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がらくたにっき |

ぶたぶたさんという名前がまた愛らしい…

矢崎存美 「キッチンぶたぶた」 2010年 光文社




昨日、人生第二回目の本の交換会に行ってきた。その時にトレードしてもらった内の一冊が「キッチンぶたぶた」。
表紙は超かわいいブタなのに「このブタはこんな可愛いけど、42歳のおっさんです」という紹介に魅かれて代えてもらったのだ。ちなみに「永遠の0」と代えてもらったのだが、何という差。こういうのが交換会の面白さなんだろうけど。

それはさておき。
これはシリーズになっているようで、あとがきによると12冊目だとのこと。
ぶたぶたというのは、表紙に出ているブタのことなのだが、なにかというとずばり“ブタのぬいぐるみ”。
紹介によると、シリーズごとにシチュエーションが変わるらしいのだが、今回のシチュエーションは、ぶたぶたさんがコックさん、という設定。

四編入っているのだが、収録されているのは以下の通り;
・初めてのお一人様
・鼻が臭い
・プリンのキゲン
・初めてのバイト

どれもさらりと読める話で、なごみ系の話。
何せぶたぶたさんがかわいらしい。頑固おやじに

「そんな点目で『どうしても手伝いたいんです』とか言われたら、断れないだろ……」(p213)

と言わしめる可愛さらしいし。
でも中年のおじさんで、しかも奥さんも居れば娘が二人居るってんだから、笑ってしまう。

私が一番好きな話は「初めのバイト」という話だったのだが、ひょんなことで主人公の若葉が、ぶたぶたさんの正体も知らずにぶたぶたさんを捜すというタスクを負ってしまうのだが、読者はぶたぶたさんの正体をもちろん知っているわけで、調査を進めるたびに頭の中で「?」を増やしていく若葉を見るのは単純に面白い。

大人の絵本(絵はないけど)といった感じの本だった。

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Category : 小説:現代
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私も映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」は怖かった

恩田陸 「ブラザー・サン シスター・ムーン」 2009年 川出書房新社




久しぶりに恩田陸さんの作品を読んでみたくて、図書館に行った際に適当に手に取ってみた一冊が「ブラザー・サン シスター・ムーン」。
私の中での恩田陸の印象は“外れが(ほぼ)ない”というものなのだが、確かに外れではなかったが、“アタリ”でもなかった。
なんというか、驚くほど内容がなく、当たり障りのない作品だったのだ。もしこれが図書館ではなく自分で買っていたのであれば、『金返せ~~~!!!』と思ってしまうほど。

話は三部で構成されており、それぞれ違った人物―女性一人、男性二人―の目線で書かれてある。
第一部は女性の一人称で書かれており、第二部は男性の三人称で、第三部は対象人物がインタビューを受けているという設定で、インタビュー受けている情景を三人称、それに応えての心の内の一人称で書かれている。

そして内容はというと、なんというかそれぞれの大学生の頃の話。
三人は同じ高校出身で、しかも高校の時の課外授業(みたいの)の班が同じだったという関係で、それなりに知り合い。そして同じ大学に通ってもいた。
なので、ちょっとずつ交差しているのだが、基本的にはそれぞれの大学時代や高校時代について思い出している話だ。

一応、その三人が課外授業の一環である街にインタビューに行った時に体験した不思議なこと―人っ子一人いなかったり、突然どこかから蛇が川に落ちて泳いだこと―が書かれているが、それがキーになることもなく、だからなに?といった感じ。

それだけの話を飽きさせずに最後まで読ませるのは、さすが恩田陸、といった態だけれど、物語を読んだ感じはまったくしない。
ただ淡々と、さらりとしていて、つかみどころのない話だった。
正直、すぐに記憶からなくなってしまうくらい、印象のない話だった。

Category : 小説:現代
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ショートケーキにチキンは誕生日というよりクリスマスの食べ物みたいだ

佐藤友哉 「1000の小説とバックベアード」 2007年 新潮社




桜庭一樹を推薦してくれた友達ぶこれまた勧められたのが本書「1000の小説とバックベアード」だった。

しょっぱなから、こりゃ面白いと思ったのは、主人公が「片説家」であるという設定だったこと。
しかも「片説家」がなんであるかの説明は一切なく、さも「片説家」が普通の単語であるかのように、主人公が「片説家」をクビになるところから始まる。

