古川日出男 「ベルカ、吠えないのか?」 2005年 文藝春秋
本の交換会で紹介されていた本。その時は交換してもらわなかったけれども、タイトルがインパクトあったのと、今となってはなんと紹介されていたのか忘れてしまったけれども、魅力的だな~という印象が残っていたので借りてみた。
発想など斬新で、犬を追いかけていく形で終戦から冷戦を通り越しソ連崩壊まで描いているのは面白かった。
ただ、犬の名前が覚えられなくて、しかも犬がどんどん派生してくので、着いて行くのが難しく、面白味が減ってしまった気がする。
構成も独特で、年号がタイトルとなっている章と、セリフがタイトルとなっている章が交互に現れる。
年号がタイトルとなっているのは、そのままその時代の犬の話になっていて、セリフがタイトルとなっているのは一連の物語が続いて行く。
年号の方は、日本軍に置き去りにされた犬がアメリカに連れて行かれ、というところから始まり、ソ連、中国と行く。
あるものは軍犬として、あるものは野良犬として、あるものはコンクール用の犬として活躍していくのだが、その犬達はそれぞれ何らかの形で繋がっていく。ほとんどが軍犬の話で、最終的にソ連の軍犬に繋がっていき、セリフがタイトルの話とカチリと合うようになっている。
セリフがタイトルとなっている話は、最初は全貌が見えず、ただロシアに乗り出してきたやくざが襲われ、やくざの娘が誘拐されたところからストーリーラインが生まれる。
彼女は地図に載っていない街に連れて来られる。
そこでは何匹もの犬がいて、その犬達は軍用の訓練を受けている。
少女は子犬と意思疎通できるようになり(といってもハートワーミング的な展開にならず)、最終的に彼女自身が犬のようになる。
年号のタイトルの話が進むにつれて、もともとこの調教師はソ連の軍で調教していた将校だということが分かる。
最終的にチェチェンマフィアとロシアマフィアの抗争に巻き込まれ、少女と犬達、それから元将校やらその街に住んでいた人たちは、犬を使ってこの抗争に貢献していく、というところで終わる。
ソ連からロシアへの歴史がよく分かっていなかったので、最後は割と混乱した。
ソ連/ロシア史が分かっていたらもうちょっと面白かったかもしれない。
あとは年号のタイトルの章で特徴的な文章が苦手だった。
“イヌよ、イヌよ、お前たちはどこにいる?”から始まるのだが、時には犬に語りかけ、大変高いところから見下ろした感じの文章がどうも苦手だった。
この苦手な感じの文章、ソ連・ロシアの歴史の知識のなさ、犬の名前が覚えられないが相成って、大変読むのに苦労した本となってしまった。
柳田国男 「海上の海」 2005年 岩波書店
松岡正剛の千夜千書のHPを見ている時、“どれも難しそうなもんばっか…”と思っていたら、ふと柳田国男の「海上の海」が目にとまった。「遠野物語」を読んだことあるし、国語の教科書にも載ってたので興味を持ったのだった。
そんな訳で読んでみたが…
「遠野物語」的なものを想像していた私にとっては、ある意味大誤算だった。
む・難しすぎる……
“日本人はどこから来たのか”というテーマで、柳田国男が今迄調べてきたものをつらつらと、そして自分の見解をつらつら述べているものだった。
民俗学の論文というほどのものではなくて、それよりもちょっとやわらかくなったものではあったけれども、確実に一般向けではないと思う。例えば中沢新一の本なんかは、民俗学をそこまで知らない人もターゲットに入っているのか、大変読みやすい。
時代の面もあるかもしれないけれども、とりあえず「海上の道」は難しかった…
というわけでほとんど理解できていません…。
とりあえず目次だけを抜粋してみると;
・海上の道
…海岸に打ち寄せられるものについての考察。
実際、柳田国男は椰子の実が海岸に流れ着いたのを見たことがあり、島崎藤村にその話をしたのがきっかけで、かの有名な「椰子の実」の歌ができたようだ。
この漂着物を起点に、日本人がこの島に渡ってきたルーツを探っていく
・海神宮考
…ずばり竜宮の話。
