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新聞の広告に出ていて、この対談者だったら面白そうだなーと思って読んだ本。
が、正直なところ期待外れと言ってもいい気がする…
内容は知らないことも沢山あって学びもあるんだけれども、これ対談にする意味あったかね…というくらい会話になっていない。
たぶん、これはお二人が悪いというよりも、編集が悪いような気がしてならない。
何せ、お互いが知識や見解を言い合うという感じで、二人で会話することによって生まれるはずのシナジーみたいなものを感じられない。
これだったら、対談ではなくて共著という形にして、まとまった文書にしても良かったんじゃないかと思った。
あと『美術は宗教を超えるか』というタイトルになっているけれども、そこまで大層なテーマではないかな…
「美術×宗教」みたいな話がメイン。それはそれで良いので、こんな大仰なタイトルにしない方がよかったんじゃないかなと思った。
一応、「美術は宗教を超える」という結論が提示されているが、若干無理やり感が否めない…
あと、ところどころに日本含めた東洋についても触れているけれども(仏教とか)、お二人はキリスト教や西洋美術がご専門なので、それに特化した方がよい気が。ちょっと浅い話になってしまった気がする。
という感じで、文句たらたらな感想になってしまったけれども、それでも学ぶところは多々あったので、簡単に抜き出すと…
- 美術の始まりは「目に見えないものを視覚化する」
- 「言葉にできないもの」を文字化したもの→聖書やコーランなどの聖典
- 「目に見えないもの」を可視化したもの→絵画などの美術
- したがって、美術を見るときは、目に見える絵画自体を崇拝するのではなく、
- 絵画という痕跡を通じて、絵の背後にいる「見えない神」の存在を知覚しなくてはいけない
- いかにして痕跡を通じて、神自身に到達するのか
- 例)部屋に漂うコーヒーの香りを言葉で表現できない。
- アナロジー(類比)でしか表現できない知覚を言語でそのまま表現するのは不可能
- それと同じく、人間は神についてそのまま語ることはできない
- イコンと偶像崇拝は何が違うのか
- イコン=「窓」
- 聖像は「窓を通して神に祈る」という行為
- 16世紀、プロテスタントの台頭によりおこったカトリックの改革の結果;
- イコン=礼拝や崇拝ではなく、崇敬の対象。聖人や聖物、マリアの像などもすべて崇敬が目的
- 「崇拝」=adoration, worship…対象は神だけ
- 「崇敬」=veneration…対象は聖物、聖画像も含む
- 偶像=中に神がいる
- ITとカトリックの意外な関係
- MicrosoftのWindows=「窓」
- アイコン=イコン
- ビル・ゲイツはカトリック
- カトリックは移民や難民の出身者が多く、アメリカのWASPから見て、学歴や教養のレベルで劣るという偏見がある
- アメリカの歴代大統領の中でもカトリックは二人のみ(ジョン・F・ケネディとジョー・バイデンのみ)
- カトリックのビル・ゲイツ…庶民にも分かりやすく、誰でも使えるコンピュータの開発を目指した
- Apple社:リンゴは「知恵の実」で、アダムとエバを連想させる
- クラウド・コンピューティング:「クラウド(雲)」=中世の神学者『不可知の雲』で示されるように知恵のシンボル
- 雲は吉兆の象徴
- 西洋絵画ではよく聖人や神の周囲に、雲がかかった光景が描かれる
- AIとバイオテクノロジーの宗教性
- AI・バイオテクノロジーの背後…「聖霊の働きによって人間が神になる」という信仰がある
- AIがめざすもの=人(神)の手によって機械(アダムとエバ)に知を授けること⇒人間が神になること
- バイオテクノロジー=「生命はデータの集積である」という仮説から、生物のアルゴリズム(計算可能な手続き)を解析し、データ(聖霊)の働きによって生命を操作しようとする
- 日本とキリスト教
- 日本のキリスト教の普及…マリア信仰によるところが大きい
- 布教のためには、平明で分かりやすく、写実的で本物そっくりに見える絵画が効果的
