朝井まかて 「恋歌」 2013年 講談社
2回ほど借りて、やっとこさ読み切った。とはいえ、序盤を超えると止まらなくなって一気に読み終わった。
朝井まかて氏の作品は2作目なのだが、やっぱりうまいな~と思った。
話もさりながら文章も素敵。
本作も出だしが
ペン先が小さな泡を吹いたかと思うと、無垢な白の上に黒い点が飛び散った。
萬年筆がまた、インク漏れを起こしたのだ。(p5)
というのが、女流作家・歌人の物語のはじめにふさわしい気がする。
と言いつつ、中島歌子のことはもとより、天狗党の乱をはじめとした、幕末の水戸藩の動きをまったく知らなかったので、まったく新しい物語として、読み進めた。
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角田光代 「キッドナップ・ツアー」 新潮社 2003年
ずっと前から「読みたい本」リストに入っていた本。かすかな記憶では、確か、読書会で紹介された本のような気がする。
残念ながら、あまりタイプではない作家だな、と思ったのだが
過去に2冊読んで、そのうちの1冊は絶賛していたところによると、
2勝1敗といったところか…
因みに、過去2回とも「初めての角田光代」と言っていた…
今回は、対象が若者のようで、主人公も小学生くらいだし簡単に読める。
ただ、最後が釈然としなかった。
父親と娘の話だ、ということは分かるけれども、心の交流はさておき
結局、この誘拐劇はなんだったのか?と結論を求めてしまった。
簡単なあらすじを書くと、
主人公はハルという女の子。
お父さんが家に帰って来なくなり2か月経つ。
その前から、あまり見かけなくなったのだが、本格的に会わなくなったのだ。
母親は、仕事が忙しくなったので仕事場を借りているといっている。
そんな折の夏休み、突然父親が車で現れて、ハルを誘う。
そしてハルを「誘拐する」と言うのだった。
ごっこかと思い、それに乗るハルだったが、それはごっこでもなく
本当にあちこち連れまわされる羽目になる。
そして夜な夜な、父親は「交渉」するために電話をするのだった。
どんな条件で何の交渉をしているのかは、ハルに教えてくれない。
最終的に、母親がその条件をのんでくれたとかで、交渉は成立するのだが
その時には家に帰るお金もなくなり、壊れた自転車で友人宅へ行き、お金を借りる羽目に陥る。
結局、父親と母親が何の交渉していたのか分からず、
なんのための誘拐だったのかもさっぱり分からなくて、もやもやして終わった。
(なんとなく離婚のことなのかな、ということは分かるけれども)
個人的に、「あとは読者の想像に任せる」というよりも、オチをしっかりしてほしいので
評価が下がってしまうのも仕方のないことだと思う。
とはいえ、いくつか良い文章があったので抜粋;
ビールの表現が良い
ハルも飲むか、上機嫌でおとうさんが言い、私はうなずいてコップに半分ほど金色の液体をそそいでもらった。おとうさんは自分のコップを気持ちよさそうに傾け、満足気に息をもらしている。コップに半分そそがれた液体は、電球にかざすときらきらしあわせそうに光り、小さな泡が差そうようにはじけているので、夢みたいな味なのだろうと思ったが、冗談じゃないくらいに苦くてくさい液体だった。(p93-4)
父親に「あんたたち」と一括りにされて腹がたった時の話
言いながら、思うように言葉がでてきてくれなくていらいらした。飢え死にしてみろって言いたいんじゃない。食いだめが失敗だったって言いたいんじゃない。私は、たとえば、あんたと花火をすることだけで心の底からうれしいって思うんだって、駅前で、今までだしたことのないくらいの大声でわめいてあんたを逮捕させちゃったことだけで何かをやったって思えるんだって、そういうことを言いたかった。たとえあんたの知ってる百人の子供が心の底からうれしいって思ったことがなかったとしても、私の前で、百人とはちがう私の前でそんなことを言うべきじゃない。(p114)
最後に、ハルが「あんたみたいな勝手な親に連れまわされたりしたら、ろくでもない大人になる」と言った時の父親のせりふ
