恩田陸 「ユージニア」 平成17年 角川書店
久しぶりの恩田陸。図書館でお目当ての本がなくて、何を借りるか迷うと必ず手に取るのが恩田陸のような気がする。
半分寝ながら読んだのが悪いに違いないのだが、終わりの方は意味がちょっと分からなかったし、結末は腑に落ちなかった。
それでも雰囲気というか、話の進め方はやっぱり好きだったけれども。
今回の話は、基本的に誰かに話しかけている形で進んでいく。丁度「壬生義士伝」みたいに。
そして挿話的に語り手のエピソードが三人称で描かれている。
対象となる事件は、加賀(多分)で起きた無差別毒殺事件。青澤家というその土地の名士の家にて、親子三代の誕生日という目出たい席で、近所の人も招かれたりなんかしてお祝が開かれている時に、お酒とジュースが届けられる。送り主が知り合いだったのもあって、皆でそのお酒やジュースを飲んだが最後、皆死んでしまったのだ。
この話の面白いところは、この事件の十年くらい経ってから、この事件を題材にした本が出版され大変評判になったのから、また暫く経っているという設定のところ。
つまり、事件のことを語っている本書の中に、もう一冊同じ事件を題材にした本が存在しているのだ。
そしてしばしば、この本について出てくる。
というのはその本を書いたのは、事件に居合わせた子供だったのだ(ちなみに最初の語り手はその作者である)。
一応ミステリ仕立てになっていて、誰が犯人だったのかというのにも迫ってくる。
犯人も提示されるのだが、最後の終わり方の腑に落ちないのが、犯人の愚痴のような感じで終わるところ。
なにせ事件から時間が経っているから、ただの中年に成り下がってしまった、というその空しさを表現するのはいいけれども、やっぱり私としては、最初からの雰囲気のように夢心地に終わって欲しかった。
それでもやっぱり恩田陸らしい鋭いところもあって;
私たちは、生きていくには、他人から「見えない」ほうがいいということを本能的に知っています。転校生は目立っちゃいけない。人の目につかない、前からいたような顔をしてなくちゃならない。「見える」人間の背負うリスクが怖いわけです。だから逆に、自分を他人と差別化したい人は、他人から「見える」ようになりたいと願う。
あの家は「見える」家だった。中の住人も。
…(中略)…
だけど、尊敬と軽蔑、憧れと妬みは紙一重。
長い歳月の間に、彼らは、自分たちに「見えない人間」を増やしていってたんじゃないでしょうか。
「見えない人間」の奉仕と忠誠を、当然のものと思うようになっていたんじゃないか。
「見えない人間」が何を考えているか、どれだけ存在しているか、想像しようとしなくなったんじゃないか。(p195)
全然関係ないけど、高田崇史の「式の密室」だかでの、式神の考察を思いだしてしまった。
何はともあれ、やっぱり恩田陸の書く雰囲気が好きだなと再確認した。
高橋克彦 「霊の柩(下) 交霊英国編」 平成15年 祥伝社
ついに読み終えた“竜の柩”シリーズ。
正直「霊の柩」の方が好きだったな。まぁ それを楽しむのには「竜の柩」は必読だけれど。
霊媒師に会うのを目的にイギリスへ渡った虹人たちは、偶然にも船で出逢ったイギリス人の家に厄介になる。
なんと彼の家こそ幽霊邸だったのだ!
例によって例の如く虹人の知識によって、その幽霊を退治することとなるのだが、その一環で霊媒師と出会い、ついでにコナン・ドイルとも出会い、その霊媒師を通して鹿角とも出会う。
なかなか“霊”に対する見解が面白かった。
曰く、霊というのは時間の感覚がなく、未来や過去にいけるに違いない。生霊と呼ばれているものの大半は、実際に生きている人から出たのではなく、死んだ人の霊が過去に戻ったのではないか?
