装丁がまたステキ
佐藤雅彦 「考えの整頓」 平成23年 暮しの手帖社
読書会で紹介してもらった「考えの整頓」。
作者の佐藤雅彦氏のことは知らなかったが、「ピタゴラスイッチ」の企画・監修をしている人と聞いて、面白そうと思って借りてみた。
結構予約がされていて人気なんだな、と思ったが、読んでみたら面白かったので納得。
日常の不思議についてがメインテーマで暮しの手帖に連載していたらしい。
佐藤氏の研究内容もかいつまんで説明もあったりして、なかなか興味深かった。
各章をかいつまんでみると;
“たくらみ”が一体感を生む。中学生の頃授業参観の折に、先生と生徒の間で「分かる人はパーで手を上げ、分からない人はグーで上げる」と決め、当日の一体感の幸せさについて。
現代の携帯電話・テレビの一人一台化、TwitterやSNSの個人的な情報発信に見られる『個の偏重』社会。
「自分」という意識の肥大化が生まれ、地域全体、日本全体という意識が希薄になっているのではないだろうか?つまり、「みんなでひとつの社会を作り上げていく一体感」が乏しくなってきていると感じてしまうのである。(p13)
敵か味方か
他人に対して自分にとって“敵”か“味方”かでカテゴライズしてしまうのでは。
人間は一見、野生から遠く離れた文明社会に住んでいるようで、野生的なものを含んでいる。
おまわりさん10人に聞きました
ある時、おまわりさんが帽子から地図を取り出しているのを見かけて、他のおまわりさん10人に聞いてみた話。
結果的には、ベテランのおまわりさんほど使っていない傾向があり、でもそういうベテランのおまわりさんも若い時は帽子を使っていたよう。
私は、その人その人なりの創意と工夫が大好きです。人間は、ひとりひとり違った暮らしを持っており、世の中に製品として流通しているモノがいくら多くとも、我々人間の暮らしの多様性を網羅できる訳ではありません。そこに個々人の知恵と工夫が入り込む余地が多く生まれます。…私が好きなのはその便利さはもとより、それを考えついたり行ったりすること自体が、とても人間的で、暮らしを生き生きさせるということなのです。(p32-33)
~と、オルゴールは思い込み
事務所で仮眠と取る時、電気を付けたままアイピローを付けて寝るが、その間に誰かが電気を消してくれていた場合、起きた時に非常にがっかりする。
なぜか。
その答えを導くのに、オルゴールの針がねについての説明があり、蓋を閉じなくてもその針を押せば、オルゴールが蓋が閉じられたと“思いこんで”、音楽を止めるという考察が入る。
従って、外界を明るいものと思い込んで、ちょっとストレス感じつつ寝ていたからという結論に至る。
物語を発現する力
仮説;「物語をたちどころに生み出す能力」は、自分の目の前に現れた一見不可解な出来事群に対して、納得できる筋道を与える『人間に用意された生きていくための力』ではないか(P49)
物語をどんどん発生させた暁には、その断片断片が持っている不可解さは解消し、ある種の満足感さえ生まれるのです。つまり物語の創造という能力は、断片的な情報群を一件落着させ、禍根を残さず、我々に新しい未来に向かうことを可能にさせているのです。(p54-55)
中田のスルーパスと芦雪
中田のボールに触らないことによるパスと、芦雪の描かないことによる象や牛の巨大さを表した屏風。
もう一人の佐藤雅彦
同姓同名(漢字も)の人がいるという話。姿を見たことないが、確かにトラックや荷台、はては行きつけの歯医者の患者にいる。
想像料理法
韓国で自分用に冷麺を買ってきたものの、ハングルが読めない。絵を元に適当に翻訳して作ってみる。
後で韓国人の留学生に聞いてみたら、そもそも冷麺ではなかったとのこと!チョル麺という、冷麺よりも太く辛い麺だったらしい。
広辞苑第三版 2157頁
ある時広辞苑を開いたら、一万円札が入っていた。それは「へそくり」項のところにへそくりを入れる、という未来の自分へのいたずらだった。
projectという言葉は、pro+jectつまり、前に(=pro)投げかける(=ject)ということを語源として、一般的には「企て」とか「計画」とかいう意味で使われている。
私は、この『プロジェクト』という言葉に、その根源的な意味をもう一度追加させて、「未来に投げかけること」という意味合いで、自分やスタッフに対してこの語を使うことがある。別の言い方をすれば、将来に、その価値が発見されることを強く意識した活動を、自分たちの『プロジェクト』として定義し直したのである。
…「未来に投げかける」ということを意識すると、自分のまわりに次元がひとつ増えたような感覚が生まれ、地面に何かの種を埋めた時のような期待と希望が生まれたりするのだった。(p91-2)
この深さの付き合い
父親にプレゼントしたモンブランの万年筆。父親が亡くなって遺品を整理していると、もったいなかったのか未使用のまま出てきた。それを愛用しているのだが、落としてしまい、修理に出したけれども元のようには戻らなかった。
もうひとつの世界