「お、おれはろくでもない大人だよ…(中略)…だけどおれがろくでもない大人になったのはだれのせいでもない、だれのせいだとも思わない。だ、だから、あんたがろくでもない大人になったとしても、それはあんたのせいだ。おれやおかあさんのせいじゃない。おれはあんたの言うとおり勝手だけど、い、いくら勝手で無責任でどうしようもなくても、あんたがろくでもなくなるのはそのせいじゃない。…(中略)…責任のがれがしたいんじゃない。これからずっと先、思いどおりにいかないことがあるたんびに、な、何かのせいにしてたら、ハルのまわりの全文のことが思いどおりにいかなくてもしょうがなくなっちゃうんだ。」(p208)
柴田よしき 「所轄刑事・麻生龍太郎」 2007年 新潮社
突然、山内錬というキャラのことを思い出し、以前、そのキャラが出てくる小説を順に読もうと思いつつ読んでいなかったのを思い出して
山内錬に関連深い麻生龍太郎の第一作をまず読もうと思い立った。
久し振りの柴田よしき。
記憶にあった通り読みやすい。
が、話としてはちょっと微妙な感じだった。
短編の為か、各事件はそんなに大した事件ではないのに
麻生龍太郎の問題(人を本当に愛せないとか)を大きく取り上げられ過ぎていて
物語とキャラクターの深さが釣り合っていない気がした。
なんとなく麻生龍太郎が中二病っぽく見えてしまうというか…
以下、各章のあらすじ(ネタバレあり!)
 | 日本経済新聞出版社 発売日 : 2010-11-10 |
猪瀬聖 「アメリカ人はなぜ肥るのか」 2010年 日本経済新聞出版社
これまた「読みたい本」リスト消化キャンペーン本。
その昔、当時よく行っていた読書会で紹介された本(だと思う)。
アメリカには超肥っている人が多いのはよく知ってるので、単純に興味をそそられた。
読んでみると、最初の方は事実の羅列という感じで、
結局「なぜ」の部分がちょっと浅かったような気がするけれども
好奇心は満たされたと思う。
ジャンクフードの話がものすごく出てくるので
妙にジャンクフードが食べたくなってしまって、
ポテトチップスを食べながら読むという、
ダメジャナイカ状態であったのも、思い出として書いておこう…
簡単にまとめると、
まず事実として;
・アメリカの3分の2が肥満である
・肥満が大きな問題となり、アメリカの未来を脅かしている
なぜなら
-志願兵が肥満の為に入隊できないということが起きており、軍事面に影響を与える
-救急医療の現場で、肥満体に対応する器材が必要となり財政を圧迫させる
など
・貧困層ほど肥満率が高い
肥満の原因として、ジャンクフードや甘い清涼飲料水は当たり前のことであるが
2つの方向から原因を探っていた。
まず「なぜ貧困層が肥満率高いのか」というアプローチ。
・貧困層で肥満率が高いのは、貧困であるが故にジャンクフードに走ってしまうから
・外は治安が悪いので、子どもたちは室内で遊ぶことになり、よって摂取したカロリーは消費されない
・ファストフード店以外、治安の悪い地区に店を出そうとしない為、ファストフード店しかチョイスがなくなる
・フードデザートと言われる、新鮮な野菜を売っている店がない地域が増えている
・フードデザート現象は、中級階級以上が治安の悪い地区より郊外へ流出したのに際してスーパーマーケットも流出、代わりにファストフードのチェーン店やドラッグストアが入ることで起きる
そもそも、なぜこんなに味が濃くて、ものすごく甘い物が好まれるのか、
アメリカ人は味音痴なのか、という話になるが、
味覚というのは子供の時に形成される。
そして、アメリカの貧困層の場合、子どもの頃からジャンクフード漬けになるのだ。
原因は以下の通りである
・学食がジャンク化している
・その大きな原因が学校の予算不足である
・学校の予算は、その地域の固定資産税から捻出される
→貧困層の多い地域はあてられる金額が低い
→移民が多く、給食を必要とする子供の数が多い
・予算不足となると必然的に安価な加工品を使うことになる
・民間企業が侵入している
→給食とは別に「コンペティティブ・フード」として販売されている
→給食ではないので、規程の栄養素が含まれなくて良い
→企業のメリットしてはブランドの売り込み
→懐の厳しい学校としては頼らざるを得ない
・清涼飲料水に関しては、ドリンク販売権契約を学校と契約を結んでいる
→清涼飲料水企業(コカ・コーラなど)は学校での販売権を得る
→売上が目標を達成すれば、学校側にボーナスが出る
→教育費が削減された学校側としては、教材を購入するのにも四苦八苦していた
次のアプローチとして、もう少し深いところからのアプローチである。
そもそもジャンクフードは何故安いのか?
