Steig Larsson "The Girl Who Played with Fire" 2006, Maclehose Press
なんやかんやと言いながら、"The Girl with the Dragon Tattoo" が面白かったので読み終わって即座に続編:"The Girl Who Played with Fire"を買ってきてしまった。 さすがに英語は一気読みというわけにはいかなかったけれども、ぐいぐい読めるくらい面白かった~ 特に今回は、映画という予備知識はないのに、ここまで読めたのは相当面白かったんだと思う。
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ミシェル・ペイヴァ― 「クロニクル千古の闇1 オオカミ族の少年」 2005年 評論社
酒井駒子さんの絵に魅かれてずっと読みたいと思っていた「オオカミ族の少年」。 なんとなく機会を逸していたけれどもついに読み終わった。 正直な感想としては、読んでいる最中はぐいぐい読めたけれども、そんな面白かった!!!というものじゃなかったな。 なんとなくあっさり終わってしまった感がある。 ファンタジーなのかと思ったが(そして訳者のあとがきから察するに、ファンタジーというくくりなんだろうけれども)、別世界で繰り広げられる物語、という訳ではなく、今から6000年前のフィンランドを舞台にした物語である。 言ってみれば「空色勾玉」のような態で、いわゆる歴史ファンタジーなんだろう。でも6000年前というところから分かる通り、狩猟民族の頃のお話なので、魔法の力というのも日常茶飯事と思うと、狩猟民族の生態を忠実に描いた歴史小説のような気がしてならない。そうなるとファンタジーっていう定義ってなんなんでしょうね…? それはさておき。 主人公のトラクはオオカミ族の少年。しかし族の中で生活しておらず、父親と二人で生きている。 その平穏な生活は、一頭の巨大熊に襲われ、父親が殺されてしまって終焉を迎える。 死の間際の父親に、熊は悪霊に取り憑かれていることを知らされ、それを止める為に<天地万物の精霊の山>に行くことを誓わされた。 そうして一人ぼっちになったトラクは、同じく家族を洪水で流されたオオカミの子供と出会う。 トラクはある生い立ちの事情で、オオカミの言葉を理解し喋れるので、トラクとオオカミの子は一緒に旅をする。というのは、どうやらオオカミの子はその<天地万物の精霊の山>の場所を知っているようなのだ。 ところが、ある時鹿を殺した時に、ワタリガラス族の一族に捕まってしまう。 そしてトラクは予言に出てくる“聞く耳を持つ者”だと言われ、いけにえにされそうになるところを、なんとか逃げ出し、ワタリガラス族の女の子・レンと共に山に向かうのだった… というような流れ。 一応、熊は倒すので話は完結するのだが、その他いろいろ謎は残されたままで、7巻までシリーズとなっているとのことだった。 ストーリーラインとしては目新しいものではなかったけれども、狩猟民族の生活が克明に描かれていて、それが面白かった。 自然との対峙の仕方や、狩るものと狩られるものの関係など、日本の農耕民族の考え方とは違うな、というのがよく分かった。特に自然に関しては、日本にだって自然に根付いた文化があるが、こちらの自然は非常に厳しいものですぐに自然が“怒る”。金田一春彦氏が、日本の自然は人間に優しく、それが西洋文化の“契約社会”とは異なった文化を形成させた、的なことを書かれていたのが思い出された。 その自然の描写でちょっといいな、と思ったのが、レンとはぐれてしまうシーンで、「レン!レン!」 氷河はその声をトラクのくちびるから引きはがし、深くなってきた闇のほうへと運び去っていった。
いかにも厳しい自然の容赦なさが描かれていると思った。
柴田よしき 「ゆきの山荘の惨劇―猫探偵正太郎登場―」 平成12年 角川書店
柴田よしきがすごいなと思うのは、色んなジャンルを色んなタッチで書き分けることができるところだ。 推理小説、ハードボイルド、現代小説、SFとジャンルを書きこなせば、例えば推理小説の中でもシリアスなのからコメディタッチのも書ける。 今回の「ゆきの山荘の惨劇」は推理小説の中でもコメディタッチで軽いもので、しかも主人公は猫という一風変わった形を取っている。 猫が探偵なのは、かの有名な三毛猫ホームズがいるが、今回は猫視点のお話となっている。 正直、推理小説のトリック部分や事件の部分は奇想天外な展開とはなっていない(何せライトな推理小説ですから)。