- キリシタンの遺品で現存する9割近くがマリア像
- 遠藤周作曰く、日本人は母なるものに憧憬を抱いている⇒キリストのように「厳しく裁く神」には距離を置くところがあった
- 日本人の性格に気付いた宣教師は、マリアの慈しみを巧みに用いて、民衆の感情に訴えた
- 踏み絵について
- 仏教ではキリスト教のイコンと異なり、像自体を神と見なす
- 鎮座する仏像自体が衆生を守ってくれる
- 秘仏の発想…存在自体に意義があるので、わざわざ見る必要がない
- イコンは神を見る窓なので、秘仏のような扱いはあり得ない
- イコンが「窓」である以上、画像自体には霊的な力は備わっていない⇒本来、聖人や聖物、マリアが描かれた絵を踏みつけるのは問題ないはず
- ところが、日本の隠れキリシタンの大半は、仏像や仏画からの連想で、神の絵自体を「神」と考え、足蹴にできなかった
- イコンを禁止したプロテスタント
- プロテスタントには、イコンの神学のような難しい話がよく分からなかったのだと思われる(佐藤氏)
- プロテスタントの宗教改革…当初は、無知蒙昧な運動だった
- それが機能し拡大するようになったきっかけ⇒科学の発達と啓蒙主義
- 世界一周・地動説の立証によると、「天」=「上」の概念が変わり、神をめぐる意味が変容した
- カトリック…科学の発展に対して、宗教的・霊的な真実と、科学的な真実は別物という説明を行う→説得力に欠ける
- プロテスタント…宗教の本質は直感と感情であると考え、神の場を「心の中」に設定→啓蒙的理性とたいへん折り合いがよかった
- カラヴァッジョの《聖マタイの召命》はさまざまな解釈ができるという話より
- 優れた絵画、文学や哲学のテキスト…必ず複数の読みができる
- しかも、複数の解釈がどれも首尾一貫している
- こうした作品に数多く触れるのは、社会生活を営むうえでも有益
- 会社や組織のなかで起きるさまざまなトラブル…文脈の見方を変えるとまったく別の見方ができる
- 他者の考え方、内在的な論理を理解するということになる
- キリスト教の創始者は誰か?
- 教祖はイエス・キリスト
- 開祖はパウロ
- キリスト自身は、旧宗教のユダヤ教を壊してゼロから新宗教を作るつもりはなかった
宮下規久朗・佐藤優『美術は宗教を超えるか』 2021年 PHP研究所
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「2021年本屋大賞 翻訳小説部門 第1位」という『ザリガニの鳴くところ』。
が、読んだきっかけは、母が「池澤夏樹さんが絶対読むべき本って言ってた!」と言っていたのを聞いて、そら絶対面白いわ、と思って読んでみたら…
いやーーーーー面白かったーーーーーーーー
これは本屋大賞取るわ。
本当に、時間があっという間に過ぎる!というのを久しぶりに経験したわ~
これが69歳にして初めての小説っていうからびっくり。動物学者さんなので、執筆自体は他にもされていたようだけれども、こんな魅力的な作品が書けるってすごい!
ということで、以下簡単なあらすじ。
因みに、ちょっとミステリー仕立てになっていて、ネタバレを含むので注意!!!
舞台はノース・カロライナ州の湿地。
2つの時間軸で話が進む。
1つが1969年から始まる時間軸。
沼地でチェイス・アンドルーズの死体が発見される。
チェイスは町で裕福な家の生まれで、クォーターバックも務めた人気者の青年。
火の見櫓から落ちたようだけれども、足跡もない。
最初は事故として処理しようとしたが、チェイスがいつもしていた貝殻のペンダントがなくなっていることが分かり、他殺ではないかという疑惑が生まれてくる。
2つ目は1952年から始まる時間軸。どちらかというこちらがメイン。
湿地のはずれに住むカイアが主人公。ホワイトトラッシュと呼ばれる、まだ人種差別が残る時代において白人ではあるものの、自堕落、暴力的、不衛生などなど、人格的にも劣る存在として差別される家の子だった。
カイアが6歳の頃、突然母親が子供たちを残してどこかに行ってしまって、帰ってこなくなってしまう。
残った兄弟たちもどんどん姿を消し、残ったのは酔っ払って暴力をふるう父親と一つ上の兄のジョディ。