読んでいくうちに分かるのは、「片説家」は小説家と違って、誰かから請け負って本を書くことで、普通のサラリーマンであるということ、そしてこの小説の中の世界では、小説に力がある(人を癒したり、情緒不安定にさせたりなど)ということ、だからこそ「片説家」は需要があり(カウンセリングのようなもの?)小説家とはまるっきり違う職業として成り立つようだ。

のっけから片説家をクビになるところから始まるのだが、その主人公のもとへ配川ゆかりという女性が現れる。
いわく、彼女の妹が失踪してしまったのだが、どうやらいなくなる前に主人公が勤めていた会社に小説を依頼していたらしい、その小説を是非読ませてほしいということだった。

こんな感じでハードボイルドチックで、ちゃんと探偵も現れるし、片説家と“ヤミ”と呼ばれる人たちのバトルが繰り広げられるっぽい…となかなか面白いストーリー展開になる。

しかも文章がとても独特で面白かった。
以前、同じ友人に舞城王太郎を勧められたのだが、それと似た匂いを感じる。舞城王太郎の「煙か土か食い物か」の出だしには度肝をぬかれたが、本書もにやりとしてしまいそうなひねくれ方が出ている文章で始まる;

 仕事をうしない、着弾点をわざと外されたような気分になったその日、僕は二十七歳になったけれど、家族からは愛されて育ったし、自分を嫌う子供じみた幸福時代は終わっていたので、コンビニエンスストアでショートケーキとワインを買って誕生日を祝おうとしたが、蝋燭がなかった。
 誕生日ご愁傷さま。
 アパートに戻った途端、チキンを買い忘れたことに気づく。ケーキとワインだけではどうも物足りない。だけどもう一度出かけるのは面倒だし、真夏にチキンは不釣り合いなので、冷蔵庫から生ハムとカットチーズを取り出して、八畳間の床に広げた。
 二十七歳の誕生日に自由にチキンを食べられないのは悲劇だ。
 さらに二十七歳の誕生日に仕事をクビになるのもまた悲劇だ。(p7)


最後の二行のような、まったく同じ字数で羅列したり、繰り返したりするのがよく出てくる。これが視覚的にも訴えるものがあって面白いと思った。
 例えばただの会話文でも

「ねえ木原くん、探偵と一般人の違いってどこだと思う?」
「昼寝の回数でしょう?」
「まじめにやってくれよ」
「じゃあ頭脳の明晰さ?」
「猿でもできる仕事だね」
「殺人事件との遭遇率?」
「テレビの中だけの話さ」
「推理ができるところ?」
「うん、とても惜しいね」
「虚言癖があるところ?」
「うん、とても惜しいね」
「……こじつけですか?」 (p85-86)


とか

 銃口が光る。
 その瞬間、
 何かが聞こえた。
 低い低い音。
 高い高い音。
 その融合が、
 外から聞こえた。
 なんだ? (p211)


とここまでくると詩みたい。
京極夏彦もこういう視覚的な部分にこだわりを持つ人だが、佐藤友哉氏はもっと効果的に使ってるのが面白かった。

「片説家」、失踪、探偵、ヤミとなると、なんだか村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」チックで面白い!という感じだったのだが、だんだんそれが暴走する感があったのが残念だった。

主人公は皆に否定されて、最後にはバックベアードにより、失格者の烙印を押されて地下の図書館に幽閉されていまう。
そこにいる二人の力を借りて脱走できるのだが、その途中でバックベアードに出会い、バックベアードにも認められる。そして外に出て小説を書こうとするのだが…という話なのだが。

「片説家」という架空のもので、下手すれば安直なファンタジーになりそうなところを、あくまでも当たり前のように書くことで現実に存在するように書くのに、私は好感を持ったので、後半部分であまりにファンタジーになったのがただただ残念だった。

Category : 小説:現代
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”当たったらヤバイクイズ”前にも答えを聞いたことあったのにすっかり忘れてた