竜宮が出てくる話は、龍神の存在よりも“乙姫様”という存在が強く出てくる、というのには“そういえば!”と思った。が、その考察内容は難しく、あまり理解できていない…
・みろくの船
…船に乗って弥勒浄土に行く、という風習について(確か)。
ここら辺から理解するのを半ば放棄しているのだが、その中で“踊る”という話が面白かったので抜粋;
近頃の踊る宗教を見ても察し得られるように、見知らぬ人たちが旅からやって来て、新らしい教えを説こうというのには、踊ることは近路であり、また有効なる方法でもあった。声高な言語は行く人を立ち止らせるが、趣意を汲み取らぬうちに、さっさと行き過ぎる者を制止することができない。これに反して踊りには切れがあり、また際限もなくくり返されて、だんだんと印象を成長させる。(p119)
・根の国の話
…根の国=死後の世界
死後の世界が地下になるまでの考察(多分)
・鼠の浄土
…小さな離れ小島(例えば奄美諸島)に伝わる鼠の話。鼠はどこから渡ってくるのか、など。
あと興味のあるところで言えば、鼠が出てくるおとぎ話。なぜおにぎり、もしくは団子が穴に落ちたのか(これと似たような話が「海神宮考」で出てくるが、海にお正月の門松を投げ捨てると、お礼に海の者が現れるという)。そこから根の国の話になる。
・宝貝のこと
…宝貝というと「かぐや姫」にも出てくるほど、都の人にありがたがれたけれども、実際によく採れるところでは飾りものにもしなかった。なぜ?という話。言葉が違うけれども、“ツシヤの玉”こそ宝貝ではなかったのか?という話。
・人とズズダマ
…ズズダマとは今ではジュズダマと言われている草の実のこと。日本では千年以上前から存在しているらしいのだが、その草の実の遍歴。
・稲の産屋
…新嘗から話が始まり、稲穂の話などなど。
・知りたいと思う事二三
…そのまま。ちょと覚え書き風。というか、これから読んだ方が読みやすかったかも。というのはこの“知りたいと思う事”というのが、その前の章まで展開してきたものだった。
Colin Joyce "How to Japan, A Tokyo Correspondent's Take", 2009, 日本放送出版協会
"An Englishman in N.Y."と一緒に買ったのが“How to Japan”だった。
"An Englishman in N.Y."が全然面白くなかったので、なんで2冊も買ったんだろう…?と失敗した感が募ったのだが、読んでみたらこちらは面白かった。
期待をまったくしていなかったからなのか(むしろモチベーションが下がってたし)、日本というよく知った国についてだったからなのか…
でも客観的に見ても“How to Japan”の方がパンチがきいていたと思う。
思うにどちらもターゲットが日本人で、日本について書くとなれば日本人は“外国人が日本をどんな風に見ているのか?”を知りたくと読むのだから、いいことばかり書かなくてもシニカルに書いてもいい(むしろこっちの方が期待されているかも)。なにせ“ここが変だよ日本人”なんていう番組があって、見てる人も多かったんだから。
対してニューヨークについて日本人に書くとなれば、ニューヨークを皮肉るなんてなかなかできない。やっぱりブラックジョークというのは、その対象についてある程度の共有した認識が必要だと思うからだ。ニューヨークのことをほぼ知らない日本人(私もしかり)を対象にシニカルなコメントをしたところ、“ふーん、そうなんだ”となってしまって、そこにユーモアは生まれないと思うのだ。
そんなわけで、日本の変なところも書いてあるのだが、しきりに書いてあるのが“いかに日本人がいい人か”ということ。
紳士=イギリス人という認識があるけど、とんでもない。イギリスでは見たことないけど日本では見たことがあるという。
Perhaps Japanese take this kind of thing for granted. But I feel in Japan a sense of community still prevails, kept alive in part of small local stores.
