある私。でも近所の本屋にはないんだ。 はっ なんか「八雲シリーズは絵につられて買ってるんだぜ~」的なこといってたくせに、妙に収集癖を発動させてないか!?
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能町みね子 「オカマだけどOLやってます。完全版」 文春文庫
家に帰りたくなくて(家に帰ったら仕事せにゃならんから)、本屋をぶらぶらして、立ち読みして、気づいたら重い荷物を持ったまま1時間半。 その時読んだ本が「オカマだけどOLやってます。」 どういうこと!? とタイトル惹かれて読んでしまった。 もともとブログかららしく、読みやすいし、イラストとかかわいかった。 てかイラストとか字とか見て、不謹慎(?)ながら“100%女だよ!”と思ってしまった。最初、イラストは女の人が描いたかと思ったし。
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森谷明子 「七姫幻想」 2006年 双葉社
遠い昔に発刊されたFigaroに紹介されていた本書「七姫幻想」。 短編集だと知ってちょっと敬遠してしまっていたけれど、読んでみたらえらい面白かった! もともと平安時代の話って好きだから(その割にその時代の小説って少ない気が)、ほとんどの話がその時代だったのが良かった。 時代物だと思って読んでいたら、「小説推理」に連載されていたらしいし、作者も鮎川哲也賞を受賞してデビューしたのだから、一応推理小説の部類に入るだろう。 確かにただの歴史小説ではなくて、ちょっとした謎があって、それが雅に解決されている。なんというか、派手な装置はないけれども(一応殺人とかもあるけど)、やわらかい雰囲気の中、でもちゃんと人の情感のどろどろさも出ていて、えも知れぬムードが漂っている感じ。 あと良かったのが、ところどころに「これはあの人なのか?」というのが出てくるところ。 例えば、“少納言”という人が出てくるのだが、話を読んでいくうちに“もしかして清少納言??”となる。最後まではっきりしないけれども、「源氏物語」を批判したり、やたら強気だったりして“むふふ”となった。 「ささがにの泉」 土地神に守られている衣通姫(そとおりひめ)。そこへ大王が通うようになる。 その大王の妻(つまり大后)こそが姫の姉で、病弱だった大王に力をつけてもらおうと、土地神の力を持つ姫の元へ通わせる。ところが元気になった大王が、ある日姫の元で死んでしまう。 姫が殺したとしか思えない状況。でも姫の手元には毒はなく、外も大王のお供によって見張られていた。では大王はいかにして亡くなったのか・・・? 「秋去衣」 “ささがにの泉”にて、その謎を解いた大王の子息・軽皇子が主人公。 大王が崩御し、その弔いが行われる中、むしゃくしゃした皇子は、御機と呼ばれる神聖な衣が織られている所へ乱入する。そこはどんな人でも出入り禁止だったのだが、乱入しただけでなく一人の女を連れ去り、犯してしまう。 そこからその女と逢瀬を重ねる軽皇子。 それが発覚してしまい、挙句の果てにはその相手が自分の妹だったことが判明し、流刑に処せられる。 その妹の口より、弟が起こしていた陰謀を知り、それから軽皇子の命を守るために妹が身をまかせたと知る。 「薫物合」 この話の主人公の一人は元輔なのだが、多分、というか絶対清少納言の父である、清原元輔。 彼が懇意にしていた不思議な女性、夏野の姿が見えなくなっていた。すっかり飽きられたと思っていたのだが、実は彼女は殺されて、土に埋められていた。 夏野を姉と慕っていた瑞葉は事件の真相を探る。それに巻き込まれる元輔。 事件が解決された後、瑞葉と元輔は一度契りを結んだ後、瑞葉は姿を消してしまう。 そして五年後に女の子が届けられる。瑞葉は死んだと聞かされた元輔は、彼女を育てることにしたのだった・・・。 多分、その女の子こそが清少納言なんでしょうね。 「朝顔斎王」 父天皇が崩御していたため、斎王の座を降りた娟子。普通の世間には馴染めないでいる。 その彼女に嫌がらせのように、死んだ雛や犬の尻尾が投げ入れられた里、植えていた朝顔が全部摘まれたりする。一体だれがそんなことを・・・? 何気に一番好きな話だった。 こういうおっとりした姫タイプは、ただうざいだけなのに、なんか気にいってしまった娟子。どんかんなところを含め初々しいのが、厭味なく表現されているからか? ちなみに彼女と俊房の恋の行方はきちんとWikipediaに載っていた。 もっとちなみに、彼女たちの恋の話が田辺聖子の「百人一首」に書いてあるかと思ったけれども、道雅の話(今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならでいふよしもかな)で、こちらは悲恋でした。 この話は清少納言(らしき人)だの娟子だの俊房だのと、実在の人物が出てきていて、そして生き生きと描かれていて面白かった。 「梶葉襲」 落飾した元女御の生子と、乳母の上総と七夕近いある日、女御であった時の七夕の話をする。 その七夕は不思議なことが起きた七夕で、まずお供え物が水浸しになり、せっかく女房たちが葉に書いた願い事が消えてしまったこと。そしてその前には、女房たちの着物が雨のせいで台無しになってしまったことがあった。 後者には稚葉が絡んでいた。そして稚葉はその後、殺されてしまうのだった。 その七夕に起きた一連の事件の裏にひそむ真実とは? 雨の印象が強い作品で、女二人が過去をそっと偲んでいる室内に雨音がこだまする、という風景が浮かぶ。思い出は、蝶と同じ。遠くから舞い飛ぶ姿を見ていれば愛らしいが、手に取れば禍々しい相をしている。(p217)
という一文が生子の物憂げな様子がよく出ている気がした。 「百子淵」 今までほぼ都が舞台(それでなくても大王などが出てきた)だったが、今回は不二原が舞台。 不二原で綿々と続いている儀式。その儀式と伝説の裏にある事実とは?というのがメイン。 ここには実際の姫は出てこなくて、伝説の姫が“姫”なんでしょう。 「糸織草紙」 時は下って江戸時代。舞台は京都。 女の子しか産めなくて苦しむ志乃は武家の妻。生活のたしにと機織りをする。 ある日、糸を買いに行った帰りに惨死体を見つけてしまう。そして次の日、同じ場所にはものぐるいの気がある姫に出会う。 すっごい今更ながら、この七姫というのは七夕の七姫から来ているそうな。 曰く、たなばたの七姫とは、秋去姫・朝顔姫・薫(たきもの)姫・糸織姫・蜘蛛姫・梶葉姫・百子姫(全部織女の異称)のことだそうな。 確かに七夕が出てきたり、七夕周辺の話だったような・・・というのは最後の物語を読んで「この話はやたらと七夕だの織物だのがでてくるなぁ」と思い始めたのがきっかけ。 遅すぎる!
