鈴木 董 「図説 イスタンブル歴史散歩」 1993年 河出書房新社
トルコに行くのに読んだ本。
イスタンブールの地区ごとに、そこにまつわる歴史を書いた本。
割と古い本で、ページのレイアウトもあまりスタイリッシュとは言い難い感じだけれども
非常に読み応えがあって良かった。
文章が固い割には読みやすい。
これまでビザンティン帝国のことばかり読んでいたが
オスマントルコ時代も網羅しているので、その点でも良かった。
トルコから帰ってきたらもう一度読みたい本。
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益田朋幸 「世界歴史の旅 ビザンティン」 2004年 山川出版社
トルコに行くのに読んだ本。
何よりも驚いたのが、イコノクラスム前のイコン。
めちゃくちゃリアル!!!
ビザンティン美術というと、どうしても平面なモザイク・イコンのイメージが強いが、
本書の28ページから31ページまでに出てくるイコンは本当に立体的。
イコノクラスム後の言及で「ビザンティン美術の二次元性」(p43)というのが非常に面白かった。
簡単に要約すると;
イコノクラスムが解除されてからは、聖像を描くことの可否を問うことはなかったが、
西欧のように丸彫り彫刻で教会を飾ることはなかった。
丸彫り彫刻はあまりに人間の姿に近く、食う像崇拝の危険性があるからだ。
明文化されていないが、絵画の人物表現に立体感を避けているのも、同じ理由からであろう。
顔には丁寧なモデリングがなされていて、リアルな立体感があるのに、身体はあえて平面的、二次元的に描かれているのだ。
ルネッサンスを展開したヨーロッパ人からすると、中途半端に自然主義だった。
ビザンティン美術はデフォルメは行わず、人体のプロポーションはほぼ現実の人間に従う。
更に顔の表現は現実的なのに、身体は妙に平面的である。
どうやらギリシア人は、古代の美しい古典主義を忘れて堕落したらしい、というのがヨーロッパ人の感想であった。
ところがこの二極性こそが、ビザンティン美術を特徴付けている。
ビザンティン人たちは古代の美術を参考にして、ロマネスク美術のように三頭身の人物で表現する、といったことはしなかった。
それと同時に、イスラム国家と境を接することになり、東方的な抽象主義が入って来る。
偶像崇拝を厳しく禁じ、美術においても、輪郭線を強調する線的な造形を伝統としている。
この二極性のせめぎ合いを通して、ビザンティン美術は、聖なるもの、人間を超えたものを表現しようとしたのだ。
井上浩一 「生き残った帝国ビザンティン」 1990年 講談社
トルコに行くので読んだ本。
なぜビザンティン帝国は滅んだのか、ではなく、なぜビザンティン帝国は1000年ほど続いたのか、という観点で書かれた本である。
ビザンティン帝国についての入門書としては、少々ハードル高いのは、必ずしも時系列で書かれているわけではないから。
学生時代にビザンティン美術を学んだことはあったけれども、記憶がほぼなかったので、
世界史の本で、ざっと流れを知ってから読んで丁度だった。
もう一つ、入門書としてハードルが高い理由としては、
作者の主観的見解が結構入っていて、事実として知りたいと読むには
あまり適していないところ。
とはいえ、読みやすいことは読みやすかった。
以下、読みながら印をつけていたものを抜粋していく;
夢枕獏 「シナン 上・下」 2004年 中央公論新社
トルコに旅行することになったので、その前に読んでおこうと手に取った本。上下巻に分かれているが、夢枕獏作品は読みやすいのですぐ読み終わった。
正直なところ、空海の本を読んでそんなに経っていないので
重なってしまって、”シナン”として馴染むのに時間がかかった。
なんというか、陰陽師にしても、いつも登場人物が似ているような気がしてならない。
主人公は達観していて、飄々としており、他の人より抜きん出いている、
そして周りの人がその主人公を高くかっている、という図。
シナンも御多分にもれず、性格が達観しており、若い頃から「神」という存在に関しても
他の人ととらえ方が違ったりする。
そして、スルタン・スレイマンなどに気に入られるのだ。
それを差し置いても、オスマン帝国のことはよく知らなかったので
その時代、その文化を知ることができたのは、良かったと思う。
また、ビザンチン時代に建てられたアヤソフィアについても記述があるので
そこらへんの知識も得ることができる。
シナンに関する物語はよく出来ているので、どこまで本当のことなのかは分からないが…
あらすじを簡単に書くと;
小松エメル 「一鬼夜行」 2010年 ポプラ社
ブクログに「読みたい本」として登録したまま、まったく読んでいないものを消化していこうプロジェクト。
確か、本屋さんで面白そうだなと思って登録した本。
デビュー作だからかもしれないが、あまり面白くなかった…
文章もちょっと気になってしまう。
しょっぱな文章で「二つの影の周りには、ごつごつとしたいびつな丸の岩が無数に転がっているだけで、燈を発しているはずの灯りはおかしなことに一つも見当たらぬ」(p8)って、なんか『かゆい~~~』と思ってしまう文章だった。
変に「燈」やら「灯り」やら漢字を使って使いこなせていない感じなうえに、最後に「見当たらぬ」って、「見当たらない」の方がよくない!?と思ってしまったのだ。
ちょっと頑張って書いてみました、みたいな文章に思って仕方なかったのだ。
話もとても微妙…
百鬼夜行に連なる小鬼が、百鬼夜行からはじき出されて地上に落ちてしまう。
そこが、古物屋をしている喜蔵の家だった。
喜蔵は若いながら両親を亡くし一人で住んでいた。
しかも、鬼よりもよっぽど強面の男だった。
こうして小鬼・小春との共同生活が始まる。
正直なところ、随分前に読んで、レビューを今書いているのだが
すっかり話を忘れてしまった。。。
そして読み返すのは時間がもったいなく感じるくらい、あまり大した話ではないので(失礼!)
結論だけ書くと小春は百鬼夜行に戻ったところで話が終わる。
一応それまでに、各登場人物がひねった経歴で、それが解き明かされる感じになる。
例えば、喜蔵は父親が母と自分を置いて尊王志士になるといって飛び出してしまったり、
祖父が亡くなった時に、親友が喜蔵の親戚にだまされて、祖父の道具箱を渡してしまったせいで
遺産がなくなり、それから親友含め、人を信じられなくなったり。
すき焼き屋によく行くので、その女給仕に恋をしているのかと思いきや、
実はその子は、喜蔵と生き別れの娘だったり。
河童も出てくるのだが、河童の半生みたいなのも語られる。
そして小春は、小鬼になる前は猫股を目指していた。
猫股になるのには情を交わした人間の頭が必要なのだが、
その人間の頭を取ることができなくて、猫股をあきらめたり…
今書いてて思ったが、とりあえず、各登場人物のバックグラウンドが濃すぎて
焦点が合ってないから面白みに欠けるのかと。
”今現在”の話の密度が薄かったのも印象に残らなった理由かも。
シリーズものになっているらしいが、これから面白くなるのだろうか?
多分、読まない気がするが…
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