津原泰水 「たまさか人形堂物語」 2009年 文藝春秋
ひさしぶりの津原泰水、面白かった~
連作だったのだが、本当にうまくまとめるよな~と感心してしまう。
なんとなく、「蘆原家の崩壊」のシリーズを彷彿されるシーンがあって
(豆腐屋さんが出てきたり、尾ひれのついた水牛が出てきたり)
深読みしすぎかもしれないけれども、そういう意味でも楽しめた。
タイトルの示す通り、本書は“たまさか人形堂”を舞台に
お祖父さんから押し付けられた澪と、そこで働く人形師二人、人形が大好きで手先が器用でぼんぼんで大学卒業とともに来た冨永くんと、過去をまったく語らず、腕が非常~にいい謎の職人・師村さんの話である。
マイナーなところだとは思うが、軽口が割と好き。
「澪さん、じき旧暦の雛祭だよ。ことし行っといたほうがいいんじゃない?」
「そうかな。冨永くん、一緒に行ってくれる?」
彼は鼻で笑って、「厭だよ、中年女のお守りなんか」
中年女。中年女。中年女。中年女―――。
「あ、ごめん、傷ついた?」
ううん、とかぶりを振ったら泪が出そうになった。
「冨永さん、今のおっしゃり方はあんまりだ」と師村さんが苦言する。「娘盛りは過ぎていらっしゃるけど、姥桜という褒め言葉だってあるわけで」
「シムさん、塩、塗り込んでますが」
「旅に出ます」と私はふたりに告げた。「探さないでね」
「どうせ村上でしょ?あのさ、葡萄羹って美味しいよ」
「私は酒びたしをお勧めしますね。鮭の干物に日本酒をかけて食べるんです」
「ありがとう、わたしにぴったりね。しばらく酒びたしになったら、ちょっとは若返るかしら」
「新潟のお酒は美味しいですからね。でも社―――澪さんはじゅうぶんお若いですよ。私よりもだいぶお若い」
「知ってます」
「そうだ、おふくろがいい白髪染め見つけたんだって。こんど澪さんにも買っといてあげるよ」
「冨永くん、減俸」
私は二十年ぶりに村上の親戚と連絡をとった。(p92-3)
この唐突に会話が終了する感じも好き。
なんというか、文章に無駄がなく、テンポよくいく感じがツボである。
以下、各章の簡単なあらすじを。
スポンサーサイト

近藤紘一 「サイゴンから来た妻と娘」 1978年 文藝春秋
何かの本を読んだ時に引用されていた本だったと思う。
面白そうと思ってメモをしたきり、ずっと手に取っておらず
すっかりなんでメモしたのか忘れた頃に、メモを頼りに借りてみた。
非常に恥ずかしいことながら、ベトナムの事情というのは薄ぼんやりとしか知らず
しかも断片的な知識なので、サイゴン陥落のところはあまり実感が湧かなかった。
また本書は、著者の前の本「サイゴンのいちばん長い日」の続きのようで、
それを読まないとまったく意味が分からない、という訳ではないけれども
やはり先に読んでいた方が良かったと思わされる箇所があった。
と言う訳で、
ベトナムの歴史をちょっと勉強してから「サイゴンのいちばん長い日」を読んでみようと思った。
ただ本書はそれで色あせることはまったくなく、
むしろもっと早く読めば良かったと思うくらいだった。
内容は著者の近藤氏が産経新聞の特派記者としてサイゴンに赴任している間に
結婚した妻とその連れ子との、東京生活が中心に綴られている。
基本的にはベトナム人の妻と娘がどのように日本で生活を始めたのか、というのがテーマになっているのだが
やはり面白いのはサイゴンでの生活の話。
“サイゴンでは…”といった形で紹介される話が面白い。
例えば、ベトナムの子ども教育はまさに恐怖教育らしい。
そして女性中心の社会ということで、男の人は女性に逆らえないというのだ。
特に近藤氏の妻は、その家の家長だったらしく、
軍人である弟も、妻の前では非常に立場が弱く、折檻を受けることもあったそうだ。
それからぎょっと驚いたのが
妻がニシキヘビを飼っていたということ。
ニシキヘビも懐いていたというのも驚き。爬虫類も懐くんだ…
実際、妻の後ろをついてまわったりしていたらしい。
他にもベトナムについての見解なども非常に興味深かった。
書かれた時代が時代なので、著者の男女観が古いな、と思うところも多少あったが
当時のベトナムが生き生きと描かれていて、
自分では絶対体験できないことが垣間見えて、大変読み応えのある本だった。
以下、うまく要約できる自信がなかったので引用のオンパレード;
木内昇 「漂砂のうたう」 2010年 集英社
何かの雑誌で紹介されていて、面白そうだなと思ってメモしていた本。
読んでみたら…確かにとても面白かった!!!