Ruth Edwin Harris "Julia's Story" 1989 Candlewick Press
着々と読み進めているイギリス版若草物語。 今回は二女のJuliaが主人公。 小さい頃に読んだおぼろげな記憶によると、本書が一番面白かったのだが、読んでみたら成程、今までのなかで一番面白かった。嗜好は変わらないものだな。 何が面白かったかというと、Francesという越えられない壁を感じながら、海外へ外へと夢を見るところや、Mackenzie家の中で一番存在感のないGeofferyに焦点があたるところ。 一応Purcell姉妹の上3人は絵を描く姉妹で、それぞれ得意分野が分かれている。 Francesは風景画、Juliaは肖像画、Gwenは植物画。 でもJulia(そしておそらくGwenも)は、自分にはFrancesほどの才能を持っていないと思っている。自分はSlade美術学校に行く資格はないと思っているくらいだ。 その状況はMachkenzie家の二男、Geofferyと似ていた。 Geofferyの方がひどくて、長男のGabrielがよくできるだけでなく、末っ子のAntonyも非常に優秀で、しかもGabrielとAntonyはとても仲が良いのだ。そんなわけでGeofferyは影のようになってしまい(Lucyは一人女の子だし、牧師館の運営を手伝っている)、母親にも疎んじられている。 ただGeofferyとJuliaが決定的に違うのは、Geofferyは大変な劣等感を持っているのに対し、Juliaは“そういうものだ”と受け止めていて、素直にFrancesの才能を認めていることだった。 それでも二人は惹かれていき(というかGeofferyが)、the Quantocks に皆で行った時に初キスを体験して、めでたくゴールインするのだった。 それと同時にJuliaは、学生時代の友達Mirandaの家に遊びに行った際に、フランスはパリに行くことになったMirandaと同行してほしい、旅費はこちらが負担するから、といったことを依頼されていたことを知る。 でも、後見人の妻であるMrs. Mackenzieによって、それがおじゃんになっていたことを知るのだった。 非常にがっかりしたJuliaは、それからパリへの夢を見る。 もう一度、同じチャンスが転がり、今回は反対されることもなくパリへ行くことになる。 パリに着いたらアパートを借りて、スタジオを探して絵を勉強しよう、と思いつくJulia。そっとそれを計画していたのに・・・ 戦争が始まってしまったのだ。 と、それだけでもドラマチックで、なんでも自分の思う通りにことが運んだ(といっても彼女なりの奮闘もあったけど)Francesよりも面白い。 Juliaはそれで投げやりな気分に一旦なるものの、“自分はなんの役にもたっていない”と思うようになり、――そしてそれは多分、自分の存在意義を見失ってしまったのだろうけど――VAD(救急看護奉仕隊)に入ってしまう。 そして念願のフランスへと渡っていくのだった。 そこでやはりフランスに派遣されていたGeofferyと何度か逢瀬を重ね、最終的には婚約までする。 ところがそれから一転、Geofferyから連絡が来なくなってしまい、Juliaが彼の愛を疑い始めたころ、訃報がくるのだった・・・ それから諦めがよくなってしまったJulia。 FrancesがGabrielのもとへとIrelandへ渡ってしまって出費を抑えられなくなった時に(折しもSarahがオクスフォードに行くことになっていた)、やりたくもない学校の先生になったり、Geofferyに縛られたまま、これでいいの?と思いながらDavidと結婚してしまったりする。 そして時が進んで、ロンドンで2人の子どもを育てて暮らしている時に、ばったりと昔の友人に出会う。 フランスでVADとして働いていた頃の友達で、Geofferyのことが話題にあがる。しかもその夜には、Davidにカナダに旅行に行かないか、と誘われる。そしてカナダこそが、Geofferyと“戦争が終わったらそこに住もう”と言っていた地だったのだ。 混乱したJuliaは夫が仕事でエディンバラに行った際に、実家に戻る。 たまたま実家に戻っていたFrances夫婦に会い、Gabrielと話す機会を得る。 そこですべてを話したJuliaは、GabrielやFrancesの助けを経てようやく、自分の新しいDavidとの生活を始めていくことになるのだった。 と異様に長くなってしまったが、それだけ本書が面白いということだ(自己弁明)。 JuliaもGeofferyも家族の中では脇役だからこそ、彼らにスポットライトが当たった時が面白いというか。 最後に、全然本筋と関係ない文書を;In the half-light of a late January afternoon it looked more like an Arthur Rackham illustration than a living scene. (p131)