こんなにも批難されているのに何故企業はジャンクフードや清涼飲料水を売り続けるのか?
といったところに結び付く。
ジャンクフードが安い、というのは当たり前すぎて深く考えたことがなかったが、
アメリカの農業に大きく関係していた。
・1973年 前年の異常気象で食料品の価格が高騰
・農業支援策として、トウモロコシや穀物の各農家に直接補助金を支払うということをした
・その後、トウモロコシの生産量が回復し、販売価格が生産コストを下回るという状態になる
・それでもトウモロコシ農家は、作れば作るほど補助金が出るというので、作付面積を増やしていく
・トウモロコシは安価に売られることになる
・トウモロコシは様々な食料品の原材料になる
-甘味料のコーンシロップ
-肉牛を育てる飼料
企業がなぜこんなにジャンクフード・清涼飲料水を売り続けるのか、という点だが、
・アメリカ企業は社会的責任を果たすことを求められる
・肥満問題もその一つではある
・同時に、絶えず株主から厳しく利益拡大が求められる
・社会的責任と利益拡大が相反する場合、利益拡大の方を取る
→アメリカ経済は、株主利益を過度の重視する
・この経済の仕組みが、利幅の厚いジャンクフードに走り、国民の食欲を限界まで刺激する
因みに、アメリカの食事でしばしば話題に出るのが、その量だが、
徐々に増えていったのかと思いきや、
アメリカンサイズの生みの親がいるのを知って驚いた。
それはデヴィッド・ウォラ―スタインという実業家で、
1960年頃、映画館の儲けを増やす方法を考えていた時、
客が一人前では物足らなさそうだけれども、人目を気にして2つ目を買わないことに目を付ける。
一人前の量を増やし、値段も高めに設定したら、これがずばり当たった。
マクドナルドの創始者に乞われて取締役になった際も
ポテトを巨大サイズ化を提案し、そのおかげで1970年代の不況時でも
マクドナルドは売上高、来客数ともに再び上昇したのだった。
肥満に関する歴史があるって、なんかすごいな…
アメリカの肥満は、世界にも輸出されている。
というのは、アメリカでは人口がそんなに増えていない。
ということは、食糧の消費量というのは増えない状態が続いているのだ。
それでも株主を満足させないといけない。となると、ジャンクフードの輸出に繋がるのだった。
主要国の肥満率が出ていたのだが、1位から5位が次の通りである;
1位 アメリカ
2位 メキシコ
3位 ニュージーランド
4位 オーストラリア
5位 イギリス
因みに6位がカナダである。
上位を見て笑ってしまうのが、メキシコは除いて
見事に食べ物がおいしいと聞かない国。
本書ではあまり言及していないが、食への興味も肥満に関係しているのではないかと思う。
現に、おいしいと言われているイタリアやフランスは、大分下の方にある。
因みに、日本は最下位であった。
とはいえ、日本も安心できない。
周りを見渡せば、アメリカ産のチェーン店はたくさんあるし、
アメリカの甘い物は甘すぎて日本人には合わないと思いきや、クリスピークリームドーナツはバカ売れ、
更に特盛、メガ盛りというのが人気を博している。
そもそも日本人を含めたアジア人は遺伝子的に太りやすいらしい。
食糧事情の悪い状態が長く続いた地域で生活してきた人種や民族は、
有能な「倹約遺伝子」を持っている。
「倹約遺伝子」というのは、人類は飢餓に備えるため、食物から摂取したエネルギーを脂肪として効率よく体内に蓄えるメカニズムを発展させてきたのだが、その働きを担う遺伝子を指す。
有能な倹約遺伝子を持っている、ということは、つまりは、摂取エネルギーの量が少なくても、たくさんの脂肪を蓄えることができるのだ。
(今となっては無駄に有能としか言いようがないが…)
本書は2010年ということで、若干古い話ではあるが、
日本でアメリカ産チェーン店が撤退した話はあまりないし、
ジャンクフードがなくなったわけでもなければ、
そういったチェーン店がヘルシーになったわけでもない。
企業が自己中としか思えない気がしないでもないが、
企業が売るのは買う人がいるわけで、強靭な精神をもって歯向かっていかないと
