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がらくたにっき |

読んでいるはしから、ぼろぼろと本が崩れていって崩壊しないかドキドキした

高村光雲 「光雲懐古談」 昭和4年 萬里閣書房


美術という見世物」に出てきた「光雲懐古談」、
図書館で検索してみたら出てきたので予約して借りてみたら
ものすごい素敵な本が来た!

なにせ、昭和4年の本!
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この貫禄!

表紙を開くと…
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「コノ本ハ消毒シテアリマス 来タ時モ帰ル時モ手ヲ(消毒薬)洗ヒマセウ」!!!

表紙もかっこいい
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裏表紙もすごい
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火鉢の上で読もうたってできないんだけどね…

奥付も。正真正銘の昭和4年!
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3円50銭って!
それにしても1ヶ月も満たないなか、何度も再版しているのが不思議。

もちろん中身も旧仮名遣いがばんばんあります。
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とまあ、興奮のあまり何枚も写真を撮ってしまったが…
内容も非常に興味深かった。
正直、後半部分の「想華編」はあまり面白くなく、さらっと読んでしまったが
前半部分の「昔ばなし」はとても面白い。
旧仮名遣いで読みにくいところもあったが、
高村光雲が語っているのを、そのまま書き写しているので、文体としては読みやすかったのと、
「美術という見世物」の記憶が残っているのもあって、すんなりと理解しやすかった。

本書は彫刻家・高村光雲が自分の半生を語っているのを、書き写したものになっている。
高村光雲というと、上野の西郷隆盛像が有名だが、「老猿」も、多分見たら知っている人も多いと思う。
元々、仏師・高村東雲の元へ奉公に出、その後、明治に入ってから彫刻家になる経緯が語られている。
とはいえ、高村光雲自体は「仏師をやめて彫刻家になろう」という意志があって転換したのではなく、
時代の流れによって、仏像だけではなく、動物や人物を彫るようになったみたいで、そこは興味深かった。

それにしても江戸が終わり、明治に入って、
西洋文化を取り込みながらも、西洋受けする為にかえって日本らしさを模索している時代が垣間見える。

以下、興味深かったところから抜粋;

江戸末期の風俗(高村光雲が子供の頃の話)
 湯屋では、八ケンというものが男湯と女湯との真中に付いてゐた。柘榴口を潜って這入るのです。……柘榴口といふのは、妙な言葉だが、昔から、鏡磨師(かがみとぎ)は柘榴の実を使用(つか)つたもの、古い絵草紙などにも鏡研の側には柘榴の実がよく描いてある……でその名の意は、屈(かが)み入る(鏡入る)の洒落れから来たもの、……むかしは凡て斯う雅(が)なことを云つたものです。(p20)
洒落もかっこいいけれども、柘榴がそんな昔に日本にあったことがびっくりだった。

京都の話。
抜粋には長いので短くまとめると…
・京都には本山がたくさんあるので、、地方の末寺のお坊さんたちが、法会に京都へ行く
・その折に、地方で上等な仏像を欲しいと思う人は、お坊さんに頼む
・お坊さんは法会で、10日から半月くらい滞在しているので、その短い期間で注文する
・仏師の方は1週間や10日の間に注文品を仕上げなくてはいけない
・京都ではそのニーズに合わせる為に、分業が非常に進んでいた
・観音、台座、厨子、付属品などが分業で作られ、期限内に納める
・ところがこの分業が進みすぎて、彫刻の名人というのがいなくなってしまった
・短納期に間に合わせるように、代金を唯一目的にする、即ち、あまりに商品的に彫刻を取り扱いすぎるところの悪習といえよう(p33-4)

奉公の年季が明けて、東雲師匠に言われた言葉;
「先づ、兎に角、お前も十一年といふものは、無事に勤めた。さて、此よりは一本立ちで独立することとなれば、また万事につけて趣が異(ちが)つて来る。それに附けていふことは、何よりも気を許してはならんといふことである。年季が明けたからと云つて、俺はもう一人前の彫刻師になつたと思ふてはいかぬ。今日までは先づ彫刻一通りの順序を習ひ覚えたと思へ。是れからは古人の名作なり、また新らしい今日の名人上手の人達のもに就いて充分研究を致し、自分の思ふ所によつていろいろと工夫し、さうして自分の作をせねばならぬ。それにつけて、将来技術家として世に立つには少時(しばらく)も心を油断してはならぬ。油断は大敵で、油断をすれば退歩をする。また慢心してはならん。心が驕れば必ず技術は上達せぬ。反対に下る。されば、心を締め気を許さず、謙(へりく)だつて勉強をすれば、仕事は段々と上つて行く。また、自分が彫刻を覚え、一人前になつたからと云つて、それで好いとは云はれぬ。自分が一家を為せば、また弟子をも丹精して、種子(たね)を蒔いて、自分の道を伝へる所の候補者をこしらへよ。そして、立派な人物を自分の後に残すことをも考へなくてはならぬ。お前の身の上に就いては更にいふこともないが、此れ丈けは技術の為に特に話し置く。」(p108)
特に最後の部分が心に残った。
自分だけが会得すれば良いのではなくて、それを伝えることの大切さに気付かされた。

