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がらくたにっき |

三島由紀夫『金閣寺』

新潮社
発売日 :

基本的にエンタメ系の本ばかり読んで、文学作品ってあまり読んだことないよな~ということから、三島由紀夫を読んでみようと思い立った。
なんとなく三島由紀夫って、背が低いのがコンプレックスでボディビルディングにはまったというエピソードが、うげ…となってしまって(三島由紀夫ファン、申し訳ない)手を出していなかったけれど、食わず嫌いはいけないよな…という思いから。
とりあえずとても有名な『金閣寺』を読んでみた。

文章はさすがと言ったら上から目線になるけど素晴らしい。
が…気持ち悪さがどことなく漂うよ!!!
すごく歪んでいながらプライド高そうな感じとか、屈折具合が厨ニ病っぽいというか…

話も、エンディングがちょっと気に入らなかった。
勝手に、芥川龍之介の『地獄変』みたいなのをイメージしていたから、見届けないんかい!ってなったし。そこにポイントがあるんだろうけど。

と、三島由紀夫ファン、果ては文学作品ファンに罵声を浴びせられそうな感想になったけれども、
健全な心を持った凡人には、理解し難い本でした…

以下、簡単なあらすじと、素敵だなと思った文章;

主人公の溝口(といってもほぼ名前は出てこない)は、舞鶴のその先の生まれで、寺の子だった。
僧である父親からことあるごとに「金閣寺は素晴らしい」と聞いて育っており、金閣寺を見たことがない時から、その美しさをそこかしこで見ていた。

本人は吃音を持ち、運動も出来ず、引っ込み思案の性格をしており、見た目も良くなかった。
寺の子ということで、吃りの坊主と囃されることもあった。

学校の関係から中学校で親元を離れて叔父の家に住む。
近くに有為子という美しい少女が住んでおり、主人公はひそかに想いを寄せていた。
ある時、有為子が朝早く出勤するのを待ち伏せていたのを見咎められ、ひどい恥をかかされる。
有為子に呪いをかけるのだが、それがかなったかのように事件が起きる。
おりしも太平洋戦争中で、有為子は脱走兵と懇意にしており、それがばれて憲兵に捕まる。促されるまま、脱走兵の元へと憲兵を引き連れるのだが、実際は憲兵たちの目の前で二人で死を選ぶのだった。

ある時、父親が叔父の家に訪ねてきて、主人公と一緒に金閣寺に行く。
その時には父親の結核の症状は悪くなっており、今にも死にそうな状態になっていた。
金閣寺の住職は父親の友人で、自分が死んだときには、主人公を預かってほしいと願いに行ったのだった。
初めて金閣寺を見た主人公は、自分が想像していたものより劣っている気がしてがっかりするものの、叔父宅に帰って日常に戻ってからも、折に触れて金閣寺を思い出すのだった。

父親は亡くなり、父親との約束を果たすべく、金閣寺の住職は主人公を徒弟にする。
そこには東京の大きなお寺の子供の鶴川もいた。鶴川は主人公と同い年で仲良くなる。
主人公が吃りなのも気にせず、主人公がなかなか話せない心の内を解釈して話す。それが実際のひねくれた心の内とは異なるのだけれども、陽の中で解釈すると、こうなるのか…と主人公に別の視点を与えることになる。

その頃、第二次世界大戦が終わり、米軍をはじめとした観光客が金閣寺に来ることになる。
英語が話せた主人公は、ある朝早く、米軍の案内を任される。
米軍は娼婦を連れており、娼婦が転んだ際に、主人公にそのお腹を踏ませる。それに光悦を覚える主人公に、米軍は報酬として煙草を与える。
自分は煙草を吸わないので、住職に与えるのが、自分が悪いことをしたのに対する報酬を住職に与える、という背徳感に酔いしれる。
その後、娼婦が「ここの徒弟にお腹を踏まれて流産した」と言いに来るのだが、住職はそれを不問にする。

主人公と鶴川は、住職のはからいで大谷大学に通うことになる。
最初は一緒に行動していたが、次第に別行動するようになる二人。鶴川はすぐ友達ができたが、主人公はなかなかできない。
意を決して、内翻足の柏木に話しかけると、「自分が吃りだから、同じ不具の自分に話しかけたんだろう」と言い当てられる。
柏木は同じく屈折しているが、それがなかなかアグレッシブな形で出ている。
自分に同情をかけて女性を取り込み、既に女性経験を持っていたので、主人公にも何かとお膳立てしようとするが、いつも事を起こそうとすると金閣寺が目の前に現れて何もできなくなってしまう。

柏木に出会ってからは勉強もおろそかになりがちになったのもあり、鶴川は主人公が柏木と仲良くするのはあまり快く思っていない。
そんな折に、鶴川が休暇中に実家に帰った時、そこで交通事故で死んでしまったという知らせが来る。
父親が亡くなった時も泣かなかった主人公は、鶴川の死で涙する。
そして、喪に服するという意味もあり、柏木とも次第に会わなくなる。