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夏目房之助 「漱石の孫」 平成18年 新潮社
実は漱石の有名な三部作を読んだことがないし、「吾輩は猫である」も完読したことがないけれども(何度も途中で挫折している)、漱石は割と好きな作家だ。 というか漱石という人物が好きなのだと思う。 きっかけはある年のお正月に、宮沢りえとモックンが共演した「夏目家の食卓」。その話の夫婦像に魅かれて(よく考えたら、それが好きだったから“伊右衛門”のCMも好きなのかも)、夏目鏡子の談をまとめた「漱石の思い出」を読んだ。 それから夏目漱石の随筆「硝子戸の内」も読み、大変気に入って何度も何度も読み返した。 そんなわけで夏目漱石について書かれた、血縁者のエッセイを目にとめると読んでしまうようになった。 今回は、漱石の長男の長男・夏目房之助氏の作品だ。 漱石の人となりが書かれていることを期待して読んだらがっかりする、ということは最初の1ページで分かった。 というのは、房之助氏にとって“漱石の孫”というレッテルは非常に迷惑であったということが明言されているのだ。 本書は、NHKの企画でロンドンにある漱石の元下宿先を訪ねる、というところから始まる。 行きつくまでは『こうしたら絵になるな』などと考える始末だったのに、元下宿先を訪ねた途端、言葉に表せられない感情が湧きあがってくる。 これは何か? という自問自答からこの本書は成り立っているのだ。 つまり“漱石の孫”というレッテルが嫌でたまらなかった幼少期から、次第に受け入れ始め乗り越えていく過程を丹念に追い、最終的になぜ下宿先で、乗り越えたと思った漱石関連のことでこんな感情を持ったのか、という結論へ行きつく。 所感としては、漫画評論が大変面白かったので、先に房之助氏の漫画評論を読んでいればよかったと思った。 そうした方が、もっとこの本が面白く読めたと思う。 というのも、結局は“漱石の孫”である自分との対峙の記録であるから、房之助氏のことを知らないと、どうも感情移入できないのだ。 ただ好きなシーンが二つあって、それはどちらも鏡子夫人についてだ。 祖母は、ときどきとんちんかんなことをいっては子どもたちに笑われたらしい。そんなとき、彼女がこういったというのだ。 「お前たちは、そうしてばかにするけど、お父さまはばかにしなかったよ。ちゃんと、やさしく教えてくださったよ」(p234)
あと、漱石が留学中になかなか返信をくれない鏡子夫人に対して、寂しいから返事をくれ、という趣旨の手紙を送ったのは、「漱石の思い出」に出てきたので知っていたけれども、それに対する鏡子夫人の手紙を知らなかった。<あなたの、帰り度なつたの、淋しいの、女房の恋しいなぞとは、今迄にないめつらしい事と驚いて居ります、しかし、私もあなたの事を恋しいと思いつゝけている事はまけないつもりです。御わかれした初の内は、夜も目がさめるとねられぬ位かんかへ出してこまりました。けれ共、之も日か立てはしぜんと薄くなるだらうと思ひていました処、中ゝ日か立てもわすれる処か、よけい思い出します。これもきつと一人思でつまらないと思つて、何も云わすに居ましたが、あなたも思い出して下されば、こんな嬉しい事はございません。私の心か通したのですよ。然し、又御帰りになつて御一緒に居たら、又けんくわをする事だ(ら)うと思ひます。[略]私は御留守中いくら大病にかゝても、決して死にませんよ。どんな事かあつても、あなたにおめにかゝらない内は死なゝい事ときめていますから、ご安心遊ばせ。>(p236-7)
なんだかこう考えると、漱石も好きだけれども、漱石と鏡子の関係が好きなんではないかと思えてきた。。。
米原万里 「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」 平成13年 角川書店