実はArthur Rackhamが割と好きなんだが、今では知る人ぞ知るとなっている(何せ古い人だし)。それがさらっと出てきて、“あ、そういやぁ同じ時代か!”と妙な興奮を覚えた一節。
加藤実秋 「インディゴの夜 ホワイトクロウ」 2008年 東京創元社
絶好調にさくさく読み進めています“インディゴの夜”シリーズ。 すっかりはまってしまいましただ。なんか柴田よしきの“花咲シリーズ”並みのはまりよう。 とはいっても、“花咲シリーズ”のように特定の登場人物好きーーー!はないけど・・・ ま 強いて言えば、晶さん好きです。 でも今回は晶さんの出番がちょっと少なかった。残念。 今までは晶さん視点だったのに、ほとんど三人称だったうえに、ホストたちが主人公。時には晶さんが全然からまない・・・ 残念 「神山グラフィティ」 主人公はジョン太。そこで働く可奈ちゃん目当てに定食屋に通う。 ある日、いつもの通りそこへ赴くと、その商店街一帯、落書きされているところに遭遇する。 可奈ちゃんにいいところを見せたいジョン太は(ちなみに誰もジョン太がホストと知らない)、その犯人を見つけ出すことを宣言する。 ホスト仲間のDJ本気を巻き込んで見張ることになるのだが、頭殴られ気を失い、しかも可奈ちゃんまで姿を消してしまったのだった! 可奈ちゃんの過去の友達が絡んだ事件。 「ラスカル3」 ある日所属するジムに行くと、会長がやくざにだまされ、賭博で大損して身柄を拘束されていることを知る。 なんとか助けてやりたいが、向こうの指定する1千万円をそろえることができなければ、条件をのむこともできない。 そのやくざがあくどい商売をしていることを知ったアレックスたちは、そこに強盗に入り1千万円をそろえることにする。 「シン・アイス」 仕事帰りに立ち寄る公園で青年・タクミと顔見知りになった犬マン。 ある時、二人でホームレスが殺害されている現場に出くわす。近くに住むホームレスが犯人として逮捕されてしまったが、タクミは彼が犯人でない、と言い張る。 成り行きで犯人探しに巻き込まれた犬マン。殺されたホームレスが持っていた記事の切り抜きを手掛かりに、再開発に反対して土地を売らないという、薬局屋の母娘にたどりつく。 だけど、彼女たちにはどこもあやしいところがないみたいで・・・ 「ホワイトクロウ」 club indigoが改装することになった。 というのは馴染みの客に、今をときめく建築家・笹倉壮介の事務所で働いており、その子が口をきいてくれて、その建築家に改装を依頼することになったのだった。 ところが改装工事の途中に、仲介役をかって出た張本人の白戸仁美が失踪してしまう。 その途端はかどらなくなる改装工事。 心配になったclub indigoの面々は、白戸仁美を探すべく、笹倉壮介が手掛けた建築を見て回ったのだが、そこであることに気づく。 最後の話は、前3話に出てきたキャラがちょこちょこ出てきて、ボーナストラックチックになってました。実際この話だけ書き下ろしだったし。 そこでやっと晶が出てきて; 低く甘い声で憂夜さんが解説した。どうやら美術やデザインにも造詣が深いらしい。今さら驚きはしないが、そういう彼は茶のレザーブルゾンに藤色のスラックス、脇の下にオレンジのオーストリッチのセカンドバッグを挟むという出で立ちだ。浅草あたりの繁華街で似たような装いの殿方を見かけるが、色相学的にはどうなのだろうか。(p182)
とコメントしているのを読んで、“これがなくちゃね!!”とテンションが上がってしまいました。 さっきはこのシリーズに特定の人スキーってのがない、なんて書いたけど、やっぱウソでした。 私、晶さんが描く憂夜さんが好きです!それか、憂夜さんをつっこむ晶さん。 せっかく普段はなかなか主眼に置かれないホストたちが主役だったんだから、彼らから見る晶さんや憂夜さんをもっと出してほしかったなぁ~ だから、今回はちょっとがっかりです。ということで、早く続き出してください!!!!!!!