肥満社会に打ち勝つことはできないんだな、という難しさを感じた。
と言いつつ、ポテトチップスを食べてしまったのだが…
高殿円 「政略結婚」 KADOKAWA 2017年
本屋さんで見かけて読みたいと思っていた本。
割と新しいからか、図書館ではずっと借りられていたままだったが、
偶然見つけて、すぐ借りた。
面白かった!の一言に尽きる。
やはり女性が強い小説は、面白い。
最近、女性が強いっていうのが小説や映画でも多い気はしないでもないが…
本書はそれぞれ別時代の3人の女性の話である。
いずれも、いわゆる大名や華族の話で、「上流階級」という小説があることからも
高殿氏の興味がなんとなく分かるが、
制約のある上流階級の中で、どうやって生き抜いていくのか、というところが興味深い点になっている。
上流階級と、普通では知り得ない生活・価値観などが
垣間見れるという点でも読み応えのある話になっている。
政略結婚とあるが、「結婚」の話ではなく、「家」というものに対する考えについて書かれた話だと思う。
因みに3人の内、1人は結婚しない。
以下、あらすじ;
木下直之 「美術という見世物」 1999年 筑摩書房
こちらも「読みたい本」リストの消化本。これは非常に面白かった!!!
久し振りに脳が刺激された感じがする。
今、皆がありがたがって「鑑賞」している「美術」は、いったい何なのか、ということを問いかけられている気がした。
常々、美術館に来る人達のミーハーぶりに疑問を感じているからだ。
(もちろんすべての人がそうだとは限らないけれども)
何年か前に、若冲展で何時間も並んで観ている人がニュースで取り上げられていたが
果たして、その中の何人が、純粋に若冲が好きで観に来ているのか。
どうも、「長蛇の列に並んで観る」ということに価値が置かれている気がしてならない。
長蛇の列ができるほどならばすごいに違いない、
こんなに並んで観たのはすごいに違いない、という発想は、
「美術鑑賞」というよりも、物珍しいものに人がたかる見世物小屋に近い気がしてしまう。
ということで、本書で、日本において「美術」という概念がいかに形成されていったか、という話は非常に興味深かった。
以下、面白いところを抜粋していく;
(興味深いところが多くて、それでいて図書館の期限がきているので
考察などせずに抜粋だけしていく)
「乍憚口上」
・さて、現代人が美術と呼んでいるものも、この国に昔からあったわけではない。体操の歴史に似て、美術もまた、官が民に教え込んできたという歴史を持つ。
美術学校とはそのための施設である。美術学校を頂点とする美術教育とは、その実践である。美術学校で講じられた日本美術史とは、万国共通の美の基準、という名の実は西洋社会の幻想に奉ずる態度から生まれたものであり、与えられた基準にしたがい、過去にさかのぼって、日本の造形表現を整理し直す作業にほかならない。
そのような見方を得ることで、たとえば仏像は、日本を代表する彫刻作品となったのである。そうでなければ、仏像は、いつまでたっても寺の中で線香の煙を浴びながら、拝まれ続けていたことだろう。(p14)
・見世物は美術展が生まれ育った家なのである。長じてのち生家をやみくもに忌み嫌い、その貧しさを恥じるのは、実は、近代社会の中で、日本人が美術にどのような地位を与えてきたのかに密接にからんでいる。(p17)
「石像楽圃」
(鼠屋伝吉はウィーンを訪れ、帰国後、ウィーンでの見聞を人形にして見世物にした)
・しかし、とりわけ珍しく、ひょっとすると当時の人々の理解を得られなかったかもしれないものは、台座の上に立つ石造であった。それほど珍奇であったゆえに、鼠屋伝吉は「石像楽圃」と名付けたわけだし、見世物に仕立てもしたのである。古くから仏像というものはあった。野ざらしの地蔵菩薩でも、立派なものなら台座の上に鎮座ましましていたけれど、野外彫刻という概念がまだ出来上がっていない時代である。(p26)
・(美術学校が設立され、イタリア人教師を招いて彫刻学科を設立した。そこでは石膏デッサンがカリキュラムに取り込まれた)
