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「蜜蜂と遠雷」の短編ということで読んだ本。 結構短い短編6話で、すごく軽いのでさらっと1時間くらいで読める内容だった。
以下、各話の簡単なあらすじ。
祝祭と掃苔
亜夜とマサルが子供の頃に習っていた綿貫先生のお墓にお参りに行くところを、なぜか風間塵もついてきて…というお話。 風間塵の家族の話がちらっと出てきたり(皆ばらばらに暮らしていて、皆すごい、みたいな)、コンクール後の話があったりと、本当に雑談が繰り広げられていて、「蜜蜂と遠雷」のポストクレジットシーンみたいな感じ。
獅子と芍薬
「蜜蜂と遠雷」では審査員だったナサニエルと三枝子が出会った時のお話。 二人はコンクールで同率二位で、一位を勝ち取れなかったという因縁の出会いであった。 二人とも、このコンクールで優勝すればホフマン先生に弟子にしてもらえるという約束していたのに、と悔しい思いをする。 ちなみにナサニエルは、そのまま粘ってホフマン先生の名前を出さないという約束で教わることになる。
袈裟と鞦韆
「蜜蜂と遠雷」のコンクールで新作としての課題であった「春と修羅」ができた裏話。 短いながら泣ける話だった。
作曲した菱沼に小山内という生徒がいた。といっても、小山内は別の教授についていたので弟子ではなかったけれども、少し変わったバックグラウンドを持った印象的な生徒だった。 卒業後、実家のホップ農家で手伝いをしながら作曲します、と帰っていく。 毎年、菱沼に届く年賀状には、作曲した曲名が書かれていたり、書かれていなかったり。 落ち込んで、また浮上した今年の年賀状だったのに、小山内の訃報が入る。44歳の若さであった。 彼の郷里に向かうなか、小山内が楽譜みたいという「春と修羅」を読む。 お葬式から帰ってくると、コンクール課題曲の依頼を受けるのだった。
竪琴と葦笛
ナサニエルとマサルが師弟関係になった経緯の話。 マサルはジュリアード音楽院のプレカレッジで、ナサニエルではなくミハルコフスキーのもとについた。ナサニエルは、ミハルコフスキーが弟子にとるんだろうなと思いつつ、彼の難ありの性格でつぶれないか少々心配していたが、実はマサルはとてもしたたかで、ナサニエルに師事したいという想いで、一計を講じるのだった。
鈴蘭と階段
亜夜のよき理解者である奏の話。 奏はヴィオラに転向したものの、まだ自分の楽器を持っておらず探していた。 そこに亜夜から電話がかかってきて、風間塵とチェコ・フィルハーモニーのヴィオラ奏者パヴェル氏の家にいるが、パヴェル氏の予備のヴィオラがまさに奏にぴったり、パヴェル氏も売ってあげると言っている、というのだった。
自分の楽器ってやっぱりあるんだーというのと、奏者間で売買ってあるんだーという驚きだった。
伝説と予感
ホフマン先生が風間塵に初めて会う時の話。 たまたま、さる方の邸で出会った二人。ホフマン先生は先代がコレクションしていた楽譜を見に、風間塵は父親が蜂の研究するのに邸の庭で調査していたのに連れられて、だった。 そこで、塵が調律していないピアノで、前日にホフマン先生が別のピアノで弾いた曲を完璧にコピーしていたのだった。
風間塵があまりにすごい設定すぎて、ちょっと現実味がないなー感がぬぐえない。 亜夜と仲良しで無邪気な感じが、今回はちょっとだけ見られたので、そういうキャラクターがもっとしっかり出ていたら、もう少し面白かったのでは?と思ってしまう。
何はともあれ、本書はボーナストラックみたいな本で深い感想はないけれども、「蜜蜂と遠雷」ファンにはおいしい本だったのではないかなと思った。
恩田陸「祝祭と予感」2019年 幻冬舎
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辻村深月というと、昔読んでめちゃくちゃ面白かったけれども、微妙に他の本とリンクしているところもあるから、時系列に読まないといけないなーと思ったきり、面倒くさくて そのままになっていた。 が、たまたま見かけて、「あ、そういえば」と思って手に取った本書。
めちゃくちゃ 面白くて一気読みもいいところ。 木曜日夜に読んで、明日あるしこれは危ないと強制終了し、金曜夜に読み切った!