石田千 「月と菓子パン」 2004年 晶文社
どこかの書評(多分三浦しをんさん)で、描かれている食べ物がおいしそう、みたいなことが書かれていたので、食い意地のはった私はいそいそと「読む本リスト」に付け加えた「月と菓子パン」。 確かにおいしそうだったけど、それより文章の美しさ、というか作者の感性に敬服した。というと堅苦しいけど、本当に“ははーっ!”とひれ伏すくらいすごいな、と思った。 石田千さんの日常がつづれれたエッセイなんだけど、そして本当に何気ない日常の一こま一こまが描かれているんだけど、はっとさせられることが多い。 例えば; 赤ちょうちんの、すりよるような優しさがすこし重たく感じるときには、蛍光灯の箱のなかにはいって、中華まんじゅうを買って、また歩く。 入れ違いに出て行ったおばあさんが、肉まんをほおばりながら踏切を渡っていった。まんじゅうの湯気も、おばあさんのあとについて、渡っていった。(p75)
なんて表現もなんかいい。 特別な出来事があるわけではないので、これといった内容をはっきり覚えているわけじゃない。 でも“いいもの読んだな”という感覚が尾を引く。 これは手元に持っておいて、何かの折にふと読んでみるのがいい本なのかもしれない。
真藤順丈 「庵堂三兄弟の聖職」 平成20年 角川書店
ジャケ買いならぬ、ジャケ読みした「庵堂三兄弟の聖職」。 ブックオフで目を引いた表紙。絵が気に行ったのでよっぽど買おうかと思ったけれども、“いや待てまて、これで面白くなかったらどうする”という、ケチ理性が手伝って手を出さず。 内容を確認しようと思ってAmazonで調べたら、ホラー大賞を受賞した作品だそうな。“ホラー!?”と手を引っ込めようかと思ったら、Amazonの書評に「全然怖くない」「ホラーっぽくない」とあったので、“じゃあ”と手を出すことにする。 でもやっぱりAmazonの書評で“面白くない”というコメントもあったので、財布の口を開けるのが躊躇われ、図書館で借りるハメになったのだった・・・ さて、そんな経緯で読んだ「庵堂三兄弟の聖職」、どうだったかというと・・・ うむ・・・ ま、買わなくて良かったかな。300円くらいだったら、表紙絵にひかれて買っただろうけど(ヒドイ)。 一応、フォローを入れておくと、決して面白くなかったわけでは非ず。一気に読み切ったし。 ま でも有体にいえば、私の好みではなかったと。感じとしては、なんとなく舞城王太郎に似てるかも。本当になんとな~く、だけど。そして言うまでもなく、舞城王太郎の方がずっと上手いし、面白いけど。 そんなこんな「庵堂三兄弟の聖職」、あらすじはどんなかと言うと。 庵堂家の家業は、亡骸から生活用品やら財布やらを作る「遺工師」。葬儀屋と提携を組み、遺族から依頼があった場合は、死体を焼かないで解体し、依頼品に加工するのだった。 割と珍しい職業だけど、マイケル・ジャクソンが亡くなった時に、マイケルの遺骨でダイアを作る・作らないの話が出て、そういうビジネスがあるとなんとなく知っていたので、設定に目新しさがなかった。もしそれを知らなかったら、もうちょっと意外性があって面白かっただろうに、とちょっと悔やまれる。 閑話休題。 三兄弟は上から正太郎、久就、毅巳。父親は亡くなり、正太郎が遺工師の後を継いでいる。 久就は東京に出てしまっていて、父親の七回忌に久しぶりに実家に帰ってくるところから話は始まる。 老夫婦の妻の全身加工。交通事故で亡くなったやくざの愛娘の剥製。 この二つの仕事をベースにしながら、庵堂兄弟の出生の秘密、庵堂家の暗黒時代の話(やくざと癒着してた)、汚言症の毅巳の破壊的な恋の行方が描かれている。一旦はバラバラになったかのような庵堂三兄弟だが、最後に再結成する未来を予兆する形で終わる。 散々文句言っているけれど、文章もそんな悪くないし、出だしも; ウカツ。また死体〈ホトケ〉と一緒に寝てしまった。 作業台の上で目覚めた正太郎は、「ああだあぁ……」とうなりながら上体を起こした。 重たい首を左右にしならせる。目覚めしなの散りぢりになった思考をとりまとめながら、しばらく<工房>を、六基並んだ琺瑯製の作業台をぼーっと眺めた。(p3)
とつかみはいいと思う。 でもな~んか“あと一歩”感がぬぐえない。 例えば、登場人物の狂気じみた感じとか。生ぬるいというか、ありきたりというか。 確かにAamazonの書評であった通り、全然怖くないし、死体を扱うからグロいかと思いきや、そこまでじゃない。ま それはそれでありかな、とは思うけど、もうちょっと人々の狂気を書きこんだら面白かったかもしれない。 と言うわけで、図書館で借りて正解でした。
海堂尊 「螺鈿迷宮」 平成18年 角川書店
「チームバチスタの栄光」から始まる田口・白鳥シリーズは、気も遠くなるほど待たされて(図書館に)やっと借りれたのに、白鳥単品しか出てこない「螺鈿迷宮」は借りられてもいなかった・・・ なんで? とは言うものの、読んでみたら面白かった。シリーズ第二弾の「ナイチンゲールの沈黙」より面白かったと思う(ちなみに「ジェネラルルージュの凱旋」は速水先生がかっこいいという理由だけで1位)。 終盤でおセンチな雰囲気になるのはちょっといただけないし、キャラも“いかにも物語”といった風の人物ばかりだったけれども、総合的には面白かった。 というか、キャラに関して言えば、医療というこの上なく現実的、且つ作者が医者のせいか医療現場からのメッセージみたいなものが含まれている本書としては、ちょっとくらい非現実的な登場人物の方がバランスが取れている気がした。 ちなみにキャラの中では、おばあちゃんのトリオが一番好きだった。天馬が最初に出会うシーンなんて可愛すぎる; ベッドから、むくりと頭を持ち上げた生物が、東・西・南の三方から北の扉に佇む僕たちに向かって一目散にかけ寄ってくる。赤・青・黄色の色違いでお揃いのTシャツを着た三人組の婆さんたち。顔立ちは全然似ていないのに、服装が同調<シンクロ>しているせいなのか、三人揃って僕を見つめるその姿は血縁以上の強い連帯感を感じる。(p47)
