歌野晶午 「葉桜の季節に君を想うということ」 2007年 文芸春秋
本の交換会で、自分は交換されなかったけれども面白そうだったから、旅行のお供に買った本「葉桜の季節に君を想うということ」。長いタイトルだぜ。 実は歌野晶午ってよく聞く名前だけど、一度も読んだことがなかった。 読んでみると。。。 のっけからセックスシーン。びっくりしつつ読んでいくと、そんなに過激的な話じゃない。 まぁ 悪徳商法を暴いていく過程で、ハラハラドキドキはあるけれどもそれ自体はまったりとしている。そのメインの話に挿入される形で、主人公が昔探偵事務所で働いている時に、潜り操作でヤクザになったことがあるのだが、その話がハラハラする。 悪徳商法を暴く話なんて、ともすればまったりしがちだけれども、その過去の話がぴりっときかせている。 そうするうちに、悪徳商法もきな臭くなっていき。。。そして驚きのラスト。 本当に最後は驚き。 ということでここからは激しくネタバレ。
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金子光晴 「金子光晴 ちくま日本文学038」 2009年 筑摩書房
なんとなく詩って苦手なのよね。 というか、文章って短ければ短い程苦手なのよね。だから短編集も苦手だし。 そうなると詩なんて苦手なのは当たり前なのよね。 などという言いわけにより、随分前に幸田文のと共に買っていたはずなのに、全然手を付けていなかった、“ちくま日本文学”シリーズより金子光晴。 いよいよ読む本が少なくなってやっと手を付けた。 表紙絵は好きなんだけどね。 実は、金子光晴って名前は知ってるし、詩人ってことも知っていたけれども、情報はここでストップ。 なんと金子みすゞの旦那だと思っていました…! あまつさえ、金子みすゞの旦那がひどい、という情報はあったので、「金子光晴ってひどい人」という認識さえ持っていました… とんだ濡れ衣。二重にも三重にも重ね重ね申し訳ない… とにかくそんな調子で読み始めたものだから、「おっとせい」なんて題名の詩を見つけたら、金子みすゞのイメージがあるもんだから、童話調・メルヘン調なのを想像して読んでみると、しょっぱなから;そのいきの臭えこと。 くちからむんと蒸れる、 そのせなかがぬれて、はか穴のふちのやうにぬらぬらしてること。(p24)
… 衝撃ったらあらしません。 でも読んでいくうちに、金子みすゞのようなメルヘンチックな詩よりも、こういう泥臭い、汚いものは汚い詩って好きかも、と思ってしまった(そもそも何の関係もない金子みすゞと比べるのは間違えだということは置いておいて)。 もう一篇の詩 (人間の悲劇 より) 恋人よ。 たうとう僕は あなたのうんこになりました。 そして狭い糞壺のなかで ほかのうんこといっしょに 蠅がうみつけた幼虫どもに くすぐられてゐる。 あなたにのこりなく消化され、 あなたの滓になって あなたからおし出されたことに つゆほどに怨みもありません。 うきながら、しづみながら あなたをみあげてよびかけても 恋人よ。あなたは、もはや うんことなった僕にきづくよしなく ぎい、ばたんと出ていってしまった。(p80-81)
なんて妙に気に行ってしまった。 別に下ネタ好きでもなんでもないけど。この詩はからっとしてて、面白くて、「ぎい、ばたんと出ていってしまった」なんて絶妙で好きになってしまった。 そして詩以外に ・詩人 金子光晴自伝 ・どくろ杯 より ・マレー蘭印紀行 より ・日本人の悲劇 より が収録されているのだが、まぁ それのすごいことすごいこと。 「金子光晴自伝」に完全にノックアウトされてしまった。 一言で言えば“金子光晴ってとんでもないやっちゃな”。 自伝だから卑屈に脚色しているのかもしれないけれど、本当にひどいやつ。 こんな奴と間違っても友達になりたくない。 でも周りに人が集まっているようなので、自分で描いているよりも、よっぽど『マシ』な人なのかもしれないけど。 あと「どくろ杯」は、上海での暮らしぶりが書かれているのだが、それもまぁすごい。 もう描写が汚い汚い。 本当に林芙美子のエッセイを読んでいても不思議だったのだが、どうしてこういう人たちは、こんなにもお金がないのに、なんとか暮らしていけるのだろう? 金子光晴なんて、ちょっとでもお金ができると、すぐ使ってしまってまた貧乏になる。つまり全然懲りてない。しかもあくせく働くというわけでもなく、割とのらりくらりと暮らしている。 なのになんとか生きていっている。 これが昔の人の底力というものなのか? この“ギラギラとした生”といった風の作品をきちんと読みたくて、「どくろ杯」を全文読みたいなと思った。 ただ改行も少ないし、決して読みやすい文章ではないのが玉にきずなのだが…