父親は戦争で負傷したため、年金生活を送っているが、それが唯一の収入源であるものの、博打はうつわ、酒は飲むわで貧乏生活を余儀なくされている。
ついには、ジョディも父親の暴力に負けてカイアを置いて去ってしまい、取り残された6歳のカイアは、買い物に料理、洗濯とすべてを行わなくてはならなくなる。
一時期、父親と良好な関係を築くが、ある時母親から手紙が来たことがきっかけで、父親は家に寄り付かなくなり、ついには父親も帰ってこなくなってしまった。それがカイアが10歳の時であった。
そこからカイアは1人で生活することになる。
船着き場の燃料店<ガス&ベイト>の黒人の店主ジャンピンと交渉し、彼に貝を売って、そこで得たお金でなんとか食いつないでいた。
父親がいるふりをしていたが、ジャンピンは見抜いており、ジャンピンの妻メイベルが服などの助けも施す。
独りぼっちで生きていたカイアだったが、テイトという少年と仲良くなる。
彼は元々ジョディの友達で、カイアが小さい頃にも会ったことがあるらしい。
カイアは1回だけ学校に行ったことがあるが、からかわれてから行くのを止めてしまったため、字が読めなかった。それをテイトが教えてあげる。
カイアはぐんぐんと学力をあげていき、それまでも行っていた湿地の観察も本格的になる。
テイトと良い感じになっていくが、優秀なテイトは大学に行くことになる。
家族に捨てられたカイアは、テイトが自分も捨てるのではないかと恐れるが、テイトは必ず戻ってくることを約束する。
が…結局、テイトは戻ってこないのだった。
実際にはテイトは戻って来たのだが、アカデミックの世界に進みたいテイトは、カイアの姿を見て、その世界に連れていけないと思って去っていくのだった。
その代わりにカイアの前に現れたのがチェイスだった。
プレイボーイのチェイスは、元々は物珍しい「湿地の少女」の初めてをもらうだけに近づいた。
しかし、カイアが美しく、純粋だったこともあり、カイアにどんどん惹かれていく。
チョイスがずっとした貝のペンダントはカイアがあげたものだった。
チョイスは将来を約束し、カイアと結ばれ、恋人同士になる。
が…またもや…なかなか両親に紹介してくれないチョイスに不信感を抱いていたのだが、ひょんなことから、カイアはチョイスが町の女性と結婚したことを新聞で知る。
それと前後して、テイトに再開する。テイトはカイアに許しを乞うが、当時チョイスを交際していたカイアは完全に許すことはできなかった。
が、カイアの湿地に関する絵や観察の成果を見て、テイトは出版社に送り、なんとそれが出版化されることになる。しかもシリーズで。
おかげで、カイアは大きな収入を得ることができるようになったのだ。
そしてなんと、兄であるジョディが姿を現す。軍隊に入り、大学にも入学したジョディは、カイアの本を読み訪問したのだった。
ジョディから、母親が数年前に亡くなったことを聞く。
母親は元々裕福な家の娘であった。父親の家も元々裕福だったが没落。それでも美しい娘だった母親に一目ぼれした父親は何とか口説き、二人は結婚する。父親は生来どうしようもない男で、学校も中退、仕事も辞めてしまう、そして博打に酒にと手を出すのだった。きわめつけは戦争に行き、しかし臆病風にふかれてもたついている内に怪我、それを名誉の負傷として称賛されたが、自分の弱さにほとほと嫌になり、ますます酒に溺れるようになったのだ。
母親はどんどん転落していくなかで、なんとか住む環境を整えようとしたが、父親の暴力に心が病み、ある朝、衝動的に家出をしてしまう。我に返った時には子供たちを置いてきてしまったことに愕然とし、父親に子供たちを引き取りたいと手紙を出したが、「帰って来たら子どもを殺す」という父親からの手紙で戻ることもできなくなってしまったのだ。良心の呵責に苛まれたまま亡くなったというのだ。
ジョディと良い思い出を共有した後、またやってくるという言葉を残してジョディは帰っていった。
その後くらいに、ずっと避けていたチェイスにつかまり、なんとチェイスは結婚しても関係を続けたいとカイアに迫るのだった。
それに反抗するカイアに暴力をふるうチェイス。逃げのびたカイアは恐怖に震える生活を送ることになる。