桜庭一樹 「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」 平成19年 富士見書房




読書仲間から何回か勧められていた桜庭一樹。
今や時の人となっているのにもかかわらず、なかなか手に取らなかったのは、彼女のエッセイを読んだ時にあまりぴんとこなかったから。
ところが、この間会った時もまた勧めるから(偉そうな言い方だな!)、観念して(?)借りてみることにした。

友達オススメの「赤朽葉家の伝説」はなかったので、よく聞くタイトル「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」を読んでみた。

そしたら思いのほか面白くて、しかも簡単に読めるものだったので、2時間くらいで読み終えてしまった。

なーんとなく雰囲気は辻村深月っぽくて、それよりも軽く、でも決してチープなわけじゃない。
かといって凝縮されて濃厚なわけではなくて、むしろ薄い。
多分、大事なところは抑え抑え書かれているんだと思う。つまり上手いんだろうな。
物語の流れはそんな衝撃的なものではなく、予想できる範囲。それでいてつまらない、と思わせないのは、うん、上手いに違いない。
そんなわけで、がっつり小説を読みたい時は物足りないだろうけど、疲れていてちょっと適当な本を読みたい時には最適な本だった(そして読んだ時は疲れていたのでぴったりだったというわけだ)。


物語の舞台は海沿いの田舎。主人公は中学二年生の山田なぎさ。
ここで定番のように非常に冷めた中学生。
背景としては、ひきこもりの美青年である兄と、10年前に海で亡くなった父とがいる。

そこへ転校生がやってくる。
もちろんのこと美少女でいわくつき。麻薬の前科のある歌手であり俳優である海野雅愛の子供、海野藻屑という。
自分のことを人魚と言っていて、奇妙な言動により他の人たちは遠巻きで見るしかない。
そしてなぜか主人公の山田なぎさを気にいったらしく、まとわりつくのだ。

冒頭にばらばら殺人事件の被害者が海野藻屑であること、そして発見者が同い年の少女ということから、この二人の末路が分かるのだが、ひきこもりの兄もアクセントとなりつつ飽きさせないで物語が展開していく。

つまりはひきこもり、虐待といった現代の闇を描いているのだが、現実的にならざらるを得ないなぎさと、夢の世界に居続けざるを得ない藻屑が対比されるように書かれていて、闇自体を描いているというよりは、それを起点として少女たちの生き方の切なさなが描かれているような気がした。

だからこそ最後の最後になぎさが語る

砂糖でできた弾丸(ロリポップ)では子供は世界と戦えない。(p205)


という言葉は、夢で防御するのは不可能だと断言しているようで切なかった。

Category : 小説:現代
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天才というのはやっぱり凡人にはちょっといけすかないな

司馬遼太郎 「空海の風景 上」 1978年 中央公論新社




去年の大河ドラマが坂本龍馬だったし~ということで司馬遼太郎、ではなく。
歴史小説は割と好きな私ですが、司馬遼太郎は苦手だったりする。「竜馬がゆく」なんて1巻で挫折したし。
なんというか、上から目線のような文章はどうも馴染めない。吉川英治が好きなくらいなので。

ではなぜ「空海の風景」なのか。空海に興味があるから、でもなく。
母が読書会なるものを友達としているらしいのだが、その課題図書が「空海の風景」だったのだ。
本を準備するのが遅く、Amazonで頼んだら下巻だけ来てしまい、上巻はいくら待っても来ない。ちなみに本屋にも下巻しかなく、上巻がなかったらしい。
仕方ないので下巻から読み始めたのだが、下巻を読み終わっても尚来ない。
どうなってんだ!ということで、Amazonの発送状況を見てみたら(もちろんそういうのに疎い母の代わりに私が)、カードの不備で発送すらされていなった……
ということで、またもや本屋で検索をかけて、上巻売っているところめがけて、次の日の朝、開店時間にあわせて家を出ていったのだが。

といったいわくつき(?)の本で、母が下巻が面白い面白い、というか母が語る下巻の話を聞いていると、上巻は一体なにが書かれているのか?と思いつつ、あまりに面白いというのと、通勤に持っていく適当な本がなかったので読んでみることにした。