The thing about good manners is that they are contagious. I believe that every time a preson is exposed to such courtsey it inspires him to try match that standard. THe reverse is true as well. (p53)
あと浮世絵について、そういえばそうだな、と思ったのが
So the artists worked not for a single client, nor for some vain rich man, nor for the greater glory of god, nor even in pursuit of some kind of pure individual expression. THey excelled in their craft, but they attempted to create art that would sell by the thousands. (p61)
万人に対して創られた芸術というユニークさについて書いてあるのだが、まぁ当時の浮世絵を芸術と捕えるのかというのはまた別の話として、なるほどそうだな、と思った。
Colin Joyce, "An Englishman in N.Y. Bites on the Big Apple", 2011, NHK出版
本屋さんで日本語版の本作を見つけ面白そうだったので、どうせなら英語で読もうと思って買った“An Englishman in N.Y."。
ところがまったくの期待外れであんまり面白くなかった。
私が期待していたのは、イギリス人によるブラックユーモアにあふれるアメリカ論。
対して実際は、大変アメリカに友好的な生ぬるい本だった。
まぁ、NHKの英語講座のテキストにコラムとして載っていたらしいから、そこまでシニカルにできなかったのかもしれないけれども…
N.Y.のいいところ、面白いところなどが満載で、もしかしたらN.Y.に住んでいたらいい指南書にはなったかもしれないけれど。
とにかくちょっと残念だった。
唯一イギリス人らしいな、と思ったのは紅茶についてだったし、なかなかいい文だったので引用しておく;
I suspect the main reason New Yorkers don't drink much tea is that they think they can't spare the few minutes it takes tea to brew fully. Of course, the fact that they are busy is precisely why they should stop and enjoy the little rituals of making tea. (p37)
忙しいからこそのゆっくりした時間の大切さ、なかなか日本人に通じるものがあると思った。
柴田よしき 「RED RAIN」 1998年 角川春樹事務所
久しぶりに柴田よしきを読んでみようと思って借りた本。
相変わらず話に引き込まれるし、ざーっと読める簡単な本ではあったけれども、期待していた分なんだかちゃちな話に思えてしまった。
特に未来の日本像が、経済が破綻して世界でも大変低く位置してて…となると、現実でも日本はそんな明るくないのに、フィクションでこんなひどいって気が滅入るわ、となってしまった。よく考えたら、超ハッピーな未来像が出てくるSFって読んだことないわ。
それはさておき、話はというと、D物資というものに感染してしまうと吸血鬼のようになってしまう、という奇病が発生している世界。
それは地球にぶつかりそうになった惑星を、映画の『アルマゲドン』のような戦法でやっつけて一安心、と思っていたら、その破片から出てきたものであった。
そのD物質に感染してしまうと、超人的なパワーを発して人に襲いかかり血を吸う。
しかも潜伏期間も長ければ、感染してしまうと自身でもD物質を放出してしまうので始末に負えない。
全員が感染するわけでもないし、感染してしまったらそれを直す術も見つかっていない。
つまり、何もかも謎に包まれたままなのだ。
それで世界レベルで対策を打ち出し、舞台となる日本も特別警察官として、D感染者―Dタイプ―を取り締まる部隊が出てきた。
とりあえず感染者を保管して施設に収容、もし抵抗するのであればレーザーガンだかで射殺してしまう。
