ドストエフスキー 「罪と罰3」 亀山郁夫・訳 2009年 光文社
ついに読み終わった!!!
始めはサスペンス的な要素も含まれていたが、最終的には愛の物語なのね、というのが正直な感想。
ソーニャという信心深い人に聖書を読んでもらったり、最終的に彼女に救われるところが、キリスト教的なものを感じた。愛によって許される、みたいな。
この巻のまず最初の山場はソーニャへの告白かもしれない。
ラスコーリニコフは意を決してソーニャに犯行を打ち明ける。
ソーニャはラスコーリニコフに自首を勧める。
もちろん、これにラスコーリニコフは応じない。
そうこうしていると、実はこれを盗み聞きしていた人がいた。
それはドゥーニャが家庭教師をしていた邸で、ドゥーニャに言い寄ってきた邸の主だった。
実は、彼の奥さんは謎の死を遂げており、それをきっかけにサンクトペテルブルクにやってきたのだった。
しかもドゥーニャを追いかけて。
最終的にドゥーニャに会えるのだが、ドゥーニャにきっぱりと愛せない、と言われてしまい自殺する。
そして、あんなに遠まわしにねちねち言っていた予審判事が、遂にはっきりとラスコーリニコフが犯人だと言及する。
ただ、しょっぴく気持ちは全然なくて、ラスコーリニコフに自首してほしいという。
ラスコーリニコフは自首し、シベリヤに送られる。
ソーニャは一緒にシベリヤに着いて行く。
監獄の中でラスコーリニコフは色々と思い悩むのだが、ある時ソーニャを愛することを知るのだった。
と書くと陳腐な感じだが…
ここでは書いてないことも色々と起こって、それでいてまとまりがないわけではなく、飽きもさせないというのはさすがだなとしか言いようがない。
これ以上感想書いても、この名作の前ではしょぼいことしか言えなさそうだから止めておこうと思う。
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谷崎潤一郎 「猫と庄造と二人のをんな」 昭和12年 創元社
これも読書会で紹介された本。
図書館で借りようとしたら書庫にしかないというので、出してもらったら…ものすっごい古い本だった!
漢字は古いは、“さうでせう”みたいな感じだし、印刷の字も古いわ、紙も和紙っぽい。
これってめっちゃ貴重なんでは!?と思ってワクワクしたものの、結構読みづらかった…
この本を紹介された時は“面白そう!”と思ったものの、後でその人が「おはん」が好き、と聞いて、う…苦手かも…と思いつつ恐る恐る読んだ。
確かにダメ男ではあるけれども、「おはん」ほどえげつなくてすいすい読めた。
庄造は、前の女房・福子と別れて、品子と新婚生活を過ごしている。
そんな時に、福子から品子宛に手紙がきて、庄造が可愛がっている猫のリリーを譲ってくれと言われる。そこには庄造のリリーへの愛は尋常じゃないから、リリーを福子に預けるのは品子のためでもある、と書いてある。
そんな手紙を読んだ後に庄造の様子を見たら、なるほどリリーにべったりで新婚の邪魔をしているようにしか思えない。
なんとか庄造と、リリーを福子にあげるという約束を取り付けるのだった。
往生際の悪い庄造は、同居している母親になんとか福子を説得してくれと頼む。
実は品子を離婚に追いやったのは、この母親でもあった。嫁とソリが合わなかった彼女は、親戚筋の品子の父親と画策して、庄造と品子をひっ付けて、福子を追い出したのだった。
そんな手前、母親は品子の言うことを聞く様に、庄造に説得する。
代わって福子の目線。
福子は妹夫婦の家に厄介になっていた。
リリーのことはちっとも好きではなく、むしろ嫉妬の対象であったのに、どんどんリリーにはまっていく。
この描写が秀逸、というか、猫の愛らしさが余すことなく描かれている。正直、読んでいる方もリリーにメロメロになっちゃうと思う。
最後は、もう我慢ができなくなった庄造が、福子の留守の内に、福子の妹に手伝ってもらって部屋に入り、リリーと対面する。しきりになでたり楽しんでいると、福子が戻って来て慌てて外に出る、というところで終わる。
リリーの可愛さにすっかり目を奪われてしまった私は、庄造と品子と福子の話であることをすっかり忘れてしまった…。