とりあえず今読んでいる中で、今年一番かも(といってもまだ4冊しか読んでないけど)。
話の筋としてはそんなに目新しいものではなく、
むしろオチがなんとなく分かってしまう。
でも雰囲気がすごく好み。
舞台は明治維新時期の根津遊郭。
主人公は美仙楼で立番をしている定九郎。
立番とは、いわゆる客引きみたいなもので、値段の交渉などもする。
この明治に入ったばかりの遊郭、という絶妙な設定。
世の中は、それこそ外観から考え方まで、めまぐるしく変わっている中、
江戸時代から変わらない風習を持つ遊郭。
それでいて、遊郭自体も、経営面であったり、客層などが徐々に変わりつつある。
そんな中、主人公に据えている定九郎というのが、
実は武家の次男坊、という生れである。
家出をして、遊郭の立番という身にやつしている。
この生い立ちが定九郎を、そして本を面白くしている。
武士がいなくなった世の中に戸惑いつつも
次男坊ということもあって、武士の世界自体を斜に構えて見ているところがある。
そして新しい風潮、「学問のすすめ」やら「自由」やらにも冷めた目を向けている。
本人自体は、所謂現代語で言うとモチベーション0で、
なんとなくお金をちょろまかして溜めてみたり
何度か“このままでいいのだろうか”というのに近い心境になっても、結局そのままであったり、
割と無気力な雰囲気を醸し出している。
幕末から明治維新にかけて、「躍動の時代」というイメージで
ものすごい“動き”というものを感じる。
でもそうではない、逆に、世の中を斜に構えて無気力な感じになる人がいたっておかしくないよな
と本書を読んで気付かされた。
今まで読んだことがない、イメージしたことがない
この時代の雰囲気を提示された気がした。
因みに定九郎を取り巻く登場人物も個性がある。
まず、定九郎が就いている立番より格上の妓夫太郎の龍造。
仕事ができるが厳しい先輩で、何を考えているのかよく分からない。
彼らが務める美仙楼のとびきりの花魁は小野菊。
美人で教養があって、気風の良い花魁。
ちゃんと、THE花魁みたいなシーンもある。例えば、やくざ者が見世の前で騒いだ時。
「おや。権利だなんて、浮っついた新語を使うじゃあないか。その口が泡ぁ吹いてるよ。…(中略)…
お兄さん。廓ってのはね、そんな言葉ぁ吐く野暮が来るとこじゃあないんですよ。ここにいるお客さんにも失礼じゃあないか。周りぉよくよく見渡してごらんな。御覧のようにね、惣門からこっちに足ぃ踏み入れられんのは、男ぉ磨いた方だけなんですよ」
小野菊は片手で襟を滑らかにしごき、首をまっすぐ起こした。もう、あんたとの話は終いだ、どこへでも行っておくれと妓の仕草が告げている。(p143-4)
他に神出鬼没の噺家のポン太。
定九郎は彼の事を得体の知れない、怪しい奴だと思っていて
美仙楼の内情を外部の人に流しているのではと疑っている。
美仙楼には定九郎よりも下っ端がおり、
その嘉吉というのがねちっこく擦り寄ってきたり、噂話を沢山知ってる奴が偉いと勘違いしている節があったりと
いけすかない奴である。
そして若干異色なのが山公という、遊郭が裏で経営している賭博場を任されている人物。
長州出身だが、御一新の前に江戸へやってきてふらふらしているところを拾われたらしい。
江戸弁(もしくは遊郭の言葉?)の中で一人長州弁しゃべっているのが、人物を際立たせている。
それぞれ個性のある人物が見る、御一新後の江戸というわけなのだが、
話の筋としては。。。