そんな特殊警察官のシキ(日本でもアメリカ式で名前を呼ぶようになり、和名を使う人がほぼいなくなったという設定)は、ある女性が自ら撃たれるように仕向けてきたような気がしてならなかった。
調べてみると彼女が最近産んだと思われる赤ちゃんがいない。
子供のDタイプはいないと言われているが、赤ちゃんがDタイプなのでは…?という疑念が生まれる。
現にその赤ちゃんを逃がしたと思われる人がいて、しかも複数でグルになって行っているようなのだ。
シキは新人のシュウをタッグを組んで、怪しいと思われるアパートに駆落ちカップルを装って潜伏する。
どうやらここに「逃がし屋」がいるようなのだ。
ついにアソウと呼ばれる逃がし屋に出会い、もうすぐで逃がし屋が誘う場所へ乗り込める!と思いきや、あっさり正体がばらされる。
そして政府が行っているDプロジェクトというのは、Dタイプを助けるどころか、ただ殺しているだけ、しかも政府はそれを知っていてやっている、ということを知る。
今まで自分を正当化させてDタイプを殺していたシキ。そんなシキをアソウは置いて行ってしまう。傍らには眠らせられているシュウ。
シュウが起きたのを感じてシキが自分の縄を切ってくれるように頼むと、シュウはシキに向って銃を構える。
びっくりして自分の手を見ると、Dタイプ特有の体から湯気のように出るゆらゆらしているものが出ている。
シュウが新人であったのが幸いしたのか、シキは殺されるのではなく、逆にシュウを殺し血をすする。
そこから逃亡。そしてDプロジェクト反対派に助けられ、そこでDタイプによって殺された者は生き返ると知ったシキは自分を犠牲にしてシュウの体を回収。
施設に入れられたシキは、自分の子供とテレビを通して面会するのだが、娘もDタイプということを知る。
離婚した夫にそれを伝えたシキ。
最終的には施設から逃げ出し、それとDプロジェクト反対派のクーデターと重なる。
Dタイプと政府の戦いがここで始まって、話は終わる。
壮大のようで、あっさりしてて、そんなんだからペラッとした印象を与える本だった。
シキがシュウに恋心を抱くのもなんだかありきたりだったし。
サクッと読めたのが救いだったかな。
清水勝彦 「戦略と実行―組織的コミュニケーションとは何か」 2011年 日経BP社
自分が一生読むことはないと思っていたジャンル、それがビジネス書だった。
それなのに、仕事ではおろか、プライベートで読むことになろうとは!
事の発端は、会社で「これ読んどいて」と上司に渡された『すべては戦略から始まる』。
戦略についての初心者用の本としては大変読みやすくよかった。
さて、世間の人の評価はどうなのだろうか…と思ってAmazonの書評を見たら概ね良い。
ただ大変低い評価を付けている人が一人いて、ではその人はどんな本を良いとしているのだろうか…と思ってみたところ、本書の「戦略と実行」を高く評価していたのだった。
初めてのビジネス書の感想は、割と同じことを何度も言うんだな、ということと、“ざっと読む”ということがしやすいんだな、ということだった。
「戦略と実行」の前に2作あるみたいで、それの延長上の本のようだったが、単品でも意味は通じるようになっている。
構成としてはこんな論理の展開となっている;
・日本企業の中で「戦略」というものが一般的になってきた
…戦略をたてたが勝ちという認識であったのが
↓
・戦略をたてても改善されないことがある
↓
・戦略実行の失敗例と分析
↓
・戦略の前提の見直し
↓
・戦略を実行する上で大事なのは“コミュニケーション”である
↓
・戦略とコミュニケーションについて
…“Seek first to understand, then to be understood
聞く力
コミュニケーションの部分は“Seek first to understand, then to be understood”の繰り返しで、要は“聞く力の大切さ”を延々と語っているのだが、戦略実行の失敗例と分析からその前提の見直しはなかなか面白かった。
まず戦略実行の失敗例を見てその要因を洗い出し、それが要因と思われる根拠となる“実行を成功させるための前提”を挙げる、そしてそれを再検討してみるということをしている↓
[要因1]トップの鶴の一言とあれもこれも
[前提]・トップは「思いつき」ではなく、分析に基づいて指示を出すべきである
・「あれもこれも」では現場は混乱するので、トップはトレードオフをはっきりさせ、優先順位の明確な指示を出すべきである
[見直]・分析は戦略ではない。戦略という未来への仮説は様々な要素の非線形的な統合である「思いつき」からしか生まれない
・トップはトレードオフの重要性を認識しているが、できる立場にないことが多く、また逆に優先順位をはっきりさせることによる副作用を懸念している
