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がらくたにっき |

扉絵にある小さいころの写真が可愛い


アゴダ・クリストフ 「文盲 アゴタ・クリストフ自伝」 2006年 白水社


通っている通信の大学の講義で、「第二言語で書いた作家」の例で出てきた本書。
「悪童日記」が大好きだったので読んでみることにした。

自伝とはあるけれども、はっきりとした出来事が時系列に書かれておらず、エッセイのような書き方をしているので、クリストフのバックグラウンドを知らないとぼんやりとした印象しか受けない。
ということで、解説から読んでやっと腹落ちした感が出た。

母国語で書いていないという点では、同じく母国語ではない言葉で書いた本「べつの言葉で」を読んだけれども、状況がまったく異なる。
クリストフの場合は、ハンガリーの動乱期に祖国を脱出し、スイスへ亡命したのだ。そこでなかば強制的にフランス語を習得することになるのだ。
それが特徴的なのが「母語と敵語」である。
9歳まで他の言葉があるということを想像すらできなかったが、9歳の時に、住民の4分の1がドイツ語を話している国境の近くに引っ越す。

ハンガリー人であるわたしたちにとって、ドイツ語は敵語だった。なぜならそれは、オーストリアによるかつての支配を想い起こさせたし、しかも、当時わたしたちの国を占領していた外国の軍人たちの言語でもあったから。(p40-41)

更に、一年後、ロシアに占領され、ロシア語が学校で義務化されてしまう。
そして21歳にスイスのフランス語圏に亡命し、フランス語を習得するようになるのだが、

 わたしはフランス語を三十年以上前から話している。二十年前から書いている。けれども、未だにこの言語に習熟してはいない。話せば語法を間違えるし、書くためにはどうしても辞書をたびたび参照しなければならない。
 そんな理由から、わたしはフランス語もまた、敵語と呼ぶ。別の理由もある。こちらの理由のほうが深刻だ。すなわち、この言語が、わたしのなかの母語をじわじわと殺しつつあるという事実である。(p43)


「敵語」という強い言葉の中に秘める、彼女の悲痛な思いと、それでも物語を紡ごうとする貪欲さを感じる。

全体を通して、「悪童日記」の三部作のように、自伝であってもひたすら客観的に、冷静に書かれている。
もちろん、自伝だから感じたことも書かれているけれども、最小限にとどまっていて、大半は読者が想像しなくてはいけない。
でも、彼女のような体験をしたことがない私として創造に限界があって、そこに彼女からの拒絶を感じた。
淡々とした文章に悲しみの深さは感じられるけれども、それを理解しようとすると、理解しようとするのがおこがましいのでは?と思ってしまうというか…

そんなわけで、自伝ともエッセイとも言い難い、非常に特別な本だと思った。
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Category : 随筆
Posted by nizaco on  | 0 comments  0 trackback

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