学問において「あれ?」と思うことがいかに重要かを痛感
岡田温司 「マグダラのマリア」 中央公論新社 2005年
通信大学のレポートに”マグダラのマリア”について少々書く必要があったので借りてきた本。
レポートにはあまり使わなかったけれども、非常に興味深い内容だった。
確かに、聖書にはマグダラのマリアが娼婦であるなんてどこにも書かれていないのに、なんで娼婦というイメージがついたのか、というのはよく考えると非常に不思議なことで、それに気付かなかったのが地味に悔しかった。
本書を読んでいくと、西洋の文化において、女性蔑視がいかに根深いのかがよく分かった。フェミニズムが近代において重要な動きであったり、つい最近でいえば「#MeToo」がいかに大きな波紋を呼んだのか、というのは、この根深さを知れば納得しかない。
もちろん、日本をはじめとして他の文化圏でも女性問題はある。しかし日本では天照大神が女性神であったり、歴史上に女性が出てくることは稀にでもある。それに対して、マグダラのマリアが元々あった特権をいかにはく奪されていったかを見れば、それをベースにしたキリスト教、更にそれをベースにしたヨーロッパ文化が、どれだけ根深いのかが想像できる。
正直、イギリスにいた時も、フェミニズムについての女性たちの鋭い口調に、時々へきえきとさせられていたところがあったけれども、これを読んで心の底から納得した。
まず、聖書に書かれているマグダラのマリアは以下の通り:
①福音の旅
ルカ(8:1〜3) 悪霊を追い出して病気を治してもらった女たちの1人で、7つの悪霊を追い出していたたいたマリア、という記載がかる。そこには「自分の財産をもって彼らに仕えているそのほか大勢の女たちもいっしょであった」という記述もある。
②キリスト磔刑の立会人ときて
マタイ(27:55〜56) 遠くから眺めている女たちの中にマグダラのマリアがいたという書き方。
マルコ(15:40) マタイと同じ
ルカ(23:49) マタイと同じ
ヨハネ(19:25) イエスの十字架のそばにいるという記述
③キリスト復活の証人として
マタイ(28:1〜10) マグダラのマリアと他のマリアが墓を見に行き、天使に出会い、その後イエスに出会う
マルコ(16:1〜11) 女達は墓を出て逃げ去り、誰にも言わなかった。その後にイエスがマグダラのマリアの前に姿を顕す。マリアはイエスと一緒にいた人たちに伝えるが、誰も信じなかった。
ルカ(24:1〜11) 女たちは墓を見てイエスの御言葉を思い出し、弟子たちに伝えるが信じてもらえなかった。女たちの中にマグダラのマリアがいた。
ヨハネ(20:1〜18) マグダラのマリアが後ろを振り返るとイエスがいた。庭師だと思ったがイエスだと気付く。イエスに「私にすがりついてはならない」と言われる。
彼女の位置づけは福音書によって評価に違いが見え、特にルカは彼女に好意的とは言えない。ルカは、磔刑時にマグダラのマリアに距離感を与え、復活の場面においても、マリアの言うことを誰も信じなかったと、その役割を引き下げようとしている。そのため、ルカによる福音書で、復活したキリストが最初に姿を顕すのは、エマオに向かう二人の男の使徒の前(24:13〜35)である。
原始キリスト教において、マグダラのマリアは女性の地位と役割をめぐる葛藤を体現する存在だったと考えられる。
この葛藤が、もっとはっきりと投影されているのが、2世紀にグノーシス主義の強い影響のもと成立したとされる一連の外典である。特に『マリヤによる福音書』『トマスによる福音書』『フィリポによる福音書』『ピスティス・ソフィア』。
これらの福音書から浮かび上がってくるマグダラ像は、新約聖書の4つの福音書に見られるものとは以下の点から、かなり異なる;
・幻視者あるいは預言者としての比類のない能力がマグダラに認められている点
・使徒たちと対等か、あるいはそれ以上にすぐれた伝道者としての資格も与えられているもいう点
・女性の力や権威に対して、とりわけペトロがあからさまに挑戦し、彼女を排除しようとすらしているという点