天馬はこの後勝手に、孫悟空、沙悟浄、猪八戒と名付けるのだが言いえて妙。 「ジェネラルルージュの凱旋」にて白鳥の部下、姫宮がさりげなく(?)どたばたしていたので、“こりゃ「螺鈿迷宮」への伏線なんだろうなぁ”と思っていたら、果たしてそうだった。 とはいっても主人公は姫宮ではなく、落ちこぼれ医大生・天馬大吉。 新聞社の支局でバリバリ働く幼馴染の別宮葉子にはめられて、碧翠院桜宮病院へボランティアという名目の上、潜入調査することになってしまった。 というのは厚生労働省から調査依頼が来たのと、やくざもどきが運営のメディカル・アソシエイツ(ちなみに速水先生が融資を受けていたのはここだったはず)の社長の娘婿が碧翠院桜宮病院に行ったっきり帰って来ていないので、その依頼も葉子の元へやってきたというわけだ。 最初はボランティアとして潜入した天馬。 しかしその前から看護婦として潜入していた姫宮(天馬はその正体を知らない)によって散々なめにあって、とうとう入院するハメになる。 それはさておき、その碧翠院桜宮病院というのは、碧翠院と桜宮病院が合体したもので、我が東城大学病院と双璧をなす。 とはいっても、碧翠院桜宮病院の方がずっと歴史があるが、現在は東城大学病院の方が圧倒的に大きい。しかもかつてあった東城大学病院から病人を流してくれるということもなくなり、実質的に東城大学病院に切られた形となり、いよいよひっ迫していた。 さて、経営体制はというと、院長の桜宮巌雄を筆頭に、娘である副院長小百合、その双子の妹であるすみれが仕切っている。小百合は桜宮病院、すみれは碧翠院を担当している。 表面上では“終末期医療で画期的な試みをしている”とされている碧翠院桜宮病院。 確かに病人を病人として扱うのではなく、役目を与え、それだけでなく“すみれ・エンタープライズ”という会社の社員として働くことになっているのだった。 その一方で死人が出すぎる。 しかも、“死”に関して実に淡白で、あんなに元気だった患者が明け方に死に、朝には解剖、葬式、火葬と済んでしまう。一体碧翠院桜宮病院では何が起きているのか? というようなことを、国の終末期医療に対する扱いを批判しながら進んでいく。 なんというか、あれですね。 「チーム・バチスタの栄光」から始まる田口・白鳥シリーズの話は、大学病院の弊害みたいなものが出ているけど、こちらはファミリービジネスの弊害が出ている気がする。感情的に運営されるところとか、割と手前勝手な感じとか。 大体、病院をたたむのに当たって、自分たちの希望を叶えていく、なんてファミリービジネスだったからできたことでしょう。 安易にすべてを放棄して一族が消滅だとか、最後に天馬が白々しく勉強を頑張ると決意するところだとか、納得いかないというか、これで“終わりかー”感が否めなかったけれども、肝心要なところがリアリティに富んでるものだから総合的には合格点だった。ポイントを押さえているっていうんでしょうね。 こりゃ現役の勤務医であるってのが強みとなってるってことですかね。
都筑道夫 「幽霊通信 都筑道夫少年小説コレクション1」 2005年 本の雑誌社
果たしてどういういきさつで自分の「読む本リスト」に入ったのか、すっかり忘れてしまったが、確かWikipediaで何かを調べてて行き当たったかなんかで加えた気もする「都筑道夫少年小説コレクション」。 都筑道夫という名は、実はその時に初めて知って(推理小説好きとしてはアレだろうけど)、なんでか少年小説から読んでみたのだが、割と面白かった。 というか少年小説と銘打ってるだけあって、主人公は少年少女だし、文体もやさしいけれども、内容としてはしっかりとした推理小説だった。 “幽霊通信”とだけあって、本書に集められているのは(本書は短編集)幽霊だとかお化けを題材にしたお話。といってもオカルトな話ではなくて、幽霊/お化けが出るという噂が出回る→探偵役が調べる→幽霊/お化けと思っていたのは人間の仕業で、裏には犯罪が起きていた、というスタイルがどの話にも貫かれていた。 といっても、前述した通り子供だましのものではなくて、ホラーっぽい要素も含めつつ、トリックもしっかりしていたので、大人でも楽しめる。 本書には「幽霊通信」「耳のある家」「砂男」「座敷わらしはどこへ行った」という話が入っていて、その中の「幽霊通信」は全12話のショートショートである。そして一貫して民族学を専攻していて、お化け博士と呼ばれている和木俊一が探偵として登場する。 メモ程度に話を列挙してみると; 「幽霊通信」・・・和木俊一が下宿している所の美香ちゃんが主人公 ・第一話 一本杉の家 誰もいないはずの家に、女の人が寝ている。 ・第二話 二階にうつるかげ 夜、ある二階に影がうつる。影は日によって鬼であったり女であったりする。 ・第三話 三時三分にどうぞ 交通事故で死んだと思った美香の友達から、「遊びにいらっしゃい」という電話がくる。 ・第四話 スペードの4 美香の友達の父親宛に、破られたスペードの4のカードが届けられる。 ・第五話 五色のくも 5色の蜘蛛が現れる。 ・第六話 ぼうしが六つ 提灯屋さんの枕もとに現れるシルクハット。 ・第七話 七福神の足あと 七福神が描かれていた掛け軸が、もぬけの殻になり、しかもその前に死体、そして七福神の足跡。 ・第八話 8時のない時計 うらさびれた邸。異様な家族。亡くなった姉が帰ってくるという。 ・第九話 おしの九官鳥 美香の友達の父親が幽霊に襲われて亡くなる。 ・第十話 十字路の日を消すな 十字路の電気が消え、壁には謎の文章が現れ、そしてすぐ消える。 ・第十一話 十一才の誕生日 怪奇現象が次々に起こり病気になってしまった、美香の友達。 ・第十二話 十二ひとえの人形 十二単の人形が涙を流すといって和木のもとへ調査依頼がくる。 「耳のある家」 学者である父親の仕事の関係で、父親の友達の家に預けられたルミ。 非常に奇妙な家で、監視されている気がしてならない。 実はその家でニセ札つくりと、合成皮膚の研究がなされていた。 「砂男」 ゆみ子の兄が突然消える。 その後ゆみ子は、兄を捕まえたという砂男に出会い、兄を返してほしくば“ものいうすな”を探してこい、と言われる。 その砂は実はヘロインで・・・ 「座敷わらしはどこいった」 東北にやってきた由美。そこで座敷わらしの話を聞き、土地の子と一緒に座敷わらしを見つける。 座敷わらしが消えたという方向に行ってみると、そこには死体が!そして実は座敷わらしは、土地の子が由美のために用意した、本物の男の子で、その子の姿がない。 この話がただの子供だましじゃない、ということがよく現れている一節がある。 「砂男」の中で麻薬が出てくるのだが、そこで;「ゆみ子ちゃん、きみのような子どもに、こんな話をするのは、早いかもしれない」 と、和木俊一は、ゆみ子を見つめながら、いいました。 「しかし、この世の中には、そこにいる砂男なんかより、百倍も千倍もおそろしい、手をふれてはいけないものがある、ということを知っておいたほうがいいような気がする。だから話すんだが、薬の中には病人を助けるが、健康な人には毒になるものもあるんだ。麻薬がそうだ。」(p258)