しかし、いきなり彫刻を持ち込まれた側は面食らったに違いない。当時の日本にあった彫刻的な造形表現は、仏像であり、根付や置物のような小さくて精巧な彫物であった。原寸大に作られた人物像が彫刻であり、芸術なのだといわれても、それを受け止める感性もなければ言葉もない、それを飾って眺める場所さえなかった。
・(江戸幕府が派遣した使節団の村垣淡路守範正が、ホワイトハウスを訪れた時の日記より)
我寺院の無住の本堂に似たり所々の鴨居の上に白石もて造たる首あり代々の大統領の首なるよし我国の刑罰場に見しにひとし
現代人には不思議でも何でもない首から上の肖像彫刻を受け止めるために、村垣は晒し首のイメージを思い浮かべねばならなかった。また、国会議事堂では、目にした彫刻を「白石の仏像めいきたるもの」と表現している。(p30)
・ここには、仏像がいつから日本の彫刻を代表する存在になったのかという大変興味深い問題がある。礼拝の対象であった仏像が、ある時期を境に、寺院から博覧会や博物館へと引っ張りだされ、台座の上に置かれ、あるものはガラスケースの中に入れられ、作者、題名、制作年、材質などの説明を付され、美術品として眺められるようになったのである。(p43)
・明治六年の鎌倉大仏は、まだ彫刻と見なされていたわけでもなく、美術品でさえもなかった。ただ、その展示のために渡澳したおかげで、鼠屋伝吉はウィーンで西洋彫刻というものにふれ、図らずもその概念を日本に持ち帰るはめになった。(p46)
・伝吉もまた、人形という自分なりの手法で、西洋彫刻の姿を示してみせたのである。たとえそれが無自覚に為されたにせよ、あの見世物小屋の中では、日本の彫刻なるものと西洋の彫刻なるものが同居していた。同居どころか、両者は文字どおりひとつになっていたのである。
それからあとの日本彫刻史とは、すでに垣間見たように、鼠屋伝吉が用いた手法を捨て去る歴史である。いわば、伝吉の仕事を美術と呼ぶわけにはいかない時代の幕開けであった。(p46)
「手長足長」
・異国人物と外夷人物とを分ける根拠は漢字を知っているか否かにあり、ここには、中華思想の明らかな反映が認められる。いわゆる華夷秩序と呼ばれる一元的な世界観で、自分たちの文明からの距離がその国の文化を測る基準となった。(p61)
・(生人形を見たオリファントの記述)
私は、この「見世物(ショウ)」が美術的才能を大いに表しているものとして、かなり詳しく書いてしまった。これらの主題は独特のもので、それは、日本人が、美術の最低の歩みにありながらも完璧の域には到達している立派な見本であった。(p85)
・ここに引用したオリファントの言葉は、自分たちの「美術」という基準では捉えきれないものを見てしまった西洋人の感想である。ただ単にリアルであるものを、「美術」と呼ぶわけにはいかなかった。逆に、この時、浅草奥山に詰めかけていたすべての日本人にとっては、オリファントの胸の内は了解不可能な領域であっただろう。ところが、それからわずか二十年ほどの間に、日本人は、急速にオリファントのいう「美術」へとすり寄ってゆくことになる。(p87)
「胎内十月」
・幕末の日本人にとっても、これが醜く見えたかという判断はひとまずおき、これほど真に迫った肉体表現が観客から引き出すものとは、驚きに続いて、やはり笑いだったのではないだろうか。幕末の造形表現に現れた通俗リアリズムのたどり着いた先を見る思いがする。こころからはも、リアリズムは一歩も前に進めない。あとは、それが置かれる場所によって、たとえば、見世物小屋から美術館へと居場所を変えることで、どのように意味を変えるのかという問題が残るばかりだ。(p106)
・リアリズムは完璧ではないけれども、それは「美術」ではないというオリファントの言葉を、ここで思い起こしていただきたい。簡単にいってしまえば、この西洋人のいう基準にすり寄っていったのが近代日本美術だったわけだが、その前に、生人形は裸体を見世物にしたという理由で足元をすくわれてしまう。すでにこの時点で、生人形は西洋人のいう「美術」に加わる資格を失ったことになる。このころから、「美術」は官によって移植され、官によって指導される歴史を歩み始めるからだ。(p106-9)