正直なところ、途中でオチが分かってしまったんだけれども、それが分かっても魅力は変わらない。
まず人物描写がしっかりしている。 メインの登場人物が7人もいるけれども、それぞれがしっかりと描き分けられ、しかも細かい、ちょっとした嫌な感じとかも描かれているのもすごい。
それに近しいけれども、ちょっとした感情の機微も描かれている。 例えば、ある意味、社会のはみ出し者になってしまった7名がお互いに帰属意識を持ち始めるなか、やはり本来の世界に戻らないとという焦りであったり、違う子のそれに敏感に感じ取って嫌な気持ちになったり…という細かい心理描写がうまい。 物語としては、異世界に集うという非現実的な話ではあるけれども、その感情がリアルなので、読者も共感を持ちながら読めるようになっていた。
終わり方が100%自分の好み、というわけではなかったけれども、全体を通して非常に楽しめる本だった。
ということで、以下、簡単なあらすじだけれども、ネタバレを含むので注意!!!
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主人公の安西こころは、中学校に入学したとたんいじめにあい、不登校になっている。 両親は共稼ぎのため、日中は一人で部屋で過ごしているのだが、ある時、部屋の姿見が光り、姿見の中に入れてしまう。
中に入ると立派な洋館の中で、狼のお面をかぶってフリルのある洋服を着た女の子がいた。その子は「オオカミさま」というらしい。 こころの他に6名の少年少女が集められていた。
オオカミさまいわく、この邸のどこかに願いの部屋への鍵があり、その鍵を見つけて願いの部屋に入った者の願いをかなえてくれるとのこと。 招集された時は5月。そこから3月30日までこの邸に入ることができ、鍵探しができるのだ。
もし、その途中で鍵が見つかって願いの部屋に入れば、その時点でこの世界は消滅。 これは後から、皆が仲良くなってから知らされるのだが、誰かの願いが叶うと、皆のここでの記憶は消えるらしい。
もし誰も鍵を見つけられなかった場合は、3月30日で強制終了。 その時は記憶は消えないらしい。
もう1つルールがあって、ここへは日本時間の9時から5時しかいられない。 もし5時過ぎてもここにいた場合は、狼に食べられる。 しかも残っていた子だけではなく、連帯責任ということで、その日にいた子全員、食べられてしまう。
招集された子たちは、それぞれこんな感じ。
安西こころ :主人公。中学1年生アキ :ポニーテールの女の子で、はきはきした子。中学3年生リオン :イケメンの男の子。サッカーの推薦でハワイの学校で一人、寮生活をしている。中学1年生フウカ :眼鏡をかけた、声優声の女の子。きつい物言いの子。中学2年生マサムネ :ゲーム好きの男の子で、わりと生意気なことをよく言う子。中学2年生スバル :飄々とした大人っぽい男の子。中学3年生ウレシノ :小太りの男の子。惚れっぽく、アキ→こころ→フウカの順で惚れていく。中学1年生昼間に来れているということは、皆学校に行ってないということで、特に事情は話さないものの、連帯感みたいのが生まれてくる。 だからリオンが、実は学校に行っていて、しかもハワイの学校ということが分かった時にはひと悶着が起きるが、リオンも色々と抱えているらしく、引き続き頻繁に来るのであった。
鏡のなかの世界と並行して、こころの現実世界の話も進む。 学校に行けない子たちが行く、フリースクール「心の教室」に行こうとするが、行くときになるとお腹が痛くなってしまうこころ。 しかし、その学校にいる喜多嶋先生は親身になってくれ、こころも頼りにし出す。 また、こころの母親にも、こころが学校に行けなくなったのは何か原因があるからだと言ってくれ(こころは実際にあったことを伝えていなかった)、それをきっかけに、ようやくこころは自分にされたことを母親に伝えるのだった。
鏡の世界での1つ目の転換となるのが、ある時、アキが制服を着て来たときだった。 なんとそれがこころの中学校と同じ雪科第五中学校の制服だったのだ。 しかもこころだけではなく、次々とやってくる皆が驚く。 なんと、リオンですら、ハワイに行かなかったとしたら行っていた中学校が、雪科第五中学校というのだ。 ということで、この7人の共通点は雪科第五中学校に通うべき子だったというのが判明する。
