アンソニー・S.マーカタンテ 「空想動物園 神話・伝説・寓話の中の動物たち」 中村保男・訳 1988年 法政大学出版局
図書館にて、なんとなく民俗学の本棚をぶらついていた時に目に止まった「空想動物園」。
タイトルに魅かれて借りてみたのだが、これがなかなか面白かった。
タイトルの通り、様々な動物について、その動物が出てくる神話・伝説などなどが紹介されている。
どうしても西洋な神話や伝説に偏ってしまうきらいもあるが、割と世界中の物語を網羅していると思う。
例えば狐であれば、西洋では賢い/悪賢いキャラクターに対し、中国や日本では“女性”性がついてくる、というような言及など、興味深いものが多かった。
ただ動物にまつわる物語、というだけでも面白いのだが、作者のつっこみ口調のコメントもなかなかのものだった。
鰐の話で、中世の時代、アラブ人が裁判として容疑者を鰐のいる湖に投げ込み、鰐に食べられた有罪、食べられなかったら無罪としていた、というエピソードなんて「当時には無罪の容疑者は少ししか残らなかったということになる。」(p33)と、ぴりっとしたコメントで締めくくっているのが、更に面白くしていると思う。
さて、いくつか興味深かったエピソードを抜粋していこうと思う;
<獅子>
獅子が百獣の王として名高いことを考えると、中世の民話で獅子が軋む車輪や、蠍や、火事や、蛇の毒や、とりわけ雄鶏をこわがっていたことになっているのは妙である。どうして雄鶏なんぞを恐れたのか。雄鶏は、王位に就こうとしている獅子にとって唯一の危険なライヴァルだからである。雄鶏もまた、日の出を告げるときには王冠を戴いていたのだ。多くの文学や民話において、雄鶏はまた太陽の象徴として使われており、誰も彼もが、宇宙には太陽(恒星)は一つしかないのだと信じていたのである。(p123-124)
<鼠>
鼠は夜のシンボルであることが多い。鼠は、非常に多くの民話や伝説で太陽のシンボルである獅子を縛から解放してやるからである。…(中略)…
鼠が夜のシンボルとしてよく使われることは、E・T・A・ホフマンの物語を読むとよく分る。ホフマンのこの物語は脚色されたチャイコフスキーのバレエ曲『胡桃割り人形』となった。この物語に出てくる廿日鼠の王様は、『黙示録』(第十二章第三節)の竜のように七つの黄金の冠をもっている。この廿日鼠を胡桃割り人形が打ち負かすと、胡桃割り人形は忽ち美男の王子になるのだが、そのとき、この物語のヒロインの身体の上に燦然たる光がどっと降り注ぎ、彼女はまるで宝石をちりばめたかのように光り輝く馥郁たる牧場のまん中に居ることに気づく。(p202-203)
<啄木鳥>
イーオーの物語ではゼウスが啄木鳥に変身したが、同様にヒンズー神話の空の神インドラや、ローマ神話の軍神マルスも啄木鳥に変身している。このように啄木鳥が異教の神々と結びついていることなどから、初期のキリスト教徒たちは啄木鳥を悪魔と同一視した。尤も、啄木鳥が死の季節である冬の到来と結びついていることも、キリスト教徒たちのこの取りにたいする態度に影響を与えたかもしれない。(p257-258)
異教徒のシンボリズムをそのまま持ち込むこともあれば、悪魔としてしまうこともあるんだな、と思った一節。
この他に、章として印象的だったのが象の項。
個人的に、象という動物にまったく興味を持たない私なのだが、なんだか象の話が面白かった。
特に象を見たことがあるはずの古代人が、象には関節がないと思っていたのには驚きだった。しかも七世紀の聖者セビリアのイシドールによれば、象はがっしりした樹の幹にもたれかかって休まなくてはいけなくて、もし樹が折れたりなんかして倒れたら、二度と立ち上がれないというのだ!
ちなみにこの聖者に対する作者の説明が面白い。曰く
この聖者は、自分で編纂した百科事典に収録するために、能うかぎり多くの誤った知識や情報を集めることをライフ・ワークにしていた人である。(p217)
とのことである。
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海野弘 「雀はなぜ舌を切られたか―イメージの風土記―」 昭和61年 講談社
民俗学系の本棚を見ていた時に題名に魅かれて手に取ってみた「雀はなぜ舌を切られたか」。
最初の方を読んでみると、第一章である“塩”の章では、ローリングストーンの歌から始まって、日本の塩の道と膨らんでいっていたので、面白そう…と思って借りてみた。
副題に“イメージの風土記”とあるだけに、“塩”“湯”“釜”“箪笥”“屏風”“橋”“味噌”“針”“糊”“籠”“束子”“鈴”“錐”をキーワードに自由にイメージをふくらましていっている、という趣向になっている。
発想はなかなか面白いと思ったものの、残念ながら章を重ねるごとに飽きてきた。
というのは、どのキーワードをとっても「古事記」のスサノオ(八岐大蛇の話と、天界で暴れまくって追放になる話)や大国主命(因幡のシロウサギの話)などが出てくる。
もちろん他の話も出てはくるけれども、こうも何度も同じ話が出てくるとなんだかなぁとなる。
例えば八岐大蛇の話。
八岐大蛇を退治するのに垣根をこさえて酒を飲ませたのは有名であるが、“塩”の章では八岐大蛇は病原菌でその酒というのは塩。垣根を樽とみなせば大蛇(病原菌)を塩でまもっている、漬物のイメージそのままだ、と説く。
一方“釜”の章になると、この垣根は“カマド”に変身するのだ。“湯”の章でも言っているが、八岐大蛇が製鉄を表しているのは比較的有名なことだと思う。そう考えると、火に関連する垣根を“カマド”と考えるのはうなずける。
でもでも、同じ本の中でこうもぶれてて良いものなのか?