・松本喜三郎や旭玉山が見世物と医学のどちら側に属していたのか、と問いかけること自体が無意味なのである。現代人の目にはどれほど奇怪に映ろうとも、生糸を生糸として見せずに滝の姿に変えたり、骸骨を見せるのに龍の頭から吊るしたりすることが、明治十年の日本人には必要な形式であった。逆に、彼らの目には、現代の博物館や美術館の展示はどうしようもなく無味乾燥なものに映ることだろう。(p129)
・(脚注より)明治二十三年にいたってもなお、医学のための人体解剖模型の展示が、観客からは性的な見世物のように眺められていたことがわかる。それが単なる裸体像ではなく、解剖模型として扱われるためには、科学と教育の制度がある程度に形成され、その中での位置付けがなされなければならない。(p134)
「万国一覧」
・(写真により)建築ほど風土に縛られたものはないはずなのに、建築家は、自分とは無関係な土地の建築を目にし、気に入ればそれを引用することさえ可能になった。建築家を志した時に、世界中の建築が写真に撮られ出回るようになっていたこともまた、ガウディにとっては僥倖なのである。(p140)
・外国風景が、なぜひとびとを喜ばすのだろう。おそらく、それは、古い世界像が崩れ、新しい世界像が築かれつつある時代を、彼らが生きていたからだと思う。…(中略)…外国風景を眺めるのが楽しいのは、単に未知の世界にふれるからではなく、既知の世界を崩してくれるからである。この時代には、それが、個人にも民族にも起こった。(p153-4)
「油絵茶屋」
・(油絵の興行の様子を書いた平木政次からの引用)
その時の有様を申上げますと、先づ場内で口上言ひが、陳列画に付て夫々細かく説明し、先づ第一には筆者の経歴、製作の苦心更に額画に附き『よくお目を止めて御覧下さい』と巧みに述べ立てるのです。見物人は成程と感心して、『画がものを云ひそうだ』とか『今にも動き出しそうだ』とか『着物は、ほんものの切れ地だろう』とか『実に油画と云ふものは、不思議な画だ』と口々に驚きの声を発して居りました。(p176)
・見世物には欠かせない口上が、ここでも観客と絵画の間を取り持っている。静寂を強いられる現代の展覧会場とは、ずいぶん異なる雰囲気だ。(p176)
・見世物の場で油絵が眺められていたということは、見世物の楽しみ方で油絵が楽しまれたことを示している。「着物は、ほんんものの切れ地だろう」といった観客の会話を、額面通りに受け取るわけにはいかない。当時の五姓田親子の技術では、どんなに頑張っても、それが「ほんものの切れ地」に見えるわけはない。むしろ、観客が「画がものを云ひさうだ」とか「今にも動き出しそうだ」と決まり切った感想を口にするのは、彼らが決まり切った楽しみ方を楽しむために見世物小屋を訪れるからである。(p180)
・同じ感想は、今なお美術館でしばしば耳にする。その時、観客はリアリズムという詐術を楽しんでいるのである。仮に本物そっくりに描かれた「切れ地」があったとしても、それが絵であることはわかりきった上で、驚いてみせるのである。喜んでだまされるのである。そんな楽しみを確認し合うために、陳腐な型にはまった会話が必要なのだろう。こうした楽しみ方は、実は、これまでに見てきた幕末の細工見世物や生人形のそれと、何ら変わりはない。(p182)
・平木政次は「静かなまことに奥ゆかしい展覧会でした」と、最後にひと言加えている。これは、口上を期待して茶屋に入った観客が、案に反して、それを眺めることだけを強いられたと考えるべきなのだろうか。そうだとすれば、口上の排除は、この見世物がまとまった「学術展観場」という装いに関連し、「人を開化に導く趣向」のひとつということになる。同じ平木が「地囃しの鳴物入り」と伝えた五姓田芳柳の興行との間には、どうやら一線が画されたようだ。ここまで来れば、作品に触れるな、喋るな、ただ黙して見よという展覧会まであと一歩である。