その後、マサムネが提案する。 1回中学校に行かなくてはいけなくなったが、皆が同じ中学校に行っているのであれば助け合えるのではないか、と。 日にちを決めて、教室がだめだったら保健室、それがだめなら図書室…と決めて、1月10日に皆で学校に行くことにする。
こころも勇気をふりしぼっていくが… 保健室にも誰もおらず、先生に聞いてもそんな生徒はいないと言う。 挙句の果てには、いじめていた子の見当違いな手紙、そしてそれを読んで許してやってほしいと的外れなことを言う担任の先生に心が折れているところに、喜多嶋先生が来てくれて、そこで一層、喜多嶋先生への信頼が高まるのだった。
その後、鏡の世界に戻ると、やはり皆学校に行っていて、そしてやはり誰も会えなかったという。 そこでマサムネが「パラレルワールドなのではないか」という仮説をたてる。 つまり、やはり皆は助け合えないのだ… が、オオカミさまはパラレルワールドを否定、会えないこともない、というあいまいな言葉を残す…
そしてクライマックス。 3月も終わりに近づいているのに、鍵が見つからない。
その日、こころは現実世界にて、本当は友達になりたかったけれど、いじめられた時に、いじめ側について無視していた女の子、東条萌と出会う。 萌こそが、喜多嶋先生にこころのことをすべて伝えた子だった。 萌が謝罪し、二人は再び仲良くなるが、萌は転校してしまうらしい。が、萌の「学校が世界のすべてではない」という言葉に救われる。
萌の家から戻ると、鏡が割れてしまう。そして鏡の向こうからスバルやリオンの声が聞こえる。 なんと、アキがルール違反を犯し、皆食べられてしまいそうだというのだ。 そしてリオンが最大のヒントを伝える。 オオカミさまは、ずっとこころたちのことを「赤ずきんちゃん」と呼んでいたけれども、それはミスリードで、オオカミさまは「七ひきの子やぎ」の”オオカミ”だったんだ、と。
鏡の世界に入ったこころは、各所についていた「×」印をめぐる。 その印は謎だったが、「七ひきの子やぎ」で子やぎが隠れていた場所だったのだ。 その1つ1つをめぐると、それぞれ皆の記憶が蘇ってきた。
ウソつき呼ばわれされて「ホラマサ」といじめられたマサムネ 。父親は低俗な学校だからと切り捨てるが、自分が原因なのではないかと思いつつ、父親の言葉にすがる。
マサムネに会うために日曜日なのに学校に来たウレシノ 。でも誰も来なくて母親と喜多嶋先生が来る。
両親に見捨てられ祖父母に預けられたスバル 。不良になった兄に時々使われながらも、誰からも気に留められず、他の6名たちがなんやかんや親に気にかけられていて贅沢だなと思っている。
ピアノの先生に”天才”と言われてから、母親の期待を一身にあびてピアノを続けるフウカ 。本当は才能なんてもうないのに、シングルマザーの母親が無理してお金を工面しているため、何も言えない。が、コンクールの順位はさがってついには圏外になってしまった。皆の言う喜多嶋先生に出会い、学校の勉強を今更ながら頑張ることにして、一歩を踏み出した。
幼い頃から病気にかかってしまった姉を持つリオン 。姉の実生は中学校の制服を着ることなく亡くなってしまった。サッカーが得意だった母親は、寄宿舎付きのハワイの学校を勧める。リオンに遠くに行ってほしいのだと悟ったリオンはそれに従う。
最後がアキ の記憶。アキの生活環境は最悪で、母親の再婚相手に性的暴行を受けていたうえに、学校ではクラブ活動できつく指導した原因で友達たちに嫌われている。 現実に戻りたくなさすぎて、鍵が見つからず願いがかなわないのであれば、しかもパラレルワールドで皆で助け合えないのであれば、この世界で居続ける、と決めたのだった。
「七匹の子やぎ」で助かったのは大きな時計の中。そここそが鍵がある場所であった。 こころはリオンのヒントとともにたどり着き、鍵を見つけ出し、その奥にある願いの部屋に入る。 アキが犯してしまったルール違反を帳消しにしてもらうのだった。
そしてクローゼットから出てきたがらないアキを、他の皆で引っ張り出し、パラレルワールドではなくて、皆同じ世界、でも時代が違う人たちだったのだと伝える。
