Ben Aaronovitch "Rivers of London" 2011, Gollancz
本を持って出るのを忘れた手持無沙汰に紀伊国屋に寄り、洋書コーナーをぷらぷらしていると、面白いポップに魅かれて手を取ったのがこの“Rivers of London”。 具体的にどんな内容だったか忘れたけれど、推理小説に幽霊だとかオカルトが入ったもの、というので、ロンドンだし面白そう~~と思ったわけだ。 が、ペーパーバックのくせにお値段が良くて(日本の文庫本より高い)、躊躇したのだが、どうしても気になって買ってみたら… 面白かった~~~~~!!!!!! 買ったかいがあった!!!!!! 多分、イギリス人やイギリスに住んだことなければ分からないローカルネタがばんばん出てきたが、それだけに懐かしく、面白かった。 懐かしい要素だけでなく、イギリス人特有のウィットの富んでいて“ニヤリ”“くすくす”が頻発。
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モーパッサン 「女の一生」 新庄嘉章・訳 昭和26年 新潮社
読書会で紹介されたモーパッサンの「女の一生」。 以前であれば翻訳本嫌いで読む気はしなかっただろうが、それも克服された今、嬉々として手に取った。 古い訳なので若干読みにくかったが、まぁ耐えられるレベルだった。 フランス小説ってあまり読んだことがないが、あの独特の気取った感じが虜にさせられない理由の一つなような気がする。 とは言うものの、今はすっかり止まっている「失われた時を求めて」もなんとなく好きだし、「夜の果ての物語」は非常に気に入ったし、嫌いではないジャンルだと思ってはいる。 そんな中で「女の一生」を読んだのだが。 まー面白いじゃないの!!! まず文章が非常にきれい。 始まりのシーンで大雨は、夜通し、窓ガラスと屋根にものすごい音をたてて降っていた。低くたれこめて水気をいっぱいに含んだ空が、まるで裂けでもして、地面にすっかり水をあけ、土を牛乳粥のようにどろどろにし、砂糖のように溶かすのではないかと思われた。(p5)
と、やたらと比喩を使った文章が、どうにもツボにはまって魅了された。 この「女の一生」の“女”にあたるジャンヌは、男爵家の一人娘。 父親の男爵の“女は純粋無垢でなくてはいけない”という信条のもと、ずっと修道院で教育を受けていた。 修道院から出て、邸のある田舎で、非常にお人よしの両親と暮らす。 そこへラマール子爵という、ハンサムな青年が現れる。 両親はこの青年を気に入り、ジャンヌは“これは恋かしら…?”という状態になり、二人は結婚する。 甘いハネムーンから帰ってくると、このラマール子爵・ジュリヤンは変貌する。 ジャンヌのことを冷たく扱うわ、吝嗇を発揮し男爵家のライフスタイルも変えてしまう。 全然おしゃれじゃなくなり、田舎っぽくなってしまう。 そんな折に乳兄弟で女中のロザリが突然子供を生む。 一体父親は誰?と問い詰めても決して口を割らないのだが、ある時ジャンヌがジュリヤンを訪ねると(ジャンヌとジュリヤンは別々に寝ている)、ベッドにロザリがいるではないか!!? なんと二人は結婚前から関係があったというのだ。 間の悪いことに、その時卒倒したタイミングで、ジャンヌも身ごもっていることを知るのだった。 すっかりジュリヤンに期待をしなくなったジャンヌは、産まれてきた子供を、ただただ溺愛する。 二人目が欲しくなったジャンヌは、ジュリヤンと仲直りするフリをして子作りに励むのだが、それと前後して、ジャンヌ・ジュリヤン夫婦はその地域に住む伯爵夫婦と仲良くなる。 そして、まぁ想像していた通り、ジュリヤンは伯爵夫人と恋仲になるのだが、ジャンヌはもはやジュリヤンに期待していないので、特に何の感情も湧かない。 ただ伯爵は夫人を溺愛しているので、新人神父に密告された時に激怒し、二人が密会している小屋をなぎ倒す。その反動で、ジュリヤンと伯爵夫人は死んでしまうのだった。 こうしてジャンヌは未亡人になり、また母親もその前に亡くしているので、父親の老男爵と、母親の妹である叔母と三人で、息子のポールをベタ甘やかして育てるのだった。 やがて、老男爵がポールはちゃんとした勉強につかせるべきだ、と言って、泣く泣く学校に行かせることになる。 始めの内こそしょっちゅう家に還って来たポールだが、段々と家から足が遠のき、ついには音信普通になる。 やっと手紙が来たと思ったら金の無心。しかも良からぬ女に入れあげているらしい。 この後も男爵が亡くなってもポールは帰って来ず、相変わらず多額の借金を作っては、その時だけ便りを出し、それにジャンヌは応えてお金を払う。 そうしている内にどんどんお金が無くなっていったのだった。 見かねたロザリはまた邸に戻り、ジャンヌの世話をすることになる。 まずは身辺整理を行って邸を売り払い、ジャンヌは小さな家に引っ越す。 やがてまたポールから連絡が来て、子供が産まれたこと、そして自分の妻が死にかけていること、助けてほしいことなどが伝えられる。