六年越しの投稿
平田オリザ 「わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か」 2012年 講談社
ブクログで「読みたい」と登録したままになったので読んでみたが、どうも読んだことがある。
でもブクログでは「読了」になっていないし、このブログで検索しても出てこないし…
おかしいな…と思いつつ、ブログの下書で絞り込んだら出てきた!
ということで、せっかく読んだので最後まで読み終えて、続きを書きます。
第三章からが2019/2/5に書いた分。
コミュニケーション教育が叫ばれていたり、就職活動で企業が求めている人材として“コミュニケーション能力を持った人”と提示されたりと、昨今何かと出てくる『コミュニケーション能力』。果たしてコミュニケーション能力とは何か?また、今の若者はコミュニケーション能力が劣っているのか?という質問を“ダブルバインド”というキーワードで解く。
ダブルバインド(二重拘束)とは、二つの矛盾したコマンド(特に否定的なコマンド)が強制されている状態を言うらしい。
コミュニケーション能力がダブルバインドの状態になっている、というのは、例えば企業が新卒生に求める表向きのコミュニケーション能力は「グローバル・コミュニケーション・スキル」=「異文化理解能力」(異なる文化、異なる価値観を持った人に対しても、きちんと自分の主張をつたえることができる)であるのに対し、実際に会社の中で求められているのは「上司の意図を察して機敏に行動する」「会議の空気を読んで反対意見は言わない」「輪を乱さない」といった従来の日本社会におけるコミュニケーション能力、という矛盾が生じている。
このような矛盾、ダブルバインドは社会の中だけではなく、時間を経たダブルバインドが起きている。
その説明として、子供たちの「伝えたい」という意欲の低下、という現象がダブルバインドの一端を担っていると言う。
「伝えたい」という意欲の低下の原因として、競争社会でなくなった、一人っ子が増えてセンテンスを言いきらない内に願いが適う、クラス替えがないというものが挙げられる。
このように「伝えよう」という確乎たる意志がなくても伝わってしまうという状況で育ってきているのに、一定の年齢に達すると、突然“コミュニケーション能力”が求められるようになる。
これこそが時間を経たダブルバインドで、人によっては「どうして誰も理解してくれないの?」と内向きになってしまうこともある。
この「意欲の低下」という問題点以外に「コミュニケーション問題の顕在化」「コミュニケーション能力の多様化」という観点からも考える必要があると説く。
「コミュニケーション問題の顕在化」は、今までは“無口”ということが特にネガティブな要因でなかったが、昨今はめっきりマイナス要素となってしまった。従来の“無口”な人をどう救うのか?という問題。
これはコミュニケーション能力をスキルやマナーの問題、と捕えて、「算数」や「国語」といったものと同等に扱うこと。
「コミュニケーション能力の多様化」では、現在社会においてライフスタイルが多様化してきた為、コミュニケーションの範疇が広くなってしまった、と説く。つまり一昔前までは大家族が普通の時代で、そうなると老若男女と接する機会が多い、というのが一般的であった。
が、今はライフスタイルが多様化してしまい、人によっては多種多様な人と接する機会の多い生活を送っていれば、またある人は大学に入るまで女性といえば母親としか話したことがない、という人までいる。
しかし結局はコミュニケーション能力の発達は慣れに起因するところが多いので、多様な人と接することの少なかった人は、コミュニケーション能力が欠落していると歎く必要なく、慣れていけばいいのだと結論付ける。
では、今の子供たちの生活環境化で慣れさせればいいのか?
簡単に言うと“理解されない”という状況下に身を置けばいいのだが(外国人と交流する、身体障害者の人たちと交流を図るなど、簡単にコミュニケーションがとれない場に行く)、教育現場でそれを実現するのは難しい。
と、ここでで来るのが筆者の専門分野、「演劇」が出てくるのだ。
第二章 喋らないという表現
第二章では、筆者が携わった小中学生での、演劇ワークショップの内容について書かれている。
国語の時間3コマ使って演劇をする、というものなのだが、その内容としては“スキット”という演劇法(?)を使う。
朝わいわいしている教室に先生が入って来て転校生を紹介する、そして先生は去り、生徒たちはその転校生に色々と質問する、という簡単なシナリオがあって、それを生徒達は班に分かれて、シナリオにアレンジなどして、最終的には発表するのだ。
そこで筆者が強く先生に言うのが「教えない」ということ。
できるだけ生徒の自由にさせる。
そこでは“喋らない”というのも表現の一部だし、そもそも朝のがやがやシーンにはいない(遅刻する)、というももあり、ということも示すのだ。
ただこの授業は、コミュニケーション能力を伸ばすための授業ではあるが、果たして「国語」と言えるのだろうか?