柏木に会わないからといって勉学に勤しむことはなく、ますますさぼりがちになり、住職との関係も悪化する。
悪化の原因の一つとして、住職が歓楽街で芸妓と一緒にいるのを見てしまい、そういうつもりはなかったのに「付いてくるな」と怒られたのもある。

ある日思い立って、柏木に借金をして、家出をする。
家出の途中で、突然、金閣寺を焼こうと思い立つ。
家出はあっさりと悟られ、警察によって金閣寺まで送り届けられる。

金閣寺に着くと、自分が嫌っている母親が待っていた。
母親から再三、金閣寺の次の住職になれと言われうんざりしていたので、ますますうんざりする。
母親と確執があるのは、まだ父親が生きていた頃、父親と自分が寝ている同じ部屋で、叔父と浮気していたところから遡る。父親が亡くなった後、会うたびに田舎っぽい姿に嫌気がさしていた主人公は、何度も母親に来るなと言っていたのだった。
母親の希望に反して、既に住職と確執があったため「一時は後継ぎにと考えていたが、それはもうない」と言われてしまっていた。

そればかりか、大学からお咎めが住職に届いたり、更になかなか返さないからと柏木が住職に借金のことを言いに行ったこともあったりで、住職から「次あったら、ここから出ていってもらうことになる」と最後通牒を言い渡される。
金閣寺を焼くことに取りつかれていた主人公は、住職から学費を渡された時に、これを花街で使って、今度こそ金閣寺から追い出してもらおうという気までする。

因みにこの頃に柏木から、鶴川は事故ではなく自殺だったのではないか、と示唆される。鶴川は柏木に手紙を書いており、そこには結ばれぬ恋の苦しみが綴られていたのだった。
そして、柏木は主人公が何かをしでかそうとしているのを察知したものの、「君にはそんなことはできないだろう」と言う。

ある晩、すっかり準備を整えた主人公は、金閣寺を焼くのだった。


以下、良いなと思った文章;
 吃りは、いうまでもなく、私と外界とのあいだに一つの障碍を置いた。最初の音(おん)がうまく出ない。その最初の音が、私の内界と外界との間の扉の鍵のようなものであるのに、鍵がうまくあいたためしがない。一般の人は、自由に言葉をあやつることになって、内界と外界との間の戸をあけっぱなしにして、風とおしをよくしておくことができるのに、私にはそれがどうしてもできない。鍵が錆びついてしまっているのである。
 吃りが、最初の音を発するために焦りにあせっているあいだ、彼は内界の濃密な黐(もち)から身を引き離そうとじたばたしている小鳥にも似ている。やっと身を引き離したときには、もう遅い。なるほど外界の現実は、私がじたばたしているあいだ、手を休めて待っていてくれるように思われる場合もある。しかし待っていてくれる現実はもう新鮮な現実ではない。私が手間をかけてやっと外界に達してみても、いつもそこには瞬間に変色し、ずれてしまった、……そうしてそれだけが私にふさわしく思われる鮮度の落ちた現実、半ば腐臭を放つ現実が、横たわっているばかりであった。(p8-9)
人に劣っている能力を、他の能力で補填して、それで以て人に抜きん出ようなどという衝動が、私には欠けていたのである。別の言い方をすれば、私は、芸術家たるには傲慢すぎた。暴君や大芸術家たらんとする夢は夢のままで、実際に着手して、何かをやり遂げようとする気持がまるでなかった。
 人に理解されないということが唯一の矜り(ほこり)となっていたから、ものごとを理解させようとする、表現の衝動に見舞われなかった。人の目に見えるようなものは、自分には宿命的に与えられないのだと思った。孤独はどんどん肥った、まるで豚のように。(p12-13)
この「人に理解されないということが唯一の矜りとなっていた」が主人公を一番説明していると思った。

(父のお葬式の場面)
 父の顔は初夏の花々に埋もれていた。花々はまだ気味のわるいほど、なまなましく生きていた。花々は井戸の底をのぞき込んでいるようだった。なぜなら、死人の顔は生きている顔の持っていた存在の表面から無限に陥没し、われわれに向けられていた面の縁のようなものだけを残して、二度と引き上げられないほど奥の方へ落っこちていたのだから。物質というものが、いかにわれわれから遠くに存在し、その存在の仕方が、いかにわれわれから手の届かないものであるかということを、死顔ほど如実に語ってくるものはなかった。精神が、死によってこうして物質に変貌することおで、はじめて私はそういう局面に触れ得たのだが、今、私には徐々に、五月の花々とか、太陽とか、机とか、校舎とか、鉛筆とか、……そういう物質が何故あれほど私によそよそしく、私から遠い距離に在ったか、その理由が呑み込めて来るような気がした。(p41)

 戦争と不安、多くの屍と夥しい血が、金閣の美を富ますのは自然であった。もともと金閣は不安が建てた建築、一人の将軍を中心にした多くの暗い心の持主が企てた建築だったのだ。美術史家が様式の折衷をしかそこに見ない三層のばらばらな設計は、不安を結晶させる様式を探して、自然にそう成ったものにちがいない。一つの安定した様式で建てられていたとしたら、金閣はその不安を包摂することができずに、とっくに崩壊してしまっていたにちがいない。(p46)