これも当時の様子で興味深いシーン;
東雲師匠が博覧会で龍紋賞を受賞した時のこと。
突然、博覧会が催され、皆、博覧会の意味もよく分からないまま、言われるがまま出展したところ、
東雲師匠が1等にあたる龍紋賞を受賞したのだが、なんせ博覧会のことがよく分かっていないくらいだから、あまりピンときてなくて、次の日も普通に仕事をしている。
表通りを其頃の読売が声高々と読んで通るのを聞くともなく聞くと、「当所蔵前にて、高村東雲の作白衣観音が勧業博覧会に於て龍紋賞を得たり。」と大声で読んで居りますので、一同はそれに耳を澄ますといふやうなわけでありました。それに師匠の家の隣家遠州屋といふ外療道具商でも外療器械を出品し、それが鳳紋賞を得たので、一町内から二軒並んで名誉のことだと、町内を行きつ戻りつ読売は読んで歩いては、師匠の家の前では特に立ち留まつてやつて居ります。其頃は事件のあつた時には善悪共に当事者の家の前で特に声を張つてやつたもので、蔵前では例の高橋お伝の事件などやかましかつたものですが、此れは先づ名誉のことだといふので騒ぎましたから、自然、さういうことが町内の人々、また一般にも噂高くなりましたのでした。(p133-4)
情報伝達の様子が興味深い。
善悪共に当事者の家で、というのがなかなか怖いが。

東京横浜間の汽車が開通して間もない頃、汽車に乗った東雲師匠の感想も面白い;
「どうも汽車つてものは恐ろしい迅(はや)いものだ。まるで飛ぶやうだ。電信柱はとんで来るやうに見え、砂利は縞に見える」(p135)
”飛ぶよう”というのはよく聞く表現だが、”砂利は縞に見える”は確かに!となった。

廃仏毀釈の話がなかなか衝撃的だった。
神仏の混淆してゐたものが悉く区別され、神様は神様、仏様は仏様と筋を立て大変厳格になりました。此は、つまり、神社を保護して仏様の方を自然破壊するやうなやり方でありましたから、さなきだに、今迄枝葉を押し広げてゐた仏様側のいろいろなものは悉く此の際打(ぶ)ち毀されて行きました。…(中略)…奈良や、京都などでは特にそれが甚(ひど)かつた中に、あの興福寺の塔などが二束三文で売物に出たけれども、誰も買ひ人(て)がなかつたといふやうな滑稽な話もある位です。併し当時は別に滑稽でも何んでもなく、時勢の急転した時代でありますから、何事につけても、斯ういふ風で、それは自然の勢であつて、当然のこととして不思議と思ふものもありませんでした。また今日でこそ斯ういふ際に、どうかしたらなど思ふですが当時は、誰もそれを何(ど)うする気も起らない。廃滅すべきものは物の善悪高下によらず滅茶々々になつて行つたものである。此は今日では一寸想像に及び難い位のものです。(p165)
歴史で廃仏毀釈の事を習った時は、なんてひどいことを、なんて愚かなことを、と思ったが
当時はそんな憤りといった感情がなかったことにびっくりした。
この後に、色んな人が寄進した仏像が飾られているさざえ堂が壊されることになり、
仏像自体も下金屋が引き取って、金をはぎ取るという話が出てくる。
このさざえ堂は、皆に見られるということから、依頼された仏師が持ってる技術を最大限に発揮させて、競い合うように作ったということで、高村光雲にとっても良い勉強になる場所であった。
それが金を取って燃やしてしまう、と聞いて、あまりにもったいなく思って
近所の人が高村東雲に声をかけてくる。
たまたま師匠が留守にしていたので、高村光雲は飛び出して、
なんとか師匠が来るまで粘って、最終的に5体だけ引き取る、という話があった。

なかなか切ない話ではあるのだが、
ちょっと驚いたのが、仏を焼くということに、あまり皆が躊躇していないことだ。
祟るのは神様だとしても、私だったら何だか良くないことが起きそうな気がしてしまうものの
高村光雲をはじめとして、師匠も下金屋も頓着していないのにびっくりした。

最後に、「美術という見世物」に出てきた、生人形の喜三郎の話も出てきたので引用しておく;
 其次は三十三番の美濃の谷汲観音、是は最後の切舞台で、中で一番大きい舞台、背景は遠山ですべて田道の有様を写し、此所に大倉信満といふ人が驚いてゐる。其後に厨子があつて、厨子の中より観音が抜け出した心持で、此所へ観音がせり出します。此観音が人形の観音でなく、又本尊として礼拝すると云ふ観音でも無く、丁度其間を行つた誠に結構な出来で、頭に塗笠を冠(かむ)り右の手に塗杖を持ち左の手に或方を指してゐる図で、袈裟と衣は紗の如き薄物へ金の模様を施し、天冠を頂き衣は透きとほつて肉体が見え、何とも見事なもので、尤も是は切の舞台にて喜三郎も非常に注意の作と思はれます。(p542)
なかなか想像しにくい、見たこともないような奇抜な観音だったんだろうな、ということが分かる。
人形と本尊の中間みたいな観音、見てみたい。

このほかにも、見世物用に大きな張りぼての大仏を短時間で作ってみたり、
象牙彫が全盛期で、自分も勧められたけれども決して手を出さなかったり、
その理由が、その前に鋳物師に手伝いをお願いされて、2年間、鋳物に携わっているうちに
ふと小刀を見たら錆びていて、それを見て自分に恥じたりと、興味深いエピソードが沢山あった。

「美術という見世物」でも感じていたけれども、
明治に入って、西洋文化が入って来てからの動きは、非常に興味深いことに今更ながら気付いた。
明治・大正はなんとなくファッションとして素敵、としか思っていなかったのだが
文化的なうねりみたいのを、この2冊から感じられて、もっと知りたいと思った。
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Category : 自伝
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