石田五郎 「天文台日記」 2004年 中央公論新社
こちらも“<狐>の読書遺産”から。「老年について」と対になっていたもの。
正直、天文にまっっったく興味なかったのに(プラネタリウムに行っても爆睡してしまう)、図書館になかったので買うハメになって“ちぇっ”と思ってたのに…本当に良かった!!!
今のところ今年一番の素敵本。
内容はタイトルそのまま、岡山天体物理観測所の日常が1年通して書かれている。
天文台ってあんまりよく知らなかったので、勝手に一般人が星を観に行く施設と思っていたのだが、全く違って、研究者が訪れるところだった…
1972年に出版されたものを底本としているとのことなので、その頃の天体物理観測所の話なのだろう。
最後の「作品によせて」を読んでみると、今ではハワイに立派な観測所があるらしい。
しかし当時は、ここが最高峰の望遠鏡を持つ、研究者の“メッカ”的なところだったようだ。
そして本書が書かれたのが、この観測所の最盛期の頃で、本当に色んな人が次から次へと訪れる。
色んな研究者の要望を聞きつつ年間スケジュールを立てて、それに従って研究者が訪れるわけだが、天候が大きく左右する。
例えば3夜割り当てられても3夜とも雨や曇りで観測できない場合があるのだ。
そして大体においては、研究対象の星をめがけてきているわけだから、その期間を過ぎてしまうとまた見れるのは1年後とかになってしまうのだ。
そんな執念の学問なんだな…と改めて思った。
もちろん、こうした研究者の生活も面白いのだが、何よりもいいのが石田氏の人柄。
なにせ、眠気覚ましに鏡に向かって笑顔になるというのだ!なんて素敵な人なんだ!!!
ビジターとしてやってくる研究者へのまなざしも暖かい。
そして文章も本当に素敵。
科学者が書いているからお堅い文章なのかな、と思っていたのに、2ページ目でその考えは覆された;
下界は紫色に沈んでいる。ところどころに白くみえるのは畑地におりた霜であろう。
透明な空腹感。階下の“深夜喫茶”で牛乳をわかして飲み、勇気をふるい起こして現像を開始。(p12)
『透明な空腹感』!なんて素敵な言葉なんだろう。。。
何度でも読みたい本となった。
スポンサーサイト
キケロー 「老年について」 中務哲郎訳 2005年 岩波書店
久しぶりに「書評家<狐>の読書遺産」の本を読もうと思って7組目の「老年について」と「天文台日記」に手を出す。
実に約1年振りだった。
「老年について」は、本当にタイトル通り“老年について”だったので、共感も大して湧かず“ふ~ん”といった感じ。
ただ、この時代では珍しくない書き方ではあるみたいだが、実在した人物が誰かに語っているという形を使って自分の思想を書くというのが物珍しかった。
それが本当に主人公・カトーが自分の意見を述べる、という形をとっているものだから、そのカトーは『こんな人物だっただろう』と空想の余地があるような、当時の人もよく知らない自分だと思っていたのだが、解説によると超有名人だったよう。
んーまぁでも、カトーが生きていた時代と、キケローが書いた時代では100年くらいのギャップがあるから、想像の余地があるといえばあるのか…
とあれこれ考えてしまうくらいの、まるで『カトー語録』のような本だった。
内容はというと、ざっと言ってしまえば、老年というのはマイナスのものじゃないよ、というもの。
歳をとるということをポジティブにとらえている。
とりあえず気になったところを抜粋;
レオンティーノイのゴルギアースは満百七歳を過ぎて、しかも研究でも仕事でも片時も怠ることがなかった。彼は、何故にかくも長く生きたいのか、と尋ねられて、
「老年を咎めるべき謂を持たぬ故に」と答えた。いかにも学者らしい見事な返答ではないか。
愚か者は己れの欠点や咎を老年の所為にするものだ。(p21)