逆に、四福音書は、マグダラのマリアを牽制することによって、使徒的で家父長的な教会の権威を際立てさせている。マグダラのマリアの権利を抑制し、地位をおとしめようとする一方で、ペテロの優位性を前面に打ち出す傾向を強めている。
以上をふまえて、マグダラのマリアのアイデンティティの変遷は
●原始キリスト教の共同体
まだ罪を犯した女性とみなされていたわけではなく、改悛の必要性も当然なかった。
初期キリスト教時代の大学者たち、アンブロシウス(333頃〜397)、アウグスティヌス(354〜430)が彼女をそのように見ていたという痕跡はない
●教皇大グレゴリウス(在位590〜604)…典礼や聖歌の完成者
ルカによる福音書に登場する「罪深い女」(7:37〜50)と、ラザロとマルタの姉妹であるベタニアのマリア(ヨハネ11:1〜44,12:1〜8)は、マグダラのマリアであるとした。
「罪深い女」は、イエスの足元に駆け寄り、足を自分の涙で濡らし、髪の毛でぬぐい、更に口づけ、香油を塗って、罪を悔い改めた人。合体の経緯としては、ルカやマルタに、マグダラのマリアは「7つの悪霊を追い出してもらった人」という言及があり、「7つの悪霊」を「罪深い女」の「罪」に読み替えた。
ベタニアのマリアは、イエスに兄弟であるラザロを生き返らせてもらった女性。彼女が統合された経緯は…ベタニアのマリアは、イエスの足に香油を塗り、髪の毛でぬぐったとある(ヨハネ11:2、12:3)。つまり、「罪深い女」と同じような振る舞いをしたのだ。
更にベタニアのマリアは、イエスを家に迎えたときに足元に座って聞き入っていたが、姉妹のマルタはもてなそうと忙しく立ち回っていた時に、イエスに「マリアは良い方を選んだ」と言われた人でもある。
マグダラのマリアは、もはやキリストの最後の出来事、磔刑・埋葬・復活に立ち会っただけではなく、福音の旅の途中でも重要な役回りを演じてたことになる。更に、キリストの足を涙で洗い、髪でぬぐい、口づけするとは、悔い改めと奉仕と愛を象徴する行為である。また、マルタとは違って、じっと聞き入るのことでイエスに応えたとすれば、「瞑想的生活(ヴィータ・コンテンプラティーウァ)」の理想を選んだ人ともなる。
こうしてハイブリッドなマグダラ像が組み立てられ、罪人たちにとっての悔い改めと希望の模範となり、キリストへの敬虔な奉仕と瞑想的生活の理想となった。
しかし、ハイブリッドなマグダラ像の加工は、彼女の名前とともに女性に与えられてた使途としての権利を、罪人としての地位に置き換え、キリストの復活の第一証人にして伝導であったという重要な役割を、決定的に葬り去ってしまおうとする、教会側の戦略でもあった。
●カロリング朝:ラバヌス・マウルス(780-856)…神学者
彼の著書とされる「マグダラのマリア伝」(近年では2世紀半ばのシトー派の一修道士によるという説が有力)
比類のない美しさを強調、美しさゆえに罪を犯し、その罪を悔い改めるために、人里離れた荒野で我が身を痛めつけようとするだろう、というした。
悔い改めた「罪深い女」というイメージに、隠修士/苦行者というイメージが合体。
そのモデルは5世紀に生きたエジプトのマリアである。
この聖女は、12歳の時に娼婦となり、17年間その生活を続けていたが、エルサレムへの巡礼をきっかけに発心し、世を捨て以後47年間、ひとり砂漠で純潔を守って生きていたのである。
これにより、「罪深い女」マグダラのマリアは、娼婦としての前歴を持つことになる。図像のうえで、エジプトのマリアとマグダラのマリアが交換・混合されるようになる。
●『黄金伝説』のマグダラのマリア
さまざまな要素が合流しているマグダラ像を、ある意味完成させ、その後のびじゅつなどに大きな影響与えることになったのが『黄金伝説』である。
『黄金伝説』は、13世紀のドミニコ会修道士ヤコブス・デ・ウォラギネ(1228頃~98年)によって著わされたものである。
その中のマグダラのマリアは
①悔悛と「瞑想生活」
②回心前と回心後の対比
③そのたぐい稀なる美貌と富
④主キリストへの「熱烈な愛」と、その見返りに主から与えられた「大きな恩寵や、多くの愛のしるし」
