「ゲド戦記」は和訳の素晴らしさあってこそ、に激しく同意
宮崎駿 「本へのとびら―岩波少年文庫を語る」 2011年 岩波新書
随分昔に参加した本の交換会で交換した本。
引っ越しに際して見つけ出し読了。
内容はタイトル通り、宮崎駿が岩波少年文庫から選んで紹介している。
自分が読んだ本を勧められると「だよね!」となったが
意外と読んでない本もあって、児童文学とはいえ、読みたくなった。
ところどころ、宮崎駿の思想が書かれていて、
共感できないところもあったけれども、
なるほどな、と思ったところがあったので、以下抜粋;
児童文学は「やり直しがきく話」なんです。ロバート・ウェストールは結構やり直しがきかない話を書いていますけど、それでも、作品のなかに出てくる父親、父親にあたる人間の役割を評価しているところをみると、彼もこの世はむごいが、それでも生きるに値することがあると書いています。
そういう児童文学のほうが、自分の脆弱な精神に合ったんですかね。(p70)
ところがそうした挿絵の時代から、映画になり、テレビになり、と、違うところにきた。それがさらに、携帯で写した写真を転送して……というように、映像が個人的なものになってきてしまった。
そうすると、現実に対するアプローチの仕方はどんどん脆弱になっていくんです。本物というか、なまものというものはつかまえにくいものです。光線や空気や気分でどんどん変わっていきます。たとえば、目の前に見合いの相手がいて、ドギマギしながらちょっと言葉をかわすだけで判断するより、正しい照明で写真やビデオに撮って、こっそりひとりで落ち着いて観たほうが本当のことが分かるんじゃないかと思うようになるんです。(p129-30)
(大分長いけれども…)
画一的になっていくのが人類の運命でしょうか・滅びるようになっているんだと思うしかありません。僕自身はそれにつきあう必要はないと思っていますが、僕もその傾向に加担しているひとりですから、ややこしい(笑)。
今は、アニメーションがなかったら、この人は絵なんか描かなかっただろう、という人がアニメーションをやっている時代です。
サブカルチャーというのはさらにサブカルチャーを生むんです。そして二次的なものを生むときに、二分の一になり、さらに四分の一、八分の一になり、と、どんどん薄まっていく。それが今です。そう思います。
この世界をどういうふうに受けとめるんだ、取り込むんだというときに、自分の目で実物を見ずに、かんたんに「もう写真でいいんじゃない」となってます。写真自体も、いくらでも色やコントラストが変えられるから、好き勝手にやっているでしょう。ですから、ほんとうに自分の目がどういうふうに感じているのかということに立ちどまらなくなっています。
…(中略)…そうして嘘に嘘をかためているから、世界そのものが人間に持っているインパクトをどんどん薄めて十六分の一になり、八かける八の六十四分の一になり、ひどいことになっていると思います。
電気がとまり、映像がとどかなくなり、情報がなくなったりすれば、当然ひどく不安になり、病気になり、死んでしまうかもしれない。それでも世界はあるんです。このややこしくも複雑な世界で生きていくにはいっぱいはいらないけど、本があってほしい。(p131-2)
要するに児童文学というのは、「どうにもならない、これが人間という存在だ」という、人間の存在に対する厳格で批判的な文学とはちがって、「生まれてきてよかったんだ」というものなんです。生きててよかったんだ、生きていいんだ、というふうなことを、子どもたちにエールとして送ろうというのが、児童文学が生まれた基本的なきっかけだと思います。『小公子』を書いたバーネット、『若草物語』を書いたオルコット、『ハンス・ブリンガー』のドッジも、『赤い鳥』を始めた鈴木三重吉も、かれにすすめられて「杜子春」を書いた芥川龍之介も源のところは同じです。
「子どもにむかって絶望を説くな」ということなんです。(p163)
因みに「ハンズ・ブリンガー」は「銀のスケート靴」と改題されていて、子どもの時に本当に腐るほど何度も読んだ本。すごく懐かしい旧友に会った気がした。