という話と同時進行で、チェイスの捜索の話が進む。
チェイスの死は他殺と推測され、その容疑者としてカイアの名前があがる。
しかし、カイアには強力なアリバイがあった。それはチェイスが死んだ日、出版社の担当に呼ばれてまったく別の町にいたのだ。
しかし朝方、カイアのボートを見たという目撃情報があり、カイアは逮捕されてしまう。
皆に嫌われている「湿地の少女」ということで、偏った結果にならないか心配されるなか、敏腕の弁護士がつく。
しかし、弁護士が手を焼くほど、カイアは何も話さない。
ただ、弁護士の腕がたち、カイアのボートを見たという人たちも、朝方の靄の中ではっきりと顔を見たわけではない、という話や、チェイスの服についていた繊維がカイアの家から押収したマフラーと同じということも、その日に付いたのか、もっと前に付いたのか定かではない、といった反論を返していく。
そして…カイアは圧倒的な不利だったのに、陪審員たちは「無罪」とするのだった。
こうして、カイアは家に戻り、チェイスも結局他殺なのか事故死なのか分からないまま、この事件の幕は閉じる。
投獄されている間もテイトはカイアを献身的に支えており、そのおかげもあって、カイアとテイトは結ばれ、結婚する。
残念ながら子どもには恵まれなかったが、ジョディの家族との交流があり、寂しさが紛れた。
カイアの本は受賞し、ノース・カロライナ大学のチャペルヒル校から名誉博士号を贈られ、テイトも研究者とした研究所で働いた。
そして64歳でカイアは生涯を閉じる。
悲しみにくれるテイトは、隠された箱を見つける。それを開けると中には、地元の詩人であるアマンダ・ハミルトンの手書きの詩が出てくる。ここで、カイアがアマンダ・ハミルトンであったことが分かる。
自然や愛を扱った詩ばかりのなか、異色の詩を見つける。それは確実に、チェイスの犯罪を書いた詩であった。そして貝のペンダントも見つかる。つまり、カイアこそが犯人だったのだ。
ちょっと最後が、いや、カイアが犯人なんだろうなー…とは思っていたけれども、あのカイアのことを強く信じていたテイトとか弁護士さんたちの努力って…と若干あっけにとられてしまった。
が、それはこちらの都合であって、なんでカイアがチェイスを殺したのか示唆するシーンがある。
それが、蛍のメスがオスとの交尾後、オスを食べるシーンで
ここには善悪の判断など無用だということを、カイアは知っていた。そこに悪意はなく、あるのはただ拍動する命だけなのだ。たとえ一部の者は犠牲になるとしても。生物学では、善と悪は基本的に同じであり、見る角度によって替わるものだと捉えられている。
ちなみに、カイアが犯人だとテイトが分かった詩も「蛍」というタイトル。
人間社会よりも自然社会に身を置いていたカイアは、自分に大きな危害を与えるチェイスこそ、平安に暮らすために排除しなくてはならない対象であり、それに対する罪悪感は、通常の人間とは違ってあまり抱かなかったのだろう、と思う。蛍だけではなく、カマキリも、メスが同族のオスを食べることが言及されているところからも、そこらへんの抵抗感が薄かったのだろう。
ただ、人間社会のことも分かっているから、偽装してアリバイを作り、裁判で不利なことを言わない、といった知恵も働かせたのだろう。
それに対して、善か悪かとカイアに問うのはナンセンスなことなのかなと思った。
そういうカイアを作ったのは見捨てていった周りの人間だし、もっと広い目で生物というくくりで見れば、自分の安全のために脅威を殺す、というのは自然なことだし、ということで。
そしてこういう視点で書けたのは、動物学者の作者ならではなのかなとも思った。
ちなみに、タイトルとなっている「ザリガニの鳴くところ」とは、”茂みの奥深く、生き物たちが自然のままの姿で生きている場所”ということらしい。
処女作ということで、”こんな長い間人間としゃべったことなかった女の子が、字を読めるようになったからって、突然本読めるようになるか?”とか”初めて読んだ文章があまりに高度”とか、細かく見るとつっこみたいところがあるが、読んでいる間はまったく気にならないくらい話の展開が卓逸で、夢中になって読んだ。
今のところ、今年で一番面白かった本!