そもそも、国語の先生というのは本が好きな人が多く、語彙には強くてもコミュニケーション能力に長けているとは言い難い人も多い。
ということから、「国語」という教科について、もう時代遅れなのでは?と提言する。
そもそも国語は明治時代に富国強兵のために、言語の一致化を図るためにできたのであって、その目的が十分達せられた今、違う形態になってもいいのではないかと説く。
そこで提案されているのが、「表現」と「ことば」という授業に分けるということ。
「表現」科では演劇、音楽、図工、作文、スピーチ、ダンスなどなど、表現に関するものを取り扱う。
「ことば」科では文法、発音・発声をきっちり教え、その中で英語や韓国語、中国語などを取り入れることによって、日本語を相対的に眺めることができるようにする。
(ここまで2013/11/12記述 ここから2019/2/5記述)
第三章 ランダムをプログラミングする
ロボット・アンドロイドが人間のように動くのか、という話より。
ロボットやアンドロイドが”人間らしい”と感じるのには、”ノイズ”というものが的確に入っているか、がポイントとなるらしい。
つまり人間は、何かの動作をするときに「無駄な動き」=「マイクロスリップ」が入るらしい。
俳優でうまい、下手が決まるのは、この「無駄な動き」の挿入の度合い(タイミング、量)が要素の一つとしてある。
第四章 冗長率を操作する
「ノイズを適度に挿入する」ということは、「人生、無駄があった方がいいですよ」ということに繋がる。
そしてこれはコミュニケーションにも言える。
ちょっと話はそれて面白いと思ったところ。
劇のおいて、演技が「くさい」などと思ってしまう原因が書かれていたのが興味深い。
それは、演劇法を取り入れた時に、西洋の演劇法をそのまま取り入れてしまった。つまり、西洋の強弱をつけた言い方を取り入れてしまったのだ。
例えば「この竿を立てて」という文に対して、「竿」を強調したかったら、「竿」を強く言う、など。
しかし、日本語はそういった強弱というものは使われてこなかった。というのも、日本語は自由に順番を入れ替えたり、反復したりする。
竿の例でいけば、「竿、竿、竿、その竿立てて」などといった感じで。
本題に戻り、戯曲を書く時に「会話」と「対話」を区別することが大事と言う。
そもそも、日本ではこの「会話」と「対話」の区別が極めて希薄だ。
平田オリザ氏の定義は次の通りである;
「会話」=価値観や生活習慣なども近い親しい者同士のおしゃべり
「対話」=あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも価値観が異なるときに起こるその摺りあわせなど
この構造を「忠臣蔵」を使って説明しているのが面白い。
赤穂藩御家断絶時、赤穂藩には約300人の家臣がいたそうだ。
小さい藩であるから、地元勤務の侍たちはほとんど知り合い同士だったのだろう。
おそらく、「あそこの村は年貢の取り立てが面倒くさくてさ」とか「いあいや今年は豊作なんで、がっぽり取れますよ」なんて『会話』をしていたに違いない。
ところが御家断絶という事件が起きた時に、今まで考えてもいなかった個々の価値観が表出する。
例えば「殿が死んだんなら、オレも切腹だ」とか「上野介を倒すために討ち入りだ」とか、もちろん「申し訳ありませんが、うちは家族もいるんで、お金だけもらって再就職の口を探します」という者もいただろう。
このように、ある集団が個々人ではどうしようもできない、大きな運命に晒された時に、いままで自身でも自覚してなかったような価値観、世界観が表出する。
演劇において、それによってドラマが展開していく訳だが、これが近代劇を支える『対話』の原理だということだ。
この例で、日本において「対話」が希薄なのがよく分かる。
つまり、日本というのは、ほぼ等質の価値観や生活習慣を持った者同士の集合体を母体として独自の文化を培ってきたのだ。
平田オリザ氏はこれを「わかりあう文化」「察しあう文化」と呼んでいる。
もう一つ、「対話」を分かりやすくするために、「討論」(ディベート)と比較している。
「討論」=AとBという2つの論理が戦って、Aが勝てば、BはAに従わなければならない。つまり、Bは意見を変えなければならないが、勝ったAの方は変わらない。
「対話」=AとBという異なる論理が摺りあわさり、Cという新しい概念を生み出す。AもBも変わる。まずはじめに、いずれにしても、両者ともに変わるのだということを前提にして話を始める。
ヨーロッパなどでは、よく議論、つまりよく対話が成される。
議論の結果、自分が出したAに限りなく近いA'という結果になり、「これって結局、私が言った事とほとんど変わりないじゃないか」と言っても、相手は必ず「これは二人で出した結論だ」という。
つまり、とことん話し合い、二人で結論を出す、というのが大事なプロセスなのだ。
話は変わり「冗長率」について。
冗長率というのは、一つの段落、一つの文章に、どれくらい意味伝達に関係ない無駄な言葉が含まれているか、を表す数値。
冗長率が高いのは「会話」と思われがちだが、親しい人同士だと余計なことを喋らない。究極は、長年連れ添った夫婦の「メシ・フロ・シンブン」。
