今の痛ましいウクライナ情勢を見て、ふと戦車に花が咲いて戦争できなくなる、というイメージがわいて、それが子供の頃に読んだ『みどりのゆび』だと思い出して読んでみました。
読んでみて、子供の頃に読み終わった時に感じたものと、現在読み終わって感じたものが似ていたので、あまり成長してないのか…と思ってしまった…
その感じたものというのが…正直、チトがいい子すぎてつまらんなぁという、なんとも不届きなもの。。。
大人=ひどい、子ども=天使という単純構造に納得がいかないというか…チトとより近い歳の時もそう感じたんだから、まぁ昔からひねくれてたのかな…
でも、訳者の安東次男氏の「訳者のことば」を読んで非常ー-に納得しました。
フランスの童話には、ひとつの特徴があります。おはなしの、筋よりもきめのこまかさ、詩的なふんいきやことばのおもしろさを、たいせつにすることです。そしてsれらをうまく使って、まるで宝石のような、うつくしい文章をつくりだすのです。みなさんたぶんごぞんじのサン=テグジュペリの『星の王子さま』も、このドリュオンおじさんのおはなしもそうです。
人間は、なにからなにまで詩につつまれて生活することはできませんし、またそんな純粋な世界ばかりで生きていたら、とても生きてはゆけないでしょう。…(中略)…しかし、ほんとうに勇気をもって生きてゆくためには、詩がひつようなこともまたたしかです。それとおなじように、こどもたちが読む本が、ぜんぶ『星の王子さま』や『みどりのゆび』のようなおはなしばかりでは、すこしばかりお行儀がよくなりすぎてこまる、とわたしは思いますが、いっぽう、わんぱくなこどもたちの冒険がいっぱいでてくるおはなしに、みなさんが胸をおどらせるかたわら、とても詩的な童話をよむことも、ぜひひつようなことだとわたしはおもうのです。
p213-214
なるほどなー…『星の王子さま』もどうも好きになれなかったのは、私がひねくれていたわけではなくて(それもあるかもしれないけれども)、この詩的な物語が合ってなかったからなのかなーと思いました。
と同時に、多分『みどりのゆび』も『星の王子さま』も、他の物語と同じ気持ちで読んでいるから「このいい子ちゃんが!」と思ってしまうのかなとも。
つまり、一遍の詩だと思って、他の小説とは違う次元のものだと思って読めば、これらの本の素晴らしさが分かるのではないかなと思いました。
子供の頃に読んで、あまり楽しかったと思った記憶はなかったとはいえ、その雰囲気、ストーリーがしっかりと刻みこまれていたのは、それだけ優れた本だったのも確か。
チトのいい子さにいけ好かなさを感じつつも、刑務所や病院、はては大砲に花を咲かせるという発想は、人間がつくり出す醜いものを自然の美しさで覆えば平和になる、というシンプルだけれども多くの人が真理だと感じることを表現しているなと。しかも文章からビジュアルが思い浮かぶような書き方で。
そういうところが詩的なのかもしれないですね。
因みに絵も可愛くて、この本にぴったり。
『星の王子さま』みたいに作者が描いたわけではないけれども、個人的には作品の一部にも思えるくらい、本の雰囲気を演出していました。
もう少し、詩を読む器になったら(実は詩も苦手)、もう一度読んでみたいと思います。
モーリス・ドリュオン『みどりのゆび』安東次男訳、2002年、岩波書店
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おそらく書評で知って面白そうだなと思って「読みたい本リスト」に入れていた本書。
手に取ってみたら結構な厚さだなと思ったけれども、
読み始めたらめちゃくちゃ面白くて、わりとぐいぐい終盤まで読めました。
この分厚さは物語が長い、というよりも、描写が細かいから。
結構なページが進んでいるはずなのに、あまり物語が進んでいない感はざら。
でもこの描写の細かさがツボにはまってしまって、とても表現の海に気持ちよく漂っている感がありました。
いくつか好きだった表現を挙げてみると
(一般人が華族の中に紛れ込んでしまった時の居心地の悪さを表現した文章)
球体のなかに一つだけ紛れ込んだ多面体。球体と多面体が一個ずつならば、うまく結びつくことがあるだろう。むしろ強く惹かれ合うことだってあるかもしれぬ。だが、多面体が多数の球体のなかに置かれたらどうか。球体同士は滑らかに触れ合い、接点を共有する。しかしごつごつと周囲にぶつかって窮屈を強いられる多面体は、なんとか居場所を得ようと、ときに縮こまり、あるいは逆に角を尖らせる。
p59
(惟浩は惟佐子の異母弟)
正しかった。これ以上に正しく、急所を衝いた言葉はなかった。これが真理というものだ。惟浩は知った。羞恥も癇癪も遅疑も一掃されて、清爽な風の吹く場所に立ったかのごとき心地を覚え、今度こそ笑いなら、いまこの瞬間に、自分は子供から大人に脱皮したと信じた。同時に、子どものときから繰り返し聞かされてきた、連綿する貴族の血、それが身内に湧き出すのを感じた。眼の前にいるのはたしかに血の繋がった姉であった。紛れもない肉親であった。おそらくこれからの人生、海兵受験のごとき些細な問題(といまや思えた)ではなく、より重大な危機に直面したとき、姉は血中に溶け込んだ智慧の薬剤を惜しみなく自分い与えてくれるだろうと、惟浩が頼もしく仰ぎ見れば、五つ年上の異母姉は、不安定な椅子の上で、美濃焼の茶碗を両掌で包み込むようにしてミルクココアを飲んでいる。
p121-122
冗長とも捉えられそうな長々とした説明なのだけれども、登場人物の心理が克明に伝わってきて、その人たちへの感情移入がしやすかったかと。