ディーリア・オーエンズ『ザリガニの鳴くところ』友廣純訳 2020年 早川書房
田村セツコ『カワイイおばあさんの「ひらめきノート」』
(左画像クリックでAmazonへ遷移します)
図書館に行った時に、「今日返ってきた本」のコーナーに可愛らしい本が。
よく見ると、小さい頃に姉妹でドはまりした「おちゃめのふたご」シリーズの挿絵をされていた田村セツコさんの本ではないですか!
懐かしさもあって借りてきた。
借りてきてよかったーーー!
心から思う素敵な本だった!!!これは家に置いておいて、何かの折に読みたい本だな。
基本的に、タイトルにある通り、メモ魔(と言っていいのか?)の田村さんが、どんな風に日々の素敵なことをキャッチして、ノートにとどめておいているのか、という内容だけれども、ノート術のようなハウツー本ではなくて、何よりもセツコさんの言葉が本当に素敵。
簡単にセツコさんがどんなノートの取り方をしているかをメモしておくと…
- ノートを書くタイミングは、朝起きてから寝るまで、四六時中、好きな時に
- 持ち歩いてメモする用の単語帳、マザーノート、なんでも挟んじゃうスクラップブックの3つを使い分けている
- 日記の意味合いが強いノートは、夜寝る前にゆったりとした気持ちで。メモで今日一日集めてきたいろんなことを、より抜いて着地させて、二度楽しむ
- 「自由に」「気楽に」がルールなので、気分が乗らない日は書かなくてもOK
- どこで書くの?…カフェで書くのが最高に贅沢で、至福の時間!
- メモやノートさえ持ち歩いていれば、家だって、カフェだって、電車の中だって、街中だって、海だって、山だって、書斎になっちゃう
- 「外ではちょっと「よそ行き」というか、「世間の空気を吸いながら書く」という感じが楽しいの。ほどよい緊張感のなか、アンテナを張りめぐらせてなにかを書き留める空間は、まるで”一人芝居の舞台”みたいよ。」
- 「おっ!」と思ったことを自由に、なんでも書く
- 言葉を書かない、貼り付けるだけの”ビジュアルメモ”もおすすめ
単語帳とビジュアルブックについて補足すると…
まず単語帖は、リングに革ひもやチェーンをとおして、いつも首からさげているとのこと!
もう何百冊とたまっていて、帽子が入っていたおしゃれな箱やトランクに入れて、時々取り出してあて見たりしてるらしい。
ビジュアルメモは、自分の目が喜ぶようなものを、かたっぱしからペタペタと貼り付けるとのこと。それで疲れてる時に、そういう好きなものをただ眺めて癒されてると。
古いものの上に新しいものも貼り付けて、カオスな感じ(良い意味で!)にしているみたいで、偶然の面白さも出てきているみたい。
あと、良いアイディアだなと思ったのが、色んなものを貼付けてパンパンになってしまったノートは、きれいな紐やリボンで結ぶ、というの。確かにテンション上がりそう。
以降、まとめてしまうと素敵さが減ってしまうので、長くなるかもだけど引用
私は子どものころからずっと、娘時代もおばさん時代も飛び越えて、「早くすてきなおばあさんになりたい」と思ってました。だって、おとぎ話に出てくる魔法使いのばあさんって、とびきりチャーミングなんですもの。
大人になってからも、映画や小説の登場人物や、あこがれの作家や画家などの実在するすてきなおばあさんたちから、たくさん心の贈物をいただきました。彼女たちはなんでも知っているし、長い経験を積んでいるからか、赤ちゃんの顔も、少女の顔も、お色気たっぷりの娘の顔だって持っている。しかもそれがぜんぶ現役で同居しているの。まさに変幻自在。そんな、年齢や時空を超越したおばあさんたちは、みんな「知恵」や「経験」という名の魔法を持っていると思うんです。
理想とするのは、ユーモアとウィットに富んで、おちゃめで、なおかつ知的でダンディな「おじさま」の要素も兼ね備えた、パリッとしたおばあさん。
p19-20
たとえば、すごく怒って不機嫌そうな女の人がいたとして、ここでもリアクションをすかさずメモ。「わあ、真面目すぎるのね」「なんでもシビアにとらないように気を楽になさってくださいね」って。本当、余計なおせっかいなんですけれど。