結局はリリーには勝てず、かといって動物に嫉妬するのもアホらしい、そんなジレンマがひしひしと伝わる話だった。
ドストエフスキー 「罪と罰2」 亀山郁夫・訳 2009年 光文社
更に面白くなってきた「罪と罰」。
こんなに面白いとは知らなかったので、今まで読んでなくて損したな―という感じ。
今回起こったことを書き連ねると;
ラスコーリニコフの母親と妹が訪ねてくるところから始まる。
すっかり変わってしまったラスコーリニコフに母親や妹は衝撃を受ける。
それをラズミーヒンがなんとか取りなしたりするのだが、ラズミーヒンはドゥーニャに恋してしまう。
ドゥーニャの結婚を強く反対しているラスコーリニコフは、ドゥーニャとけんかしてしまう。
その前にドゥーニャの婚約者と会っていて、その時に大変無礼な態度をしたので(ていうか婚約者もひどいやつ)、婚約者もラスコーリニコフと会いたくないと言っている。
そしてこの巻の最後の方では、ドゥーニャはきっぱり婚約者をふってしまう。
本当に嫌な奴だったので「ブラボー!!!」という感じでスカッとした。
馬車に轢き殺された元役人の娘のソーニャとラスコーリニコフは交流を深める。
ソーニャはとりあえず純真でいい子。
そして何よりもの山場は、予審判事との対決。
ラズミーヒンの親戚筋の人で、ラスコーリニコフの話をラズミーヒンから聞いて、是非とも会いたいと言っているらしい。
実際に会ってみると、ラスコーリニコフのことを犯人とにらんでいるのが丸わかり、遠まわしながらつついてくる。
この駆け引きがドキドキさせる。
残り1巻、どうなるのか!?
ラスコーリニコフが刑に服すのだろうけれども…
最後にちょっとばかし引用;
プリヘーリヤ(ラスコーリニコフの母親)はもう四十三歳だったが、その顔はいまもむかしの美しさをとどめ、しかも年よりはるかに若く見えた。晴ればれした心や、みずみずしい感性や、正直で清らかな情熱を保っている婦人というのは、年を重ねてもたいてい若く見える。ちなみにそうしたものをすべて保ちつづけることが、年をとっても美しさを失わない唯一の秘訣である。(p32)
肝に銘じておこう…
山尾悠子 「ラピスラズリ」 2003年 国書刊行会
読書会で勧められた「ラピスラズリ」。
私にとっての幻想小説というか不思議的な話は、読んでる時になかなか面白いと思えないのだけれども(何しろぱっきりはっきりしたエンターテイメント小説好き)、読み終わってしばらくしてふと思い出すことが多い気がする。
「ラピスラズリ」もまさにそんな本で、馴染めずに読み終わるのに時間かかったし、終わっても“うーん”って感じだったけど、2・3日経った今頃じわーっと来てる気がする。
冒頭部分で絵の話があるので、思い出すのもなんとなく絵画的でもある。
とは言いつつも、結構この種の小説の文章は好き。例え意味が100%理解できなくても、物語の筋がぼんやりとしか判別できなくても、文章だけでも十分楽しめる。例えば;
夜の水面を伝わる波紋のように感覚はさらに拡がっていき、幾つかの石の建築群を隔てて弛緩した眠りに漂う者たちのことをゴーストは知っていた。…(中略)…夜は冷たく閉ざされているようでいて呟きに満ち、それはたとえば枝で身じろぎする鳥や溶けて地面に染み込んでいく水の気配でもあった―闇に増殖する菌類や朽ち葉の蔭で越冬する虫の眠り、水を蹴って軽やかに逃げ去っていく肉球のある肢のうら。冷ややかに閉ざされていたゴーストの世界に風が通ったのがその時であり、またさらに遠くには裸か木の影に包まれて嘆き悲しむ者の存在なども感じられたのだったが、しかしそれらはいちどきに犇きあったので、すべての意味を知ることはとても無理だった。(p40)
この独特の言い回し、いいなぁ~。
それはそておき、本書は
・銅版
・閑日
・竃の秋
・トビアス
・青金石
という章から成っている。
一つ一つが独立しているようで、微妙に連動している。
まず「銅版」では、たまたま入った深夜までやっている画廊で見つけた三様の銅版画について語られる。
それぞれの絵のタイトルは<人形狂いの奥方への使い>、<冬寝室>、<使用人の反乱>というもので、冬になると冬眠する邸の人びとの様子が描かれている。
それに連動するかのように、次の「閑日」と「竃の秋」は、まるで絵の話のような内容になっている。