パラレル・リアリティ=複数の世界でありながらも、両方ともありありと真実のように感じられること
ハプニング大歓迎
講演会などでハプニングが生じ、アドリブでしなくてはいけなくなった場合、枠から解放されるため、のびのびと話ができる。
ものは勝手に無くならない
モノの永続性について、図を用いての解説。
はじめての彫刻
勤務地の東京藝大の石膏室にて。地元伊豆にて裸婦の彫刻を発見した時のことを思い出す。
見えない紐
作法について。
作法は、頭ごなしの約束事なだけではなくて、ある程度人間の習性に沿ったものではなくていけない。
ふるいの実験
どんどん条件を付けて、この先読む人を限定していく。
最後に残った人は景品をあげますよ、とのことだったが、どうやら誰も当てはまらなかったらしい。
ちなみにこの条件とは、佐藤氏のお姉さまのこととのこと。
言語のはじまり
フランスのアヌシーというところで、アニメーションフェスティバルに参加した佐藤氏。
非常にハードなスケジュールで、パタンキューと寝たいところが、突然アイディアがひらめく。しかしペンがない。その時とった行動というのが、物を並べて表現する、ということだった。
朝起きて、その暗号をすっかり忘れていたものの、見た瞬間「これは何かを示している!」と悟り、最終的には理解まで至った。
無意識の計算
我々人間の頭にとって、扱いやすく楽なのは、数値で行う情報処理ではなく、形で行う情報処理である(p187)
小さな海
引き潮で出て来た岩のくぼみにいた小魚やエビ。そこから取り残された小魚たちの物語を膨らます。
それと同時に、子どもの頃、満ち潮で岩がどんどんなくなって、必死で陸地に向かった思い出について。
意味の切り替えスイッチ
寒い中ランニングすることになり、初めて音楽を聞きながらランニングをする。
しかし途中で電池が切れてしまい音楽がなくなったのだが、その途端、ヘッドホンが耳マフの代わりになっていたことに気づく。
船酔いしない方法
「困った時の英会話」だかいう本を買ってみたら、そこに『ものが二重に見えるんですよ』という例文があったが、まったく使うことがなかった。が、ある晩映画を見ていたら、なんと主人公がこれを言っていた!
佐藤流船酔いしない方法(船上で波に合わせて歩きまわって、胃の位置を一定にするらしい)を紹介した後、これは『ものが二重に見えるんですよ』のようになるのだろうか?という話。
よく学生に、デザインとアートの違いを問われることが多いが、そんな時には、デザインとは「よりよく生きるための方法」であり、アートとは「なぜ生きるか」ということ自体から考えることである、と答えている。
私は、アートは分からない。しかし、デザインは一生懸命やっている。この絶対船酔いしない方法も、私にとっては日常のデザインのひとつなのである。(p219)
シラク・ド・ウチョテです
暮しの手帖に住んでいる精のお話。
耳は口ほどにものを言い
耳紋について。なんでも、強盗が入った時、指紋に関しては泥棒も注意を払って拭きとられることも多いので、警察は耳紋に注目するそうだ。
板付きですか?
映像の世界で“板付き”という言葉をよく使っていたが、バレリーナのオーディションで「板付きですか?」と聞かれ、本当の本当の意味の“板付き”に出会った時の話。
それは、言葉というものが意味を取りもどした瞬間であったのである。
それまで業界用語として知っていて、便利に使っていたにすぎない『板付き』が、“舞台といういた”に付いている役者の状態を見事に言い表していることが、15歳のバレリーナの投げかけた言葉で分かったのである。(p246)
一敗は三人になりました
2010年大相撲九州場所。白鵬、把瑠都、豊ノ島、魁皇が十勝一敗で並んだ12日目。
その日の試合が見れずにニュースを確認すると、「一敗は三人に!」という見出し。
誰が勝った/負けたという情報はないが、非常に多くの情報が含まれている。
「差」という情報
ある事を知るために、私たちは意識的に「差」を取り続ける。(p265)
ポール・オースターの活動「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」内の「ファミリー・クリスマス」という賞作品(実話)を例に。
不況下のとある貧しい家族のクリスマス。朝起きると、当然プレゼントがないと思っていたのに、ツリーの下に沢山のプレゼントがあった!開けてみると、何か月前かに失くしたショール(お母さんへのプレゼント)や帽子(長男へのプレゼント)、スリッパ(妹へのプレゼント)が出てくる。一番末の弟が、何カ月も前から、失くしても支障のないものをこつこつ隠していたのだった。
プレゼントは今までの生活にプラスされるものである。…このプラスされた「差」こそプレゼントなのである
では、一度、失くして諦めてもらえば、それが出てきた時感じる「差」は、やはりプレゼントと言えるだろう。しかも、無駄なお金もかからない上、絶対使ってもらえて、なによりも、その「差」には、どんなプレゼントもかなわない家族への思いが含まれていたのである。(p267)
その時
311の地震の時の話。