中条省平 「文章読本」 2003年 中央公論新社
「書評家<狐>の読書遺産」で「青白い炎」 とペアになっていたのが中条省平の「文章読本」だった。 難解な「青白い炎」と並行して読むと、なんと楽に感じたことか! というか、普通に単品で読んだとしても、面白くさくさく読めた本だった。 本書は、森鴎外から大江健三郎まで、様々な作家の作品より一部を抜粋しながら、この作家が巨匠たるゆえん、この作家の文章の素晴らしさを、読み解く形で説明している本だった。 例えば梶井基次郎の「冬の蠅」を抜粋してこのような解説をしている;「やっと十時頃渓向うの山に堰きとめられていた日光が閃々と私の窓を射はじめる」 「やっと十時頃」という副詞句は、その直後の「堰きとめられていた」という動詞ではなく、後のほうの「射はじめる」という動詞に掛かる言葉ですから、文法的には、「日光が」の後に置かれもよいのですが、「やっと」がいきなり文頭に置かれることで、日光の出現を待ち切れない主人公の期待の高まりが切迫感をもって定着されていきます。 しかし、それ以上にみごとなのは、「渓向うの山に堰きとめられていた日光」という表現です。「堰きとめる」は、本来、水の流れを妨げるという意味ですから、この表現だけで、日光が湖の水のように満々と湛えられたイメージを喚起し、したがって、日光の出現は、堰から解き放たれた水流のイメージのなかに溶かしこまれるのです。「堰きとめる」というさりげない言葉の使いかたひとつで、日光に水という物質の充実感をあたえているところにほとほと感心させられます。(p44-45)
ちょっと引用が長くなってしまったが、万事がこの調子で、懇切丁寧に説明されている。 そしてただ説明されるだけでは眠くなってしまうところだが、引用文の最後の“ほとほと感心させられます”からも見受けられる通り、作者の文学への愛情みたいのがあふれ出ていて、全然飽きることがない。 しかも、優れた作品が、正しい文章の書き方に乗っ取って書かれているわけではないことも明記している。 <狐>も指摘しているように、内田百の文章を“ぞろっぺえな、だらしない印象”(p108)と語っており、でもその後に続く解説にて、この印象こそが内田百の魅力に繋がる、と語っている。 (そしてついこの間、内田百を読んだ私としては、「そう!その通り!」と膝を打ちたい気分になる) 小・中・高と学校で、国語の時間にこのような文章解説をされた気がするが、それとは一風違って、こんな風に図解するかのような説明の仕方は、非常に面白いと思った。 また、そうやって分かっているからだと思うが、中条氏が文章説明するのに当たって説明する、引用文元の作品のあらすじがまたうまい。すごく読みたくさせる。 一応、本書で扱っている作品を羅列してみる(<>は目次のタイトル/★は私が特に読みたいと思った本); <行動を記述する> 森鴎外『山椒大夫』 <心象を描写する> 夏目漱石『それから』★ <比喩を使う> 佐藤春夫『田園の憂鬱』 <写生する> 梶井基次郎『冬の蠅』★ <状況を説明する> 泉鏡花『風流線』★ <日本の特性を語りに活用する> 井伏鱒二『本日休診』★ <方言で語る> 野坂昭如『エロ事師たち』★ <若者の口調を使う> 橋本治『桃尻娘』★ <相手に語りかける> 江戸川乱歩『人間椅子』 <ダイアローグを変形する> 久生十蘭『姦』★ <日記に仕立てる> 谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』★(読みたいが覚悟が必要かも) <会話を構成する> 大岡昇平『野火』★ <擬態語を使う> 内田百『東京日記』★(既読分はほんの一部だったみたいなので) <視点を設定する> 北杜夫『どくとるマンボウ航海記』★ <語らずにおく> 永井荷風『腕くらべ』★ <否定する> 色川武大『怪しい来客簿』★ <推論する> 阿部公房『燃えつきた地図』★ <列挙する> 芥川龍之介『戯作三昧』 <メタ小説を書く> 島尾敏雄『夢の中での日常』 <政治を寓話化する> 大江健三郎『奇妙な仕事』 <書簡体を用いる> 夢野久作『瓶詰地獄』★ <小説のからくりを明かす> 志賀直哉『小僧の神様』 ほぼ★。というか、全然本を読めてないなーというのが正直なところだったり。 読書の秋だ!