その後、皆で整理すると、スバル→アキ→こころとリオン(二人は同時代)→マサムネ→フウカ→ウレシノの順で、7年ごとの差があることに気付くのだった。 ただし、アキとこころたちの間は14年空いている。 願いが叶ってしまったので、皆の記憶はなくなってしまうが、「どこかで会えたら」と別れを告げる。
と最後に、もう1つネタ明かしがある。 リオンは引き返し、オオカミさまに「姉ちゃん」と呼びかける。 オオカミさまこそリオンの姉で、リオンを心配した姉が創った世界なのではないかと言うのだ。 3月31日ではなく30日が期限なのは、実生の命日が3月30日だから。 水などのライフラインがないのに電気だけがあるのは、実生のドールハウスでは豆電球だけがついたから。 「七匹の子やぎ」なのは実生が好きな絵本で、幼いリオンに繰り返し話聞かせたから。 皆が七歳差だったのは、実生と理音の差が七歳だから。そして、アキとこころたちの間が14年空いているのは、その間にいるのが実生だから。 きっと実生の願いは「理音と一緒に遊んで、日本の学校に行きたかった理音に、出会うはずだった友達を作ってあげたい」だったのではないか。
リオンが最後の頼みとして、姉のことや皆の記憶を残してほしいと、オオカミさまにお願いする。 そして最後のシーンで、こころは転校することなく雪科第五中学校に戻ってきて、そこで夢想していたように人気者になりそうな転校生、つまりリオンに声をかけられて終わる。
最後の最後、エピローグでは、アキの後日譚が出てきて、喜多嶋先生こそがアキだったことが分かるのだ。
すごくうまいな、と思うのが、最終的にはこころたちは鏡の世界の記憶はなくなってしまうのだが、実生活の中でも、例えばこころは喜多嶋先生であったり萌であったり、もう一度頑張ろうという気持ちをわかせるきっかけができている。 そのため、記憶はなくなってしまっても、鏡の世界を通して前向きになった気持ちはそのままに、雪科第五中学校に、また通い始められるのだ。 喜多嶋先生がまわりまわってアキだった、というのもポイントかもしれないけれども、現実の世界でも救いがある、というのは大きなメッセージなのではないかと思った。
正直、パラレルワールドではなく、時代が違うのでは?というのは割とすぐ気づいたし(なので「マサムネ!違う!」となった)、喜多嶋先生がこの中の誰かなのでは…?と薄々気付いたため、大きなどんでん返しという訳ではなかったけれども、前述の通り、そこが本書のポイントではないので、十分楽しかった。
1つ難点を言うと、これが実生が創った世界、というのが、うーーーん……、なんとなく安直なような気もしないでもないけれども… あと、そんなイケメンのリオンがこころと仲良くなったら、それはそれで問題なのでは…?とちょっと思ってしまった…めっちゃベタな少女漫画的展開だなーとも。 って1つではないな。
とにもかくにも、こんなにも一気読みしてしまった本は久しぶりだったので、ちょっとしたマイナス要素が凌駕されるほどの本だったことは間違いない。 他の辻村深月の作品が読みたくなった。
武田ランダムハウスジャパン
発売日 : 2012-03-15
フェルメールについて調べていた一貫で読んだ本。 実際にあった贋作事件で、第二次世界大戦中に敵国ナチスに、オランダの宝フェルメールの絵画を売った罪で逮捕されたハン・ファン・メーヘレンが、実は売ったのは自分が描いた贋作だったと告白したことで明るみになった事件の話。
限りなくノン・フィクションのようだけれども、ファン・メーヘレンを主人公にしたストーリー仕立てになっているので、どこまでが事実なのかは疑わしい。 そして、このノン・フィクションなのか、物語なのかがよく分からない中途半端な状態が、ちょっとこの本をつまらなくしている。。。 ノン・フィクションというほど迫真性がなく、物語というほどキャラクターに肉付けされていなくて薄いというか…
簡単にまとめると…