[要因2]時間・準備不足
[前提]時間をかけ、準備をきちんとして取り組めば、実行もうまくいく
[見直]どれだけ時間をかけても、戦略実行の準備に「十分」ということはない。どこがで踏み出さなくてはいけない
…心理学などの研究では“情報量を増やしても、予想者の自信はあがるが、予想の確度はほとんど変わらない(p105)”という報告がある
[要因3]戦略が不明確
[前提]具体的な戦略がトップから提示されれば、実行も成功する
[見直]戦略の具体化には限界があり、むしろ試行錯誤を通じて実行される必要がある
[要因4]実行と評価制度がリンクしていない
[前提]実行とリンクした具体的な評価高文句を設定することで、実行を誘導できる
[見直]評価制度はすべてではないし、評価制度にこだわることでより本質的な問題から注意がそがれる
[要因5]責任は不明確
[前提]責任者を明確にすることで、コミットメントを高められる
[見直]責任者の所在が実行できない理由として取り上げられるのは、誰も真剣に戦略(会社の将来)に取り組んでいない証拠である
…確かに、これまた上司からぽいっと渡されたドラッカー入門の本でも、個人一人一人が責任感を持たなくてはいけないと書いてあったような。“責任者”を作るのではなくて、個人が責任を持たなくてはいけないのかな
[要因6]部門間の対立
[前提]戦略実行のためには、各部門は対立するべきではない
[見直]部門それぞれ異なった役割を持っており、対立や緊張は避けられない。対立があるからこそ創意工夫が生まれ、プロジェクトの完成度が高まる
[要因7]納得性が低い
[前提]社員に対して戦略をロジカルにきちんと説明することで、納得性も上りがり、実行もうまくいく
…この前提の裏付けとしてキリンホールディングスの三宅占二社長が“腑に落ちることの大切さ”について語っているのを引用している
…ただし、“納得”というのは理屈というよりも気持ちの問題と言及
[見直]納得するとは、論理や力で相手に屈服させられることではなく、相手の立場、価値観を理解し、許容することである。論理で100%納得させることはできない
[要因8]片手間の実行
[前提]新戦略の実行は片手間などでは出来ない。100%の労力を振り向けるべきだ
[見直]新戦略の実行はそもそも片手間でするものである
[要因9]本気度の不測
[前提]トップから社員まで情熱を持って取り組めば、実行できる
[見直]情熱があることと、それが実行に生かされるかどうかは同じではない。情熱はお互い打ち消し合ったりすることもあるし、浪費されれば枯渇する
この後からコミュニケーション論が展開されるのだが、特にコミュニケーションを取り上げた理由として、きちんとした戦略が人をやる気にさせると考えるのは早計であり、その鍵となるのは(しかも目標や戦略があるかないか以上に)、「知った」「共有できた」という社員側の理解、気持ちであるという。
コミュニケーションについて気になったのを箇条書きにしてみると
・言葉やロジックはコミュニケーションの大切な要素だが、それらは伝えたい“意味”を運ぶ入れ物に過ぎない
・言葉自体がコミュニケーションの入れ物として“意味”を伝えることに貢献しているのはたったの1割にも満たない
この本の最終の結論として挙がっているのは
組織の実行力にはコミュニケーションが大切だといったその裏側には、組織のメンバー間の「関心」という、きわめて単純な天に行きつくのかもしれません(p318)
結局コミュニケーションで大事だと繰り返し説いている“聞く力”というのも、関心がなければ持ち得ないものだしな。
ローワン・ジェイコブセン 「ハチはなぜ大量死したのか」 中里京子・訳 2009年 文藝春秋
“ミツバチが大量死して大変!”というニュースを聞いた頃に本屋で「ハチはなぜ大量死したのか」というタイトルを見つけ、興味深く思って読みたい本リストに付け加えた。
それから大分時間が経ってしまって、興味は激減したけれども、まぁリストを消化するか、というノリで読んでみた本書。
一番面白かったのはハチの一生ですかね。
本当にハチはシステマチックに生きているんだ、と驚いた。このチーム(というか姉妹たち)が一丸となってライフサイクルを担っているのが、しかも効率的に担っているのがすごい。
結論としては、ハチの生態を無視して人間のいいように使ってきたツケだ、というものだったのは、まぁそれはそうでしょうよ…という感じだった。
つまり、本当は色んな種類の花粉が必要であるのに、アメリカでは農作物の受粉にハチを駆り立てるものだから、同じ種類の花粉しか得られない。
しかも、いろんな農場に連れ回されるのだから疲弊もする。
