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がらくたにっき |

表紙のWattsのHopeはめっちゃ好きな絵だけど、この小説のイメージじゃない

山尾悠子 「ラピスラズリ」 2003年 国書刊行会




読書会で勧められた「ラピスラズリ」。
私にとっての幻想小説というか不思議的な話は、読んでる時になかなか面白いと思えないのだけれども(何しろぱっきりはっきりしたエンターテイメント小説好き)、読み終わってしばらくしてふと思い出すことが多い気がする。

「ラピスラズリ」もまさにそんな本で、馴染めずに読み終わるのに時間かかったし、終わっても“うーん”って感じだったけど、2・3日経った今頃じわーっと来てる気がする。
冒頭部分で絵の話があるので、思い出すのもなんとなく絵画的でもある。

とは言いつつも、結構この種の小説の文章は好き。例え意味が100%理解できなくても、物語の筋がぼんやりとしか判別できなくても、文章だけでも十分楽しめる。例えば;

 夜の水面を伝わる波紋のように感覚はさらに拡がっていき、幾つかの石の建築群を隔てて弛緩した眠りに漂う者たちのことをゴーストは知っていた。…(中略)…夜は冷たく閉ざされているようでいて呟きに満ち、それはたとえば枝で身じろぎする鳥や溶けて地面に染み込んでいく水の気配でもあった―闇に増殖する菌類や朽ち葉の蔭で越冬する虫の眠り、水を蹴って軽やかに逃げ去っていく肉球のある肢のうら。冷ややかに閉ざされていたゴーストの世界に風が通ったのがその時であり、またさらに遠くには裸か木の影に包まれて嘆き悲しむ者の存在なども感じられたのだったが、しかしそれらはいちどきに犇きあったので、すべての意味を知ることはとても無理だった。(p40)

この独特の言い回し、いいなぁ~。

それはそておき、本書は
 ・銅版
 ・閑日
 ・竃の秋
 ・トビアス
 ・青金石
という章から成っている。
一つ一つが独立しているようで、微妙に連動している。


まず「銅版」では、たまたま入った深夜までやっている画廊で見つけた三様の銅版画について語られる。
それぞれの絵のタイトルは<人形狂いの奥方への使い>、<冬寝室>、<使用人の反乱>というもので、冬になると冬眠する邸の人びとの様子が描かれている。

それに連動するかのように、次の「閑日」と「竃の秋」は、まるで絵の話のような内容になっている。
まず「閑日」は、冬眠のために冬寝室に入ったものの途中で起きてしまった少女の話になっている。ひもじいのに使用人に通じる扉は固く閉ざされており、そこでゴーストに出会うという話。

次の「竃の秋」は一番長い話になっている。
舞台は同じ邸で(多分)、「閑日」では“少女”とか“少年”というように名前が出て来なかったのが、ぞくぞくと名前が出てきて、一気に立体感が出る。
ここには“人形狂いの奥方への使い”が出てきて、人形もどっさり出てくる。
人形を届けに来る使いが、この邸でふつりと姿を消してしまったり、こんな人形を注文しているのに、実は財政的に逼迫していて借金取りが来ている、と何やら不穏な空気を醸し出している。
そうはいっても、着々と冬眠の為に準備を進める使用人たち(使用人たちは冬に眠らない)。
そんな折に地震があって建物が崩壊して…といった話。


ここまで銅版画の画題が小説になったかのような物語が続いたので、「トビアス」もそんな話かと思ったら、突然日本の名前が出てきた。
実はこれがちょっとひっかかって、この小説の印象が“う~~~ん”という風になってしまった。
この唐突さがなんとも…。
確かにここに出てくる人たちも冬に眠るのだが、設定があまりに変わり過ぎて繋がりが見えにくい。
過疎が進む村で、女性ばかりが集まって共同生活する邸で、なんか知らないけど主人公とその母親らしき女性が逃げなくては行けなくて…とか、私の頭では“???”という感じだった。
特に、その前までの話の世界に浸ってたtのに、突然天井の低い日本家屋の話になるなんて、頭が追い付いていきませんよ。

最後の「青金石」は、またもや西洋に話が戻る。
何せ出てくるのアシジの聖フランシスコ。
彼が、冬に眠る人として出てくる。非常に短い話だったので、正直あんまり印象がない。

とりあえず不満もありつつも、冬眠するっていうアイディアが面白かった。
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