「もともと幽霊は時間を飛び越えられる。江戸の人間の幽霊となれば百年以上も前の存在だ。それが大して歳も取らずにわれわれの前に姿を見せる。ってことは時間旅行者と一緒じゃないか。…(中略)…
それができるなら、未来ばかりじゃなく過去にだって行き来ができてもおかしくはないさ。そのことに今までだれ一人として気付かなかったのは、それが幽霊であるかどうか確かめようがなかったからんだ…(中略)…
たとえば、目の前にマリリン・モンローが居るとしますよね。…(中略)…
彼女がそう言って自己紹介する。われわれは彼女が死んだことを知っている。だから幽霊だと直ぐ分かる。しかし、この船の他の連中にはそれが分からない。…(中略)…相手が幽霊であることの確認は、観ている当事者たちが、その相手が死者であるのを承知しているということが条件なんだ。山崎君たちのことがいい例だ。南波さんは二人の死を確認している。だから幽霊と直ぐに分かった。けれど、あの旅館の人間たちは二人を知らない。見たとしても幽霊とは思わない。たとえ廊下で消えたのを目撃したところで、その前に死んだ人間だと考える。まさか未来から出現した幽霊だなんて想像もしない」(p70-71)
面白い幽霊考だったので、長々と抜粋してしまったが、物語はというと、最終的に現代に戻ることができてメデタシメデタシとなる。
幽霊になった鹿角と仲良く事件を解決するのとか大変面白かったので、こういう話も(幽霊と霊現象の解明とか?)ありだなと思った。「竜の柩」の前半では敵同士だったのに、時空を飛び越えても仲良く冒険というのがよかった。
こんな夢中になって読んだシリーズが終わってしまって、ちょっとさびしい気もしないでもない。
高橋克彦 「霊の柩(上) 心霊日本編」 平成15年 祥伝社
本交換会で「竜の柩」を交換した時に1・2巻のみ頂いて、「読んでみて面白かったら言ってくださいね。今度3・4巻持ってくるんで」と言われたので、厚かましくも1巻読んだ時点で3・4巻を頼んでみたところ、「今度3・4巻と続編も持っていきます」と言って頂いた。
『続編!?』と思っていたところに持ってきてくれたのが、この「霊の柩」だったいうわけ。
「竜の柩」で無事にタイムマシーンで現代の日本に帰ってこれたと思ったら、残念なことに大正8年の日本に着いてしまったのだ!
この大正という、とんでも遠い過去(平安時代、戦国時代、江戸時代)でもなく、微妙に遠い過去というのが“うまいな~”と思わせた。
この程良い過去のおかげで、タイムトラベラーと歴史の問題が克明になったからだ。例えば東が;
「もし……ドイツに渡ってヒトラーをわれわれが暗殺したら、何百万ものユダヤ人捕虜の命を救える結果になるかもしれません。戻れないと決まったら、そういう生き方をしませんか」
「歴史を無視してか?」
虹人は東を見詰めた。
「知らない顔をして生きて行けそうにない。ここは過去の世界でも、俺にとっての明日はやはり未来だ。そっちを大事にしたい。ヒトラーを殺せば、そもそも戦争さえもなくなって永い平和が続くかもしれない。」(p173)
というのは、この過去が現代(21世紀)に影響するくらい、まだ21世紀が引きずっている過去だからだと思う。
さて話の筋はというと、なんとか大正から現代に戻ろうと画策した虹人は、この当時流行った超能力・霊能は<神>
つまり宇宙人たちのコンタクトがあったのではないか?と仮説をたてる。そうであれば、イシュタルに是非会って、もう一度タイムマシンに乗せてもらおうとする。
そのために予言者という宮崎虎之助(実在していた人)に会いに行く。そこで霊に関するヒントをもらって、霊にこそ会ったらいいのでは?ということになって、イギリスへ渡ることにする。
そこで出資者を募ると、家具の買い付けを行っている島村に出会い、彼には事情を話すことになる。
ひょんなことから、中国人マフィアの孫娘・明鈴も伴ってイギリスへと出航するところで上巻は終わる。
本書の何が印象的って、江戸川乱歩に出会うシーンだった。
宮沢賢治にも出会うのだが、それは虹人たちが予想していたところもあって(何せ宮沢賢治の知り合いのフリをして難を逃れたりする)、そこまで驚きではなかった。
ところが江戸川乱歩に関してはまったくの不意打ちで、しかも向うから話しかけてくるのだ。
だんだん話していく内に、“この人はひょっとして……?”となるのだから感動といったらなかった。
虹人と一緒にタイムトラベルした気分になって、本当に“胸が震えるくらい”感動したのだから、そのシーンの描写は絶品だった。というか、多分作者も江戸川乱歩が好きなんだろう。そうじゃないとこんなワクワクするような文章にならないと思う。
今度はコナン・ドイルのいるイギリスというのだから楽しみ!