平木政次の記憶は曖昧だし、そもそも口上がなかったといっているわけではない。明治九年の観客に、口上を付けずに、戦争の絵を見せることが可能だっただろうかと、私は疑問に思う。しかし、このように戦争を語り、観客の耳へと訴える音の要素が、この明治十年頃を境に、絵画から引き離されていくことは間違いない。(p198)
・(注釈より)引札に名前が記され、人気のある口上言いならそれだけで人が集めたことがわかる。この伝統は根強く続き、やがて日本に活動写真が入ってきた時に、観客が弁士を求めたことにつながってゆく。いわゆる活弁の芸域は、音楽伴奏が主体だった西洋とは比較にならないほど発達したようである。(p212-3)
「パノラマ」
・自分の目の前に広がっている大陸の大きさは、弟には想像もつかないだろうと兄が考えたのは、箱庭のような日本とは風景がまるで異なり、要するに大陸は想像を超えてはるかに大きいということなのだが、同時にまた、その大きさを伝えるだけのイメージが、日本人の間でまだ充分に出来上がっていないことも示している。
日本人が馴れ親しんできた中国の風景といえば、むしろ華北の険しい山々か、江南の湿潤な風土を描いた山水画であった。…(中略)…それらの多くが掛軸という形態をとっている以上は、画面は縦に長くなりがちで、したがって画家は縦に切り取りやすい風景を好んだはずだ。「蜒々として丘陵起伏したる一大広野」や「両端遠く走りて微茫のうちに没す」るような風景は、画巻にでもしなければ描きようがなかった。(p217)
・私は先に、床の間に掛けた山水画の効能についてふれた。それは縦に切り取られた小さな風景のはずだが、静かに眺めるだけで画中に遊べるのだとしたら、そこでは、何よりもまず観客の想像力が要求される。もちろん無意識のうちにである。ところが、パノラマは逆に、想像力の放棄、一種の判断停止を観客に強いたはずだ。視野を限定しない画面は、観客の視覚を麻痺させてしまうからだ。それは日常生活において、睡眠以外の時間はいつも目を開けたままなのに、ほとんど何も見ていないことに似ている。見るためには自覚が必要で、そのためには額縁のような枠が必要なのである。(p224)
「写真油絵」
・蕃書調所は、ペリー来航をきかっけとして、安政二年(1855)に設置された。当初は洋学校と呼ばれ、そこでの教育は海防と強く結びついていた。画学が教えられたのも、それが軍事学の基礎と考えられたからである。軍艦や大砲を作るためにも、地図を作るためにも、まず正確な図を描く技術が必要であった。画学教育は次第に重視され、絵図調方が画学局として独立するのが文久元年(1861)である。(p269)
・写真は色褪せやすく、子孫代々に肖像を伝えるためには、油絵の方がはるかに優れているというのが、高橋由一の主張である。どうやら、由一の念頭には、王侯貴族を描いた西洋の肖像画がはっきりあったらしい。肖像写真を大きく引き伸ばすことが、当時の技術では無理だった。もちろん、カラー写真はまだ開発されていない。そして、いうまでもなく、油絵の方が修正がきいた。(p284)
・家族の肖像を飾るという風習のない日本で、それらが民衆の間に浸透するためには、もっと切実な理由、もっと切迫した状況を必要とした。
それが「斃義士肖像」を祭るという思想ではかっただろうか。徴兵制が布かれて以後に起こった日清戦争と日露戦争は、民衆の間に大量の戦死者を生み出した。武士ではなく、国民が戦場に駆りだされたという点で、このふたつの戦争は、戊辰戦争や西南戦争とは比較にならないほどの大きな影響を社会に及ぼした。戦死した息子の肖像を座敷に飾ることが、このころから始まる。(p287)
・写真油絵が写真であるかぎりは、いくら油絵を名乗ったところで、現代の日本で絵画と認めてはもらえない。しかし、迫真表現としての完成度は、決して低くない。しかも、ここには、肖像をなんとか後世に伝えようとし、それを実現させた人間の情熱が宿っている。写真油絵は、横山松三郎にかぎらず、島霞谷や高橋由一や五姓田芳柳らが追い求めてきたものの姿を変えた実現である。松三郎は、自分の作品が美術とみなされることも、美術館の壁に掛かることも望んでなどいないだろうが、この肖像画を前にした私は、こうした造形表現を俗悪だと排除して出来上がった日本の近代美術は、そう語るに足る豊かな百年を経験しただろうかと問わずにはいられない。(p309-10)