下巻は歴史で習うような空海のことが書かれているようなので、いったい上巻では何が!?と思ったら、空海の生まれ故郷の由来や、空海の家の由来や、仏教/密教の話と、空海が唐に渡ったところまでの話だった。


歴史に残る人だからまぁ そうだろうけど、空海ってすごい人だったらしい。
非常に賢いのはさることながら、想像性/創造性に富んでおり(なにせ詩などもぴかいち)、しかも陽気で“ねばっこい”人だったようだ。
空海もさることながら、密教の知識がなかった私としては、密教自体もびっくりだった。
仏教といえば禁欲的なイメージだが、密教はまったく違って、性欲まで肯定するような、人間の欲というものに大変忠実、というか、欲=生ということで肯定的な宗教らしい。
そんな密教にぴったりな人が空海、というのだ。

空海と比べられる最澄は、空海とはまるで別で、聡明さで言えば空海と並ぶだろうが、非常に勤勉で、真面目な人であったらしい。
母はしきりに「アマデウス」のモーツァルトとサリエリみたい、と言うが、上巻を読む限り、最澄のかわいそうなところは、サリエリのようなずる賢さはなく、ひたすら純粋だったところかもしれない。

と書くところから分かるように、私は空海よりも最澄の方が好きになった。
最澄は今のところ、ほぼ出て来ないが……
なにせ空海はアクが強すぎる。

なにはともあれ、「運も才能の一部」というのを体現するかのように、空海はただ賢いのではない。
空海が華ひらくようにと運気が絶妙なタイミングでやってくるのだ。
何よりも、乗り遅れた遣唐使の船が、暴風雨で破損し戻ってきた、というのにそれが表れていると思う。


さて、本書の面白いところは、いわゆる“小説”的な書かれ方をしていないところだ。
まるで司馬遼太郎の随筆のように(「空海とわたし」的な)、司馬遼太郎が空海の出身地に行ったシーンが挿話として入っていていたり、空海についてと、司馬遼太郎の考察が連綿と書かれている。
時折

 最澄の遠く小さな影をみて、空海はどう評価したであろう。
 ここで小説として描写すれば、
「あれが内供奉十禅師の最澄だ」
 と、空海の背後でささやきかける人物を設定しなければならない。声にとげがあった。そのとげのために、宮廷の大人たちからかならずしも好かれていない若者である。
 橘逸勢という儒生だった。(p230)


となっているのが割と面白かった。


なんにしろ、上巻ばかり売れて下巻が売れ残っていたのがよく分かった。
多分、上巻で挫折する人が多かったのであろう。。。という感じの固さだった。
頑張って下巻も読むぞ…

Category : 小説:歴史
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注釈が必須なので栞が二つ必要

マルセル・プルースト 「失われた時を求めて2 第一篇 スワン家の方へII」 鈴木道彦・訳 集英社




さくさく読み終わってしまった「失われた時を求めて」の第二巻。
実際、1巻よりも断然に読みやすかった。

この巻には、第二部の「スワンの恋」と第三部の「土地の名・名」が収められている。
8割方が「スワンの恋」なのだが、そのタイトル通り、スワンのオデット嬢への恋が書き綴られている。
だから、第一巻よりも読みやすいのはそのせいかもしれない。

と言ってもただの物語調ではない。
スワンがそれまで好みではないとみなしていたオデット嬢に恋に落ちる瞬間から、その恋から冷めてしまう瞬間まで、スワンの心情描写が話のメインとなっているのが、「失われた時を求めて」らしさを出しているのだと思う。
つまり、普通の恋愛小説とは違っており、ただただスワンの心の動き―恋に落ちる瞬間から、恋の楽しい部分、楽しい部分から苦しむ部分、苦しむ部分からあるきかっかけで冷める瞬間まで―が克明に描かれているのみで、特にストーリー性があるわけではない。
その描写がまた緻密で、説得力があり、読み応えのあることといったら、さすがに世界的に著名な本だけある。