父親から抑圧されて屈折された幼少期を過ごした(兄がそのため、ろくに治療されず病死してしまう) 最初に習ったのが古い絵画技法で、それが後に役立つ ファン・メーヘレンの時代といえばピカソを代表する近代絵画の時代だけれども、ずっと古いスタイルに固執していた そのためアート界から爪弾きにあい、それをずっと恨んでいて、贋作はそれへの復讐だった 最初に大成功をおさめる贋作《エマオの食事》は、その前に贋作を看破されたブレディウスの元へ持って行ってもらい(復讐をこめて)、ブレディウスによって太鼓判を押された 当時、敵国(ナチス)への絵画流出を恐れていた世情もあり、化学的検証がまったく行われずに購入された 女遊び、アル中、モルヒネ中毒とかなりただれた生活をしていた 贋作の質もものすごく下がったが、それでも売れた フェルメールなどの贋作が明るみになり、裁判となった際、《エマオの食事》に関して、所有者がなかなか贋作であるということを認めなかった! ナチスを騙した人、ということで、かなり英雄視された 判決が出てすぐ、心臓発作で死んでしまった かなりクズな描かれ方をしているので、正直、読んでいた楽しくない本だった、というのが正直なところ。 クズはクズなりに魅力があればいいんだけれども、そういう風には描かれていないし、 贋作者のプライドに賭けて完璧なものを描こう!という気概はまったくなく、 駄作を描き続けるのもなんだかなー…という感じだった。 もはやそれは、アート界への復讐の域を超えて、アート自体への冒涜なのでは?という感じ。 って、実在の人で、アル中&モルヒネ中に言っても仕方のないことだけれども…
結局、戦争という異常な状況(戦争前も含め)だったからこその事件だったんだろうな… とにかくフェルメールとは似ても似つかぬ絵で、むしろ気持ち悪い絵なので、バイアスって本当に怖いなというのが、この本から得られる教訓かもしれない。
最後に本書から引用。といってもデュシャンの『創造的な行為』からの抜粋だそうだけれど
結局、芸術家はどこの屋根の上からでも、自分は天才だと叫んでいいのだ。ただし、己れの叫びが社会的な価値を帯び、遂には己れの名が後世の者により美術史の入門書に書き記されるためには、観者の判定を待たなければならないだろう
p80 ある意味、勝ち組の言葉と言えるかもしれないが、本書においては、その観者が騙されてしまったということで、皮肉な言葉に聞こえてしまう。
フランク・ウイン「フェルメールになれなかった男-20世紀最大の贋作事件-」小林賴子・池田みゆき訳 2012年 武田ランダムハウスジャパン
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フェルメールについて記事を書こうと思って読んだうちの1冊。 本書は正確にはフェルメールについて、ではなかったけれどもめちゃくちゃ面白かった!
というのが、フェルメールの作品を日本に持ってくるべく、東奔西走しているプロデューサーの方が書かれた本で、内容もフェルメール展の裏側の話なのだ。
筆者の方が(共著とあるけれども、秦さんのお話っぽい?)が日本で初めて「フェルメール展」を企画されたとのことだが、この2000年の「日蘭交流400周年記念特別展覧会 フェルメールとその時代」展、行ったーーー!となったので更に興味がマックス。 長蛇の列だったと書かれていたけれども、学校が休校だった平日の昼間に一人で行ったら、あまり人がいなくて、いま展覧会で来たら近寄るのが困難そうな「真珠の耳飾り少女」すら、割と近くでじっくり見れた記憶がある…記憶違いだったのか… そして書かれている通り、そう、あの頃の大阪市立美術館の周りはホームレスの人たちがたくさんいて、一人で歩くのが結構怖かったのを記憶している…
閑話休題。
裏側を知れるだけでも十分面白いけれども、その交渉の仕方など、すべてのビジネスに通ずるんではないか、というもので、そういう意味でも勉強させられた。 フェルメール作品という、各美術館や、その国にとって宝である作品を借りるためには並みならぬ交渉術が必要なのは想像に難くないけれども、ここに書かれていることは、どんな小さな私的なお願いごとにおいても、根本は同じなのではないかなぁと思ったのでメモがてら。