というシーンがある。 ただ子ども扱いして目をそらせないで、きちんと向き合っているってのが良いなーと思った。 これを子どもの頃に読んでたら、相当はまってただろうな、と思った。
<加藤実秋 「インディゴの夜 チョコレートビースト」 2006年 東京創元社>
シリーズ第一弾があまりに面白く、いそいそ予約して借りてきた(ここで買わないところがケチくさいな自分)「インディゴの夜 チョコレートビースト」。 あの軽めのタッチでスピーディーに展開するのにハマりました。 普段、短編を嫌い嫌い言ってるくせに、このシリーズに関しては短編でちょうどいい。このスピーディーさと軽さが短編の醍醐味を最大限に表していると思う。逆に言ったら、短編でなく長編だったら、この作品をここまで魅力的にしなかったとも思う。 さて今回の作品は次の通り; 「返報者」 ホストクラブの帝王と呼ばれる、<エルドラド>の空也が晶のもとへある調査依頼にやってくる。 それは現在連続して起きているホスト襲撃事件。空也のところにまだ被害はないものの、空也には懸念事項があった。 というのは、空也が目をかけてやっている新人を、妬んだ先輩ホスト達がそいつをいじめると、必ず報復があるという。そしてその襲撃されたホストたちというのは、雑誌の企画で今売れっ子のホストたちが一堂に会した時、その新人ホスト樹をいじめていたらしいのだ。 といっても何も根拠がない。だからといって警察には言えない。 そんなわけで空也に借りがあるに調査のおはちが回ってきたのだった。 私の予想としては、樹は多重人格で(一瞬別人のような顔したりする描写があったから)、もう一つの人格が報復しているのかと思いきや、全然ちがった・・・ てかもっと現実的でした。こんな予想してるのが恥ずかしいくらい・・・ふふふ 「マイノリティ/マジョリティ」 晶とを共同経営している塩谷の、表の仕事(出版社の編集者)での後輩が失踪してしまう。晶も知っている人だったこともあって、その人を探すことになる。 そこには雑誌を作るにあたっての水増し請求問題がからんでいた!!というお話。 その後輩のPCのパスワードがGreendayの"Minority"のギターコードだった、というエピソードがあったが、ちょうどカラオケで"Minority"を歌った直後だったので「おおお~」と勝手に盛り上がってしまいました(そんなんどうでもいいでしょうが)。 「チョコレートビースト」 旅行帰りのなぎさママに偶然会って、無理やりなぎさママの店に連れてこられた晶。 するとそこには強盗がいた・・・。 しょっぱなから!という感じだったけど、なぎさママの剛腕によってあっさり強盗は逃げる。 が!それでは腹の虫が収まらぬ晶は、(やらなくていいのに)なぎさママのバッグを手に取り、強盗の背中めがけて投げる。的中したのはいいが、強盗に(当たり前ながら)そのバッグを持っていかれてしまう。 ま、いっか、と思ったのも束の間、そのバッグの中には、ママの愛犬が入っていたのだ!! 怒り狂うなぎさママ。もちろん晶たちは(連帯責任という名のもと皆)、その犬を探すことにしたのだった。 キーは晶がちらっとみたタトゥー。タトゥーだらけのホストKAZOOを頼りにその強盗軍団を探すのだった。 「真夜中のダーリン」 ホストの吉田吉男が倒れたと聞きつけて駆け付けた晶。 そこで吉田吉男の身の上を聞くことになるのだが、曰く、両親に先立たれて親戚中をたらいまわし。バドミントンという生きがいを見つけたと思った途端、心臓の欠陥が見つかり、手術をすれば助かるがバドミントンはできなくなると告げられる。 残りの人生楽しもうじゃないか、ということで家出をして今に至るわけだったのだが、塩谷の「やり残したことはもうないのか?」という質問より、『第一回 ホスト選手権大会』に出場する流れになる。 なんとか決戦大会に進んだが、そこから妨害工作が始まる。しかも空也など有力候補が他にいるはずなのに吉田吉男だけ。 ま ふたを開けてみたらその大会は出来レースで・・・ と相変わらず、推理小説と区分していいのか甚だ疑問だけれども、一気に読めるこの面白さ。 面白さの一つに、服装の表現が挙げられる気がします。ホストの話だけあって(しかもクラブ風の)、服装の描写がしょっちゅう出てくるのですが、三十女である晶が冷静に表現しているのがおかしい。 描写といっても、渋谷などで「あるある!」という服装ばかりだが、晶のつっこみも「だよね!だよね!」というものなのは、私も若者でないからなのか・・・ 例えば;襟元を真っ赤なロングマフラーでぐるぐる巻きにしながら、足元はハーフパンツ、素足にスニーカー。コンセプトも季節感も不明の出で立ちだが、これでもclub indigoきっての売れっ子、ナンバーワンホストだ。(p19)
とかヘアスタイルはボリュームのあるロングのドレッド、それを大きなニットキャップの中に無理矢理押し込んでいる。横から見るとエイリアンの頭部のようだ。(p116)
と若者ファッション(といっているあたりがもう齢)を描写していれば、憂夜の王道ホストファッションもこんな感じ;今宵は黒地にピンストライプの三つ揃い、社交ダンスのコンテストにでも出るつもりなのだろうか。(p52)
また続きを借りなくては!