というか明鈴絡みで一波乱ありそうだ。
高橋克彦 「竜の柩4 約束の地編」 平成9年 祥伝社
さくさくと最終巻まで読み終わってしまった。面白かったー
最後までイシュタルがどんな姿なのか、あんま想像できなかったけど。
一巻・二巻を読んだ時は、このまま古代史の新しい見解がテーマになるのかと思ったら、UFOに乗って飛び出したのにはたまげたけど。
全体的に見たら、キャラクターの書き方がいいわけではないし(平凡なキャラクター像にあり得ないくらい杜撰な女性キャラの書き方)、心を打つ話でもないし、情景描写も素晴らしいわけではないけれど、これだけすいすい読めるということはエンターテイメント作品として合格点だと思う。
話の筋とは関係ないが、気になったところ;
日本人ほど悪霊の扱いに巧みな民族はいない。キリスト教における悪魔は、どこまでいっても邪悪な存在でしかない。なのに日本人は悪霊と共存するばかりか、別の機能を持たせて善の神にまですり替えてしまう。大変な才能だとは思いませんか。よく言われる日本人評に『曖昧さ』が挙げられますね。当然なんだ。日本人は悪霊さえ認めてしまう民族なんだから。江戸時代に勧善懲悪物の芝居や小説が流行したのは、皆がそうだったからじゃない。反対ですよ。したくてもできなかった人間ばかりだったので、ドラマや小説の中には勧善懲悪を求めたんです。(p131)
前半の部分は他の人もよく言っているので目新しいわけではなかったけれども、勧善懲悪物の解釈が(いささかこじつけ感もないこともないが)、なるほどそう取れるか、と思ったので。
それはさておき、肝心なる物語はというと、虹人たちは4千年前の日本を見ることで、やっと自分達が4千年前の地球に来たことが分かった。
その日本でタイムマシーンを見つけることもできたのもあって、一旦シュメールに戻り、イシュタルたちと牡牛族と相対する。
未来人の到来による歴史の改ざんは、必ず出てくる問題点となるが、本作でもそれが問題となる。虹人による古代史の読みをベースに、牡牛族のブトー(スサノオ)と協定を結ぶよう働きかける。
やれやれめでたし、元の世界に戻るぞ、となった時に、鹿角は虹人に自分のロレックスを託して、縄文時代に残ることにしたのだった。
もともと重要キャラだったのにこの頃目立たなくなったから、最後に華を持たせてやろうかな的だ、なんて意地の悪いことは言わないけれども、キリスト教幹部でいながら龍を追い求めた人物としては、妥当な終わり方だったと思う。
さてさて、これで終わりかと思いきや、続編があるとのことで、それももらったので続けて読むとするか。
高橋克彦 「竜の柩3 神の星編」 平成9年 祥伝社
「竜の柩2」のレビューを書き終わった直後に3巻を読み終わってしまった。
1日で読み終わったよ!!