挙句の果てには、ハチを元気付けようと、人間はコーンシロップを与えたり、抗生物質を与えたりする。
ハチが消えてしまう前から、その土地では他の野生の虫たちがいなくなっていた。
つまりは“ハチ”という人間に直接関係のある昆虫の大量死によって、やっと自然界の崩壊という現状が突きつけられたにすぎない、というのが著者が言わんとしていることのようだ(と私は受け止めた)。
なかなか面白かったけれども、結論が見え始めてからは、今更明かにされた真実ではないような…という気がしてならなかった。
何気に一番怖かったのは中国の食品についての記述だった。
抜粋するのには大変長いので、P153から読むといいだろう。
中国について著者は最後に
私は、中国産の水産物はまったく口に入れたくはないし、中国産の蜂蜜を口に入れるとしてもその前にすごく迷うだろう。(p159)
と書き、更には注釈で“さらに言えば、中国製のおもちゃが誰の口にも入らないように心がけている。(p159)”と言っている。
まぁ中国が危ないというのも周知の事実ではあるけれども。
Harper Lee "To Kill A Mockingbird" 1960, Grand Central Publishing
海外のドラマや小説によく出てくる"To Kill A Mockingbird"。
名作なんだろうと思い、読んでみることにした。
人種差別のことが描かれている、と聞いたことがあったので、それがテーマなのかと思い、“どこが人種差別なんだろう?”“どういう形で描かれているのだろう”という意識ばかり言ってしまい、導入部分でなかなか感情移入ができなかった。
主人公の家の隣に住んでいる、家から一歩もでないBoo Radleyというのが黒人なのか…?うん?でも違うぞ?と混乱したり、と本当に無駄なところに意識を働かせてしまった。
確かに人種差別が要となってはいるけれども、『人種差別の本』ではなくて、Scoutという少女の物語と思って読んだ方がスムーズだった、と気付いたのは前半の半ばごろだった。
ただでさえ最初の方は、何の説明もなしの名前がぽんぽん出てくるし、しかも父親を名前で呼んでいるから尚ややこしい。
それを超えてしまえば大変に面白くて、名作と呼ばれる由縁がよく分かった。
特にScoutとその兄のJemの父親であるAtticusが素晴らしい。
Atticusと子どもたちのやり取りに、心が暖まって涙が出そうになったこともしばしばだった。
ざっとした話はというと、舞台はAlabama州のMaycomb。
Scoutが思い出しているという形式で一人称で進んでいく。
父親のAtticus Finchは弁護士をしていて、兄のJemはScoutと4つ違い。母親は亡く、Scoutは母親の記憶がない。
Atticusの遅い子供のJemtとScoutは、他の友達の父親に比べて歳を取っている気がしている。
Calpurniaという黒人女性がお手伝いさんとしてFinch家に来ている。
ある夏休みにDillという少年がやってくる。近所に住む叔母の元へ遊びに来ていたのだ。
Finch家の隣に住むBoo Radley(本名はArthur Radley)は一歩も家から出ないことから、都市伝説のようなものが生まれていて子供たちから恐れられていた。JemやScoutも学校の行き帰りに通らなくてはいけない時には走って通り過ぎたりしていたくらい。
その話を聞いたDillは、是非ともBooを見てみたい、と言いだし、ScoutやJemにけしかける。
それに気付いたAtticusに何度となく叱られるのだが、特にJemとDillは何度となく試みるのだった。
話に変化が訪れるのは、Atticusが黒人を弁護することに決まってからだった。
Bob Ewellという、教養もなければ、仕事もきちんとせず、子供は沢山いるのに学校にろくに行かせない、というどうしようもない人が、黒人のTom Robinsonが娘をレイプしたと訴える。
確実にTomは死刑になると分かっていても、Taylor判事から任命され断らなかったAtticusは"Negro lover"と陰口をたたかれることになる。
それはAtticusだけに留まらず、Scoutにも(多分Jemにも)及ぶことになる。
そんなScoutにAtticusがこう語る;
"You might hear some ugly talk about it at school, but do one thing for me if you will: you just hold your head high and keep those fists down. ..."