ウラジーミル・ナボコフ 「青白い炎」 富士川義之・訳 2003年 筑摩書店
思い出した頃に「書評家<狐>の読書遺産」より。 今回は「青白い炎」と「文章読本」のコンビ。 まず手をつけたのが太い方の「青白い炎」。 しかし、なんというか。この「青白い炎」を読むのは、なんとも苦労を強いられたことよ! まず、形態が実験的というのか、普通の小説とは違うということ。 私の非常に苦手な詩が大事な役目を果たしているということ。 翻訳ものであること(そして決して大層うまい訳とはいえない)。 この3つが、読み進むのを困難にしていたのだった。 本題に入ると、この本は単純に『小説』といえない。 なにせ目次のページをめくると ・前書き ・青白い炎 四つの詩篇より成る詩 ・注釈 ・索引 となっているのだ。 前書きを読むと、今は亡きジョン・シェイド(架空の詩人)の遺作について、その友人のキンボート教授がきちんと注釈をつけて発表しようとしている、という体裁がとられていることが分かる。 そして、その前書きでキンボートがお願いしている通り、本編である詩と、注釈を合わせて読んでいくと、なんとまぁ不思議なことになっていくのだ。 まずこの注釈ってば、まったくもって“注釈”ではない。 詩の単語や文から脱線させて、違う物語が紡がれていく。 詩自体は、シェイドの自伝的詩になっている。 彼の娘が殺されたようで、絶えず死についてが底辺になっているような詩となっている。 ちなみに私は詩のこの部分が好きだった;Time means growth, And growth means nothing in Elysian life. Fondling changelss child, the flax-haired wife Grieves on the bring of a remembered pond Full of a dreamy sky. (時間は成長を意味するが、 天国の生活では成長は何の意味もない。 少しも変わらぬ子供を可愛がりながら、亜麻色の髪毛の細君は 夢幻的な空をいっぱいに映した思い出のなかの池の 縁で悲嘆にくれている。) (p108-9)
抜き出してみると、魅力が分からないかもしれないが、読んだときに、突然ふっと空間が上に向かって無限に広がった感じがしたのだ。 (というかこれからも分かるように、訳がいまいちすぎる) それはさておき。 注釈の方は、キンボートの故郷ゼンブラの最後の王様について書かれている。 もちろん、シェイドとの思い出や、詩の世間一般的な“注釈”も書かれているけれども、ほとんどがその王様について。 その王様は男色家で、革命がおきてから閉じ込められているのだが、脱走してしまう。 その脱走した王様を革命派の手先によって送り込まれた暗殺者が追いかける。 といった話が注釈に書かれている。 そして読んでいくうちに、この王様こそがキンボートらしいのだ。 そしてそして最後には、シェイドの物語と、王様の物語が見事にかち合って終わる。 と最後の、カチリとはまる感じは大変面白かったのだが、いかんせん、このキンボートの性格が悪いような気がしてしょうがない。 シェイドの周りの人物全てを悪者扱いするのには、半ばうんざりとさせられた。 そして、最後のカチリ具合に満足しつつ、訳者のあとがきを読んだら、“キンボートは狂人”“ゼンブラ云々はキンボートの妄想”なることが書かれており唖然。 超単純な読者である私は、ゼンブラが実在しており(もちろんこの世の中には存在していないのは分かっている。小説の中での実在)、時折感じるキンボートの奇妙さは王様であるからだと思っていたのに! え?これは、普通の人が読んだら分かることなの!?私はそれまでに鈍いの!? とそのことばかりが気がかりになって終わった一冊だった。 でも不思議と中身を記憶に残っていて、再読してみようと思うのも事実。今度は原書で読んでみるか。