これまで古代史・神話が実は宇宙人による支配史だった、という話から一転して、本当にSFチックになる。
虹人達を乗せた宇宙船は得体の知れない所でで着陸する。
身体の感じといい、どうやら長い時間が経ったようだった。虹人たちが外に出てみると、人間とよく似た姿をした宇宙人たちが現れ、捕えられてしまう。
言語はまったく通じないようだが、どうやらシュメール語を使っているようだ。
そして次第に分かってきたのが、どうやら戦争が繰り広げられていること。そして捕えた軍は、虹人たちの目的となる龍の一族ではなく、その敵の牡牛の一族のようであった。
彼等もかつての地球のようにエイリアンを神として奉っており、若い将校が神とコンタクトをとりつつ戦を繰り広げているようなのだ。
龍の一族に会わんがために、虹人たちは牡牛の一族が脱出を図る。
その際に成り行きで、彼等を崇めていた神=エイランを殺してしまい、ついでに将校を人質に、宇宙船に乗って逃亡するのだった。
その時に、戦の中で東が助けた男の子と一緒に逃げるのだが(というか宇宙船の操縦をその子がしてくれる)、なんとその子は国の王子だったのだ。
ついに虹人たちはイシュタル=エイリアンと対面することなる。
そこで知ったのが、虹人たちが現在いる所こそ、4000年前の地球であったのだった!
エイリアンたちが自分達の未来を知るために、宇宙船を未来に送り、人物を連れてくるようにプログラミングしていたというのだった。
ということで、私の予想は半分あたっていたけど、半分違ったのだね…… 違う星だと思っていたよ。
この調子で四巻も読むか!
高橋克彦 「竜の柩2 ノアの方舟編」 平成9年 詳伝社
さくさく読み終わった「竜の柩2」。
実は本日の朝、会社に行く前に読み切ってしまった。早く出ようと思っていたのに…
今回は舞台が代わり、虹人たちはインド、トルコへと向かう。
というのは蓉の知人で、兄がアララト山に“ノアの箱舟”の調査に参加したきり、その山で事故があったので皆死んでしまった、という人がいて、その知人・信子は虹人の助けを借りてアララト山へ行きたいと申し入れてきたからだった。
冒頭部分でその事故があったシーンがあるのだが、もちろんそれは事故ではなく、たった一人の生存者であるソフィアこそが、事故をよそって皆抹殺してしまったというものだったのだ。
そしてソフィアはバチカンが保有する龍の専門家で、鹿角がバチカンに虹人のことを報告をしたがために、鹿角とともに虹人を追撃することになる。
そんなわけで、ソフィア一団と虹人たちの攻防劇が繰り広げられるなかで、例の“古代史は宇宙人に支配されていたことを物語る”という説が繰り広げられる。
実は今、このレビューを書いている時点で3巻の終盤に来ているので、細かいことを書くのが面倒くさいので、手っ取り早く虹人がまとめている言葉を抜き出すと;
「まず、シュメールから逃れた龍の一族が出雲に辿り着いた。彼らは原ヒッタイトと同様に製鉄技術を持っていた。当時の鉄は金よりも貴重で、それを作り出す人間は神にも等しい存在だった。彼らは目を炎から守るために濃い遮光メガネを掛けていた。目一箇神と崇められるようになった。鉄はアラと呼ばれ、製作者はハハ(蛇)の人々。だからアラハバキを象った神像は製鉄民の象徴でもある遮光メガネを装着している。そこに須佐之男命が率いる牡牛一族が追撃して来た。龍の一族は敗退し東北に落ちのびた。タタラ技術を持った彼らの足跡はダイダラボッチ伝説として残り、龍の関連から水神伝説にも変化した。そうでもない限り、山の神のはずのダイダラボッチが、なぜ水神とも言われるのか理解できない。これで謎が全部解けたと思う」(p351-352)
さて本書の最後に、ついにアララト山でノアの箱舟(UFO)を見つける。
それに虹人、東、南波、純、鹿角が飛び乗ってみた途端、空へと飛び出してしまったのだった。
以降は、第三巻を読み途中で、確信を持って推理していること。
ロバート・A・ハインライン 「夏への扉」 福島正実・訳 1979年 早川書房
本交換会で「のぼうの城」と交換してもらったのが、本書「夏への扉」。
普段SFをなかなか読まないのだが、“愛猫と一緒に冷凍睡眠に入ったはずが、目を覚ましてみたら猫がいない。どこに行ったのか!?と猫を探す話”と聞いて、私が苦手な宇宙が舞台になっているわけでもないし、SFなのに猫探しというところが気になって交換してもらったのだった。
読んでみたら正確には猫探しではなかったのだが、非~~常に面白かった!!!