怒りっぽい人って、きっと責任感が強い人なんですよね。だから、「大丈夫。あなたが手抜きしても世の中はまわっていくから」って、メモを通じて声にならない声を発しています。その人を慰めているのと同時に、自分の癒しにもなっているのね。
そうして、「なんでも深刻に捉えないように注意しよう」「人が見たときに心配になるような怖い顔はやめよう」と、自分の襟を正したりして。
猫が大好きです。(中略)
そもそも、ちょこまかメモをとる習慣も、猫に教えてもらったんですよ。この世界に散らばっている大切なこと、すてきなことって、泡みたいにすぐパッと消えちゃうでしょう?それを、猫が好きなものをピッと捕まえるように、瞬時に素早くピックアップする能力を鍛えたんです。
猫は我慢強くて、雨が降っても自分でしのいで、なにがあってもケロッとしていて、とっても賢いの。自立しているし、見た目がカワイイ猫ちゃんでも本当に大人っぽい。
ポール・ギャリコの『ジェニイ』という小説に登場するメス猫のジェニイは、しなやかで賢くて、まるで哲学者みたい。
「『疑いが起きたら―どんな疑いにせよ―身づくろいすること』これが規則第一号なの」
というジェニイのセリフがあるんだけど、これってものすごい真実だと思いませんか?人間もなにか不安になったり、気分がふさいだりしたら、猫を見習って、深呼吸して伸びをして、「身づくろい」。気持ちがスーッと落ち着いてきます。
なんでも吐き出していいノートではあるんだけれど、私は昔からひとつだけ、自分に課していることがあります。
それは怒りに任せてペンを走らせたり、人の悪口を書いたりしないということ。
もちろん、他の誰かに読まれるわけじゃない、自分だけのノートですから、基本、なにを書いてもいいんです。でも、怒りを生でぶつけるという行為は、子どものときにはやってもいいんだけれど、大人になったら、やっぱり少しアレンジしたほうがいいと思うんです。
感じの悪い人のことはイニシャルにしたり、ニックネームで書くとか、キャラクタライズして面白い物語風にするとかね。それは誰のためでもない、自分のため。それが、自分に対する礼儀だと思うの。
汚い言葉でノートを埋めて、あとで読み返したとき、いやな思いがもう一度よみがえるよりは、クスッと笑えたほうがいいですもの。
(中略)
すてきな、かけがえのない、あなた自身を傷つけないために、「怒り」はユーモアのスパイスで面白く料理しちゃいましょう。
「いやなことを楽しむことができる人生がいちばんすてき」
最近の私のお気に入りの言葉です。
p72-4
毎晩、眠りにつく前に今日一日の出来事を振り返るんですが、「ああ、あそこはもう少しこうしておけばよかったな」という、反省メモをすることがよくあります。
けっして「自己嫌悪になるほど自分を責め立てる」というものじゃなくて、「よし、次からは同じ失敗を繰り返さないようにしましょう」という、前向きな反省メモです。
ずっとノートと向き合い続けていると、ノートがもうひとりの自分のようになってくるものです。誰よりも私のことを理解してくれる、いちばん頼りになる存在ね。
書いていると「心のマッサージ効果」がすごいの。だから、ノートは自分にとって名トレーナーなんですね。そして、いちばんの応援団でもあります。
けっして自分を甘やかすとか、うぬぼれるとか、そういうことではなくて、謙虚さと感謝の気持ちは持ったままで、自分で自分を褒めて、応援してあげましょう。疲れたときには頭を撫でてあげましょう。自分をハグしてあげましょう。「よくがんばったね」「大丈夫、私がついているから!」「フレーフレー!私」ってね。(中略)
私も日常的に独り言をよく言います。声にはめったに出さないけれど、多重人格みたいに、いろんな人が私のなかに住んでいるの。これもノートの効果ね。そしてその全員が、私を応援してくれます。今朝も、私のなかの敏腕マネージャー兼生活指導係が、「悪いけど床にこういうものを置かないでくれる?」って叱るので、「はい、わかりました」と、片づけました(笑)。
p89-91
「老い」に関してもそうです。だいたい、「女性は若くなければ価値がない」なんてしきりに言いたがるのは、一部の日本人の男性ぐらいよ。もっと世界に目をむけてみて。