秦氏は個人的興味から、翻訳業のかたわら、ライデン国立民族学博物館のシーボルト・コレクションの整理を始め、ついにはそれを元に日本で「シーボルトと日本」展を開催する。 その縁から、ライデン国立民族学博物館の副館長クッツヘルト氏と懇意になり、氏がマウリッツハイス王立美術館の副館長に栄転すると、秦氏に「フェルメール展を日本でやらないか?」と持ちかける。 その裏には、オランダの国家的文化戦略としてフェルメールというミッションが課されていたのではないか、更にはマウリッツハイスの修復が必要であったので、そのバジェット確保のために…といった事情が予測されるが、秦氏は最初乗り気ではなかった。 特に、日本ではフェルメールがそこまで人気ではなかったからだ。
が、クッツヘルト氏のなかば強制的な後押しにより、フェルメール・シンジゲートの親玉ウィーロック氏に会うことになる。 ウィーロック氏はワシントン・ナショナルギャラリーの学芸員で、フェルメール研究の第一人者である。 気おくれしつつ…と言いつつ、初めて会った時がすごい。
少し打ち解けたころ、ウィーロック氏は「よく私の美術館に来てくれたね。じゃあ、ギャラリーに連れて行ってあげようか」と、私を展示室へと案内した。
「この絵をどう思う?」
この質問にきちんと答えられるかどうかが、運命の分かれ目だ。 私としてはフェルメールの話をしにワシントンまで赴いているのだが、彼の質問はそれだけに限らない。私がどれほどオランダ絵画について知っているかを、まずチェックするのである。
たとえば、フェルメールと同じオランダ黄金時代に活躍した、メインデルト・ホッベマという画家がいる。(中略) それまでもホッベマについては少しばかり勉強していたのだが、ウィーロック氏のもとを訪れるにあたっては、ワシントンで所蔵しているオランダ絵画を調べ上げ、ちゃんとリサーチしておいた。
これはフェルメール・シンジゲートのなかにはいっていくための、通過儀礼のようなものだ。手ぶらで相手を訪ねて「フェルメールを貸してくれ」というだけでは、門前払いを食らっても文句はいえない。
p119-120 信頼関係を築くには、相手のことをリサーチするというのは基本中の基本だろうけれども、ついつい忘れがちなので、自戒の意味もこめて長くなったが引用してみた。
また、この「どう思う?」への回答も、さすがだなというもの。
ウィーロック氏が「どう思う?」とホッベマの『A View on a High Road』を指し示す。そのとき私は「この家を別の角度から描いたものが、マウリッツハイスにありますよね」と、『Wooded Landscape with Cottages』のことを話す。 するとウィーロック氏は「おっ、よく知っているね、君は。偉い」と呟き、これで私は「口頭試問」をひとつクリアしたわけである。
さらに、「ホッベマがこの村を描いた絵を全部、世界中から集めて、フィールドノートのように展示したら面白そうですね」と付け加えた。 すると、彼は「グッドアンサー」と一言いって、満足そうにするのである。
p121 この追加のコメントってちゃんとリサーチし、ただ知識を詰め込むだけではなく思考もしていないといけないことだろうから、そこまで深く理解しようとするからこそ信頼は築きあげていくことができるのではないかと思った。
ちなみにこの口頭試問は、この後も会うたびに行われていたそうな。 やはり学び続ける人にこそ信頼が高まっていくよな、と。
こういった相手を知るだけではない。 これも重要だなと思ったのが、貸し出しを断られて美術館に対しても、サポートを惜しまずに続けていたことだ。図録の作成や修復に関してなど、相手が必要としていそうなことを探してサポートをする。 それを貸し出しを6回も断れた美術館にも続け、最終的には貸してくれることとなった。 ただしてもらいたいことをお願いするだけではなく、こちらができることをしてあげる、というのも確実に重要なことだろう。
もう一つ、その世界の人間関係を知る、というのもキーポイントだなと思った。 個人同士で信頼関係を結ぶのと同じくらい、そのコミュニティの人間関係をよく知ることが、コミュニケーションを円滑に取る上で必須だなと。 これはちょっとめんどくさい部分だけれども、逆に、こんな派閥争いとかって日本だけじゃないんだ、人類(?)共通の争いなんだな、と妙に感心してしまった。 ちなみに、筆者の方は1回失敗されているけれども、関係も修復済(筆舌し難い努力をされたもよう…)とのこと。