が…
ちょっと残念なんだけれども、終盤になると感情移入がしにくくなった気が…
特に終わりも、こんなに長く引っぱっときながら、この結末かー--…と、納得いかないというほどではないけれど、若干のもやもやが残る。。
特にスピリチャルな話が出た時には、今までのテイストが違ってついていけなかったです。
結局そこのディテールはあまり本筋に関係ないので、さらっと読み流してよかったのかもしれないけれども、というか書き方もさらって欲しかったかな…戸惑いすぎて、読むのが失速してしまい、前半読んだ時の、気分が高揚している中で結末が読めなかったというのが残念かな。
と、文句はこれくらいにして、以下簡単なあらすじです。
ちょっとミステリー仕立てになっている本なので、ネタバレに注意です。
主人公は伯爵家の娘、惟佐子。
ある時、友人の宇田川寿子と一緒に行こうと言っていたコンサートに寿子が来ず、不審に思う。
その後、宇田川家に連絡してみても、家人たちは急遽倉敷に行ったと言って埒があかない。
寿子と連絡が取れずやきもきしている惟佐子のもとに寿子から葉書が来る。そこにはコンサートに突然いけなくなってしまったことを侘び、帰ったら事情を話すといったことが書かれていた。
消印を見ると仙台から出したことになっており、家人が言っていた倉敷と違った。
嫌な予感がしていると、富士の樹海にて、久慈中尉と二人で死体で見つかる。その状況から心中と考えられスキャンダルになったのだ。
久慈中尉というのは、寿子が通う教会に、華族である槇岡中尉に連れられてやってきた一般の家庭出身の軍人だった。その時は華族に反発心があるように感じていたし、寿子は久慈中尉と恋仲になりそうな予感もなかったので、惟佐子はこの組み合わせを不思議に感じる。
貴族の子供は、小さい頃に「おあいてさん」と呼ばれる遊び相手がつけられる。
惟佐子には牧村千代子があてがわれていた。
大きくなりあまり会わなくなったのだが、あまり自由のきかない惟佐子は千代子に寿子の調査に協力してもらうことにする。
千代子は、記者である蔵原誠司とともに、寿子がなぜ仙台に行き、それから樹海で命を絶ったのか、その足取りをたどることになる。
そうすると、仙台ではなく日光に行ったことが分かってくる。
と調査はなかなかゆったりと、その間に惟佐子の婚約の話やら何やらが出てきたりする。
その中で、どうやら寿子の死の後ろには、紅玉院というお寺と、それを中心にした組織が絡んでいそうなことが分かってきて、そこには槇岡中尉が深く関わり、更に惟佐子の兄、惟秀も関わっているのではないかというのが見えてくる。
結論としては…
まず槇岡中尉から告白の手紙が来る。
いわく、久慈中尉はあの教会での出会いで寿子に一目ぼれし、同僚である槇岡中尉に取り持って欲しいと言ってきた。が、寿子が好きだったのは槇岡中尉で、それに槇岡中尉も気付き、ひそかに好意を持ちつつも、自分に許嫁がいたので積極的に動くことができていなかった。
しかし久慈中尉の依頼により、槇岡中尉は惜しくなり、寿子と急激に仲良くなってひそかに恋仲になる。
そんな折に寿子は妊娠する。
慌てた槇岡中尉は、昔から懇意にしている紅玉院に相談する。
紅玉院の勧めの通り、寿子を連れて紅玉院に行き、紅玉院の話を聞いた寿子は堕胎することを了承する。
場所を変え堕胎処置をしようとしたところ、寿子は青酸カリを飲んで自殺してしまう。
周りの人の助言もあり、寿子の遺体を乗せて、槇岡家の別荘がある青木ヶ原に車で行く。
そして久慈中尉がその別荘に姿を現わすのだ。
いわく寿子の跡をつけてきたものの、寿子の姿だけがなくなったので不審に思ったようなのだ。
槇岡中尉は洗いざらい話し久慈中尉に許しを求めたところ、久慈中尉は持っていた拳銃で自殺する。
また周囲の勧めで、寿子との心中に仕立て上げたというのだ。
ところが、この手紙とは違う事実に惟佐子は行き当たる。
まず槇岡中尉は女性の興味がないということは、惟佐子は数々の男性経験から気付いていた。
また槇岡中尉は惟秀と恋人同士であることも知っていた。
一方で惟秀は、惟佐子と同様に性に奔放で、特に惟秀は男女のこだわりもなかった。
なので、寿子とも関係を持っており、寿子を妊娠させたのも惟秀だったのだ。
惟秀の奔放さの背景にスピリチャルなところが入るのだが、自分は純粋な日本人で特別な人間という想いがあった(ちょっと読み飛ばしたりしたので、理解が正確でないかも…)
逆にそれが故に寿子と結婚できないと考えており、つまり、今の天皇は純粋な日本人ではないからクーデーターを起こそうとしてたので、それに巻き込みたくないと考えていたのだ。
こうして、惟秀と槇岡中尉は2・26事件に参画したのだが、槇岡中尉は惟秀を撃って自殺、惟秀は重症を負う、というので終わる。
最後の最後は、蔵原と千代子が結婚するかも…というめでたい雰囲気になって終わるのだけれども…
いや、ちょっと待って。
こんなに厚い本で、最後の終わり方はこれで本当にいいのか!?となってしまった…
惟佐子がかなり魔性の女で、しかも超越したようなキャラクターなので、その兄である惟秀もそんな感じというのは分かるけれども、突然出てきた上にスピリチャル的で、なんか追い付かないうちに終った、って感じだった。
私の理解がよくないのがいけないのかもしれませんけどね…
とにかく、分厚い本って、それだけでハードルがあがるよなー…と思ったり。
奥泉光『雪の階』2018年、中央公論新社
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