まず「閑日」は、冬眠のために冬寝室に入ったものの途中で起きてしまった少女の話になっている。ひもじいのに使用人に通じる扉は固く閉ざされており、そこでゴーストに出会うという話。
次の「竃の秋」は一番長い話になっている。
舞台は同じ邸で(多分)、「閑日」では“少女”とか“少年”というように名前が出て来なかったのが、ぞくぞくと名前が出てきて、一気に立体感が出る。
ここには“人形狂いの奥方への使い”が出てきて、人形もどっさり出てくる。
人形を届けに来る使いが、この邸でふつりと姿を消してしまったり、こんな人形を注文しているのに、実は財政的に逼迫していて借金取りが来ている、と何やら不穏な空気を醸し出している。
そうはいっても、着々と冬眠の為に準備を進める使用人たち(使用人たちは冬に眠らない)。
そんな折に地震があって建物が崩壊して…といった話。
ここまで銅版画の画題が小説になったかのような物語が続いたので、「トビアス」もそんな話かと思ったら、突然日本の名前が出てきた。
実はこれがちょっとひっかかって、この小説の印象が“う~~~ん”という風になってしまった。
この唐突さがなんとも…。
確かにここに出てくる人たちも冬に眠るのだが、設定があまりに変わり過ぎて繋がりが見えにくい。
過疎が進む村で、女性ばかりが集まって共同生活する邸で、なんか知らないけど主人公とその母親らしき女性が逃げなくては行けなくて…とか、私の頭では“???”という感じだった。
特に、その前までの話の世界に浸ってたtのに、突然天井の低い日本家屋の話になるなんて、頭が追い付いていきませんよ。
最後の「青金石」は、またもや西洋に話が戻る。
何せ出てくるのアシジの聖フランシスコ。
彼が、冬に眠る人として出てくる。非常に短い話だったので、正直あんまり印象がない。
とりあえず不満もありつつも、冬眠するっていうアイディアが面白かった。
ドストエフスキー 「罪と罰1」 亀山郁夫・訳 2008年 光文社
夏休みにロシアはサンクトペテルブルクに行くので、それならば…と思って読んだ本.
ドストエフスキーは読んだことないし、このタイトルで、非常に難しいのを想像していたけれども、訳が非常にいいのか大変読みやすかった!
基本的に主人公がじめじめしている小説は苦手なのだが、今回は全然気にならなかった。
ラスコーリニコフの厭世的なところはツボだったし、周りの人がまたいい。
なんとなく、ラスコーリニコフを中心とした群集劇のような雰囲気がする。
物語は有名すぎるくらい有名かもしれないが、本書はラスコーリニコフは金貸しの老婆とその義妹を殺してしまうところから、ひょんなところで知り合った元役人が馬に轢かれて死んでしまうところまでになっている。
「罪と罰」といえば、ラスコーリニコフが老婆を殺した、というお話といってしまえばそうなのだが、実際には実に色々なことが起きる。もちろんこの老婆殺しがメインテーマにはなっているが。群集劇といっているのはここ。
まず、ラスコーリニコフの妹が割とキーとなっている。
父親はおらず、母親と妹は田舎に住んでいるのだが、この妹は美人で賢いらしい(ちなみにラスコーリニコフも美男子らしい)。
妹のドゥーニャは大きな邸で家庭教師として住みこみの仕事をするが、そこで邸の主人に言い寄られる。それを奥さんに見つかり、ひどい屈辱のまま解雇されるのだが、結局ドゥーニャの身の潔白が証明されて、その奥さんは逆にドゥーニャのすばらしさを広めることになるのだった。
それを聞き及んだのか、法曹家のルージンがドゥーニャに結婚を申し込むのだった。
どうやらお金のためにドゥーニャは結婚を承諾し、ドゥーニャとお母さんはラスコーリニコフが住むサンクトペテルブルクへやってくることになる。
一方、ラスコーリニコフといえば、老婆殺しの後寝込むことになる。
そこを訪ねるのがラズミーヒンという、学生時代(ラスコーリニコフは授業料滞納で休学している)の友人。彼も授業料滞納で休学しているが、大変いい人で、知り合いの医者を呼んだりなんやかんや世話をやく。
もう一人大事な人といえば、ひょんなところで知り合ったアル中の元役人。
先妻との娘、ソーニャを売春婦にまでしてしまうくらいの貧しさなのだが、ちょっとでもお金を手にしてしまうとお酒にして飲んでしまうというとんでもない人。
