それにしても誤植が多いのはいかがなものか
ピーター・シャビエル 「イエスの涙」 2008年 アートヴィレッジ
確かYahoo!の書評で見つけた「イエスの涙」。
キリスト教圏ではタブーとなりそうな題材を使っていると読み、長い間カトリックの学校に行っていた私としては是非とも読んでみたい!と思うようになった。
とミーハー根性が現れているとこから分かる通り、全然敬虔なクリスチャン、というわけではないけれども、長年親しんできただけあって、キリスト教関連の“実は・・・”系に興味があるのだ。
「十字架嫌悪シンドローム」が世界中のあちこちで出てきてしまい、困った困った、ということでローマ・カトリックが他のキリスト教派に呼びかけ、なんとか対策をたてよう、というところから話が始まる。
主人公は日本人司教である山本神父で、日本人シスターで「十字架嫌悪シンドローム」にかかってしまった人がいるので調書をとってくるように枢機卿に命じられる。
「十字架嫌悪シンドローム」とは悪の仕業なのか、神の思し召しなのか・・・というのがまず1つ目の争点。
それからスポットライトが件の日本人シスター、シスターテレサにあたる。
彼女は孤児院で育ち、小さい頃、幼いイエスと遊んだ経験を持つ。
その記憶もなくなった頃、「十字架嫌悪シンドローム」にかかってしまい苦しんでいた頃、再びイエスが彼女の前に現れるのだ。
そして“イエスが十字架にかかって死ぬためにこの世に来られた、というのはまったくの誤解であり、イエスはもともとそのつもりではなかった”という啓示を受ける。
これが最大の“ひえぇええ~~”なのだが、実は私も、学校で聖書を読まされた時、非常にひっかかったのが最後の祈りのシーンだった。
イエス様は皆のために十字架にかかって死ぬために、この世に来たっていうのに、なんでイエス様はゲッセマネの山で血の涙を流しながら、神様に懇願してるんだろう。なんか“神の子”ってイメージじゃないよなぁ。
と不謹慎ながら思っていたのだ。
本書には私の稚拙な疑問だけでなく、「確かに」と思わせる疑問も出てきた;
『神は愛の方であるなら自分が選民として選び導いてきた、愛するイスラエルの民に、どうしてイエス・キリストを殺害するというし最大の罪を犯させることができたのだろうか?』(p259)
本書はただ、タブー的な論説を展開して楽しんでいるわけではない。
作者の神やイエス・キリストへの愛、というか信仰というのがはっきり現れていて、それが故の本書を書いた、というのが出ている感じがして良かった。
ともすれば、「ダ・ヴィンチ・コード」のように、ミーハー根性のもと、ただキリスト教を“学問”として捕らえてしかなくなってしまうところを、確かに盲目的にキリストを信じているわけではなく、客観的で、それが学問っぽいかもしれないけれども、その根底にあるのが深い信仰である、というような形態の小説ってなかなかないんではないか。
それがよく出ているのが、“ではなぜキリストは十字架にかかったのか?”というところの考察;
神はイスラエル民族を十戒や預言者たちの言葉を通して教え導きながら、長い年月をかけて救いの計画を準備してこられました。そしてときが満ちて、救い主イエスを地上に遣わされたのです。
…(中略)…しかしイスラエル民族は、イエスをメシアとして受け入れず殺害してしまったのです。
イスラエル民族のイエスの不信は、神の願いに反した異常な事態だったのです。その悲惨な状況の中にあって、神は独り子イエスを十字架にかけて捧げることによあって、人類の救いを継続していく道を選ばれたのではないでしょうか。
…(中略)…
イエスがゲッセマネで祈ったときの血の汗を流すほどの苦悩は、決して『十字架の道は人類を救う唯一の道だから行ってほしい』という神の意思と、『十字架は苦しいから行きたくない』というイエスの意思が衝突しぶつかりあったからではありません。
…(中略)…
イエスは十字架の道がどれほど父なる神を悲しまれるかを知っておられ、自分を殺すことでイスラエル民族が行かなければならない悲惨な運命を知っておられ、十字架の道を行くことで、自分を師と仰ぐクリスチャンたちが辿らなければならない殉教と迫害の道を知っておられ、さらに救いが再臨のときまで遅れ、人類全体が歩まなければならない闘争と殺戮の悲惨な歩みを知っておられたのです。
それゆえ父である神を悲しませないために、また自分が愛するイスラエル民族に迫害の道を歩ませないために、自分をメシアと信じる弟子たちとクリスチャンたちに殉教と苦難の道を歩ませないために、そして全人類に戦争と殺戮による苦しみと不幸を与えないために、イエスは十字架の道をどうしても行きたくなかったのです。(p282-284)
ちょいと長くなってしまったけれど、キリスト教者であり、神学者である人の思考の流れがわかって面白かったので抜粋してみた。