まず、書かれた年代(ついでに訳された年代)が古いせいか、妙にレトロな感じで、それが非常にツボだった。
これは紹介された時に言われたのだが、今であったら“メイドロボット”なんて風に呼ばれそうなところを、文化女中器(ハイヤード・ガール)なんていう単語が使われていたりする。
さて肝心な話はというと、舞台は1970年。といっても私たちの知る1970年ではなく、アメリカでは六週間戦争があったりだのと、現実はちょっと違う世界となっている。
要約してしまうと時間旅行の話になっていて、主人公30年後、つまり2000年にやってくる。
もちろん1979年に書かれた2000年なので、現実と随分違うのだが、そもそも1970年時点で現実と違うのだから、“本当の2000年はこんなんじゃないのに”と揚げ足を取ることもなく素直に読める。それが本書の賢いところだと思った。
高橋克彦 「竜の柩1 聖邪の顔編」 平成9年 祥伝社
本交換会にて「QED 六歌仙の暗号」と交換してもらった「竜の柩」。
ずっと気になっていて、読む本リストに入っていたのだが、図書館にいくと必ずと言っていいほど1巻がなく、ずっと読む機会に恵まれていなかった。
「QED 六歌仙の暗号」と交換して欲しい、と言われた時には即答してしまいましたよ、はい。
実は高橋克彦氏の作品を読むのも初めて。
ワクワクしながら読んでみたら…
竜というから、竜好きな私としてはすごい期待していたのだが、予想していたのとは違うアプローチでちょっととまどった。でもそんなとまどいは束の間、するする読めてあっという間に一巻読み終えた。
感触としては、柴田よしきの「炎都」シリーズみたい。といってもこんなテイストの作品は、普段あまり読まないので比較対象が「炎都」シリーズくらいしかないんだけど…
司馬遼太郎 「空海の風景(下)」 1978年 中央公論社
気分がくじける前に大慌てで読み終えた「空海の風景」。先週の土曜日に面白そうな本を何冊かまとめて入手したのも手伝って、本当に大慌てで読み終えた。
というか、大慌てすぎて斜め読み。
だって面白くないんだも~ん
正直、司馬遼太郎は空海のことを好きではないんでないか!?と思われる書き方(あとがきには、昔好きではなかったというような記述があるが)。
いくら天才でも、いくら非凡な人でも、そしていくら偉業を成し遂げたとしても、この傲慢っぷりには辟易してしまう。
たしかに文才に恵まれ、書もすばらしくて、しかもすべて唐でも認められるほどだとしても、それを自らが認め、そしてそれをまったく隠さないというのは、私にとっては受け付けにくい。
それが非凡と呼ばれる由来だと分かっていても、どうにもこうにも…
そんなもんだから、対比のように書かれている最澄の方がよっぽど肩入れしてしまう。
確かに空海のように才能はなかったとしても、愚直なくらいの真面目さだとしても、好感が持てる。
もちろん、これが天才と、ちょっと才のある人の違いなのかもしれないけれど……
ある意味、天才を本当に天才として、読者に納得させようというある意味での作者のゴマスリもなく、書ききった作品は他に類をみないかもしれないので、さすが司馬遼太郎といった感じかもしれない。
でも、空海に興味があったり、真言宗に興味があったりしない限り、非常に読みにくい本だと思った。