最後に、東日本大震災後の展覧会にまつわるエピソードがよかったので抜粋;
(東北でも開催予定だったため、それ以前から貸し出すことが決まっていたものの放射線を懸念して躊躇していたアムステルダム国立美術館。ウィーロック氏が口添えしてくれた)
「ターコ(アムステルダム国立美術館の学芸員)、(『青衣の女』は)貸すのか?」
「いや……まだ分からない。現状では……」
言いよどむディビッツ氏を前にして、ウィーロック氏はこう語り始めた。
「9・11のとき、ニューヨークは大変なことになった。そのときも美術品の貸し出しに関して、みんな躊躇していた。ワシントンの展覧会に対してでさえ、そうだった。でも、最終的にはみんな貸してくれたじゃないか。それこそが私たちの力になったんだ。 こうした一番大変なときこそ、作品を貸し出す―それが、重要なことなんじゃないだろうか」
p212-213 フェルメールの貸し出しの裏事情とかあるのだろうけれども、やはり皆の根底には美術への深い愛があって、筆者の秦氏も「フェルメールを日本に持ってきて、できるだけ多くの人に見せたい」という情熱があることが、よく分かるエピソードだなと思った。
めちゃくちゃ面白かったので、長々書いてしまったけれどもこの辺でやめとこう…
こういった方々の情熱と努力によって、日本にいながら海外の良質な美術品が見れるというのは、本当に感謝しかない。
秦新二、成田睦子「フェルメール最後の真実」 2018年 文藝春秋
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「夜の写本師」「魔導師の月」と再読したので、シリーズ読みを再開(解説によると<オーリエラントの魔道師>シリーズと言うそうだ)
第三作目を図書館で借りようとするとない!その次のはあるのに! 検索をしてもこれだけない! ということで購入依頼(?)みたいのを書いたけれども、近隣の市の図書館から借りてきたものみたいだった。いいんだけど、シリーズ中抜けって気持ち悪いよな…とも。
それはそうと、もうこれは購入してもいいかな、と思い始めたくらい面白かったし、読むと前作が気になる。 「夜の写本師」と「魔道師の月」のように前作と直接リンクしているわけではないけれども、同じ国の何百年後、みたいな設定なので、国の状況がこう変わったのか~というのを見たいという点でも確認したいというか。
何はともあれ。簡単なあらすじはというと。
舞台は前作から何年も経ったコンスル帝国。コンスル帝国もすっかり疲弊してしまっており、帝国の政治もうまくいってない感じ。その最北西を位置するところの少年デイスが主人公。
彼は捨て子で、姉ネアリイが幼い頃に両親を説得して拾った子であった。
ある時、ゴルツ山というところで<太陽の石>という緑の宝石をつけた肩留め(フィブラ)を見つける。 それをきっかっけに、ゴルツ山に眠るという魔導士リンターが目覚めてします。
彼は当時名をとどろかせていた魔導師9人兄弟のイザーカト兄弟の内の一人で、壮大な兄弟げんかのすえに、空からその地に落ちてきた、といういわれを持つ魔導師だった。
そして、デイスと、ディスの幼馴染(というより喧嘩仲間)のビュリアンを連れて町を出るという。それにネアリイがごねて同行することになって、4人の旅が始まるのだった。
旅をしていくなかで、デイスは実はイザーカト兄弟の末弟デイサンダーで。その記憶がよみがえってくる。デイスの記憶によって読者もイザーカト兄弟の喧嘩(というのにはあまりにも壮絶だけども)の顛末が分かってくる。
喧嘩の大元は三人目のナハティ。彼女は一番強力な魔導師だった。 彼女の視線もあるので、彼女が闇落ちしていく理由も分かってくる。
小さい頃からしっかりしていたナハティは、上も二人よりも家族を支えていたという自負があった。 しかし両親が亡くなってから二人が家長っぽく振舞いだして、更にはすぐ下のカサンドラが慕われるようになり…というので、嫉妬心が膨れ上がりという感じだった。
最強の魔導師として実績を積んだナハティは、まず上二人を追放し、その後も強い力をもってやりたい放題。 魔導師は心を持たないものなので、ナハティの暴挙も”面白いもの”と認識していたが、さすがにやばいと思い始める。 そんな折に、イザーカト兄弟の良心であったカサンドラを、ナハティがむごい殺し方をしたきっかけに、リンターは怒り狂い、ナハティと戦う。結果、両者とも飛ばされてしまう。
