確かに”不遇の芸術家神話”は横行しすぎてるな
山口晃 「ヘンな日本美術史」 平成24年 祥伝社
図書館で違う本を探し求めてうろうろしている時に、たまたま目に入った本。
と思ったら、随分前に読みたい本としてブクログに登録していたことを発見。
1冊返し忘れてて、図書館から催促メールが来て思い出し、一気読み。
画家の山口氏が自分の目線で語った日本美術作品の話なので、さくっと読めた。
全体を通して、現代美術のいけてないところ(という表現が的確か分からないけど)も入ってて、そこがプロの画家としてリアルな部分だなと感じた。
どんな作品、作家が取り上げられているかというと、以下の通り;
・鳥獣戯画
・白描画
・一遍聖絵(絹本)
・伊勢物語絵巻
・伝源頼朝像
・雪舟
・洛中洛外図(舟木本、上杉本、高津本)
・松姫物語絵巻
・彦根屏風
・岩佐又兵衛
・丸山応挙と伊藤若冲
・光明本尊と六道絵
・河鍋暁斎
・月岡芳年
・川村清雄
以下、気になったところを箇条書きにまとめてみると
甲巻→よく見る動物が人間の様子をしているもの
乙巻→図鑑みたいに動物が描かれているが、実在しない動物も並列で描かれている
丙巻→人が描かれていて、動物は動物として描かれているが、心持ち擬人化されている。
例えば、馬に乗る人を擬して、犬に乗る蛙、みたいに
丁巻→人間が描かれているか、かなり砕けた感じで描かれている
・白描画…仏画で見たことがあるけれども、それ以外であるのを初めて知った。
文字と絵がデザインされているかのように構成されているらしい。
つまり、絵をイメージとしてでなあく、平面としてとらえており、「平面性のプロフェッショナル」という。
画面の中に空間を構成するために様々な技法を凝らすと云うよりは、意識が画面の外に出ていて、画面そのものを作り出す方に意識が行っている。(p31-32)
・日本は何でも吸収すると思われがちだけれども、そこから取捨選択してる。
取捨選択しているということは、軸を持っているということ。そこにオリジナリティというものがある。
日本の場合、「崩し」の価値をかなり早い頃から分かっており、発展しているなかで崩していっている。
大きさ、色、形から、それが在る座、主客も含めて違う次元のもので、ぎりぎりのバランスを取ることに長けている。
・「慧可断臂図」(雪舟)の慧可の顔について
顔に違和感があるのは、輪郭は横顔なのに、眼は正面から見た時の形、耳は後ろから見た時の形になっているから。
これに限らず、日本の絵にはパーツごとに異なることが多い。
・洛中洛外図
舟木本…上が北になっているので一番見やすいかも。作者不明だが岩佐又兵衛説が強い。びっしり描き込まれている
上杉本…狩野永徳作。舟木本に比べると緩い感じ。といっても人物がとても小さくて、描くとなるとすごいことが分かる
高津本…下手。
・高津本しかり、「松姫物語絵巻」しかり、技術的にもへたくそである。しかし、下手な絵をめでる習慣があったようだ。
・若冲や河鍋暁斎は、目の前にあるものを描いていたわけではない。
河鍋暁斎いわく、まずよく観察し、その後別室で思い出しながら描いてみて、描けないところをまた観察して…を繰り返す。
そうやって、事物を描くのではなく、「印象」を描く。
そのほか、日本の昔の絵はパースを知らないからこそ描けた絵、ということを何度か語っているのが印象的だった。
それに繋がるのが、今の日本画批判で、日本画特有の余白などは、西洋的な技法を知らないからこそ生きている、
だからといって、知っている人が知らないふりをして描いても白々しさしかない、という。
よく使われていたのが「自転車に乗れるようになると、自転車に乗れないということができなくなる」という表現。
確かに、今の日本画でいいな、というのがなかなか無いのは、そういうことか…と気付かされた。
スポンサーサイト