イタリアに住む友人の家に遊びに行った時に、イタリア語通訳者の田丸公美子の本を貸してもらって大変楽しく読んだ。その田丸公美子の親友の米原万里の本も面白いよ~と言われたのを頭の隅に残したままいたのだが、今日図書館をぷらぷらしていると、オススメ本セレクションに「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」が置いてあったので早速借りて来た。 もう一気読み。 田丸公美子の本が非常に軽かったのでそのノリで読んだのだが、まったく別物だった。むしろ泣ける。 米原万里さんはティーンエージャーの頃、共産党の父親が、各国共産党の理論情報誌『平和と社会主義の諸問題』の編集委員に任命された関係で、編集局のあるチェコスロバキアで過ごす。 そこではチェコの学校ではなく、ソ連が運営するソビエト学校に通うことになるのだが、そこには50カ国以上の生徒たちが集まるところだった。 「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」は表題作以外にも2作あって、それぞれソビエト学校時代に仲良かった友達の回想、それから彼女たちを探し歩く旅が綴られていた。 その友人たちも国際色豊かで、まずはギリシャからの亡命家族の一員であるリッツァ、ルーマニア人のアーニャ、それからユーゴスラビア人のヤ―スナ。 正直、共産主義に関しては無知に近いし、この旧ソ連とその近隣諸国の関係の歴史にもかなり疎い。 ただ漠然と大変なことが起きた、ということしか分かっていないのだが、この動乱をティーンエイジャーの目線で描かれているのを読むと身につまされる思いになった。特にノン・フィクションだと思うと。 3編の話の中で、ユーゴスラビア人のヤ―スナの話「白い都のヤスミンカ」が一番印象的だった。 転校生のヤ―スナと仲良くなるくだりで 私がヤ―スナに近付きたかったのは、ヤ―スナ自信の魅力もさることながら、もう一つの理由が明らかにあった。世界の共産主義運動の中で、左派に位置すると見られる日本共産党員の娘である私が、最右翼に位置すると思われているユーゴスラビア共産主義者同盟員の娘のヤ―スナと仲良くなることで、論争と人間関係は別なのだということを何としても自分と周囲に示したかった。(p207)
というのを読んで、ティーンエイジャーがそれを思い至るまでの経緯というものを考え込んでしまった。 話変わって、いいなぁと思ったのがロシア人の際に対する考え方:(亡命音楽家や舞踊家の談)「西側に来て一番辛かったこと、ああこれだけはロシアのほうが優れていると切実に思ったことがあるの。それはね、才能に対する考え方の違い。西側では才能は個人の持ち物なのよ、ロシアでは皆の宝なのに。だからこちらでは才能ある者を妬み引きずり下ろそうとする人が多すぎる。ロシアでは、才能がある者は、無条件に愛され、皆が支えてくれたのに」(p193)
ロシアでは他人の才能を無私無欲に祝福し、喜ぶそうだ。なんだか怖い顔をしているイメージしかなかったロシア人に印象が変わりそうな一節だった。
松尾スズキ 「クワイエットルームにようこそ」 2005年 文藝春秋
溜まりにたまった“読む本リスト”の内より「クワイエットルームにようこそ」。 すでに出所が分からない。 図書館の貸出期限がとうに過ぎた頃に読んだら、薄かったせいもあるがすぐ読み終えた。 さらりと読めるくらいの軽さ。 オーバードーズで精神病院に入ってしまった主人公・明日香。 まったくもってまともなつもりなのに、保護者(彼女の場合は彼氏)の許可がないと出られない明日香。 明日香の過去やオーバードーズに至るまでのことがちょろちょろっと書かれていて(離婚した旦那が自殺したり、彼氏と大喧嘩してお酒飲みながら、昔もらったけど飲まないで、でも捨てるには高いからもったいなくてとっておいた薬をポリポリ食べたなど)、精神病院の人々(機械的にしゃべるむかつくナース、患者の多くが摂食障害)がちょろちょろっと書かれていたりと、そのちょろちょろ具合がいい感じ。 つまりテーマとしては重くなりそうだけど、それがライトに書かれている。ライトというか、淡々とさらりと。 例えばこんな感じ; 今まで「絶望だ」と思っていた出来事のすべてが、「100均」に並んでいるような安物の絶望に思える。今度こそホンモノ。この孤独のコクの濃さ。密度。いやだ。考えるな。ペラペラの現実の尻尾を、つかめ!つかんで離すな! ひゃっひゃひゃひゃひゃあ。 わたしは一人ぼっちの冷たい部屋で、とうとう笑い出したもんだった。生きてます。わたし、生きてますからああって、泣きながら笑ったもんだった。(p17-18)
オーバードーズで病院に運ばれて、目が覚めたら拘束されていた、というくだりなのだが、“絶望”の表現がわりとさらっとしてる気がする。 そんな訳で、精神病院・鬱…と重苦しくなりそうなテーマなのに、読了後も気分がローになることがなかった。