というわけで、話の流れといった流れはあまりないのだが、それでもざっと概要を述べると…
この話は語り手が生まれる前の話。
社交界を飛びまわっているスワンは、あるところからオデット嬢と知り合いになり、オデット嬢がスワンのことを気にいったのをきっかけに、オデット嬢がよく出ているヴェルデュラン夫人のサロンにも出ることになる。
オデット嬢は自分の好みではまっっったくなかったので、いくらオデット嬢が好意を寄せても、対して興味を持てなかったスワンだったが、ある時、オデット嬢の姿にボッティチェリの絵との相違を見つけ、その途端恋に落ちる。

楽しい恋の一時はすぐに過ぎてしまい、社交界を批判的に見ているヴェルデュラン夫人に反感を抱かれてしまいサロンに呼ばれなくなったり、オデットがスワンに興味がなくなってしまったりして、スワンは恋に苦しむ。
しかもオデットは高級娼婦であるとスワンに言って来る人も出てくるが、スワンはオデット一筋。

そんな苦しんでいるある日、夜に見た夢を反芻するなかで、突然、オデットは自分の好みの女性ではまったくなかったと気付き、恋という夢から覚める。


「スワンの恋」と同時に収録されている「土地の名・名」は、語り手の思い出話に戻る。
名前から連想する土地などの素晴らしさを語った後、スワンの娘・ジルベルトとの思い出が語れる。
これが「小さな恋のメロディ」的で、その前に語られていた「スワンの恋」と少々対比されている感じで面白い(何せスワンとオデットの子供だし)。
ここでも男が女に恋焦がれるが、女は知ったこっちゃない、といった姿勢が描かれている(こんな書き方をすると身も蓋もないが)。


心に残った文章を追記しておく;

Category : 小説:古典
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それにしても空戦の描写がリアルで驚いた

百田尚樹 「永遠の0」 2009年 講談社




記念すべき初めての読書会にて、紹介された「永遠の0」。
その時に、“浅田次郎の『壬生義士伝』を下敷きに書かれた”と言われたので、まず「壬生義士伝」を読もうということで読んだのがこれ
それからまあ時間が経って、買って手元にあったのにずるずると読まずにいて、しかも本屋では山積みにされているのを見るたびに「読まなきゃ」とは思っていて、やっと読み始めたのが去年の暮れ。

なにせ文庫だから外に持っていけるんだけど、内容が内容だけにうっかり電車の中で泣いてしまったら困る!てんで、持って行きもできず、かと言って家でしめっぽい本を読む気にもなれず、私にしては長いスパンをかけて読み終えた。

でもだからといって、面白くなかったわけではない。
確かに趣向としては「壬生義士伝」のほうが面白かったし、テーマの書き方もうまかったと思う。
でもこれは著者の処女作だし、なによりも“特攻隊”という知らなくてはいけない、でもあまり知らないことがテーマだったので、私にとって得るものが多い本となった。
しかも、最後の最後はどんでん返し的なものもあって、涙涙で終わった。


「壬生義士伝」が下敷きになっている、ということからわかるように、聞き語りの形式をとっている。
本書ははっきりと聞き手が分かっており、語られる人物の孫となっており、彼が主人公となっている。
ひょんなことから、自分が祖父と思っていた人物は血がつながっておらず、本当の祖父は特攻隊で亡くなっていたということを知る。
ジャーナリストの姉からの要請で、祖父について調べることになった、というのが話の導入部分となる。

いろんな人から聞く祖父は、当時の軍隊ではあるまじきことに、「死にたくない」と公然と言う人であった。
それでいて飛行機の操縦の腕は素晴らしい。
とまさに「壬生義士伝」。
もちろん「壬生義士伝」のように、語られる人物を悪く言う人もいれば、崇拝しているかのように言う人もいる。

ただお恥ずかしながら、日本の戦争事情をそこまで知らなかったので、色んな意味で哀しくなった。
まず、幹部の人たちの腰抜け具合。そしてそれに振り回されながらも、立派に任務をこなしていく非エリート。
どんなに成果をあげても、そしてアメリカ軍に恐れられていても、エリートではないということで、出世できないどころか冷遇されていた。

もちろん物質的な面からしてアメリカに勝てるわけがないのだが、それにしたってこんな上層部だったら勝つ見込みなんて0どころかマイナスだったんじゃないか、と思った。
人を人としてみないで、人を使うなんてうまくいくわけないし、責任を負わないで作戦を遂行するなんて成功するわけがない。
それなのに下で働く人たちがあれだけ戦ったのは、日本人だからだと思った。

