もう少し季節を選んで日本に来たら良いのに…とハラハラしてしまった
マイケル・ブース 「英国一家、日本を食べる」 寺西のぶ子・訳 2013年 亜紀書房
随分前の雑誌に紹介されていたのを、面白そうだと思ってメモしていた本。
新型コロナのための自粛期間中に読んだけれども、自粛期間中に読むにはまったく適さない本だった。
なぜなら、外食ができないなか、日本各地のおいしい料理の描写を読んでも、「行きたい~」という気持ちを通り越していらっとしてくる。
それを差し置いても、そこまで面白いと思う本ではなかった。
日本向けに書かれていないのだろうな、というのは分かるけれども、日本食の紹介に終わってしまっていて、日本人が読んでも「なるほど、外国の人にはこういう風に見えるのか」という面白さがあまりない。
いくつか気になったことを書くと;
これには「そうだそうだ!」と言いたくなる。僕は日本人をどういう言える立場じゃない。僕だって、これまでバタリーで飼育された鶏をかなり食べてきたし、薬漬けにされた牛や、愛らしい兎や、かわいい鶉、麻酔もかけずにちぎられたカエルの脚も相当食べた。それに、クジラはとても賢いというけれど、豚だって決してばかだない。(p91)
その後にこう続く;
マグロの話を聞いてあまり危機感を感じていないのは反省すべきだと思った。一方で、なんで日本人が大部分の原因となっているかも書いてくれればいいのに…とも思った。この4つの国(クジラを食するアイスランド、グリーンランド、ノルウェー、日本)のなかで、日本はあらゆる魚をどん欲に食べることにかけてははるかに抜きん出ていて、世界全体の漁獲量の1割を消費している。世界のシーフードの消費量は平均でひとり16キログラムなのに、日本人はひとり70キログラムにもなるのだ。(中略)地中海や大西洋の天然マグロは危険な水準まで数が減って、おそらく60年代の10パーセント程度になっている。このような状況を招いた原因の大部分は、日本にある。
だけど、ごく普通の日本人にマグロの絶滅やクジラの問題についても尋ねても、疑わし気な目で見られるだけだろう。そうした問題は日本人にとってニュースには違いないが、差し迫った問題ではない。日本料理の伝統に対して、時折よその国が干渉してくることがニュースなのだ。(p91-92)
ある程度の日本人への理解を示しつつも、「クジラは賢いんんだから食べるのは野蛮だ」と言っている人たちと変わらない、”日本人が悪い”という決めつけを感じてしまう。
もう一つ、興味深かったのが日本人の嗜好の話;
確かに食感を好むのは、ヨーロッパではあまり見られないのかもしれないな、と思った。(カニが恋しくなって)頭にはあのとらえ難い風味がよみがえった。その風味の大部分を占めるのは食感で、生のカニ身の半分液体で半分固体の不思議な味わいは、舌の上で余韻を楽しもうにも、早々にかき消されてしまう。こういうことからも、日本人の食感に対する意識が異常なほど洗練されていることがはっきりとわかる。日本人は口に入れた食べ物の舌触りを味と同じように重視し、料理の温度についてはさほどではないものの(なにしろ、温かい料理はやけどするほど熱々にするのが、デフォルト設定だから)、食感についてはとてもきめ細かいニュアンスを大切にする。クラゲの奇妙な噛みごたえとか、もち(米紛のお菓子)の柔らかいゴムみたいな感触とか、パン粉のサクサクとした小気味よい感じとか。もっとすごいのは、たとえば、さまざまなお菓子やデザートに詰め物として使われる小豆ペーストや調理したヤマイモのパサついた食感も、日本人は喜ぶということだ。食感のバリエーションとコントラストは、今回の日本食べ歩き旅行で得た最大の発見だった。(p104)
味もしないのに、食感だけで楽しむという感覚は、少し特殊なのかもしれない。
日本に対してのある程度のリスペクトを感じるし、イギリス人特有の皮肉も入っているのかもしれないけれども、ところどころに「ん??」とひっかかるコメントがあるのも確か。
多分、イギリス人がフランスやイタリアなどに行くような、文化的対等な国に行くという感覚ではないんだろうな、と分かるコメントというか…
日本絶賛の本というのもうさん臭く感じそうだけど、外食に行けない状況と相乗効果で、あまり面白いと思えない本であったのは確かだった。