鶴川との出会い
 私は言い了った。言い了ると同時に怒りにかられた。鶴川ははじめて会ってから今まで一度も私の吃りをからかおうとしないのだ。
「なんで」
 私はそう詰問した。同情よりも、嘲笑や侮蔑のほうがずっと私の気に入ることは、再々述べたとおりである。
 鶴川はえもいわれぬやさしい微笑をうかべた。そしてこう言った。
「だって僕、そんなことはちっとも気にならない性質なんだよ」
 私は愕いた。田舎の荒っぽい環境で育った私は、この種のやさしさを知らなかった。私という存在から吃りを差引いて、なお私でありうるという発見を、鶴川のやさしさが私に教えて。私はすっぱり裸かにされた快さを隈なく味わった。鶴川の長い睫にふちどられた目は、私から吃りを漉し取って、私を受け容れていた。それまでの私はといえば、吃りであることを無視されることは、それがそのまま、私という存在を抹殺されることだ、と奇妙に信じ込んでいたのだから。(p56-57)
鶴川の死に際して
鶴川の死が病死でなかったことは、いかにもこの比喩に叶っており、事故死という純粋な死は、彼の生の純粋無比な構造にふさわしかった。ほんの瞬時の衝突によって接触して、彼の生は彼の死と化合したのだった。迅速な化学作用。……こんな過激な方法によってしか、あの影を持たぬふしぎな若者は、自分の影、自分の死と結びつくことができなかったのに相違ない。(p163-164)
私の暗い感情をいちいち明るい感情に翻訳してくれた彼のやり方には、何か無類に正確なものがあった。その明るさは私の暗さとあまりに隅々まで照応し、あまりに詳細な対比を示していたので、時折鶴川は私の心を如実に経験したことがあるのではないかと疑われた。そうではなかった!彼の世界の明るさは、純粋でもあり偏頗(へんぱ)でもあって、それ自体の細緻な体系が出来上がり、その精密さは悪の精密さに殆んど近づいていたのかもしれない。この若者の不撓(ふとう)な肉体の力が、たえずそれを支えて運動していなかったら、忽ちにしてその明るい透明な世界は瓦解していたのかもしれないのだ。彼はまっしぐらに走っていた。そしてトラックがその肉体を轢いたのである。(p164)

柏木の『南泉斬猫』の公案の解釈。
「美というのものは、そうだ、何と云ったらいいか、虫歯のようなものなんだ。それは舌にさわり、引っかかり、痛み、自分の存在を主張する。とうとう痛みにたえられなくなって、歯医者に抜いてもらう。血まみれの小さな茶色の汚れた歯を自分の掌にのせてみて、人はこう言わないだろうか。『これか?こんなものだったのか?俺に痛みを与え、俺にたえずその存在を思いわずらわせ、そうして俺の内部に頑固に根を張っていたものは、今では死んだ物質にすぎぬ。しかしあれとこれとは本当に同じものだろうか?もしこれがもともと俺の外部存在であったのなら、どうして、いかなる因縁によって、俺の内部に結びつき、俺の痛みの根源になりえたのか?こいつの存在の根拠は何か?その根拠は俺の内部にあったのか?それともそれ自体にあったのか?それにしても、俺から抜きとられて俺の掌の上にあるこいつは、これは絶対に別物だ。断じてあれじゃあない』
 いいかね。美というものはそういうものなのだ。だから猫を斬ったことは、あたかも痛む虫歯を抜き、美を剔抉(てっけつ)したように見えるが、さてそれが最後の解決であったかどうかわからない。美の根は立たれず、たとい猫は死んでも、猫の美しさは死んでいないかもしれないからだ。そこでこんな解決の安易さを諷して、趙州はその頭に履(くつ)をのせた。彼はいわば、虫歯の痛みを耐えるほかに、この解決がないことを知っていたんだ」(p183-184)

出奔中に、『金閣寺を焼かねばならぬ』と思い立った後。
 それまでにも老師を殺そうという考えは全く浮かばぬではなかったが、忽ちその無効が知れた。何故ならよし老師を殺しても、あの坊主頭とあの無力の悪とは、次々と数かぎりなく、闇の地平から現れて来るのがわかっていたからである。
 おしなべて生(しょう)あるものは、金閣のように厳密な一回性を持っていなかった。人間は自然のもろもろの属性の一部を受けもち、かけがえのきく方法でそれを伝播し、繁殖するにすぎなかった。殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。私はそう考えた。そのようにして金閣と人間存在とはますます明確な対比を示し、一方では人間の滅びやすい姿から、却って永生の幻がうかび、金閣の不壊(ふえ)の美しさから、却って滅びの可能性が漂ってきた。人間のようにモータルなものは根絶することができないのだ。そして金閣のように不滅なものは消滅させることができるのだ。…(中略)…明治三十年代に国宝に指定された金閣を渡しが焼けば、それは純粋な破壊、とりかえしのつかない破壊であり、人間の作った美の総量の目方を確実に減らすことになるのである。(p246)


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Category : 小説:近代
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