"Atticus, are we going to win it?"
"No, honey."
"Then why---"
"Simply because we were licked a hundred years before we started is no reason for us not to try to win," Atticus said. (p101)
次の日、友達に言われるがScoutは言い返さず、"coword!"呼ばわりされる。
Somehow, if I fought Cecil I would let Atticus down. Atticus so rarely asked Jem and me to do something for him, I could take being called a coward for him. (p102)
この出来事がone of いいシーンだった。
結局この裁判は、陪審員の意識を変えることができず、Tom Robinsonに有罪が言い渡される。
傍聴席に座っていたJemとScoutは、絶対にAtticusが勝つと確信していたので(何せBob Ewell氏があまりだったので)非常にショックを受ける。
It was Jem's turn to cry. His face was streaked with angry tears as we made our way through the cheeful crowd. "It ain't right," he muttered...
"It ain't right, Atticus," said Jem.
"No son, it's not right."
...
"Atticus---" said Jem bleakly.
He turned in the doorway. "What, son?"
"How could they do it, how could they?"
"I don't know, but they did it. They've done it before and they did it tonight and they'll do it again and when they do it--- seems that only children weep. Good night." (p284-285)
更にこれには後日談があって、翌日にTom Robinsonの父親達が大量の食べ物をお礼として裏玄関に置いて行ったのだった。
Tom Robinsonはというと、その後逃げようとしたという理由で銃殺されてしまう。
上訴するつもりだったAtticus達はショックを受ける。
一応元の生活が戻ってきたかのようだったが、Bob Ewellが裁判に関わった人たちを脅迫し始める。
まずはTomの奥さん。
判事の家には強盗として入る。
ついにはハロウィーンの夜、JemとScoutが襲われてしまう。
Scoutはハムの恰好をしていて、かぶり物であったので何がなんだかわからない内にJemがさらわれてしまい、誰かに助けられて家に着いてみると、なんとBoo Radleyであった。
Jemは大怪我をしており、すぐさま医者が呼ばれ、Jemは寝かされてしまう。
警察が来て言うには、JemとScoutを襲ったのはBob Ewellで、彼は自分が持っていたナイフに刺さって死んでしまったという。
結局、恐れていたBoo RadleyことArthurは、大変いい人で、JemとScoutをその夜助けてくれたばかりか、いつも見守ってくれていたことが分かる。
一応“めでたしめでたし”で終わるのだった。
が、結局“kill a mockingbird”の意味がよく分からなかった……。
話の途中で“kill a mockingbird”は大罪だ、という話が入るのだが(mockingbirdは何も害がなく、むしろ美しい歌声で人を喜ばせるから)、最後の最後のシーンにて;JemがBob Ewellを殺してしまったんだろうというAtticusに、Bobが自分の過失で死んでしまったんだと警察が言うことに対し、Scoutが"it'd be sort of like shootin' a mockingbird"というのがよく分からない。
Tom Robinsonを射殺したからBob Ewellに罰があたったってこと?
英語力が足りないのだろうか…。ちょっと翻訳本を確認したいところだ。