ロザリは一人パリに行き、その赤ちゃんを連れて戻ってくるのだった。 ロザリはポールの夫人は亡くなり、ポールは明日にでも来るだろう、と言って、ジャンヌに赤ちゃんを渡すところで物語は終わる。 結局物語としては、ジャンヌがどんどん不幸になって、最後は赤ちゃんを渡されて幸せな気分になるところで終わる。 文庫版の後の言葉に「暗い孤独感と悲観主義の人生観がにじみ出ている」とあるが、私はある意味喜劇と読んでしまった。 男爵が望む通り純粋無垢に育ったジャンヌが、どんどん不幸になっていくのが滑稽なくらい悲劇。 そしてそのジャンヌが育てたポールも、ポールの物語としては決して幸福ではなく、むしろ悲劇っぽいのが、悲劇の連鎖となって、これまた滑稽。 不謹慎かもしれないが、そんな風に多いに楽しませてもらった一冊だった。
中村淳彦 「職業としてのAV女優」 2012年 幻冬舎
読書会で紹介された「職業としてのAV女優」、題材が未知の世界だったので図書館で予約して借りてみた。 去年出版された本なのに、大変な混みようでやっとこさ手に入った。 やっぱり皆さん、興味あるんですね。 ただ、待望の1冊だった割には、結果としては残念なことに。 そんな面白くなかった… というのが話があまりまとまっていない気がした。 昔は、できるだけ隠しておきたい職業だったAV女優も、今や殺到、全然罪悪感もなく“ばれたらどうしよう”という危機感もない。 しかもAV業界はネット需要の高まりのために不況に喘いでおり、AV女優として活躍できるのもほんの一握り、という競争率の高い職業だし、だからといって給料がいいわけではない。むしろ低いケースが多い。 といった内容を繰り返し繰り返し述べているだけ。 なぜ今までは躊躇する職業だったのに、こんな積極的な職業になったのか、というところがぼやけてしまっていた、正直、今やその結論が思い出せない状態。 ネットなどで“パーツモデル”などといったあやふやな内容で高収入の求人にひっかかり、蓋を開けてみたらAV女優の仕事だったけれども、「誰にも見つからないよ」などといった口説き文句に落とされて、あっさりAV女優になってしまう、というパターンが力説されているが、では、昔は違ったのか?というのがよく分からない。 確かにネットでの求人はなかったであろう。 でも口説き文句は今も昔も変わらないと思うし、それに引っかかりやすくなったとするのであれば、社会的なモラルが低くなったのが原因?と短絡的に思いがちだがそれを裏付けるものがない。 なんとなく肩すかしをくらう話である。 読み流したので、見過ごしているだけなのかもしれないが、もうちょっとパンチのある本であればよかったと残念である。
望月守宮 「無貌伝~人形姫の産声~」 2010年 講談社
無貌伝、第3巻は探偵の秋津がまだ大学生で、奥さんの遥さんとのお話だった。 なんだかいつも(といっても2巻しか読んでないけど)と勝手が違って、とっつきにくく、2回程断念。 3度目の正直で読んでみたら、このとっつきにくさを乗り越えたら最後、めちゃくちゃ面白かった。 なんというか、この不思議な世界を非常に上手く使ったミステリだと思う。 この世にはないものが沢山出てくるけれども、それがミステリとしてよく調理されている。しかも、隠し扉的なずるい使われ方ではなく、ちゃんとその仕組みを提示した上でのことなので、卑怯な感じがあまりしない。 内容は
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R.P.ファインマン 「ご冗談でしょう、ファインマンさん(下)」 大貫昌子・訳 2000年 岩波書店
読書会の課題本「ご冗談でしょう、ファインマンさん」の下巻。 下巻は、ブラジルでの話から続く。 感心するのが、ブラジルの大学で教える際に、できるだけポルトガル語で教えたということ。 また日本に来た際にも、日本語を勉強して来たりしていて、英語圏の人って万人が英語をしゃべれると思っている節があるのを鑑みると、それだけで“素敵な人”と思ってしまった。 ファインマンさんのすごいところは、何も物理学だけを極めているのではなく、なんとリオのカーニバルのバンドに入りフリジデイラと呼ばれる打楽器を担当したり、モダンダンスの後で太鼓を叩いたり、絵を極めて個展を出すまでに至ったりとしてしまうところ。 しかも、物理学者なんて言うと堅物なイメージがないとは言えないところを、ベガスで女の子にもてる方法を考えたりして、非常にチャーミングでもあるのだ。 あまりに見事すぎて、ひねくれ者の身としてはあまり好きになれないところもあったが、 最後のキャルテックの卒業式式辞にて、“研究に誠実であれ”といった文章を読み、結局、自分の興味のあることに対して誠実に取り組んだ結果なんんだろうな、と思った。 つまり、絵とか音楽とか、数学とか生物とか、自分の研究対象でない(物理学じゃない)から何となく関わる、というのではなく、「~だから」というバリアもなく、各々の事物に誠実に取り組むから、やり通せてしまうのだろう。