<Ruth Elwin Harris "Frances' Story" 1987, Candlewick Press>
“イギリス版若草物語”のSister of the Quantock Hillsシリーズ第二弾"Frances' Story"。 第一弾は末っ子Sarahでしたが、今回は長女のFrances視線。 Sarah(と読者)が“Francesは一体どーゆーつもりで、Gabrielからの求婚を断り続けているのか、というかそもそもGabrielのことは好きなのか?”と思っていたことが、語られる内容になっている。 内容はほぼ"Sarah's Story"と同じ。 母親が亡くなり、Mackenzie牧師が後見人となるところから始まり、まずSlade大学に行くFrances。そこだけで非難ごうごうだったのだが(財政的に厳しい+姉妹たちの面倒はどうするかetc.)、毅然と立ち向かうFrances。 でも実は、Francesには余裕がなかった、というのが本書で分かる。美術に対する情熱が強いので、なんとかその道を切り開きたい、でも果たしてSladeに入れるのか? そんな緊張しまくるFrancesの心の支えになったのがMackenzie家の長男Gabrielだった。 でも実はGabrielはFrancesの才能を信じているわけでなかった・・・ なんていう葛藤も乗り越え、いつしか二人は愛し合うようになる。 そしてそこから始まる葛藤が結婚する・しない。 Francesには恐れがあって、それは結婚してしまうと絵が描けなくなる、というものだった。 というのは、4姉妹の母親も実は絵を描く人だったが、父親と結婚してから家事におわれて描かなくなってしまった。そして父親の死後、再び筆を取ったのだが、まったく描けなくなってしまっていたのだ。 そうこうしているうちに戦争が始まってしまう。 結婚を迫るGabriel。自分が死んだ時にFrancesに何か残したかったからなのだろうが、そんなことでFrancesが首を縦に振るわけもなく、頑として受け取らない。 Antonyの死から始まり、Gabrielの怪我、Geofferyの死などがMackenzie一家とFrances姉妹に襲う。 やっと戦争が終わりGabrielが帰ってきたと思ったらまたもやFrancesに求婚する。 ・・・なんというか、Francesの頑固さもすごいけど、Gabrielもすごいなぁと思ってしまう。もう誰か他にいないのかい!Francesはそんなに良いのかい!!みたいな。 という読者(私だけかもだけど)のつっこみも空しく、Francesはやっぱり拒否し、今回はGabrielも堪忍袋の緒が切れたとばかりにIrelandの紛争に赴いてしまう。 と、ここまでがSara's Storyにも出てくるのだが、本書はその続きが出てくる。 SarahがOxford Universityに受け入れられ(Scholorshipも)、それをMr. Mackenzieに報告している時、牧師館からFrancesに使者がやってくる。なんと、Gabrielが酷く怪我をして意識不明だというのだ! Irelandに渡るFrances。 GabrielがIrelandに行ってしまってから、ずっと無視され続けていたFrancesは、まったく絵を描くことができずにいたのに更にこれが追い打ちになる。あんなに拒んでいた結婚も受け入れるようになる(やっと)。 結局Gabrielは目を覚まし、二人の仲は修復される。 Francesもやっとその気になったし、やっと結婚か!?と思いきや・・・ 今度はGabrielが拒む。なんやねん!!!!このカップル!!!!!! ま そんな感じで、はっきり"THE END"といった終わり方ではないけど、シリーズ物の一つと思うとそれでも良い方がいい気がしないでもない。 ここでちょっといいなと思った表現; The rain hit them as they emerged from the shelter of the beeches. Driven by the wind it lashed them mercilessly as they came fown form the open slopes into the valley, sting their flesh with icy barbs, penetranting hair and clothing, piling misery onto silent misery. (p221)
なんだかイギリスの雨を思い出した(アイルランドのシーンだけど)一節。 破天荒に見えるFrancesだけど、実は一番家族のことを愛していて、Sarahに関しては人一倍気を使っていて、それだからこそ妹たちがthe Quantock Hillsを離れていくことに寂しさと抵抗を感じる、ということがよく分かる1冊だった。
<司馬遼太郎 「アメリカ素描」 平成元年 新潮社>