確かに同じ物語を色々な角度から見るというのも面白いかもしれないけれども、それにしてもこうも頻繁に出されると飽きてしまうのだ。
また、もうちょっと“塩”の章のように、他の文化での捉え方・イメージが紹介されていれば面白かったと思うのだが。
とは言いつつ、なんだかんだ興味深く読めたので面白かったとは思う。
何はともあれ、気になった箇所もあったので抜粋してみる;
<“湯”の章より>
ダイというのは不思議なことばで、死ぬ、というのと、さいころ、を意味している。ザ・ダイ・イズ・カーストというと、さいは投げられたということだが、もしダイが鋳型のことなら、鋳型は鋳型だということになる(※注:鋳型にあたる英語はモールド、メイトリックス、カースト、ダイ;p47)。これは冗談だが、なぜ死ぬことが鋳ることなのだろう。ダイは語源的には場所を代える、代わりのものにする、そして投げる、という意味があったらしい。投げるというのはカーストと同じである。代わりのもので置き換える、たとえば王が死んで、次の王が立つという王位交代システムは、鋳物の空間構造を示している。(p48)
<“箪笥”の章より>
橋本美術館の曲がり家の座敷に坐っていて、私が今更ながらわかったのは、タンスとはなにかを容れる箱、つまり内部空間を持った家具である、というあたりまえのことであった。しかし内部を持った家具というのは、なかなか重要な問題を孕んでいる。テーブル、椅子、ベッドなどの家具は内部を持っていない。内部を持つということは、空間を二重化することである。内部のある家具が必要なのは容れるものがあるからだ。
…(中略;最初は長持のような単純な箱だった)…そのうち物の量と種類が増えてくると、それを分類しなければならなくなる。つまり、二重化された空間は、さらに再分割されなければならない。…(中略)…
タンスの面白さは、内部に入っているものの分類が、横の表面に見えるものとして展開されることである。タンスのファサードの抽出しの分割は、かくされた内容の二次元的表示であり、地図なのだ。(p81-82)
<“箪笥”の章より>
日本で<私>のタンスの出現がおそいのは、そこに入れるべき私のもの、そして私の内面世界というものがなかったせいではないだろうか。私だけの秘密の内面、人的宇宙といったものが確立されなければ、私のタンスは不要なのだ。(p86-87)
<“束子”の章より>
(※注:スサノオは田を壊したり、織女を殺したりなどなどして、汚れの身として追放される)
この時、スサノオはオオゲツヒメに食物を乞うと、ヒメは鼻口尻から食物を出したので、汚いといってスサノオはヒメを殺す。ここでは、スサノオは自らを汚れの側にあったのであるが、女たちの汚れに怒るという男の本性を明らかにしてしまう。つまり、きれいと汚いを区別するのは男なのである。イザナミ、オオゲツヒメ、豊玉ヒメたちは決して自ら汚れているわけではなく、男によってのぞかれ、汚れていると決められてしまうのである。(p187)
宮地佐一郎 「龍馬の手紙 坂本龍馬全書簡集・関係文書」 2003年 講談社学術文庫
実は「夜の果ての旅」の対だと信じて読んだ「坂本竜馬の手紙」は「書評家<狐>の読書遺産」で紹介されている本ではなく、本書がそうであった…。
いつも二冊読み終わってから、“狐”の感想を読んでいるのだが、どうも内容がかみ合わないな~と思ったら違う本だった!
ということで本書を借りてきたわけだが、実を言うと、私は坂本龍馬にまっっっっったく興味ない。
ついでに言えば幕末にも興味がない。
そんなわけで奇しくも坂本龍馬本を2冊も読むことになって苦痛でしょうがなかった…
正直「坂本竜馬の手紙」の方が面白かった。
というのは、本書・「龍馬の手紙」の方は、龍馬が書いた書簡を掲載しているだけで、解説もちょろちょろっといつ書かれたとか、そういう程度のことしか書かれていない。
つまり、現代語訳がない!!!
坂本龍馬が好きな人ならいざしらず、まったく興味ない私としては苦労して古い文体(ましてや土佐弁!)を解読する気もなく、本当にさらさら~~~と斜め読みで終わった。
「坂本竜馬の手紙」は割と面白く読めたので、それに出会えたきっかけになって良かったと思っておこうか。