⑤復活の第一証人にして、かつ使徒たちの「女使徒」
⑥マルセイユでの伝道と説教
⑦使徒ペトロとの確執と競合
⑧隠修士としての30年の生活。そこで体験する神秘、天使たちによる空中浮揚
⑨司教マクシムスによって執り行われた最後の聖体拝領と、遺体の埋葬
⑩福音書記者聖ヨハネの花嫁であったという説。ただしウォラギネはこれには否定的
第二章は、マグダラのマリアがどのように受け入れられていたのかが記述されている。
フランチェスコ修道会
マグダラのマリアに、自分たちの反応や感情を託したり、彼女を同一化していた。
修道会の総本山、アッシジのサン・フランチェスコ大聖堂下院に位置するマッダレーナ礼拝堂の壁面を飾る、ジョット工房によって描かれたフレスコ画(1310年頃)の聖女伝からも、フランチェスコ修道会にとってマグダラのマリアが特別だったことが分かる。
細かい心理描写が表現され、また美して魅力的なマグダラを描いた最初の作品ともいえるだろう。マグダラのパラドックスとでも呼ぶべきもの、つまり一方で悔悛と苦行、他方で美貌と官能性という、相反するもののせめぎ合いが表現されている。
ドミニコ修道会
重視していたのは、説教的な教化敵、教訓的な役割。
悔悛以前と悔悛以後の違いを説教;肉の罪におぼれ、このうえなく汚れていたマグダラですら、悔悛と瞑想、苦行と断食により、誰よりも聖霊に充たされた「至上の魂」へと変貌を遂げることができる。
マグダラの存在は、倣うべき模範であると同時に、避けるべきことを知らせてくれる警鐘でもある。
信者会(コンフラッテルニタ)
13世紀の後半以来、中部イタリアを中心に、平信徒たちによる贖罪の「信者会(コンフラッテルニタ)」が広まった。
ここでもマグダラは、象徴的な役割を果たす。団体は結束の証として、旗章を所有していた。それによると、マグダラと聖母マリアは交換可能な守護者であったようだ。
第三章は、娼婦との関わりが書かれている。
13世紀初頭、托鉢修道会の活動ともにマグダラのマリアへの信仰が盛り上がっていた時代は、同時に「コンヴェルティーテ」と呼ばれる、回心して足を洗った娼婦たちを収容するための修道院や施設が、マグダラを守護者として仰ぎ、ドイツ・フランス・イタリアなどヨーロッパの各地に建設され始めた時代でもあった。
女性修道院は、恵まれない境遇にある女性たちにとって、避難所のような役割も果たしていた。
どんな女性が集まっていたかというと、娼婦、夫に先立たれた妻、夫や家族の暴力(今でいるDV)から逃れてきた女性、レイプにあった者、父の意思で強引に送られてきた娘、見放された病人、孤児など。
女性は不用意に公衆の面前に身をさらしたり、着飾ったりしただけで「娼婦」呼ばわりされることもあったと思われる。
また、娼婦としての過去をもつとされたマグダラのマリアの兄弟ラザロが、レプラ(ハンセン病)を病んでいたことから、娼婦はレプラをはじめとする疫病の運び手であるとも見なされていた。
ある意味、修道女と娼婦とは、社会的に似たような境遇であった。どちらも家族から離れて生活し、基本的には結婚することもない。持参金という結婚制度が修道女や娼婦の数を増大させていた要因でもあった。持参金を持たせて嫁に出せない娘は、兄弟の世話になるか、修道院に入るか、娼婦になるかのいずれかしなかった。そもそも娼婦は、男性のために必要なはけ口と考えられていて、同性愛やレイプをはびこらせないための歯止めと見なされていた。実際、アウグスティヌスやトマス・アクィナスといった偉大な神学者たちでさえ、娼婦という職業がなくなると社会に性的な混乱と放逸がはびこると考えていた。
第四章は、例を出しながら、マグダラのマリアがバロックの時代にどのように描かれていたのを解説する。
絵画に特化した内容になるので、ここでは割愛する。
1人の人物が時代の変遷によってどのように受け止められてきたか、という切り口でこんなにも興味深い題材になりえるのは、マグダラのマリア以外にあるのか、と思ってしまうくらい、非常に面白かった。
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