ハンニバル戦記をハリウッド辺りで派手に、素敵に映画化してくれないかと夢想してしまう
塩野七生 「ローマ人の物語5 ハンニバル戦記[下]」 平成14年 新潮社
ハンニバルという天才的な武将がローマを攻めて、長年ローマを苦しめた後、
若き優秀な武将スキピオが、スペインで戦果をあげたところで4巻は終わっていた。
本書は、スキピオが押しに押して、ついにカルタゴが敗北を認めポエニ戦役が終了、
そしてその後の動きが記されている。
スキピオ軍が優勢になった理由の一つに、騎兵の産地であるヌミディアの王マシニッサを味方につけたことがある。
ただ、スキピオの元に付いた時は、マシニッサはヌミディアの権力争いに負け、何もない状態だった。
それをスキピオの助けを借り、王に就くことができたのだった。
このマシニッサをヌミディア王にした戦いによって、カルタゴは狼狽する。
そうしてイタリアにいるハンニバルを呼び寄せるのだった。
当時44歳であったハンニバル。16年の間に、ハンニバルが本国からの補給を受けられたのがたったの2回だという。
しかも最後のほうは、「長靴のつま先」に追いやられてしまい、そこでは土地柄貧しいところである。
それでも、1回4千の兵がローマに攻められて投降した以外は、まったく一人も、ハンニバルを見離した兵はいなかったという。
ハンニバルが率いた兵は、アフリカ・巣ペン・ガリアと、言葉さえも通じない兵士たちの混成軍、しかもローマのように義務的についているものではなく、金銭で雇われた傭兵たちであった。
最後のほうは給料も払えなかったはずなのに、なぜハンニバルを見捨てなかったのか。
ハンニバルの様子が描かれた文章はあまりないらしいが、同行したシレヌスの記録を参考にしたというリヴィウスの著書にこんな文章があるという。
ここから続く、塩野氏の考察が良い。寒さも暑さも、彼は無言で耐えた。兵士のものと変わらない内容の食事も、時間が来たからというのではなく、空腹を覚えればとった。眠りも同様であった。彼が一人で処理しなければならない問題は絶えることはなかったので、休息をとるよりもそれを片づけることが、常に優先した。その彼には、夜や昼の区別さえもなかった。眠りも休息も、やわらかい寝床と静寂を意味はしなかった。
兵士たちにとっては、樹木が影をつくる地面にじかに、兵士用のマントに身をくるんだだけで眠るハンニバルは、見慣れた光景になっていた。兵士たちは、そのそばを通るときは、武器の音だけはさせないように注意した。(p51)
若干、判官びいきのような響きがあって、果たして西欧にはそういった感覚があるのか分からないけれども(長年イタリアに住んでいる塩野氏なので、そんなに外れてもいないかもしれないが)、この考え方はしっくりくるし、そうであってほしい、と思ってしまった。人なつこく開放的で、会った人は敵でさえも魅了せずにはおかなかったというスキピオとは反対に、ハンニバルには、打ちとけた感じは少しも見られない。兵士たちの輪の中に入るなどということは、彼にはまったくなかった。…(中略)…
マキアヴェッリの評すように、その原因は彼の厳しい態度への畏怖の念にもよったろうが、それと同時に、天才的な才能をもちながら困難を乗りきれないでいる男に対しての、優しい感情にもよったのではないだろうか。彼に許されたわずかな休息を、武器の音だけはさせないようにすることで、邪魔してはいけないと注意するやさしさによって。(p52-53)
ザマの戦いで、スキピオに敗れたハンニバルは、遂に講和へもってくることになる。
この講和で驚くことが、ローマはカルタゴを同盟国としてみなし、自治権を認めるということだ。
ここでもローマの寛大さが大いに出ているといえよう。
あんなにハンニバルに損害を被ったローマは、復讐に目がくらむことがなかったのだった。
もちろん、内容はスキピオが関わっていたというのも大きかったのだろうが、
なんと、市民集会でたった一度で可決してしまったのだから、ローマ人で考えても寛大といえよう。
ポエニ戦争後、マケドニアの介入からギリシアを守ったりなんかする。
スキピオはますます名前を馳せるが、健康状態は思わしくなかった
更に、スキピオは弾劾にあい、最終的にローマを去って死を迎える。
そのスキピオ弾劾の中心人物にあったのがカトーであった。
カトーはスキピオが提言する「緩やかな帝国主義」に反対したのであった。
本書の最後は、マケドニアの滅亡とカルタゴの滅亡で締めくくられる。
マケドニアは世代交代し、息子がローマ嫌いだったところから会戦、そして敗北。
カルタゴはある意味、意思疎通がうまくいかなかったのと、ローマがマケドニアの一件からローマの態度が硬化していたこと、
それでも条件をのんで帰ってきたマケドニア使者に対して、マケドニア市民が怒って殺してしまったところから会戦、
こちらもローマに敗北を喫する。
しかもローマは、不必要な蛮行をおこし、カルタゴを人が住めないような地へと破壊してしまったのだった。
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