(歳をとると体力が落ちるという議題について)わしの体力はお前たちのどちらにも劣るが、お前たちだって百人隊長ティトゥス・ポンティウスの体力は持っていない。だからといって彼の方が偉いかね。……要するに、お前たちの言う善きものを、有る間は使えばよいが、無い時には求めないことだ。(p36-37)
しかし老人は気むずかしく、心配性で、怒りっぽく、扱いにくい、と言うか。もっと探せば、貪欲でもある。だが、これらは性格の欠陥でこそあれ、老年の咎ではない。ともあれ、気むずかしさや今言った欠陥には多少弁解の余地もある。……それは、老人が侮られ、見下げられ、笑われていると自分で思い込んでいること、おまけに、弱った肉体にはどんな打撃でも憎らしいものとなる、ということだ。(p62)
(死について)一緒にいた時でさえ、お前たちにはわしの魂は見えなかったが、それがこの体の仲にあるということは、わしの行いから理解していたではないか。それだから、たとえお前たちに見えなくなったとしても、あり続けるのだと信じるがよい。……
魂は知性のない肉体から離れ去る時に知性なきものになるのではなく、肉体という不可物からすっかり解放されて、純一無垢なる存在となり始めた時にこそ知性を帯びる、と信じていたのだ。そしてまた、人間の本性が死によって分解される時、他の要素がそれぞれ何処へ去っていくかは、全て生れ出た所へ戻っていくものと分かっているが、魂のみは、そこにある時も離れて行く時も、見えないのだ。(p73-74)
やはり人間はそれぞれふさわしい時に消え去るのが望ましい。自然は他のあらゆるものと同様、生きるということについても限度を持っているのだから。因みに、人生における老年は芝居における終幕のようなもの。そこでへとへとになることは避けなければならない、とりわけ十分に味わい尽くした後ではな。(p78)
末木文美士 「日本仏教史 -思想史としてのアプローチ-」 平成8年 新潮社
読書会のテーマ本「日本仏教史」。
仏教のことをちゃんと学んだことがなかったので、なかなか興味深かかった。
しかも思想という観点から書かれているので、歴史としての仏教史よりもとっつきやすかった気がする。
読書会用に作成したレジュメは次の通り;
斎藤惇夫 「グリッグの冒険」 1990年 岩波書店
ニュースでカワウソが絶滅種に指定されたと聞いて、ふと思い出したのが子どもの頃に読んだ「ガンバとカワウソの冒険」。
そうしたらガンバの話が読みたくなって、図書館からガンバシリーズ3巻を借りてきた。
その1冊目の「グリッグの冒険」。
ガンバが主人公の後三冊に比べると印象は薄かったのだが、やっぱり面白かった。
大人になって読み返しても面白いとはすごい。
そして薮内正幸氏の描かれる挿絵がお話とマッチしていて良い。
シマリスが題材なんてともしたら可愛らしくなりそうなのに、こうやって写実的な動物画で飾られているとなると、キャラクター的要素がなくなって、自然にフォーカスがあたる感じがする。
そもそも物語自体が“かわいらしい”から程遠くて、自然の過酷さが随所に書かれている。
それでいて、ただ過酷さや自然そのものを書いたシートン動物記などとは違うのは、その自然に立ち向かう冒険物語として描かれているところかも。つまり自然の過酷さがうまく使われているというわけ。
ざっとしたあらすじは…飼いリスのグリッグはある時伝書鳩ピッポーに、シマリスが住む森の話を聞いて、その森を目指して脱走する。
途中でドブネズミのガンバに出会ったり、動物園に紛れ込んでしまったりする。そしてその動物園の檻にいたのんのんと旅を再開することになるのが、のんのんは足が悪いというハンディを持つ。
そんな中、檻の内では考えられない天敵をかいくぐったり、秋・冬と季節が変わってきてしまったり…と艱難辛苦を乗り越えて、やっと森に辿り着くのだった。
最後はピッポーが迎えてくれて、しかもピッポーから話を聞いたシマリス達が出迎えてくれるのだが、わぁ~~~と盛り上がって終わるわけではない。
そこでグリックが置いてきてしまった姉リスが死んでしまったことが知らされるし、ピッポーもすぐ旅立ってしまう。おまけに本当であれば冬眠の季節に辿り着いてしまったので、早々と皆冬眠に戻ってしまう。