その事実に衝撃を受けて、ひどい上層部と必死に頑張る下層部というテーマばかり印象的だったが、実はもうひとつ主題があって、それは人々の態度の豹変についてだった。
特攻隊など英雄視されていたのに、終戦後は狂信的な人と見なされたり、家族が村八分にされたり。


まあ そんなこんなで読み応えのある一冊だったのだが、難点はひとつ。
姉の恋物語はいらないよ!ていうところ。いったい何のためにあったのだか。


と文句で終わるのは忍びないので、最後にしみじみとした話を;
(戦後、戦った相手である元米軍兵と会って)

「ゼロのパイロットはすごかった。これはお世辞ではない。何度も機体を穴だらけにされた俺が言うんだ。本物のパイロットが何人もいた」
 私は思わず涙がこぼれました。彼は驚いたようでした。
「ラバウルの空で死んだ仲間たちが今の言葉を聞けば、喜ぶと思う」
 彼は何度も頷きました。
「俺たちの仲間も何人も死んだ。今頃は天国で冗談を言い合ってるかもしれん」
 そうであって欲しいと思いました。目の前にいるこんないい男たちと殺しあった過去が悲しくてなりませんでした。(p231-232)

Category : 小説:現代
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予想通り、映画をまた観たくなった

Virginia Woolf "ORLANDO A Biography" 1994, Penguin Books




ロケ地にまで行ってしまうくらい映画の「Orlando」が好きだったのもあって、いつかは読みたいと思っていた原作の「Orlando」。
本を買ったはいいけれども、まったく手をつけず幾年か経ってしまったのだが、やっとこさ読み終えることができた。
ということで2011年初の本は「ORLANDO A Biography」でありました。


映画とは割と雰囲気が違うお話だったのは明記しなくてはいけないが、小説・映画ともに面白いものであるということも追記しなくてはならない。
もちろん小説が先行なので、私の「Orlando」への認識は逆でなくてはいけないのだが、あえて言っていますと「小説も面白いじゃん!」
逆に言えば、「あの映画、よくできてたのね」

ざっとした話の流れを書いてしまうと、エリザベス朝時代の青年であったOrlandoの青年期から現在(初版は1928年)までの伝記、という形をとった小説である。しかも、最初男性であったのに、ある時を境に突然女性になる。
もっと端的に言うと、三重にわたって旅をしたOrlandoという人物の物語で、その三重とは;1.土地(生まれはイギリスで、イスタンブールに行ったりする。しかも屋敷を追われたりする) 2.時代 3.性別 となる。

非常にユニークなのは、なぜOrlandoが女性になってしまったのか、とか、なんでこんな長生きしているのか、という説明がなされていない点だ。
というか、Orlandoが交流する人(主に文学者)で時がものすごく経っているのに気付く、というあいまいさ(最後の方ははっきりと“18世紀”とか“現在”とか出てくるけど)。文学者の知識がないもんだから、“あれ?小説版のOrlandoは時を旅しないのかしら?”と思ってしまったよ。。。

映画の「Orlando」は、フェミニズムの色を前面に出している感じだけれども(Orlandoが産む子供が小説では男の子だけれど、映画では女の子というところからも伺える?)、小説の方は、確かにフェミニズムの影がまったくないわけではないが、むしろ文学についてが書かれていると思った。
特にOrlandoが、自分が書いた“The Oak Tree”という詩をずっと持ち続けているのが象徴的だし、最後にほぼ無理やり出版させられて喪失感を感じたり、賞を取った後も“賞”や“名声”について疑問を持つのも印象的だった。


総合的にはとても好きだったのだが、ひとつ気に入らないところが。
Orlandoの肖像画ということで、肖像画や写真が挿入されているんだが、どうもこれがイメージをぶち壊している。
特に初版の表紙絵だった肖像画なんて、“おっさんやん…”といったものだし。
映画のイメージもあって、歳を取らない中性的なイメージを持っていた私としては、非常に非常に非常に残念だった。。。

最後に好きなフレーズをあげておく。

Category : 小説:古典
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