喧嘩前にあった戦で、イザーカト兄弟のうちミルディを殺した敵国の魔導師ザナザも仲間に加えて旅を進める。
まず行き当たったのが、ナハティ側についてヤエリ。彼女は超潔癖で、魔導師は汚いものとして、魔導師狩りを行っていた張本人だった。 その中に、長年、目くらましの術で違う人になりすまして動向をうかがっていた、デイサンダーと一番仲良かった1つ上の兄イリアを見つけ出し、仲間となる。
ネアリイが結構キーとなる登場人物となっており、魔導師は本来心のない者であった。 が、デイサンダーはネアリイの弟として人生を再度過ごす過程で心を育み、またイリアもネアリイと恋仲のような関係になる。
が…一行を追いかけて来たヤエリによりネアリイは捕らえられ、更にはヤエリによって殺されてしまう。 それに対してリンターはヤエリを殺し、自らも死んでしまう。 死ぬ間際に自分の力をイリアとデイサンダーに渡して…
元々、憎悪に囚われていたリンターは命が長くないということを自分でもわかっていて、同じ轍を踏まぬよう、イリアとデイサンダーに伝える。 しかしリンターの力をもらう時に闇ももらったのもあり、二人はリンターやネアリイの復讐をしようとナハティの元へ向かうのだった。
その途中でビュリアンに、リンターが彼を連れてきた理由を明かされる。それはデイスが山で拾った<太陽の石>はデイサンダーの物なのだが、それは星がつまった石。闇にのまれて命が潰えそうになったら、それを傷口に入れると魔法の力はなくなるだろうが、それゆえに命は助かるだろう。それをするのがビュリアンの役割、というわけであった。
いよいよナハティとの戦い。もはやナハティとはいえないくらいの闇落ちし、悪意しかない。 ナハティがデイサンダーたちの力を奪い取ろうとしたとき、デイサンダーはビュリアンに<太陽の石>をねじ込むこを頼む。
が、ビュリアンが行ったのは、ナハティにフィブラの針を刺すことであった。 それがネアリイの力も宿ったのか(ネアリイはフィブラの針で殺された)、ナハティから決して外れず、大地の力によってナハティはどんどん縮まり、最終的にはもはやナハティの名も持たない、小さな闇となって地面の隙間から地中に入っていった。
闇が完全になくなったわけではないけれども、とりあえず逃れられたのだ。
深い傷を負ったものの、イリアとデイサンダーは生き残る。
ビュリアンとザナザはその地に残り、イリアは<冬の砦>へ、デイサンダーはネアリイの死を伝えに両親の元へと戻っていくのだった。
この3作を通して、作者は「闇」というものに重点を置いているのがよく分かった。 魔法を使うということは、”闇”がないといけない。その闇とどう対峙していくのか、というのがメインテーマっぽい。
の割には、闇の扱いが若干安易な気がしないでもないけれども、全体的には物語に緩急があったり、描写が映像的で想像しやすかったりと、まったく飽きさせない展開になっている。
映像的の例で、最後、ナハティにフィブラの針が刺さったシーンを抜粋すると;
縛めから自由になった大地に、イリアとデイサンダーの魔力が広がっていった。そうしてナハティの呪いの破片を緑に染めていく。
焼かれたクルミの実、押しつぶされたドングリ、断ち切られたタンポポの根、スイバや薄荷やセージの茎、蔦の蔓、そうしたものが再び命を得、石の下瓦礫の下、炎の中からよみがえっていく。密林で繁茂する羊歯類顔負けの勢いで芽を出し、茎や葉をのばし、根をはりめぐらせ、あの灼熱の雲を噴きだしている裂け目にさえはびこり、溶けては茂り、消滅してはのび、焼けても芽吹き、決して途切れることがない。
p258 こういった表現がまだ続くのだが、このたたみかけるような語り口調が、それぞれ明確な描写表現となっているので、”緑に染めていく”過程がはっきりイメージできる。「闇」に対する設定力がちょっと足りない気がするけれども、それを上回る描写力で、この物語を魅力的にしているのだと思った。
乾石智子「太陽の石」2012年 東京創元社
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