逆に冗長率が高くなるのは「対話」。
対話は異なる価値観を摺りあわせていく行為なので、最初は当たり障りのないところから入ったり、腹の探り合いなんかがあったりするからだ。
コミュニケーション能力が高い人は、冗長率が低い人ではなく、時と場合によって冗長率を操作している人である。
第五章 「対話」の言葉を作る
この章での「対話」は、”対等な関係で”の意思疎通という意味も加わっているように見受けられる。
「対話」が希薄な日本は、明治から西洋文化を取り入れる中で、「対話」の言葉が作られなかった。
それが顕著なのが、対等の関係の誉め言葉があまりない、というのと、女性の上司が男性の部下に命令するきちんとした日本語ない、というところだ。
女性の社会進出が進んできているのに、言葉が追い付いてきていないのだ。
そもそも人間は、言語について保守的である。
以下の指摘がなるほどな、と思った;
日本語は、大きな諸言語の中で、もっとも性差の激しい言葉の一つである。このことが無意識のレベルで女性の社会進出を阻んでいることは、おそらく間違いない。…(中略)…
一方、「男らしさ」「女らしさ」は、日本語、ひいては日本文化の特徴、美点だから捨てるべきではないという意見もあるだろう。だがやはり、私はこの変化を肯定的に捉えるべきだと考えている。
別に私は、フェミニストを気取っているわけではない。
電車の中で、女子高生が、「おい、宿題やっとけよ」といった言葉遣いをしているのを聞くと、普通のおじさんである私は、当然、何となく心が痛む。だが、私たちはこの痛みを甘受せねばならない。女性はこれまで、もっと厳しい差別に苦しみ、心を痛めてきたのだから。(p125)
第六章 コンテクストの「ずれ」
電車の中で見知らぬ人に話しかける、というのを高校生がなかなかうまく演じられないので、なぜ言いにくいのかを聞いたら、日常生活の中で、見知らぬ人に話しかけるということがないからということが分かる。
そこから、他国で同じワークショップをした際に、見知らぬ人に話しかけるかを聞いた事例が出てくる。
アメリカではほとんどの人が見知らぬ人に話しかけると子と会えたが、コミュニケーション能力がとても高いからというよりも、アメリカはそうせざるを得ない社会だからではないか。
アメリカは多民族国家で、自分が相手に対して悪意を持っていない、といことを早い段階で声や形にして表さないといけないのだ。
それが文化の優劣、という訳ではないと強調する。
ただ、日本式は少数派であり、国際社会で生き残っていくには多数派である向うの理屈を学ばないといけない、ということだ。
話し言葉の中に、話し手の個性というものが入る。
ここでは、コンテクストを「その人がどんなつもりでその言葉を使っているかの全体像」として定義している。
演出家、役者はそれぞれコンテクストを持っており、そのずれがないように摺り合わせていくのが、舞台を創りあげていく上で重要になってくる。
第七章 コミュニケーションデザインという視点
「ずれ」による摩擦の例として、日本と韓国の関係を出している。
大体、隣国同士は仲の悪い国が多い。
それは文化が近すぎたり、共有できる部分が多すぎて、摩擦が顕在化されず、その顕在化されない「ずれ」が積もりに積もって噴出するのではないか。
コンテクストを理解するコンピューターが開発されるのは、今世紀中は無理だろうと言われており、つまりは人間しかできない。
では、ずれを認識してコンテクストを理解するにはどうしたら良いのか。
そのツールとして演劇が良いのではないか。
演劇者は、短い期間の中で、他社とコンテクストを摺りあわせ、イメージを共有させて舞台を作っていくのだ。
役者にしても憑依型の役者もいるだろうが、大半は、自分の個性と役柄とで共有できる部分を見つけ出し、それを広げていくという作業をしている。
この考え方は教育学の中でも注目されており、「シンパシーからエンパシーへ」と呼ばれている。
これを平田オリザ氏は「同情から共感へ」「同一性から共有性へ」と訳している。
またエンパシーを、わかりあえないことを前提に、わかる部分を探っていく営み、と表現しているのが分かりやすい。
第八章 協調性から社交性へ
現在、日本でも価値観が多様化しライフスタイルも様々になってきている。
今まで、日本では「心から分かりあってコミュニケーションをとる」というコミュニケーション観を持っていたが、こうも多様化していると、それが当てはまらなくなってきた。
つまり、日本ではコミュニケーション観の大きな転換期を迎えているのだ。
その時、今まで重要視されていた協調性ではなく、社交性を身につけるべきではないか。
国際化、という観点からしても、心から分かりあえないからコミュニケーションを取らない、という訳にはいかない。
価値観や文化的な背景の違う人々とも、どうにかして共有できる部分を見つけて、最悪な事態である戦争やテロを回避するためにコミュニケーションをとっていかなくてはいけない。
割と散文的なところもあって、話が飛ぶのでしっかり理解して腹落ちさせるのに何回か読む必要がある。
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