病床についていたラスコーリニコフだが、ラズミーヒンの眼を盗んで外に出かけてしまう。
そこで遭遇したのだが、そのアル中の元役人が馬車に轢かれてしまうところだった。
知り合いだ、と言って、彼を彼の家に連れていき、そこで息をひきとってしまうと、ドゥーニャが婚約することで手に入ったなけなしお金を渡してしまう。
色んなことが起こり過ぎて、これがどう収拾されていくのか大変興味深い。
すいすい読めるのは訳がいいせいだろうな。
小林恭二 「カブキの日」 1998年 講談社
歌舞伎を一緒に観に行った友人に、“是非とも読んで欲しい”と言われた「カブキの日」。
そう言われたら読むしかない、ということでさっそく図書館から借りてきてみた。
非常にユニークな話で、歌舞伎ではなく“カブキ”というところがミソ。
つまり歌舞伎を扱ったファンタジーなのだ。
物語は突然、実際にはない“世界座”で行われる顔見世に行く、というシーンから始まる。
しかも琵琶湖の上にある劇場、という設定で皆水路を使って船でやってくる(ちょっとベネチアみたい)。
実在の歌舞伎役者も出てくるけれども、主人公格となる役者は虚構の役者。
黒いマントをはおって来なくてはいけない、とか、若衆と呼ばれる見目麗しい男性が案内してくれる、とか色々と違うけれど、歌舞伎を見るワクワク感が同じ種類のもので、違和感なかった。
冒頭部分の、世界座にどんどん近付いていくシーンなどが圧巻だった;
「あ、櫓!」
蕪が叫んだ。
世界座のシンボルとも言うべき大櫓が見え始める。…(中略)…
真正面から世界座の偉容に臨んだ蕪は、一瞬息がとまるような思いになる。
こんな晴れやかな風景が世界にあるだろうか。なんだか魔法の空気がたなびいているみたいだ。何もかもがきらめいている。冷蔵庫から出したばかりのゼリーのようにすべてが新鮮なのだ。…(中略)…
人気役者の名を大書sたまねきもずらり並んでいる。
市川猿之助、中村富十郎、守田勘弥、片岡仁左衛門、中村勘三郎、中村吉衛門、坂東京右衛門、松本幸四郎、尾上菊五郎、中村歌右衛門、市川團十郎。中でも一際大きな字で描かれている役者こそ、水木あやめと坂田山左衛門に他ならない。
蕪はもう我慢ができなくなって立ち上がった。
「おかあさん、おとうさん、世界座だよ、看板も見えているよ、おかあさんの贔屓の福助の看板もあるよ、もうあんなにいっぱい人が集まっている、みんなすごいおしゃれしてる!」(p10-12)
大阪の蓮華座の座主の勧めで、この蕪という少女は、若衆の月彦に伴われて世界座のバックステージに行くのだった。
それは、もう亡くなったはずの祖父に会うためだった。
このバックステージというのがもうファンタジーの世界。
月彦ですらよく知らない三階には、コンビニもあれば阿片窟のようなところもあり、そんな色んな部屋を通り過ぎながら、案内人を探し続ける。
一方、舞台上では、伝統を重んじる由緒ある家柄出身の水木あやめと、若衆上り・革新派で人気絶頂の坂東京右衛門のバトルが繰り広げられた。
なぜかあやめより、トリを任せられた京右衛門。何か裏がある…と思っていたら、歌舞伎の三宝の神器であり、京右衛門が舞台で使う刀が盗まれてしまう!
この刀で演ることに意義のある芝居なのに、観客の中でその噂がぱっと広がり、それに役者も動揺してしまっている様子。それでも舞台を続ける京右衛門。ピンチ…
というところで、蕪と月彦が、カブキの神様となっている祖父の差し金で舞台に上がり、本来のカブキ踊りを披露するのだった。
それが大ヒットし、あちこちで公演が行われた後、またひっそりと二人は消えていく…
という話だった。
題材は非常に面白いと思うし、何せ歌舞伎を“カブキ”としてファンタジーにしてしまったアイディアには脱帽する。
それだけに、歌舞伎の歴史がちょこちょこ入るのがちょっと面倒だな、とか、三階のファンタジーワールドの面白さにあやめと京右衛門の話が匹敵しないからバランスが取れてないな、とか、最後の終わり方はどうなのか…と細かいところが気になってしまった。
題材が面白いだけに、“惜しい”と思うところが目についてしまうというか…
もしくは、歌舞伎好きだから点がからくなってしまうのかもしれないが。