若いころ、雑誌の「パリの街角スナップ」でたまたま見かけた白髪の女性に衝撃を受けたんです。映画スターでもなんでもない、普通の人なんだけれど、カフェでお茶しているその姿が、そして発しているオーラが、本当にカッコいいの。自立していて、自由で、堂々としていて。年齢も性別も、なにもかも超越していて。「人とくらべない」「くらべさせない」説得力があるのね。
中国語では、老眼のことを「老花眼」と言うそうです。視力がぼやっとやわらかくなってきて、この世のすべてが美しい花のように見えてくるっていう意味なんですって。すてきよね。なんでもものは考えよう。
p110
たくさんの顔を持つ「理想の私」の複合体のなかに、「すてきなおじさま」が住んでいます。これは最重要人物です。知的でダンディで、ハードボイルとで、ドクターみたいな学者みたい、ときには探偵みたいな。(中略)いろんな人の「すてきエッセンス」を凝縮したおじさまです。女性ってやっぱり、ゆらぎやすいし、弱い部分もある。だから、心のなかにストイックでカチッとしたおじさまを住まわせて、「いいかげん涙を拭いたら?」「君のプライドはどこへいっちゃったの?」と諭してもらうの。たちまち上機嫌になります。
異様にたくさんの引用になってしまった…これでも厳選したつもりなんだけど絞り切れず…
言うまでもなく、すぐさまノートを買い、ビジュアルブック的なものを作り始めてみた。
早くいっぱい埋めたいんだけど、あまりときめく物に出会えておらず…アンテナもうちょっと高くしないといけないかな~なんて思いながら
因みに、このノートの冒頭は、本書のあとがきをカラーコピーして貼っている。
実は、なぜかこのあとがき読んだ時に涙が出てきて、それがなんでなのか自分でもはかりかねるところがあるんだけど、たぶん、琴線に触れたんだろう…
偶然ではあったけれども、運命とすら思えるくらい、すごい良い本だった―!
田村セツコ『カワイイおばあさんの「ひらめきノート」 』 2016年 洋泉社
ブクログで、何かの本で同じような評価をしている人の本棚を覗かせてもらったら、面白そうな本がいっぱい!ということで、参考にさせてもらった本の1冊が、今回の「翼よ、北に」。
本書は、著者のアン・モロー・リンドバーグという女性が、夫の操縦する飛行機に乗って、ニューヨークからカナダ、アラスカ、シベリア、千島列島、日本、中国と飛行する記録本。
ただ、これだけのの情報ではなくて、もうちょっと時代背景を知っておいた方が良かったみたいで、途中で後ろの「訳者あとがき」を読んでから、ぐっと面白さが増した。
第二次世界大戦の前の話で、夫のチャールズ・リンドバーグがいかに有名な人であったのか、その当時において女性が飛行機に乗ることが稀だった上に、まだ1才の子供を置いての飛行となったこと、そういったことを知ってから読むのとでは、まったく意味合いが異なる気がする。
当時なんて、まだ日本は未開のイメージも強かったかもしれないけれど、非常に友好的に描かれていて、日本人としてはちょっと嬉しい。
また、女性の地位が決して今のようでなかった時代に、ちゃんと無線の勉強をして夫の飛行調査に同行する、と聞くと、強い女性のようなイメージを持ちがちだけれども、彼女は決してそうではなく、はしばしに自信のなさもうかがえて、そういう意味でも共感が持てる。
以下、いくつか印象的だったところの抜粋;
出発前のディナー・パーティーにて
「あなたの飛行計画ですがね。私だったら妻をそんな所に連れていくことはしないでしょう。ミセス・リンドバーグにしたって―」
わたしは、エレベーターに乗ったわたしを見て、男たちがいっせいに帽子を取った、あの初めてのときのような、奇妙な晴れがましい思いでこの言葉を聞いていた。(あのとき、十五歳だったわたしは、この自分がついにそういう日を迎えたのかと信じられない気持ちだったのだが)。
「忘れないでいただきたいですね」と夫はわたしの方に微笑を送って、やり返した。「妻は乗組員なんですから」
わたしはいっそう晴れがましい気持ちになった。(これって、男の人たちと同等に肩を並べているってことを公認されたようなものじゃないかしら?)