あんな冒険の割には穏やかに終わるのだが、全然物足りない感じがしなくて、むしろ二匹が安心して冬眠に入るのが、満ち足りた幸せを感じてなかなか良い。
二匹が眠る直前に話すシーンがそれを強調させる;
そうだ、まだ、なにか、重要なことをいってなかったのだ。いちばん重要なことを。
「ねえ、のんのん。」
とグリッグがいった。
「やっと終わったんだね。ぼくたちの旅は。」
「とう、終わったんだわ。」
のんのんはそこで一息いれると、さらにつづけた。
「そして、やっとはじまったんだわ。あの、ノスリにおそわれた時、川を流された時、ふぶきにとじこめられた時、あれで終わりだと思ったのに……。そうだわ、あそこは、はじまりがなかったもの。終わりだけだったのよ……。いま、やっとはじまりがある終わりに―――。」(p350)
最後の二匹の挿絵もぬくぬくと気持ちよさそうでほっとさせられる。
千葉乗隆訳注 「新版 歎異抄―現代語訳付き」 平成13年 角川学芸出版
読書会の為に読み始めた「歎異抄」。
が、都合がつかなくなって読書会には行けなくなってしまったのだが、とりあえず読むだけ読んでみた。
仏教に触れる機会はなかなかなかったのだが、今更ながら思ったのが、結構仏教って個人主義の上に成り立っているのだなぁ~ということ。
結局、悟りを開くって自分自身だけでの問題だし。
特にこの歎異抄で親鸞が言う“自分は親の為に念仏を唱えたことがない”というところが、その論理といい、なんとなく自己完結の世界のような気がしてならなかった。
それでいて親鸞の教えというのは、本当に都合がいいようにしか聞こえない。
他力本願って…
まぁ宗教のことは、“良い”とか“悪い”とかとやかく言えるものではないけれども、すべて阿弥陀さまにお任せ!というのは私の性には合わないなぁと思ってしまった。
津原泰水 「猫ノ眼時計」 2012年 筑摩書房
図書館でいそいそ借りつつも、間に「ピカルディの薔薇」が入っていて、そちらを慌てて借りて読み終わったので、こちらに戻ったという「猫ノ眼時計」。
結果的に言うと、時系列に並んでいるわけではないので、どちらを先に読んでも大して変わらなかった。
何度も言うが文章が好き。
例えば、本書の出だしは
「こんなところで再会できるとはね」というおれの科白で幕が開く。(p7)
なのだが、こんなキャッチーな文章から始まって淡々と物語が始まるのが素敵。
本書も連作だったので、簡単にあらすじを書くと;
大野拓司・寺田勇文編 「エリア・スタディーズ11 現代フィリピンを知るための61章【第2版】」 2001年 明石書店
読書会の課題本、「現代フィリピンを知るための61章」。
フィリピンはよく聞く国だけれども、貧しいということしか知らなくて実体を全然知らなかったことがよくわかった。
読めば読むほどフィリピンは奇妙な国がしてならない。
植民地文化が興味深かったのはもちろん、植民地の歴史が長かったせいか、リーダーシップを取れる政府が存在しなくて、いったいどういう方向に行けばいいのか分かっていない感がぷんぷんしたのも興味深かった。
読書会用のレジュメを抜粋;
津原泰水 「ピカルディの薔薇」 2006年 集英社
「猫ノ眼時計」を図書館で借りてきたら、なんと「蘆屋家の崩壊」の続き本ではないか。そんでもって間に「ピカルディの薔薇」があるではないか。ということで慌てて借りてきた「ピカルディの薔薇」。
「蘆屋家の崩壊」の猿渡氏が好きなのでいそいそと読んだ。
思うに、「綺譚集」で“あまり合わないな…”と思いつつも妙に印象がずっと残っていて、むしろ時間が経てば経つほど“面白かったのかも”と感じていたのが、今読むと文章が好きということが分かった。
それから「蘆屋家の崩壊」から始まるシリーズでいえば、飄々さが含まれていて尚良しというわけだ。
「蘆屋家の崩壊」と同じく「ピカルディの薔薇」も連作となっているので、各話の概要を記す。