時代小説は好きな部類に入るのに、なぜか司馬遼太郎をあまり読んだことがない。 高校時代に学校からの宿題で「竜馬がゆく」を読んだことがあるのだが、どうしても好きになれずに挫折した。 その後も何か短編を読もうとしたか、読んだかしたけれども、何を読んだか記憶もなく、ただ「やっぱり好きじゃなかった」という印象しかない。 あんなに好かれている作家なのに、どうにもこうにも好きになれずに(その理由の一つに、司馬遼太郎の代表作の舞台が、自分の好きじゃない時代ってのがあるだろうけど)、これは“相性が悪い”ってことなんだろうなと思っている。 でも実は、やっぱり高校時代に国語の教科書に(ちなみに宿題は日本史の宿題だった)司馬遼太郎のエッセイが載っていて、非常に心に残っていた。 それはアメリカのことで、まだアメリカに行ったことがない筆者が、アメリカに行こうと誘われたが躊躇している、という話だった。その中で、在日韓国人の知人が「もしこの地球上にアメリカという人工国家がなければ、私たち他の一角にすむ者も息ぐるしいのではないでしょうか」(p19-20)と言った、という話が非常に印象的だったのだ。 そうして何年か経ち、古本屋で「アメリカ素描」が売られているのを見て、その国語の教科書の内容をまざまざと思い出させられ、思わず買ってしまった。 そうしたら前述の在日韓国人の話が、やっぱりというかあって、それは本書の冒頭に綴られていたのでなんだか懐かしかった。 結論から言うと、第一部の方が第二部よりずっと面白かった。 ちなみに第一部では司馬遼太郎は初めて渡米し、カリフォルニアに行く。 そして第二部では東部に行っている。 第一部では主に“文化論”的なことが書かれていて、それが面白かった。 それが第二部となると、“アメリカとは”とか“アイリッシュとは”という話になって、それが割と押しつけがましい気がして(断定的に書かれているので)、反抗的な読者としては、なんだか嫌だったのだ。 基本的に本書は、司馬遼太郎がアメリカに赴き、そこで人に会ったり、街を訪れたり(日本に関係のある街だったりすることが多い)しながら、つらつらと思考を書いているので、あらすじというものがない。 でも前述したように、彼の“文化論”というのは、さすが司馬遼太郎、非常に面白かったり、なるほど!ということが多かったので、自分のためのメモ代わりに抜粋する; 多民族国家であることのつよみは、諸民族の多様な感覚群がアメリカ国内において幾層もの濾過装置を経てゆくことである。そこで認められた価値が、そのまま多民族の地球上に普及することができる。 右のことは流行で考えればいい。たとえばジャズはアメリカで市民権を得たからこそ世界へ普及できたのである。文明というのはそういう装置をもっている。(p27-28)
→確かに日本のアーティストでも、日本で活躍するよりアメリカで活躍した方が有名になる。なにもそれは日本だけではない気がする。というのはイギリスにいる時、売り出し中のミュージシャンとなると、彼らがイギリス人であっても、全米チャートが引き合いに出されていた。これもそういうことなのだろうか? 文化とは基本的には、人と共にくらすための行儀や規範のことで、母親の子宮内では養われず、出生後の家庭教育や村内での教育による。井上ひさし氏は、これを、他の哺乳類がもたない「第二の子宮」だとどこかで書いていたが、みごとな把握である。「第二の子宮」こそ煮つめていえば文化であり、その共有された類型こそアイデンティティーであるといえる。(p51)
「日本人は他国をみる場合、たぶんに情緒的になる」 という意味のことをあるアメリカ人の著書で読んだ。たしかにわれわれはペリーでさえ開国の恩人とみている。その基礎に情緒的なアメリカ好きの感情がある。しかし、アメリカ人の場合はちがうだろう。目前のテーマについて明晰な論理を構築することがすべてで、その場合過去の歴史的事情などを情緒的に加えない。たとえ親日・知日派であってもである。その点、かれらのほうがわれわれより男性的なのである。(p110)
「日本史には、英雄がいませんね」 と、私が尊敬するアメリカ人が、好意をこめていったことがある。そのとおりである。英雄とは、巨大なる自己と、さらにはその自己を気球のように肥大させてゆく人物のことである。名声への自己陶酔と、さらなる名声の獲得にむかって行動する精神のダイナミズムと考えていいだろう。それらを一人格のなかにもっている人物をさす。また最後には支持者をうしなうと、いっそう英雄像が濃厚になる。できれば悲劇の最期を遂げ、その人生が詩になれば、いよいよ英雄である。アレキサンダー大王やシーザー、項羽、あるいはナポレオンを思えばいい。ただ私たち日本人は、それを出さない文化に属している。私はそれはそれで日本の幸福のひとつだと思っている。 それにひきかえ、アメリカは、つねに英雄を待望している社会である。大観衆をあつめるスポーツはそのためにのみあるといいたいほどである。(p134)
→もしかしたら「英雄」というのは、ある程度の個人社会の中でしか生まれないのかもしれない。日本は善行を行っても目立たず、むしろそのまま姿を隠す方が美徳とする風潮がある(もしくは、あった)ように思う。つまり善行をひけらかさず、群衆の中の一人でないといけないのだ(逆に、善行をアピールしたら顰蹙をかう)。ま、それも個人主義になりつつある現社会では薄れてきているようだが。だからイチローなど「英雄」が生まれてきたのかもしれない。 (ゲイであるワデル博士に「葉隠」について語っている) しかしながら一面においては大した思想書だとも思うのだが、しかし多分に不条理で美学的な内容だから、アメリカへ輸出できるような普遍性はもたない。文化とはそういうものである。 アメリカにあっては、ゲイという存在についてさえ、ゲイたちは法的公認という普遍性をもたせようとする。「忍ぶ恋」からみれば、ミもフタもなく、アジもソッケない。しかし文明とはそういう合理性をもったものなのである。(p172)