p59
これに表れているように、夫は終始、包容力があって、固定概念にとらわれていない素敵な人に描かれている。そこから見える彼女への信頼感がうかがえて、こういう夫婦関係だったから、狭い飛行機の中で二人だけの飛行が遂げられたのだろうな、と思った。
次はカムチャッカにて。そこでモスクワから来たというロシア人の動物学者の女性と、カムチャッカのわな猟師の妻との交流より。
当時、ロシアはソ連で、著者をはじめとしたアメリカ人はちょっとした偏見を持っていた。共産党の国で、指導原理を何よりも重んじており、人間関係は取るに足らない問題として軽視しているという先入観を持っていた。
翌朝、動物学者はわたしに、モスクワに小さな男の子を残してきたと言った。わたしは、自分も小さな男の子をアメリカに置いてきたと言った。「いくつですか―あなたのお子さんは」「彼はどこにいますか?」そんなやりとりの後、動物学者とわな猟師の奥さんはひとしきりロシア語で話しあっていたあげくに、一人がとても恥ずかしそうにきいた。「あのう―写真-ありますか?」わたしは手持ちの写真を撮りだした。「まあ、かわいい!」
二人とも、とても陽気な、愛すべき人たちだった。彼女たちは写真をテーブルの上に残らずひろげた。わな猟師の奥さんは両手で大きな輪を描き、「お宅のお子さん、とても目が大きい」という意味を伝え、そのうえで彼女がいちばんいいと思った写真を指さした。それからほかの写真を眺めてもう一度、指さした。「この写真、お母さんにそっくり」「こっちはお父さんにそっくり」
彼らの家を辞したとき、わたしはわたしの坊やがずっと近くにいるような気持ちになっていた。あの人たちに写真を見てもらったり、あの子のことが話題にのぼったりしたからだった。動物学者である、あの女性にしても、自分の子どもを身近に感じていたのではあにだろうか。彼女はわたしに東京で投函してくれと言って、モスクワにいる子どもへの手紙を託した。
p144
最後に、少し長いけれども、「さよなら」という言葉についての賛辞がうれしかったので引用。
「サヨナラ」を文字どおりに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このようにうつくしい言葉をわたしは知らない。Auf WiedersehenやAu revoirやTill we meet againのように、別れの痛みを再会の希望によって紛らわせようという試みを「サヨナラ」はしない。目をしばたたいて涙を健気に抑えて告げるFarewellのように、別離の苦い味わいを避けてもいない。
Farewellは父親の別れの言葉だ。「息子、世の中に出て行き、しっかりやるんだぞ」という励ましであり、戒めであり、希望、また信頼の表現なのだ。しかしFarewellはその瞬間自体のもつ意味を見落としている。別れそのものについては何も語っていない。その瞬間の感情は隠され、ごくわずかなことしか表現されていない。
一方、Good-by(神があなたとともにありたもうように)とAdiosは多くを語りすぎている。距離に橋を架けるといおうか、むしろ距離を否定している。Good-byは祈りだ。高らかな叫びだ。「行かないで!とても耐えられないわ!でもあなたは一人じゃないのよ。神さまが見守っていてくださるわ。いっしょにいてくださるわ。神さまの御手が必ずあなたとともにあるでしょう」。その言葉のかげには、ひそやかな、「わたしもよ・わたしもあなたといっしょにいますからね。あなたを見守っているのよ―いつも」というささやきが隠されているー。それは、母親のわが子への別れの言葉だ。
けれども「サヨナラ」は言いすぎもしなかれば、言い足りなくもない。それは事実をあるがままに受け入れている。人生の理解のすべてがその四音のうちにこもっている。ひそかにくすぶっているものを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、それ自体は何も語らない。言葉にしないGood-byであり、心をこめて手を握る暖かさなのだ―「サヨナラ」は。
p248-9
"事実をあるがままに受け入れている"というのが、結局のところ、日本の美意識に繋がっているのではないかと思った。例えば庭園とか、日本は苔など含め、自然そのものの形を美しいと認識するが、ヨーロッパの古典的な庭園となると、人間が自然をいかにコントロールするかがポイントになっているところが多い(ベルサイユ宮殿の庭園とか)。
アン・リンドバーグの柔らかく温かな視点でつづられる世界。”女性飛行家の草分け”という仰々しい肩書では想像できない、温かな気持ちになれる飛行記録だと思う。
アン・モロー・リンドバーグ『翼よ、北に』中村妙子訳 2002年 みすず書房