「甲冑哀泣」
・こうして、甲冑は政治的な贈物から展示されるものへ、人々によってただ眺められるものへと変わってしまった。もちろん、万国博覧会に出品される以上、甲冑は日本文化を西洋諸国に向けて強く訴えるものとして扱われただろうが、下岡蓮杖の写真館で使われたような意味での、便利な小道具だったわけではない。なぜなら、甲冑は国内での博覧会にも出品されており、日本人の観客に日本趣味を煽る必要はないからだ。(p324)
・では、甲冑を展示し、それを観客が眺めることを裏で支えたものはなにか。それは文化財という概念である。(p324)
「写真掛軸」
・そうした関係を結べる絵画あるいは写真を、個人で所有するにしくはないが、そうはいかない大衆のために、現代では、美術館という場が用意されている。金さえ払えば、そこには誰でも入れるのだから、絵画あるいは写真との個人的関係が水で割ったように薄められたところで、多少は我慢するしかない。美術館が芸術を生活から切り離してしまった張本人であるにもかかわらず、そうした美術館を生活の中に取り込んで、より文化的な暮らしをしようと声高に叫ばれているのが昨今の日本である。(p386)
高野史緒 「赤い星」 2008年 早川書房
「読みたい本」リスト消化キャンペーン。これもどこで紹介されたか分からないけれども、三浦しをん氏のエッセイで紹介された「ラー」が面白かったので、それで興味を持ったのだろう。
正直、なかなか読み進められなかった。
ロシアという大好物な題材だというのに…!
今、自分が読んだ高野氏の作品の感想を読み返して気付くが、
「ラー」以外、ヒットしたものがないんだな…
それなのに、「面白い」とインプットされて、忘れた頃に読むということを繰り返している…
そして共通の感想が「発想は面白いのに…」というもの。
本作も漏れずに「発送は面白いのに…」というもの。
舞台はロシアに支配されている江戸。
江戸といっても、テクノロジーが発達していて、ネットもあるし
オンラインゲームもある。
花魁はいるけれども、花魁の友人である主人公はハッカー、みたいな感じ。
ざっとしたあらすじは;
主人公のハッカーであるおきみの友人は、吉原一の真理奈太夫で
将軍の御落胤と自称している。
彼女からある調査を受ける。
それは現ロシア皇帝に殺されたはずの前皇帝の息子ドミトリー皇子が秋葉原に潜伏しており、
その人と結婚して皇后になるのに、その皇子について調べて欲しいというものだった。
そんなおきみは幕府の付け過労・シェイスキー公爵から、ドミトリーは偽物なので
これ以上、首をつっこまないようにと注意を受ける。
おきみにはもう一人、幼馴染がいて、彼はバイオリニストとしてロシアにいるはずである。
消息不明となっていて、おきみは彼・龍太郎を探すのに
仮想のペテルブルクに行って情報収集しようとしている。
というのが、仮想のペテルブルクのはずなのに、ある男についていくと
本物のペテルブルクに行けることに気付いたのだ。
結末としては、ペテルブルクの実情は荒廃した地であるが
皆の夢によって素晴らしい都になっていたのだった。
龍太郎はその夢のキーパーソンであったのだ。
そしてドミトリーは偽物で、真理奈太夫とロシアに行くことは行くが、
そこから本当のペテルブルクを見てしまったということで殺されてしまう。
読むのがだれてしまったのもあり、龍太郎がどうキーパーソンなのかが、いまいち掴めずに終わってしまった。
クーデターがあったりするのだが、それも理解しようという努力をあまりせずに読むので
いまいちピンとこなかったし…
とりあえず、引き込まれるものがあまりなく、登場人物にも魅力を感じなかったので
読むのが大変、という印象しかなかった。
「読みたい本」を消化する、という目的は達成できたから良しとしよう。
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